022
子どもはイノシシの背に立ち、遠く景色を眺めている。あまりの真剣な眼差しに佐吉は身震いする。身なりはボロ雑巾のように見えるが、それは仮の姿で実は"ええとこ"の生まれではないかと思ったのだ。むろん悪いことなどした覚えはないが、この状況が理解出来ず疑問と恐怖と様々な感情が佐吉を襲っていた。
(この子どもは一体何モンじゃ....)
顔半分は薄っすら紫に染まっていたが、顔立ちは悪くない子どもである。髪が短いため男の子だと思われるが、いわゆる中性的な顔立ちであった。
「なるほどなぁ。ここは台地になっとるんか」
「え?」
「あの山は何ていうの?」
「あ、あれは金峰山ばい」
「ほんならこの植木村は金峰山の山裾にあるっちゅうわけなんやね」
子どもはにっこりと笑顔を見せ、ぴょんと地面へ飛び降りるとまだ腰を抜かして座り込んだままの佐吉へと近付く。
「私は後藤怜や。宜しゅう、な!!」
「!??」
子どもは最後の「な!!」の時に逃げようとしたイノシシに向かって持っていた棒をぶん投げた。
「ブヒィィイィィイ!!」
それは見事にイノシシの後頭部にクリーンヒット。
呆気に取られる佐吉であったが、ニヤリとした子どもの笑みを見て、ゾクリと毛が逆立った。
(恐ろしい子どもじゃ… )
◇◇◇◇◇◇◇◇
我が家に人が来るなど久方ぶりであった佐吉はどうもてなして良いかわからなかった。ほとんどゴミ屋敷状態では中に上がってもらうことさえ躊躇ってしまう。
取り敢えずお茶の代わりに水を入れた茶碗を差し出し縁側に並んで座ったのだが、話しかけることも出来ず、ひたすら挙動不審に目を泳がせるだけだった。一方怜はというと茶碗の水をコクコクと美味しそうに飲み干してマッタリ落ち着いている。
まさか喉が渇いたから水を貰いに来たというわけでもなかろうに、その表情ときたら嬉しそうな楽しそうな不思議な顔であった。しかしずっとこうしていても仕方ないと佐吉は思い切って口を開いた。
「あの、オラに何か用でも」
「あ、そうそう。仕事の依頼に来たんやけど」
怜は何でもないようにさらりと言った。
「し、仕事?依頼?」
あまりの突拍子な発言に佐吉はわけがわからない。頭の中で”仕事”という言葉を何度も反復したが、何の仕事なのかとんと見当がつかなかった。
「誰かと間違えとるんじゃろか?俺はその辺の乞食と何ら変わらん男ばい。仕事なんかしちょらんし、ただ野菜を売って日銭を稼いで酒飲むことしか能が無い男じゃけん」
怜はまたも笑顔を見せた。
「その西瓜を売って欲しいねん」
「それなら市場で売っとると思うんじゃが」
「一個や二個違う。百単位や」
「百単位?そんな沢山…」
「単価は百文」
「百文!??」
佐吉の目が飛び出した。
「その代わり今までみたいなんはあかん。あれは売りもんにならん。私の言う条件を満たした西瓜だけや」
「ちょっ!ちょっと待ってくれ!話が大き過ぎて何が何やら」
「ああ、そうやね。ほんなら今日はこの辺でやめとこか」
怜はおもむろに草履を脱ぐとズカズカと部屋へ入る。佐吉はハッと我に返って追いかけた。
「ちょちょちょ!?」
「きったない部屋やな。身なりもそうやけど、何でもっと綺麗にせんの?あんた本当はまだ若いやろ?」
確かに怜の言うとおり佐吉はまだ二十歳である。しかしその風貌はどう見積もっても三十代後半くらいだ。身嗜みをきちんとすればそれなりに見栄えのしそうなモテ男なのだが、本人は全くそれに気付いていない。
「人生放棄した人間ほど人生に執着しとると思うんやけどなあ」
「執着なんてオラは...」
「人生楽しい?」
「.....」
「楽しい人生にしたいんやったら努力してそれを掴まなあかん。毎日適当に生きてる人間が幸せなんかなれるわけないんやから」
