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奴隷の話が含まれます。苦手な方はスルーして下さい。
女性二人は所謂”お妾さん”という立場の者で、相手の男は大坂ではそこそこの豪商人らしい。船に乗り込んだ早々「秘密の船室」で博打に勤しんでいるらしく、暇を持て余した二人は未来でいうところの逆ナンをしまくっていたとのことであった。
「大変なんやね、お妾さんも」
江戸時代の”妾”という存在はいわゆる女のステータスである。お相手が金持ちであるほど羨望の眼差しで見られるのだ。
だが、美味しい物を食べ、綺麗な着物を着て、それは楽しい毎日かと思われがちだが実際はそうではない。花街辺りと同様それなりの苦労や努力が存在するのが実情だった。
「旦那さんの前ではしおらしくしとかなあかんしねぇ。でもたまには息抜きしたい時もあるんよ。もちろん本気で浮気なんかせえへんけど」
「一途なんやね」
「ウチは田舎の家族の面倒まで見てもろてるさかい、もう頭上がらんわ」
「それだけ惚れられとる証拠なんやね」
怜はふと目線を右にやった。
そこには大柄の外国人がドカリと腰を下ろしている。その周りを取り囲むように数人の男、そして傍らに小さな黒人の子どもが土下座をしていた。最初は何か落とし物でもしたのかと思ったが、次の瞬間否定された。
怜の視線を追った吉田が眉をひそめて小声で言う。
「あれは奴隷だ」
その言葉にドキリとした。
怜の知る世の中は僅かな世界。しかもそれは一握りにも満たない。貧しそうな親子、ボロボロの衣服をまとった浮浪者。確かに沢山見てきた。しかしそういうものとはわけが違うのだ。
奴隷は生まれながらに疎外され、名誉など皆無、暴力的に支配される者を差し、およそ人間扱いされぬ身分。だがこの時代で当たり前なのかもしれない。しかし負の歴史である。むろん遊女などもある種の"奴隷"と言えるかもしれないが、年季が明ければ自由の身になれるし、それこそ彼女らのように金持ちの男が身請けしてくれるかもしれないという小さな希望もある。
しかしあの子どもは違う。
夢も希望も無いのだ。いや、寧ろそれを持つことすら許されないのである。ガリガリに痩せた手足には傷痕が生々しく残り、顔には幾つかの青痣が見られる。怜は自分の手が震えているのに気付いた。
「助けてあげられへんのかな」
ポツリと呟いた怜に皆が顔を見合わせた。
「ほんに優しい子やわ」
「よその国のことやし、ねぇ」
怜のただならぬ様子に吉田は腰を上げる。
「そろそろ部屋に戻ろう」
しかし怜も馬鹿ではない。むろん飛び出して今直ぐ助けることが出来るならきっとそうしただろう。だが主たる西洋人は如何にも要職に就いているという雰囲気で、「事」は国際問題に発展する怖れもある。怜のような何の後ろ盾もない身分の者がそれに口出す権利はないのだ。
「あの男、何て言う人?」
「今は海の上だ。下手打って逃げ場のない海原に放り込まれでもしたらお前の命が危ない。余計なことはするな。他所の国には他所の国の決まりがあるんだ」
怜は引き摺られるように船室へ押し込まれ、「部屋から出るな」と固く釘を刺された。吉田は怜が何かしでかすのではないかと心配だったのだ。普通は見て見ぬフリを過ごす物事でも、怜は無闇に動く節がある。
あの馬関での一件がそうであるように。世の人々はまだ外国人に慣れていない。それは長い鎖国体制が原因である。長崎のように特別な場所もあるが普通の人々ならば「触らぬ神に」といった程で、敬遠するのが常なのだ。
「……見張りよろしくな」
「キョ」
しかしそれから五日が経ったある日、吉田の思いとは裏腹にその時はやってくる。そしてそれが怜とのひと時の"別れ”になることをこの時は知る由も無かったのである。
◇◇◇◇◇◇◇
すっかり仲良くなった女性達と怜は、暇な時間を互いの船室で過ごすまでになった。特に怜はその一人”華”(はな)という妾と親しくなり、吉田そっち退けで彼女に付いて回っていた。
