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幕末スイカガール  作者: 空良えふ
第一章
27/139

027



「快調快調」


怜は荷物袋をリュックのように担ぎ、街道を北へと進んでいく。


豊前街道は肥後山鹿から筑後久留米へと続き、筑前山家の手前で長崎街道と合流して更に豊前小倉へと至る道である。 念の為昨日の内に地図を買っておいたのだが、薩摩街道に比べると人の往来が激しく、迷うことは無さそうだった。おそらく長崎街道と合流すれば更に人の数は増えるだろう。


五日以内に門司港に着き、そこからは海路大坂へ向かいたいと考えている怜だが、問題は大坂からどう仙台へ行くかである。陸路では時間がかかるのは目に見えているし、かといって海路だとどれくらい船賃がかかるかわからない。


八両近くあった資金は、佐吉らへの餞別(祝言費と当面の生活費)として三両ほど渡し、手元には四両と二分金一枚、一朱金二枚と後は一文銭が少しだけである。大体京から江戸まで(約五百キロ)旅をするとすれば、一両二貫文くらいはみておかねばならず、一般家庭の一カ月の生活費に相当する金額だ。


今後のことを考えてなるべく使いたくない怜は、それこそ宿には泊まらず、ある日は木の上で、ある日は廃屋で、またある日は洞窟で夜を明かし、人々から後ろ指差されながらもひたすら北を目指し、寝る間も惜しんで歩き続け、そしてとうとう五日後には、予定通り門司港へ到着したのであった。


「この前から思っとったんやけど、何でそんなに私から離れてんの?」


眼前の海を眺めながら怜は言った。


「なあ鈴木君」

「キョキョ……」

「言っとくけど、鈴木君も大概臭いで?」


そう。実は五日間風呂に入っていなかったのだ。

「夏にもかかわらず」である。

歯磨きと洗顔だけは欠かさなかったが、髪は土埃の所為で白っぽく、服も所々破れ、草履もボロボロであった。もちろん替えの着物と草履は一式あるのだが、残念ながらここでも従来の「節約」癖が出てしまい、ギリギリまでは着替えないと決めてここまで来たのである。


しかしさすがにこの格好で船に乗るわけにもいかないので、近くの川で水浴びをし、無患子(ムクロジ)の実で髪や顔、嫌がる鈴木君をも洗い、新しい四つ身に着替えて港へ向かった。


「凄い人や……」


見れば「人、人、人」である。驚いたのは漁船が多いことだった。門司港から下関港の水域は、ちょうどこの時期、流れに乗ったタコ、鰹などが瀬戸内海で産卵し、そこで成長した魚は、潮流に乗って東シナ海や日本海 へ旅立つのだ。つまりこの水域は人だけではなく、魚達も往来する恵まれた海峡なのである。怜はしばらく辺りを観察した後、停泊している漁船に目をつけた。小さな漁船ではあるが、旅人らしき男を誘導しているのを見るあたり、漁だけではなく、人も運んでいるようだ。


「おじさん、この船どこ行くん?」

「んー?」


痩せ型の男は、煙管を加えたまま振り返った。


「この船は馬関行きっちゃ」

「馬関かー。大坂行きはないん?」

「大坂行きはさっき出たばっかりっちゃ」

「ほな次の便は?」

「明日っちゃ」

「明日ァァア!?」


タイミングが悪かったようだ。

怜はがっくり肩を落とした。


「馬関から行ったらええっちゃ。あっちの方が沢山(ようけ)出とるっちゃ」

「あ、そうなん!ほんなら乗せてって!船賃はちゃんと払うから」

「お前一人か?」

「うん。いくら?」

「八十文っちゃ」


嫌々巾着から金子を取り出す。いつもなら値引き交渉するのだが、今は一刻も早く先へ進みたかった。喉まで出かかった言葉を飲み込み、抵抗する右手に左手を添えて、金子を男に押し付けた。


「今日はちと波が荒いけ、操舵におったらええっちゃ」

「おおきにっちゃ」


早速船に乗り込み言われた通り操舵室へと入っていく。漁船だけあって、木造りの箱が幾つか並べられているだけのひたすら狭い内部であった。

その箱に座っているのは一人の男。佐吉と変わらない歳の頃だろう。その手には分厚い書物があり、ちらりともこちらを見ずにそれに没頭していた。怜は荷物を下に置き、少し離れた隣りに腰掛ける。ちなみに鈴木君は定位置(※頭の上)だ。ギシッと木の鳴る音がすると、男はようやく顔を上げてこちらを見た。


「へえ。子どもが一人旅か?」

「家に帰るとこ」

「なるほど。変わった帽子だな」

「夜鷹や」

「……本当だ」


珍しいものを見たという顔である。


「お兄ちゃんは長州の人?」

「ああそうだ。お前は京か?」

「えー!?何でわかるん?」

「大坂と少し違う音のような気がしてな。つい最近まで京にいたんだ」

「そうなんや。私は”後藤怜”言います。宜しゅう」



「俺は……高杉だ。高杉晋作」


怜は驚きのあまり言葉を失ってしまった。

驚いたのは『高杉晋作』に会ったからではない。

目の前の男が『高杉晋作』ではないことに驚いたのだ。


なぜなら未来で彼の写真を何度も見ている。間違えるはずがないのだ。高杉晋作はいわゆる”漢”といった風貌だが、目の前の男は未来にも通じそうな、中性的で爽やかなイケメンだった。