まさかこんな小さな子供に人生の何たるかを聞く羽目になるとは思わずにいた佐吉であったが、その重い言葉に考えさせられたのも事実であった。
だが愚かにも人間は、長年そのように生きていると、易々と改善出来ないのが常である。それは現代と何ら変わりはない。平凡であればあるほど、現状を壊すことを恐れてしまうものなのだ。
特にこの佐吉、極度の平和主義者であった。
「つまらん人生かもしれんがオラにはその方が合うとるけ。毎日酒飲めたらそれだけでええんじゃ。それだけで幸せじゃ。他には何もいらんばい」
「一生独り身でそのまま年取ってジジイになって死んでも後悔無しってこと?」
「そういうことじゃ」
怜はそれを聞いてニヤリとすると、佐吉の手にある陶磁製の徳利を指差した。
「そんなん言うて、その”熊屋”の娘が好きなくせに」
「ばっ!!!?」
徳利の表面には”熊屋”と書かれてあった。この時代、酒屋や醤油屋など小売店は、店名や屋号などを書いた徳利を客に貸し出し、中身が無くなったら空の徳利を持って再び訪れ、代金と引き換えに商品をまた容器に注ぐという”通い徳利”という方法で販売している。(※貸し徳利、または貧乏徳利とも言う)実にこの方法、昭和初期まで続くやり方で、顧客獲得や店の宣伝にもなる店側としては利点の多い方法であった。
佐吉もまた例に漏れず”熊屋”のお得意様だという事実は隠しようがないわけだが、実のところ怜は熊屋の娘など知らなかった。しかも見たこともなけりゃ話をしたこともないのである。
ただ佐吉の家に来る途中、手土産にと熊屋に入ろうとしたところ店の前で見知らぬ男に声をかけられたのだ。その男曰く「"熊屋”は高い」らしい。それで怜は単に”ぼったくり酒屋”なのだと認識しただけである。
「めっさわかりやすい男やな」
図星を指された佐吉の顔は真っ赤だった。
「ななななんで」
「金も無い男がわざわざぼったくり酒屋に行くとかありえへんし。理由があるとするんやったらそれしか考えられへんから」
よもやこんな小さな子どもに心の内を見透かされるとは思いもよらなかった佐吉だが、話をしていくうちに普通の子どもではないということだけは理解した。
「佐藤君」
怜は庭先で恨みがましい目でこちらを見ているイノシシを手招きした。ギクリと怯えつつものそりのそりと(嫌々)近付くその首には、”むつみ屋”の屋号が入った徳利がぶら下がっている。怜は「お土産や」と言ってそれを佐吉に手渡した。しかし佐吉は眉間に皺を寄せ、ぽつりと呟く。
「オラは熊屋の酒しか飲まん」
「え!?」
怜は佐吉の言葉に動揺した。
(怖ッ!ストーカー予備軍や!)
「言うても、もう飲めんようになるけどの」
「え?どういうこと?」
「来週店畳むんじゃ」
「ぼったくりばっかするから店傾いたん?」
「いや、そうやなかと。あそこは男手がないけん、実際おかみさんと娘さんが切り盛りしとるんじゃ。ばってん経営に行き詰まって近頃じゃあ客が減っとるらしい。ほんで隣町の酒屋の息子との縁談話が持ち上がっての.......来週嫁ぐんじゃ」
「玉の輿やん」
「そんなええもんじゃないけん。借金のカタに売られるようなもんじゃ。その男は前から千香に目ぇ付けとったらしいから」
「千香、って言うんや」
佐吉はこくりと頷くと大きな溜め息を吐いた。
「それでも何もせんと指加えて見とる呑兵衛に嫁ぐより、よっぽどその男の方が男気もあるし千香ちゃんも幸せになれるんちゃう?」
「……お前…容赦ないな」
「やれるのにやらん男は嫌いやねん」
グッと拳を握り締める佐吉を見て怜は隣りの佐藤君を押しやる。
「良かったら、この子殴る?スッキリするで?」
「ブヒィイ!?」
◇◇◇◇◇◇◇