それには理由があった。
「なあ、華さん。お願いがあるんやけど」
「ん?ウチで出来ることやったら何でも言うて?」
「旦那さん紹介してくれへん?」
「え?」
華は目を丸くした。
「紹介?また何で?」
「実は親戚が大坂で商売しとるんよ。そやから一回挨拶しときたいんや」
「まあ、そうやったん?」
華は怜の目論見も知らず快諾すると、その夜早速引き合わす手筈を整えた。
華の旦那は”竹富”という名で、大坂では十本の指に入る豪商人である。若い頃はそれこそ寝る間も惜しんで働いたらしいが、今ではそのほとんどを後継者である息子に任せ自分は愛人と自由きままに遊んでいた。
この旅も兼ねてから江戸に行ってみたいと言う華の希望を叶える為に実行したという。
「どうぞ」
華はガチャリと扉を開けた。
二人の船室は怜の泊まる部屋より随分広く、隅々まで行き届いている。
「失礼します」
怜は礼儀正しく背筋を伸ばし四十五度に頭を下げると、奥の方からギシリと板が軋む音がして、低い声が部屋に響いた。
「お華に新しい恋人が出来た言うて下の者が騒いどったが」
「そうよ。この子がウチの新しい恋人や」
豪快に笑う竹富は五十代のでっぷりとした体格で、温和で優しそうな男であった。しかし頭はそこそこ切れるタイプに見える。
怜はスッと前に歩み出て今度はぺこりと頭を下げた。
「後藤怜と申します。宜しゅう」
「ワシは竹富重兵衛や」
竹富は背もたれの付いた椅子に腰掛け、温厚な笑顔を絶やすことはなかった。とはいえ相手の心を探る目はなかなか鋭いもので、怜すらゴクリと唾を飲み込んだ。
「後藤……」
その名を刻むように反復し、自分と関わりがあるか思い返しているのは明らかである。しかし心当たりがないとみて、肩を竦めた。
「大坂に親戚がおるとか」
「はい。兄が鴻池の養子に」
その言葉に竹富はギョッと目を見開く。隣りの華もハッと口元に手をやった。
「鴻池言うたら....」
当然知らない筈はない。江戸時代の両替商といえば大坂の鴻池屋、江戸では越後屋が代表であり、特に「金貸し」として名を馳せたのは鴻池をおいて他にはないのである。
「ほんなら後藤ってまさか、御当主の右腕と言われとる後藤はんの?」
「兄がお世話になっております」
怜はにっこりと微笑んだのであった。
◇◇◇◇◇◇◇
大坂と江戸を結ぶ海上交通路を突き進む和船は、日和山(鳥羽)を過ぎたところまでは順調であった。しかし少しずつ雨風が強くなり、風待ちのため御前崎港で一旦停泊することになった。御前崎は伊豆半島より南にあり、駿河湾口西岸の最南端に位置する。
外洋では、特別な意図が無い限り沿岸の追風帆走が前提で、向い風の時はやむを得ず近くの港に避難することが通説であった。
「間切り帆走」(左右に帆面を向けながらジグザグに前進)も行なっていたが、横からの波がまともに船内に打ち込む為、長距離帆走は出来ない。ゆえに入江や湾などで、順風あるいは順潮を待つのである。
だが場合によっては数週間以上に及ぶこともあり、急ぎの者はそのまま陸路で江戸を目指すこともあった。怜と吉田は一先ず船頭の指示通り近くの寺に身を寄せることとなり、他の乗船していた客も皆船から降りた。
「予定通りにはいかないな」
はやる気持ちが無いわけではないが、これから先の物事よりも目下今起こっている現状の方が重要だった。
「怜、何を考えてる?」
「なんも。ちょっと便所」
毎日怜の状態を見る吉田は底知れぬ不安に駆られていた。どことなく会話の少ない怜が、どことなく自分を避け、華と常に行動を共にしている事実。先日の奴隷の一件と共に、なるべく目を離さないよう細心の注意を払っていた吉田だったが「ずっと」というわけにもいかなかった。
「キョキョ」
ただ怜の夜鷹が常に吉田の側にいた。
心配そうに吉田の肩に止まり、頭を突いている。
「いい子いい子。ーーーーー痛ッ」
それから二日後、吉田の前から怜は忽然と消えたのだった。