「高杉晋作ねぇ...ふうん」

「なにその疑いの目」

「別にー」


棒読みの怜に対し、高杉と名乗った男はハッと目を見開いた。


「お前、まさか高杉を知っているのか?」

「名前だけな」

「名前だけなのに何故わかる」

「桂君に聞いたことがあるから」

「桂?」

「桂小五郎って人。友達やねん。その時聞いた印象と違う気がしたから」


男はおもむろに立ち上がった。何故か嬉しそうに。


「なんだ!桂さんの友達だったのか!」

「お兄ちゃんも桂君の友達?」

「”同志”だよ。騙して悪かったな。俺の本当の名は吉田栄太郎だ」


のちの吉田稔麿(よしだとしまろ)である。

高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一と並ぶ四天王の一人であり、あの池田屋事件で命を落としたと言われている人物だ。怜も思わず立ち上がった。


「キターー!!」

「キョキョーー!」

「え?なになに?俺のことも桂さんに聞いてた?」

「う、うん!聞いた聞いた!」


むろん何も聞いちゃいないが、話を合わせた方が良いと考え、怜は相槌を打つ。


「へえ…桂さん、俺のことなんて言ってた?」

「あー、えーと……なかなかデキる奴……?」


一瞬言葉に詰まったものの、頭の中に桂の顔を思い出して気が変わった。


「やけど、足臭いって言っとったよ」

「ま、マジ?」

「うん。炎天下の中、魚を一ヶ月放置したような匂いやって言っとった」


ここまでくるとただの性悪女である。


「ひ、ひでぇ…」


吉田は眉間に皺を寄せる。


「今度会ったらただじゃおかねえ……」

「あ、その桂君は今、長州におる?」

「いや、桂さんも高杉も江戸だよ」

「そっか(……良かった)」


怜はホッと胸を撫で下ろした。

しかし忙しい人だと思った。前に会った時は長州に帰ると行っていたのに、もう江戸にいるという。思い返せば小松ら薩摩藩の一行も来年江戸へ旅立つというし、土佐勤王党も向こうにいるはずだ。歴史で名高い人物が、こぞって江戸に集合するということは、それほど重要な何かがあるとみて間違いないと考えた。


「江戸で何かあったっけ?」

「さあな。庶民には関係ないし」

「ふうん……」


今は文久元年。アメリカの出来事として有名な南北戦争が始まった年である。しかし日本に直接的な何かがあるわけではない。


「何やろなぁ……何かあったような気がせんでもないねんけど……」


怜は腕を組んで頭をフル回転させた。


(1861年……リンカーン…イタリア……ロシア……日本……)


考えあぐねているうちに、操舵室に先ほどの男ともう一人別の男が現れ、しばらくして船は動き出す。波はやや荒れ模様であったが思ったほどではなかった。ぶつぶつと考えながらも視線は遠く彼方にあり、うっすら見える島を眺めているとスッと何かが舞い降りたように突然思い立った。


「わかった!公武合体や!あと、ロシアの対馬占領と」

「お前、よく知ってるな!」


吉田は驚きの表情で怜を見つめる。

さすがに何度もこういった失敗を重ねてきた怜だが、それゆえに回避する術(嘘)もいつの間にか身に付けていた。


「そりゃ、京人にとったら我らが姫やからね」


公武合体に置ける孝明天皇の妹・和宮の降嫁は、失墜した幕府の威厳を取り戻す為の幕府の苦肉の策である。とは言え朝廷側も安易に受け入れたわけではなく、降嫁によって朝廷が国政参加を成せるとした狙いがあり、互いにその思惑が一致した方策だった。


「なるほど、そうか」


吉田は納得した様子でウンウンと頷いた。


「にしても、子どもが何故一人旅なんてしてるんだ?」

「旅というか親戚の家に遊びに来ただけ。我が家は五歳になったら”大人”認定されるねん」

「すごい家だな」

「まあね。吉田君は他の人みたいに江戸に上らんの?」

「一旦長州に戻った後、また京へ行く予定だ」

「ふうん?」

「久しぶりの故郷だから一ヶ月は滞在するけどね」

「久しぶり?なんで?長州に住んでるん違うの?」


吉田はニヤリと笑って怜に言った。


「去年”脱藩”したんだ」

「……帰ったらやばいやん」


脱藩罪は財産没収はもちろん場合によっては死罪になることもあった。しかしこの幕末期、脱藩者は数多く存在する。坂本龍馬、中岡慎太郎はもとより、高杉晋作などはゆうに五回以上は脱藩したとされており、言い換えればこういった脱藩志士達が奮起したことによって明治維新は成し遂げられたとも言えるのだ。


