032
「ワッサンか」
「せ、正式名称はクロワッサンなのだが」
「うん知ってる」
「!!」
マーシャルは焦った。
まさかクロワッサンを「ワッサン」などと愛称で呼ぶとは信じられなかったのだ。
「キ、キミは、その」
「え?」
(だめだ!もしここで「キミはクロワッサンを愛称で呼ぶほど親しいのかい?」なんて聞いて「そうですよ」と返されたらダメージが半端ない)
「いや、なんでもない」
マーシャルは珍しく無口になった。
もちろん食事は喉に通らない。
チラッと観察してみたが、日本人にしては綺麗なマナーで食事をしている。ここぞとばかりに注意をしようと思っていたが付け入る隙もなかった。
「スープこぼしとるよ」
ハッと我に返りそろりと後ろを見るとポッターと目が合った。緑色の瞳が薄く細められ、顎をクイとして促された。
「し、失礼」
早々に退出したマーシャルは別室でポッターにこってり絞られた。彼は非常にマナーに厳しいのだ。ほんの少し音を出しただけでも十分は説教される。嘘などつこうものなら一時間は正座させられるのだ。それ以外は全く従順な男なのだが。
「くそっ、ジャパニーズボーイ……」
背もたれの椅子に深く腰を下ろし貧乏揺すりを始める。焦った時の彼の悪い癖であった。
「こんな屈辱は初めてだ……」
いつも皆から尊敬の念を抱かれていただけに、腹立たしさは倍増である。ましてや相手は小さな子ども。しかも劣等民族だ。マーシャルはグッと拳を握り閉め、天使の形に施された銀製の呼び鈴を振った。
「”アレ”しかないな」
チリンと音が鳴ると、三秒もしない内にマイケルがやって来る。
「お呼びでしょうカ」
「今夜は……秘密のパーティーをする。……早急に準備をしてくれ」
マイケルの顔がみるみる内に青ざめた。
「だ、旦那様、まさかレイ様を」
「シャラップ!」
「は、はっ…」
(レイ。キミの怯える顔が見たいんだ。冷めた目付きが恐怖の色に変わる瞬間を……)
マーシャルはクックッと含み笑いをし、バルコニーへと出た。白い手摺に手をかけて遠く景色を眺める。穏やかに吹き抜ける風が周りの木々に当たり、葉と葉が擦れ合う軽やかな音が耳に触った。そうしていると不思議と気持ちが和らいでいつもの自分を取り戻せた。
そこへ誰かの声が聞こえたような気がして、真下に眼を向けた。
それは二つの小さな影であった。
「……あれはレイとヤスケ」
◇◇◇◇◇◇◇
朝食を済ませた怜は、ヤスケの後を追った。
ヤスケは食器などの後片付けが終わると、マーシャルの部屋の窓拭きや掃き掃除、シーツの取り換えなどを慣れた手つきでテキパキとこなしていく。怜は見つからないように間隔を空けて一人になるのを待った。
しばらくするとヤスケは庭へと出て行く。そっと物陰から覗き見ると、休むでも無く一心腐乱に草むしりを開始した。
(働き者やなぁ……佐藤君みたいや)
怜は感心しつつハッと我に返り、今しかないと思い切って声をかけてみた。
「ヤスケ君」
怜の声に振り向いたヤスケは、一瞬ビクッと怯えて怜を見るとまた直ぐに草むしりを再開する。怜は隣りに座り同じように草むしりを始めた。
「ここの生活、楽しい?もしよかったら私と一緒に行く?」
ヤスケは信じられない顔をして手を止める。
「あ、いつも悲しそうに見えるから嫌なんかなぁって思って」
ヤスケはスッと立ち上がり、怜を恨みがましい目で睨んだ。その表情は「お前にはわからない」とでも言いたげな目付きだ。怜は余計なことを言ってしまったかと後悔しかけたが、そこへマーシャルがやって来た。
「ヤスケ、こっちへ来なさい」
マーシャルはヤスケを後ろに隠してレイに笑顔を投げかけた。
「レイ。すまないね。これから私とヤスケは勉強の時間なんだ」
「勉強?」
「あ、そうだ。今日も泊まっていかないかい?予定より一日早く着いたんだから大丈夫だろう?」
「いいんですか?」
「もちろんさ。後でまたティータイムをしよう」
二人は足早に屋敷へ入って行く。怜はそれを半ば呆然と見送ることしか出来なかった。そこへ一人の老人が現れた。
