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幕末スイカガール  作者: 空良えふ
第一章
39/139

039




怜が連れてこられた場所は、江戸城の西北"靖国神社"に程近い場所である。この辺りは幕府の書院番、大番など、旗本屋敷が置かれたので”番町”と呼ばれている一帯だった。


「おお、しばらく振りではないか」

「先生、お元気そうで」

「どうしたのだ。…おや…その子どもはもしや」

「ええ。ちょうど良い子どもがおりましたゆえ、連れて参った所存にございます」

「それは助かる。何せ小姓が辞めたばかりでな」

「聞き及んでおります」

「儂が大坂へ行くまでで良い。どうも一人だと細かいことに気付かなくて困る」

「粗相がありましたらいつでもご連絡頂ければ」


柴田はそう言って怜に目配せした。


「後藤怜と申します。宜しゅうお願い致します」

「ほう、京の者か」

「はい」

(わし)は、大久保忠寛だ」


怜は目の前の男をまじまじと見入ってしまった。


大久保忠寛。のちの大久保一翁である。

知らぬはずがない。あの勝海舟や松平春嶽ですら敬服し、江戸無血開城においてはこの男がいなければ成し遂げられなかったと言われるほどである。


坂本龍馬とも親睦を深めており、歴史的に有名である大政奉還論はこの大久保忠寛こそ坂本に進言したのだ。


「では某はこれにて」


柴田が去ると自室に案内された。


屋敷内は特に贅沢をしている風でもなく調度品など一切ない。質素な生活を好んでいるようで彼の部屋すら机と箪笥くらいしかなかった。


文机を挟んで座るとジッとこちらを観察している。

細身で強面の男だ。鋭い眼光が値踏みしているように見える。怜は蛇に睨まれた蛙状態で見動きすら取れなかった。


「おぬし、歳はいくつだ」

「五つです」

「そうか。では最初に言っておくが儂は気が短い方でな。(わらし)だからといって容赦する心根も無い」

「はあ...」

「しかし短い期間とはいえ縁が合って儂の小姓になったのだから、せいぜい励みなさい」

「はい。宜しゅうお願い致します」


怜は畳に擦り付けるようにして頭を下げたのだった。



◇◇◇◇◇◇◇



一翁は安政の大獄によって罷免され、先日復帰したばかりである。


当時京都町奉行で執政していた一翁は、幕府老中・井伊直弼から京における志士の捕縛を命じられていた。それに対し一翁は否定的な考えであった。傍若無人に次々と志士達を捕らえる部下の姿に怒りを覚えた一翁はその者に処罰を与えたのだ。しかしそれが井伊直弼の怒りを買ってしまい奉行職を罷免されてしまったのである。


「では参ろうか」

「はい」


復帰した一翁の役職は勤仕並、蕃書調所頭取であった。「勤仕並」とは、無役でも役に就いている者と同様という意味で、それまでの貢献を高く評価され次の役職が決まるまでの一時的処遇ということである。


罷免された一翁であったが、この待遇を見れば幕府にとって必要とされているのは疑いようがなく、この男といれば内情報は嫌でも耳にするだろうと怜は思った。



二人がやってきたのは、現在の東京神田小川町である。


「ここが儂の仕事場だ」


蕃書調所(ばんしょしらべしょ)

元々は九段坂下にあり二年前にこちらへ移転した幕府直轄の洋学研究機関であり、開成所の前身つまり今で言うところの学校である。


敷地は広いとはけして言えず、一見屋敷のような古い木造の建物であった。中に入ると学問ごとに部屋が分かれ教師以外の声は全くしない。

シンと張り詰めた雰囲気である。


一翁は足音も立てず長い廊下を進んで、突然思い至ったように振り返った。


「読み書きは出来るか?」

「はい」

「ほう…ならば算学は」

「簡単なものなら」


怜の言葉に一翁は「ふむ」と眉根を寄せた。自分の子でさえ、ようやく手習い(仮名や漢字を書く練習)を始めたばかりで算学などまだ先の話だというのに、簡単なものなら出来るという。


「それは楽しみだ」

「え?」

「近頃この江戸は算学を好む者が増えてな。さすがにお前のような年端もゆかぬ子どもはおらんが」


一翁はクルリと反転し、廊下を戻っていく。怜は慌てて振り返った。


「どこへ……」

「算学の授業を見に行こう。来なさい」

「はあ……」


先ほどよりやけに早い足どりになり、怜は半ば駆け足で追う。一翁の何を考えているのかわからない行動に辟易しつつも「仕事、金、別報酬」の呪文で何とか乗り切る怜であった。



