034
「なあ、鳥。お前どこから来たんだ?」
「キョ~キョキョキョ?キョ…」
(あ~それな?実は…)
鈴木氏が何故こんな場所にいるのか、マーシャル家を出立したその軌跡を追ってみよう。
「鈴木君、もし抵抗したら少々痛い目に合わせてもかまへん。あの荷物袋を取り戻すんや。わかったね?」
「キョキョ……」
「巨大ミミズやろ?わかっとる。なんなら伊勢海老も付けたげる」
「キョキョ!」
「ほな頼むで!」
翼を広げた鈴木氏は空高く舞い上がった。
もちろん吉田の匂いは覚えている。炎天下の中、魚を一ヶ月放置したような匂いだ。くんくんと嗅いでみれば、風に乗って吉田の匂いがした。
「キョオオォオォ」(みーつけた)
マーシャル家は横浜村の外国人居留地にあり、そこから真っ直ぐ北東へ向かえば数時間で到着するだろう。
しかし鈴木氏は途中”多摩川”で休憩した。多摩川は東京と神奈川の県境として役割を果たす一級河川である。その下流辺りに停泊していた小さな渡し舟に乗り込んだのが間違いだったのだ。
その舟は上流へ向けて出発した。つまり吉田のいる方角からかなり外れることになる。ここまで幾羽の猛禽と死闘を繰り広げていた鈴木氏は、その疲れもあって出航早々眠りについた。その渡し舟は中原を越え、狛江に到着し、再び上流へと進んでいく。その後稲城辺りで目が覚め、目的地から離れていることを知って慌てず舟を降りた。それから腹ごしらえをしようと多摩村(現・府中市)を徘徊し、木の根元から飛び出した小さなミミズを十ほど食した後、吉田の匂いを辿りつつ、行き過ぎた道を逆に戻った。しかしこれがなかなか困難だった。
何故なら鈴木氏はお腹が膨れると睡魔に襲われる体質だったのだ。
「キョキョ……」(もう…限界や)
身体を上下にふらふらとしながら寝床になりそうな場所を探す。ふと一人の人間に目がいった。真っ直ぐの黒髪はまるで怜のようだ。唯一男という点は気に入らないが、今はそのような我儘は言ってはいられない。
一直線に下降すると男は嬉しそうに棒を上に掲げた。
「いいだろう」
許可もおりたようだ。まさに幸い中の幸いだった。
「ーーーーーーキョキョキョ」(そして現在に至る)
「……いや、わからねえ」
土方に夜鷹語は通じなかった。
「土方さーん!行きますよー!」
「ああ、直ぐ行く」
鈴木氏はひらりと止まり木から降り、翼をバタつかせてお別れを言った。
「キョキョ」
「行くのか?」
「キョ」
「そうか。…じゃあ、気をつけてな」
「キョキョキョキョ!」
鈴木氏は何度か旋回し、空の青に吸い込まれるように飛び立つ。
「キョォオォ!」(餞別や!)
土方の頭にぼとりと落ちた鳥の糞。
礼を忘れぬ義理堅い夜鷹であった。
◇◇◇◇◇◇◇
一方怜はサムと神奈川宿で別れた後、徒歩で江戸へと向かう。神奈川宿は東海道の起点・日本橋から三番目の宿場町である。その距離は約七里。一里四キロ弱として、約二十八キロの道のりであった。
散々九州を横断してきた怜だけに鍛えられた足腰は全く疲れ知らずである。余裕とばかりにランランとスキップをする姿は周りの人々を驚かせていた。
「鈴木君今どこおるやろ。もう見つけたやろか」
独り言を言いつつ、しばらくしてふと視線を右に向けると茶屋の看板が目に入った。
”生麦屋”と書かれた茶屋である。
「生麦....」
怜は足を止め、たまたま前から歩いてきた女性に声をかけた。
「おばさん、この辺りはなんて言う村?」
「あー、ここは生麦村よ」
それを聞いた瞬間、目まぐるしい歴史的事実が怜の頭の中を駆け巡った。
「ウィリアム・マーシャル……横浜の商人……まさか……まさかな?」
まさに薩英戦争の引き金となった『生麦事件』
「もしかしたら」と未来で得た情報を手繰り寄せる。無論”ウィリアム・マーシャル”という名に覚えはなかった。