「坊や、ヤスケには近付かない方がいい」
庭師の男である。
腰の曲がった老齢の男は”サム”という名のやはりイギリス人で、本国からずっとマーシャルに付き添って日本に来たらしい。
「なんで?」
「旦那様はヤスケのことに関しては酷く神経質になるんじゃよ。よほど気に入っているんじゃろう。誰かがヤスケに話しかけるのは、あまり良い顔をなさらん」
「……ふうん」
「寝る時も自分の部屋で寝かせているし、どこに行くにも一緒なんじゃ」
「勉強ってなんなん?」
「すまんがそれは言えん」
サムが首を振ったところで背後から男が現れた。
「それを知る必要はナイ」
マイケルである。
「じゃあの、坊や」
「ちょっ、……」
マイケルは怜の前にやって来て背の高さを強調するように下目遣いで睨んだ。
「ミスターレイ。話があるんデスが」
「何か困っとるん?」
怜はおずおずと尋ねた。
「……ナゼ、そう思うのデスカ」
「だ、だって眉が下に」
「生まれつきデス!」
「………(驚きや)」
てっきり何か困ったことがあるのかと思ったら、単なりハの字の眉毛だった。
「アナタ、命が惜しくないのデスカ!?」
「命?……どゆこと?」
マイケルはキョロキョロと辺りを見回して、小さな声で言った。
「直ぐにこの屋敷から出ていきナサイ!じゃないと、今日がアナタの命日になりマスヨ!」
怜は声を出すことも出来ず、ただマイケルの後ろ姿をみつめたまま呆然と立ち尽くした。しかし、
「命って言われてもなぁ……」
怜はポリポリと頭を掻いて二階のバルコニーを見た。ピタリと閉じられた窓、カーテンは隙間一つ無く閉め切ってある。
一体勉強とは何なのか気になるところであったが、マイケルが目を光らせている以上動くことは出来ない。仕方なく鈴木君に様子を見に行ってもらったものの、入れそうな隙間も穴も無かった。しかも部屋の前には秘書が配備されている為、入ろうにも阻止される。結果、次のチャンスが訪れるまで待つしかなかった。
その夜、パーティのような大量の料理に舌鼓を打つ怜に、マーシャルがご機嫌の様子で言った。
「レイ、夕食が終わったら良いところへ連れて行ってあげよう」
ナフキンで口元を拭いながら爽やかな笑みを浮かべているが、その顔は何か企んでいるような不気味さがある。
「ええとこ?」
「ああ。まるで天国のようなところさ」
「ふうん」
ちらっとマイケルを見れば首を横に振っている。「断れ」ということなのだろうが、不幸にも怜には通じなかった。
「首、痒いん?」
「……ナゼ、そう思うのデスカ」
「だって、困った顔で首振っ……」
「学習能力ナシデスカ!!」
「OH……ソーリー」
怜は肩をすくめた。
「二人ともいつの間に仲良くなったんだい?」
「さっき仲良くなったんよ」
「!?」
マイケルは怜の発言に驚愕した。何故なら全く仲良くなった覚えが無かったからだ。
「ほう……それならマイケルにも例の”アレ”に参加してもらうかな?ふふふ」
「だ、旦那様!!私など、トテモトテモ!」
マイケルは今度こそ困った感じで真っ青になった。よほど恐怖なのだろうか僅かに身体が震えている。
「マイコー、口答えは許さないよ?」
ギロリと睨みつけたマーシャルは、ドンとテーブルを叩いて立ち上がった。
「レイ、半刻後に迎えに行くよ」
「オッケーや」
マーシャルが食堂を出ていくとマイケルはその場に力無く座り込んだ。
「オーマイガー…」
「マイケル君。ドントマインドや」
ポンポンと肩を叩く怜をマイケルは涙目で睨んだ。
その目はまさに『貴様のせいだ!』といった感じである。しかし怜は身の危険よりも好奇心の方が勝っていた。ウィリアム・マーシャルという男に何が隠されているのか、ヤスケとの勉強とは一体何なのか、それを知りたくて仕方がなかったのである。
そして半刻後
当然ながらマーシャルは迎えに来なかった。(※大抵外国人はそうである)
むろん想定内の怜は、頭に鈴木君を乗せマーシャルの部屋の前までやって来る。
「少々、お待ち下さイ」