「これはこれは大久保様」


算学の教授は石川といった。

礼儀正しく頭を下げ、ちらりと怜を見る。


「邪魔をして申し訳ない。この者は儂の小姓だ」

「後藤怜言います。宜しゅう」

「石川と申します。しかし大久保様に小姓とは」


石川は少し困った顔で一翁を見た。


「この者は算学が出来るのだ。今までの奴らとは違うぞ?」

「ほう……!」

「……その顔、信じてはおらぬな?」

「滅相もございません」


二人のやりとりを尻目に周りを見渡した。頭を抱える者、紙が真っ黒になるほど筆を走らせる者。ボソボソと教え合う者。まるで受験生のようである。勿論怜より年上ばかりで、庶民が通う寺子屋と違いその身なりから役人の子息ばかりだと推察出来る。


「怜、こちらへ来なさい」


一翁はいつの間にか石川の文机の隣りに座っていた。怜が即座にその前に座すると、石川は一枚の紙を差し出した。


「これは?」

「油わけ算だ」


油わけ算は日本独自に発展した和算の一つである。渡された紙には「油はかり分ける事」と記され、図と問題文が記載されていた。


『斗桶に油一斗あるを、七升枡と三升枡と二つある。これにて五升ずつ分けたい』


現在に読み替えるなら、


『桶に十リットルの油が入っています。七リットルと三リットルが入る容器二つを使い、五リットルずつに分けよ』


ということになる。


「これくらいは簡単だろう?」

「そうですね。簡単です」


怜はニッと白い歯を見せて言った。

こういったある種の謎解きは怜の得意分野である。

自ずと頭に浮かぶのだ。


「まず一斗の桶の油を三升枡に入れ、そのまま七升枡に移します。それを三度繰り返すと七升枡がいっぱいになり、三升枡に二升残るということになります。この段階で桶には一升、三升枡には二升、七升枡は満タンということになるんで、その七升枡の油を全部桶に返して、三升枡の油(二升)は七升枡に再び移します。もういっかい桶から三升枡に油を移して、それを七升枡に移すと五升枡ずつに分けられます。…違いますか?」


一翁はニヤリとした。


「早い!確かに今までの小姓とは違いますな!」

「ふむ。では次、これを解いてみなさい」


手渡された紙には円周率の問題が絵とともにかかれてあった。


(小学生の問題や)


現在なら円周率は3、14であるが、この時代は3、16である。面積を求めるには”円法七九”を持ち入り、直径×直径×0、79という式で面積を計算するのである。(※外接する正方形の79/100であるという考え方)


「差し渡し(直径)十八間の……」


怜は問題文を読みながら筆を走らせた。


直径十八間の面積を求めよ。という至ってシンプルな問題である。現在の計算方法に慣れ親しんだ怜には、単位を置き変える必要はあるが、根本は変わらない為それほど難しくはない。


「答えは8()15坪9分6厘」


18間×18間=324坪

これに円法七九をかければ、円の面積は255坪9分6厘となる。

これを正しい単位(田法)に変える。

一畝()は30坪なので、255坪割る30。

答えは8、5畝になり、少数点以下はまた30をかけて戻す。(0、5×30=15)


つまり答えは8畝15坪9分6厘ということである。


「ふむ!では次」

「えー…」


怜は一翁の小姓が何故続かないのかわかった気がした。スパルタなのかよくわからないが、どんどん怜に出題する。隣りの石川も「次はこれなんかどうでしょう」と勧める始末で、とどまることを知らなかった。


そうして次が終わるとつるかめ算、俵杉算、ねずみ算……と次々問題を出され、半刻ほど過ぎた頃には、怜もすっかり疲れ果て、いつもの素が出ていた。


「出来た。答えは276億8257万4402匹や。……もう、ええやろ」


怜はハッと気付いた。

いつの間にか怜を取り囲む影。

塾生達からは尊敬の視線を浴び、一翁や石川は信じられない表情で怜を見つめている。


「し、知り合いに算学に詳しい人がおって...」

「算木も使わず解くとは…」


算木とは木製(または竹製)の細長い棒で、和算で用いられる計算用具である。算盤さんばんという格子を書いた布の上で算木を使用するが、熟練者になると算盤を使わず、紙に算木を表す「線」を書いて筆算をする。


当然怜はどちらのやり方も苦手であった。逆にこの方法で計算する人々に対し、尊敬の念さえ覚えているほどである。


怜の紙には現在におけるアラビア数字での筆算がつらつらと書き殴られ、落書きのように見えなくもなかった。


「……関孝和より凄いのではないか?」

(※江戸時代の和算家)

「初めて見る計算法だ……」

「その知り合いとは、一体どういうお人なのだ」

「この方法を説明してもらえないだろうか」


怜は皆に詰め寄られた。


「そんなん言われても……」


今は和算が当たり前であるが明治になれば西洋式のものに切り替わり、和算は衰退の途を辿る。わざわざ自分が教えるより、ここは適当に誤魔化すのが無難だと怜は思った。それに下手に名が広まれば今後の活動に支障をきたす可能性もある。