「見つからないように帰るから大丈夫」

「まあ吉田君とこの藩やったら脱藩ごとき見つかっても死罪にはならんよね。松陰”先生”もそうやったし」


怜は忘れてはいなかった。

未来の長州人にとって”吉田松陰”は神のような存在なのである。よって”吉田松陰”を名指ししてはならないとの暗黙の了解があるのだ。怜の友人がそうであったように、うっかり「松陰ってさー」などと言おうものなら一週間は口を聞いてもらえないというのが通説だ。(※諸説あり)加えてこの男は松下村塾の一人であり、松門四天王とあれば、敬意を持って”先生”付けするのは身の危険を回避するには充分といえた。


「松陰先生を知っているのか!?」

「モチのロンや。立派な人やった……!」

「何だか気が合いそうだな……俺たち」

「そうやね」(特に合いたくもないけど)


その後はたわいない話に花を咲かせ、あっという間に馬関に到着した。漁船から降りるとようやくこの男から解放されると安心していたのだが、ここでまた事件(?)が勃発した。



「ほな、元気で」

「ああ。達者でな」


吉田と別れ今度は大坂行きの船を探す為に港を探索し始める怜。周辺の喧騒を潜り抜けるのは、小さな子どもにとって至難の技だが文句を言っても始まらない。


「さて行くか…」


そして一歩歩き出した瞬間であった。


「キョキョ」

「ん?」


素早く反応したのは鈴木君である。

ワッと歓声のような雄叫びが聞こえて人々が止まったように見えた。


「オイ!誰か医者だ!医者を呼べ!」


野太い声が周囲を駆ける。

反射的に人だかりへ小走りに向かい、人波を掻き分けてその中心へと進んだ。


「医者はいないのか!!」


見れば洋装に身を包んだ男が二人。一人は声の主で、もう一人は胸を押さえて苦しげに膝を付く外国人である。


「どうしたん?」


思わず駆け寄って外国人の顔を覗き込むようにして見た。ぎゅっと目を瞑った苦悶の表情。僅かに手が震え、ハッハッと浅い呼吸を繰り返している。


「君、医者を呼んできてくれないか!?」


男は掴みかからんばかりに怜に詰め寄った。


「ちょっと落ち着いて」


怜はそう言って外国人の背を摩った。この症状には見覚えがある。むろん未来でのことである。怜はキョロキョロと辺りを見渡して、少し離れた男に声をかけた。


「おっちゃん、その皮袋貸して」


男は一瞬「えっ」と漏らすも、「早く!」という声に慌てて差し出す。怜はそれを受け取ると外国人の口に当てた。


「な、何をする!?」

「シャラップや!」


怜は隣りの男をギロリと人睨みにし、今度は優しい声で言う。


「ゆっくり息吸って」


この症状は過呼吸であると判断したのだ。

未来では命に別状があるわけではないが、それでも今は幕末である。小さな病で死することもあり得る。怜は慎重に「吸って吐いて」を繰り返し、しばらくして震えが無くなると皮袋を離した。


「もう大丈夫や」


脱力した外国人は「はぁ…」と息を漏らし顔を上げる。隣りの男は目を見開いたまま言葉すら出ないようであった。


「二酸化炭素の濃度欠乏による発作や。大したことない。そやけどしばらく激しい運動とかせんようにね」


外国人は微かに笑みを浮かべ、同時に怜はガンッと頭を打たれたような衝撃に襲われた。


(グラバーやん……)


武器商人として明治維新に貢献したトーマス・グラバーその人である。


(なんで長州(こんなとこ)におるんやろ…殺されるで)


「アリガトウ……キミノナマエハ?」

「マイネームイズ”レイ”や。ほなグッバイ」


最低な英語を披露し怜は立ち上がる。

借りた皮袋を返し人混みへと入ろうとして、グラバーの連れの男に声をかけられた。


「ま、待ってくれ!何かお礼を!」

「困った時はお互い様やから。それに私急いどるんよ。気にせんといて」


今までの経験から長居していてはまたややこしい事になりかねない。素早く退散し大坂行きの船をさっさと見つけなければ下手したらこの長州で一泊しないといけなくなる。つまるところ必要以上に金を使いたくはないのだ。


「重病人はどこか」


そこへ役人らしき集団が、こちらへ近付く音がした。怜はまずいとばかりにその場を離れようとしたが、役人が来たことで周囲がワッと混乱し、前に進むどころか”おしくらまんじゅう”のように押し潰され、身動きが取れなくなった。


「ちょっ、……!」


そして誰かの足に踏みつけられ、痛みと不意を突かれた拍子に前のめりになった。と、その時「こっちだ」と吉田の声がした。返事をする間もなく手首を取られズンズンと人の間を抜けて行く。忍者かと思うほど軽快であっという間に群衆から外れた。


「お、おおきに。助かったわ」

「”怜”だったな」

「え?うん」

「大坂行きの船はアレだ」


吉田は前方の船を指差して言った。


「さあ、乗り込むぞっ」


にっこり笑顔の吉田稔麿。恐怖の念を禁じ得ない。

かくして心とは裏腹に始まった吉田とのランデブー。一体何が起こっているのか、怜自身も理解不能であった。


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