ポッターはそう言うと、トントンと扉を叩いた。
「旦那様、レイ様がお越しになられましたタ」
「OH……ジャパニーズボーイ…」
感嘆の声を上げるマーシャル。
『時間通りだネ』と心の声が聞こえた。そしてしばらくすると、マイケルとヤスケが顔を出し、怜の後ろに回る。まるで処刑台に連れていかれる死刑囚のようであった。
「鈴木君の攻撃力は五万な?」
三人はギョッと目を見張った。ちなみに怜なりの脅しである。
そして扉は開かれた。
「OH……何やこれ」
怜は目の前の状況に目をパチクリさせる。
「ウェールカムッ!レイ!!」
そこは煌びやかなステンドグラスが張り巡らされ、それを照らすようにキャンドルが所狭しと置かれている。
そして中央には大きなテーブル。しかしテーブルと言っても普通のテーブルではない。
「どうだーい!レイ!驚いただろう!コレはネ」
「ビリヤードやろ?」
マーシャルの動きが止まった。 しかし直ぐに我に返り、平静を保ちながら脇のテーブルにある金属製のワイングラスに手を伸ばした。
「こ、これはネ」
「ワインやろ」
マーシャルの動きは人間からロボットに変化しつつあった。
「フランス産ソーテルヌの貴腐ワインやね」
「ッ…!」
「ていうかシャトー・ディケムやん!凄い!!」
怜の驚いた表情にマーシャルは少し気分が良くなった。
ちなみにシャトーディケムは「ソーテルヌ特別第1級」を有し、品質や知名度は群を抜いている貴腐ワイン(貴腐ブドウを原料とする高級白ワイン)である。高い糖度と濃厚な香りで、極上の甘口デザートワインとして、未来でも特に女性からの支持は厚い。
「フフン。まあネ。ジャパンにはまだワインなど無いから、わざわざフランスから取り寄せているんだ」
「へえ!ちょっと飲ませて!」
「もちろんさ。ヘイポッター!グラスプリーズ!」
「は」
マーシャルは地雷を踏んでいることに気付いてはいなかった。いや、おそらくこの場にいる誰もが気付いていないだろう。
『怜に酒を飲ませてはならない』
或いは怜と出会う前にそれを知っていたら、マーシャルはけしてワインなど飲まさなかった。しかし彼は(その周りも)何も知らない。これから自分(達)の身がどうなるかなど全くと言っていいほど考えもしなかったのである。
◇◇◇◇◇◇◇
それから半刻後、マーシャルの秘密の部屋から凄まじい轟音がし、サムを含む使用人は急いでその場に駆けつけた。
「アヘン戦争の報復か!?」
「馬鹿!ここはジャパンだぞ!」
「旦那様ァアァァア!!」
数人の使用人が「せーの」で扉を開けた。
ゆらめく物体。
それは小さな子供だった。手に持ったキャンドルの所為でその影が天井にまで高く伸びているのだ。そして隅に固まるのは二人の大人。少し離れたところにヤスケが呆然と立っている。ポッターは入り口付近でいつもの如く無表情に立っていた。
「クックックッ」
不気味な含み笑いに戦慄が走った。
怜はもう片方の手に持ったワインを一気に流し込み、後ろへと放り投げた。
「私の勝ちや…」
「レ、レイ……ウェイッ(ト)!」(※待て)
「答えはノーや。さあ早よ服脱いでもらおか」
怜はドンッとビリヤードテーブルにキャンドルを置き、重厚な椅子にドカリと座ると、偉そうに足を組んで、腹の上に両手を置いた。
「い、一体何があったんじゃ…」
ビリヤードテーブルのグリーンの羅紗はボロボロに裂け、手球の上には夜鷹がバランスを保ちつつ微睡んでいる。絨毯には真っ二つに折れたキューが幾つか転がり、まるでここだけ嵐がきたような有様だった。
「ナインボールで勝負したんよ。私が勝ってん。負けたら裸で土下座や」
ナインボールとは番号の書いてあるボール九個と手球一個の球を使い、手球をその番号順に的球に当ててポケットに落としていき、最終的に九番のボールを落としたプレイヤーが勝利となるゲームである。
「ビルと同じことをしてあげとるだけや。そもそも自分が決めたルールなんやから守って当然やろ。なあ?ビル」