「これこれ。およしなさい。小姓さんが困っておられるではないか」


その時石川が助け船を出し、続いて一翁が立ち上がる。


「では退散するとしよう。勉学の邪魔をして悪かったな。また後日改めて」

「いつでもお待ちしております」


怜はぺこりと頭を下げ、一翁の後を追ったのであった。



◇◇◇◇◇◇◇


長州藩上屋敷



「久坂、怜から連絡はきたか?」

「ああ。今使いの者(夜鷹)が文を持ってきたところだ。一緒に見よう」


あれから二日。怜からの初めての連絡である。


「なになに……」


【鈴木君は伊勢海老が好物です。無ければ巨大ミミズをあげて下さい。後藤怜】




「……アホなのだろうか」

「お前は頭が固すぎる。特に今のところ何も無いということなんだろ」

「……うむ。確かにまだ二日だ」

「取り敢えず巨大ミミズ探しに行こうぜ」

「……某が?」


久坂は顔をしかめた。


「当たり前だろう。見ろ、あれを」


檜の枝に止まる夜鷹。じっと久坂を見ている。そして周囲にはおびただしいカラス。


「ヒッ…」

「逆らわない方が身の為だ」

「わ、わかった」


夜。長州藩邸では、大の男二人が土遊びをしていたという目撃情報があり、上屋敷のみならず下屋敷までその話題で持ちきりだった。



◇◇◇◇◇◇◇


大久保一翁邸


その日は朝からてんてこ舞いであった。一翁の休日はあるようで無きに等しく、何人もの客人が出入りするのだ。


その応対を任されるのは勿論小姓の怜である。廊下を行ったり来たり、何度往復したかわからない。そのうち段々とイライラし始めた怜は、間口に急須と湯飲みを置き『”もてなし”は自身で行うべし』と紙に書いて貼った。


俗に言う「セルフサービス」である。


それだけではない。

帯刀する武士に関してはその脇差を含む刀を全て預かり、預かった刀に番号を書いた木札を付け、同じ番号の木札は持ち主に渡す。そして帰る際に木札の番号が付いた刀を渡せば、間違うことなく返すことが出来るといった今にも通じるやり方をし、他にも短刀を所持していないか身体検査も徹底的に行った。


だが、中には怒りを露わに詰め寄る客もいる。しかしそこは怜である。


「ならばお引取りを。この屋敷では一切の殺生は禁止しております。ゆえに来られる客人の皆様の命も、ここにいる限り”安全”ということであります。それに納得頂けなければ、引き返して頂く他ございません」


と、従来の度胸の良さで逆に打ち負かしていた。





「あの小姓は、一体何者でございますか?」


一翁は満足気に微笑んだ。


「面白いだろう?あのような者に出会ったのは初めてだ。頭は優れ、機転が利き、無駄が無い。五歳とは思えぬ坊主だ」

「先生にそこまで言わしめるとは、あの勝麟太郎以来ですなあ」

「くくくっ……アレとはまた違った頭の良さよ」


すっかり一翁に気に入られてしまった怜だが、実は単に面倒なだけであった。


セルフサービスは元より小姓となれば、もし曲者でも来ようものなら自分の命を投げ打ってでも阻止しなければならない。数ある客をいちいち監視するより、その武器を取り上げた方が何より早いと考えたのだ。実際江戸城やら吉原でも刀を預かる仕組みは当然のことでなんら珍しくもない。ただ異なる点と言えば、多勢の狼藉者を阻止する目的で、カラスを従えた夜鷹が屋敷を囲い込み常時見張りをしているという一点に過ぎない。


怜はとかく自分が楽することしか考えていなかった。

そういう時は悪知恵が働くのだ。しかしそれは一翁も同じことが言えた。


「のう、怜」

「はい」


一翁は最後の客が帰った後、怜に言った。


「明日の夜この屋敷で酒宴を開くことになった。儂の復帰祝いだ」

「はい」

「いつもなら妻や使用人に任すのだが今回はお前に取り仕切ってもらう」

「げ!」


一翁は懐から巾着を取り出すと、怜に渡した。


「客は三十人。この金で皆が満足出来るものを用意してくれ」


ずっしりと重い巾着を受け取り「はい」と返事をする。一翁は目を細めて頷くと「では休む」と言って自室へと帰っていった。


全く人遣いの荒い男だと怜は舌打ちした。


「そやから小姓が続けへんねん」


怜は悪態をつきながら巾着を逆さにする。

ジャラジャラと派手な音を上げた金子は、一文銭ばかりのたった三百文しか無かった。


「少なッ!」


怜は自分よりドケチがいたことに驚いた。それともやはり貧乏なのだろうかとも思った。


「確かに質素な生活や。…不憫過ぎる」


怜は早々に諦め、早速紙に何やら書き始めたのであった。


西瓜関連がなかなか出なくてすみません...

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