怜の知り得る記憶は「チャールズ・リチャードソン」というイギリス人が、薩摩藩士に殺害されるという不幸な事件を単純に知っているだけで、詳細まではわからない。ただ外国人男女四人が馬で観光をしていたところ、薩摩藩の大名行列と出くわし、無礼打ちされたという内容くらいであった。
「まさか、こんな偶然あるわけないわ」
怜は頭で否定したものの、その胸中は穏やかではなかった。リチャードソン以外の三人の中にウィリアム・マーシャルやクレメンティナがいないとも限らないのである。
もしもこの歴史の一片が仮に二人に関わる事件としたら、自分はどうするのが正解になるのだろうか。やはり歴史の傍観者として放っておくのが無難だろうか。
馬鹿馬鹿しいマーシャルとのイザコザなど、それこそ笑い話で済むが、それが大きな戦争となれば話は変わってくるのだ。
「あー!!次から次へと!!」
くしゃくしゃと頭を掻く怜の足取りは、先ほどと打って変わって重たくなった。
「生麦事件は1862年の九月やったな……ということは来年か。薩英戦争がその一年後……」
今はまだどうすることも出来ない。
それでもこの焦燥感を止めることは難しかった。
◇◇◇◇◇◇◇
長州藩下(中)屋敷
現在では六本木の東京ミッドタウン辺りに存在した長州藩邸である。
三万坪以上に及ぶ敷地を有し、桜田門から近い上屋敷(現・日比谷公園)では主に政治活動を、この下屋敷では江戸勤務の藩士や上京した藩士らの宿所として活用され、また藩主の別邸としても使われている。上屋敷が長州藩の江戸に置ける中枢とするならば、下屋敷はその補助的役割に位置されるというわけだ。
その下屋敷から数人の男が出てきた。
その中央を闊歩する一際偉そうなオーラを放つムスッとした男が、その鋭い視線を前から横へと移し、また前を見据えて立ち止まった。
「忘れ物をした。先に行ってくれ」
「……良ければ某が取って参るが」
「いや、俺にしかわからないものだから」
男はそう言うと、踵を返して群れから離れた。
残された数名は「またか」と言った程で苦笑する。
つまりこの男、よく「忘れ物」をするのであった。とはいえその「忘れ物」が、”物”とは限らないことを他の奴らは知る由もない。時としてそれは厠であったり、散髪であったり、はたまた『人』であったり……
「ご苦労だな」
ムスッとした男の隣りに、スッと横付けした男は、あの吉田栄太郎である。
そして顔を正面に向けたまま不機嫌顔からニヤリと表情を崩したのはーーー
「吉田ァ!元気かよォ!?」
高杉晋作であった。
「当たり前だろ、元気さ」
「江戸に来てたのか!」
「まあな。桂さんに用があってな」
「桂さんなら上屋敷にいるぜ、一緒に行こう」
「お前、番手だろ?」
「あー大丈夫大丈夫」
番手とは「警備員」のことである。
ペリー来航により江戸湾警備の必要性を認識した幕府がその任を諸藩に命じた。それによって長州藩は高杉を含む複数名を「番手」として派遣したのである。
「桂さんに何の用だ?」
「いやあ、そろそろ帰藩しようかと思ってさ」
勿論簡単ではない。
所謂”脱藩者”は犯罪者という位置付けなのだ。おそらく長州に連行されしばらく投獄されるのは容易に想像がついた。
「……ふうん。ようやく落ち着いたってことか」
高杉は納得した笑みを浮かべて肩を叩いた。
高杉とて松陰を思わない日はなかった。
同じ夢を見た同志なのだ。幕府は元より助けられなかった長州藩そのものに憎しみを抱いてしまうのは仕方がないことであり、吉田が脱藩した時自分も同じことを考えていたのだ。ゆえに彼を責める理由も無く、寧ろ晴れ晴れとした吉田を見て安心感を覚えた。
「それよりお前仕事に」
「今日は熱が出る予定だから休むとしよう」
「残念。吉原に連れてってやろうと思ったのに」
「直ぐに治る」
高杉は悪びれもせずそう言って屋敷の門番に事を告げると「医者に行く」と言って吉田と共に歩き出したのであった。
◇◇◇◇◇◇◇
やはり西洋の服は着やすいけれど周囲の視線は良くも悪くも好奇そのものである。