マーシャルはキュー(ボールを撞く棒)を固く握り締めたまま憎しみの目を向けている。
実はこの男、誰彼構わずビリヤードで勝負を挑み、勝てば相手を服従させる最悪の趣味を持っていた。よくよく聞けば、ヤスケらもそれの犠牲者であり「負ければ半日土下座、過酷な掃除、会話禁止、顔に落書き、四つん這いで散歩」など、様々な罰を課して楽しんでいたのだ。
つまりマーシャルと初めて会った時のヤスケの土下座も、昼間の草むしりも全てゲームの罰であり、更に口がきけないわけでもなかったのである。
「ビルだけちゃうで?マイケルもさっさとしいや。それともイギリス人っちゅう民族は、プライドだけはエベレストかぁ?」
「くっ、劣等民族め……」
「ハッハー!その劣等民族に負けた感想を是非聞かせてもらいたいんやけどぉ?」
「ぐぬぬ…」
もはやここまでくるとただの酔っ払いのジジイである。しかし怜は容赦無かった。
「オラァ!脱げぇえい!」
と、その時であった。
「何の騒ぎです?」
「!?」
軽やかに弾む声が扉の裏から聞こえた。
「ク、クレメンティナ!」
マーシャルの顔が真っ青になった。
周りの使用人達もその場から動けないほど青ざめている。
「へえ……ビルの奥さんか」
怜は直ぐに察すると、ぴょんと椅子から飛び降りてクリームイエローのドレスを着た貴婦人の前に立った。
真っ白な肌に金髪の長い髪を後ろに束ね、身長はおそらく乙女姉さんくらいである。(※横幅は無い)
「後藤怜言います。宜しゅう」
「まあ…わたくしは…」
ところが二人の間をマーシャルが体当たりで割り込んだ.。(必死の形相で)
「クレメンティナ、早い帰りだね?予定では五日後のはずだが?」
「え、ええ。乗船した蒸気船がとても速くて。あんな船は初めてよ」
「ほう。イギリス人の商船かな?」
マーシャルは”イギリス”の部分を強調し、ちらりと怜を見る。
「いえ、日本人でしたわ。確か”カミカゼ”と言う名の蒸気船だったわ」
いとも簡単に否定され歯噛みするマーシャルをよそに、怜はポンと手を叩いた。
「あー、それな。私の手下の船やよ。淀屋でしょ?」
淀屋は手下ではない。
クレメンティナはパッと明るい顔になった。
「ええ!そうよ!ヨドヤという船頭サンだったわ。まあ!坊やの手下だったなんて、すごい偶然ね」
怜はフッと笑みを浮かべた。
「神の思し召しなんやろな」
「え…?」
「私とクレメンティナが出会う為の…」
「まぁ…」
二人は見つめあった。
さすが、スケコマシの異名を持つ怜である。しかし最近自分がよく分からなくなっていた。
オトコなのかオンナなのか。
とその時。
「ノオォオォオォォ!!」
再び割り込むマーシャル。手刀で二人を引き裂いて、クレメンティナを自分へ引き寄せた。
「ワターシの妻に手を出すことは許さなーい!!ワターシは高貴なイギリス人であール!土下座などするものーか!」
「段々口調が変わってきたな」
「だまーれ!劣等民族メェエ」
「うっさいんじゃ!下等種族が!」
「ファァアック!!イエローモンキィイ!」
「ファァアッァアァック!ウ○コ大魔神!」
二人の低俗な口喧嘩はとどまることを知らず、皆ただあたふたと見守るばかりである。クレメンティナはヤスケを手招きした。
「一体これはどういうこと?」
「は、いえ、あの」
「全て話してちょうだい」
ヤスケは仕方なくコソリと耳打ちしながら今までの経緯を洗いざらい話した。するとみるみる内にクレメンティナの表情が険しくなり「例のゲームでの罰が」の下りに達した時、プツッと何かの切れる音がした。
「何や、今の」
怜はキョロキョロと周りを見渡した。
「フン……お前達ジャパニーズイエローモンキーにはわからないだろうネ。あの音は我が妻の堪忍袋の切れる音さ」
マーシャルはドヤ顔でそう言って、ハッと我に返った。
「ク、クレメンティナ……」
「あなた……またあのくだらない遊びをしたのね。しかも、禁止したはずの”罰”まで」
「ち、違うんだ……っ」
「問答無用ォオウッ!!」
マーシャルは鳥になった。