その夜、怜は図々しく佐吉の家に泊まらせてもらうことになった。もちろん佐藤君もである。なんだかんだ意気投合したと二人は庭先で夕食を楽しんだ。山で採ったキノコや山菜などを使った七輪バーベキューである。
「千香とは幼馴染みなんじゃ。それこそ昔は野山を駆け回って日が暮れるまで遊んだけんど、年頃になったらいつの間にか目も合わさんようなって今はもうただの客じゃ」
自嘲する佐吉に怜は呆れ顔で言った。ちなみに怜もほろ酔いである。
「毎日通うからあかんねん」
「なんじゃと?」
「女っちゅうのは、追いかけられると逃げるんや」
「そんなもんかの」
怜はこくりと頷くと佐吉に忠告した。
「明日から行ったらあかんで」
「えっ」
「毎日来とった人がいきなり来んなったら、向こうも”あら?佐吉さん今日はどうしたのかしら”ってな感じになるんよ」
「そ、そうか?」
「”あの汚らしい顔見ないと私落ち着かないわ”って感じな」
「な、なるほど」
「とにかく私の言うとおりにしとったら間違いない。とりあえず明日はスイカ畑見せて欲しいんやけど」
佐吉はがくりと肩を落とした。言わずもがな怜の目当ては「西瓜」であり佐吉の色恋などには全く興味は無い。
「スイカ畑なんかなかと。裏の畑と林の奥に生えとるだけばい。ばってんもう残っとるのは小っさいのばっかりじゃ」
「ええねん。最初から期待してないから」
怜の中で描く予想図は”これから”なのだ。如何にして西瓜を栽培化するか。人が管理することで病気を防ぎ、試行しながらも甘くて美味しい西瓜の収穫を目指す。それだけに尽きている。
「この土地は水捌けが良いし気候的にも言う事ない。西瓜にはもってこいの場所や」
「親父がおる頃はなぁ野菜もまあまあ採れたんじゃが。オラは畑仕事が向いてないんかもしれん。直ぐに動物に荒らされるんじゃ」
「まさかあんたちゃうやろな?」
怜はぎろりと佐藤君を睨み付けた。
「ブヒブヒ!」
全力で抗議する佐藤君だったが、佐吉曰くこの辺りは特にイノシシや猿が多数出没するらしい。
「まあ動物も生きとるからね。多少の被害は仕方ない。そやけどこんな恵まれた土地を使わん手はないわ」
「恵まれた土地か。オラにはようわからん」
怜は足元の棒を拾い上げ棒を金峰山に向けた。
「金峰山は休火山や。おそらく噴火した過去があるんやと思う」
「そんな話は聞いたことないな」
「多分縄文とか弥生とかよりももっとずっと前ちゃうかな。とにかく佐藤君とここに来る途中、山頂付近で岩石があったんよ。あれは溶岩に間違いないわ」
「へえ……」
「そういう火山灰土壌の地質っちゅうんは保水力がイマイチやけど、ここ阿蘇の伏流水のおかげで柔らかい水持ちええ土が、自然と出来上がっとるんよ。そやから野生西瓜が出来るんや」
「そうなんか」
「南瓜もええんちゃうかな。あとメロンとかも向いてると思う。佐吉君良かったな!」
「お、おう…そやけど、伏流水ってなんや?」
「地下水のことやん」
城下周辺の地下には盆状の岩盤(地下水盆)があり、阿蘇外輪山の西側から菊池川から植木村、城下一帯を含む広い範囲を包んでいる。それは約三十万年もの時をかけ積重された火山堆積物の地層を巡る伏流水であり、大小千以上の湧水を育んでいる。つまり肥後は火の国であると共に「水の国」でもあるのだ。
「佐吉君、西瓜栽培が成功したらあんたは大金持ちや!」
「そ、そうかな」
怜は縁側に座る佐吉の両手を握った。
「熊屋の借金も返せる!千香ちゃんも手に入る!こんなええ話ないやろ!?」
「借金……千香……」
佐吉は怜の勢いに飲まれつつあった。いや、既に時遅しなのかもしれない。虚ろな目で夜空を見上げ、月に千香を重ねると、瞬く星が一両小判に見えたのだ。
「……ちょろすぎや」
小さく呟く怜の声。
佐藤君は聞き逃さなかった。