「攘夷」の定着したご時世ではある一定の地域以外は受け入れられないのが当然であり、道を聞けば時に不遜な態度をされることもしばしばであった。
しかし、怜はそんなことはどうでもよかった。
今はあの憎き吉田栄太郎を探すのに必死なのだ。(自分が預けておきながらどうかとも思うが)
「なんやろ、この胸騒ぎ」
どうポジティブに考えても悪い予感しかない。
「絶対、使う……あいつならやりおる」
見上げた太陽に吉田が重なった。
隣りには煌びやかな着物を着た遊女。
「吉原や!」
驚異的な勘の鋭さであった。
怜が日本橋へ到着したのは昼過ぎ。
往来の激しい日本橋川に架かる木造の橋を渡り、人伝てに聞き回りながら着々と目的地に近付いているのは間違いなかった。
右も左もわからぬ町は不安より好奇心の方が勝るもので、もしも急いでなければこの町を堪能したかったのだが、とかく怜には時間が無く悠長に観光など出来るはずも無かった。
「吉原ってどこやろ」
怜がキョロキョロと辺りを見渡していると、偶然にも「キョキョーー」と、あの鈴木君の声が聞こえた。
「あ、鈴木君!あいつ見つけた?」
「キョキョ」
鈴木君は「勿論だ」という風に首を縦に振る。実のところまだ本人発見には至っていなかったが、”匂い”を辿っている途中で怜を見つけた次第だ。
「急ぐで!」
「キョ」
鈴木君の後ろを怜は走り出す。
日本橋から吉原までは距離としてさほど離れていない。なんとしても(金を使う前に)見つけなければならない。
怜は究極の王手をかけた。
「ザ・ワールド!」
呪文を唱えた瞬間、周囲の動きが止まった。
「手応え、”アリ”や」
クックッと含み笑いをしつつ、更に加速する怜。
どうやら呪文が効いたと勘違いしたようだが、人々はただ西洋のなりをした小さな子どもが突然わけがわからぬ叫び声を上げたことに驚いて立ち止まっただけだった。
(※ザ・ワールド=時が止まる呪文)
◇◇◇◇◇◇◇
上屋敷に訪れた二人は桂と合流した後吉原へ向かった。
吉原は今の台東区に存在した遊郭である。幅3.6メートルの堀に囲まれ出入り口は日本堤のみで完全に隔離された一角であった。
「刀が無いと落ち着かねーな」
「さすがに目立つ格好は出来まい」
「だよね」
「しかし本当に金は大丈夫なのか?三人だぞ」
「桂さん心配すんなって。俺、今金持ちなんだよね」
一介の武士の言葉とも思えない情けない話であるが、実際”武士”という身分はよほど実家が金持ちでない限り「貧乏暇無し」が常である。寧ろ町人の方が金を持っていて吉原ではもっぱら”客”は金持ち町人ばかりであった。
しかも武士の男は吉原にはほとんど行かないのだ。吉原は一種独特の世界なのである。身分など全く通用せず「武士だ」などと大手を振って歩こうものならそれこそ笑い者であった。
三人は大門を抜け右側の七軒茶屋を素通りし、少し歩いた先の馴染みの茶屋”大和屋”へと入っていった。以前にも何度か利用している茶屋である。
ちなみに七軒茶屋とは格式高い高級茶屋である。こんなところで遊女を手配してもらおうものならとてつもない金を搾り取られるだけであり、特に惚れた遊女などいない三人にとって「その日限り」の遊び相手を欲する時は少々ランク下の茶屋でそこそこの女を手配してもらった方が好都合だった。
「おや、皆さんいらっしゃい」
大和屋八兵衛はまだ三十歳と若いながらも三人の素性も知った上でいつも決まった部屋を用意してくれる気の利く男であった。
「半年ぶりですかね」
「そうだっけ?」
「まあどうぞ。今日は暇で暇で」
三人は奥の座敷に案内されドカリと腰を落ち着ける。早速お決まりのコースを申し付けると、酒がくるや否やぞろぞろと現れた芸妓を肴に昼最中からの大酒宴が始まった。(※酒宴・芸妓遊びからのお泊り遊女コース)
ちょうどその頃ーーー
「ヤツの気配がする」
「キョキョ」
怜達は吉原大門の前に降り立った。




