018
次の朝、市来を出発した三人は、薄っすら霧が立ち込む山間を突き進んだ。すっかり体力を回復した怜は、大隈が買ってきてくれた”もんぺ”に履き替えたおかげで足取りは軽い。カツラのせいで頭はやや暑苦しいが着物に比べると我慢出来る。
「ほらほら東郷君、しっかり歩いて」
「誰の荷物持ってると思ってんだよ」
「男がちっさい事気にしたらあかんよ?」
いつの間にか兄妹のように打ち解けた二人。
時折くだらない喧嘩をしながらも、休む事なく歩を進めていく。しかし今日はいつもより気温が高い所為もあり、数時間もすれば無言になった。
(アイスクリーム……かき氷……)
市来から八房川を渡った後、串木野を通過し、更に北上を続けて山間へと進行する。その頃には怜の足も限界近くなってきて、少しずつ二人から遅れをとっていた。
「木場茶屋の手前に鎭國寺という寺がある。今日はそこで一泊させてもらおう」
「はい」
東郷が後ろを振り返ると、遠く後方に、木を杖のようにして歩いている怜がいた。
「大隈さん、先に行ってて下さい」
「ではその荷物は私が持とう」
東郷は荷物袋を預けると、怜の元まで走っていった。駕籠や馬でも使えたらこの旅も随分楽になるだろうが、道幅の狭い上り坂では無理がある。たまに変な呪文は唱えるものの、それでも五歳の子どもにしては頑張っている方で、愚痴や泣き言を言わないのだから大したもんだと大隈は思った。
「怜、乗れ」
「え、でも」
「いいから。このままだと暗くなって前に進めなくなる」
一瞬躊躇いを見せた怜であったが、よほど辛かったのだろう。そろりと背中にしがみついた。
「おおきに」
「うん」
陽はもう傾きかけていて、鬱蒼と生い茂る森の木が、余計に夜を急がせているようだ。
東郷は慎重になりながらも早足で緩い傾斜を進んでいく。しばらくして大隈に追いつき、完全に陽が消えた頃、ようやく一行は寺に到着したのだった。
◇◇◇◇◇、
一方その頃。
「遠島?」
大久保は大きく目を見開いた。
「彼女はまだ五歳ですよ。断罪など出来るわけがないでしょう」
「歳など関係ない。あの坊主、どうやって調べたのか知らぬが世間に漏れでもしたら厄介だぞ」
小松はフッと笑みを浮かべ、大久保に向き直った。
「大丈夫ですよ。そんなことにはなりません」
「ほう。自信があるんだな」
「ええ。なにせアレはそんなものには興味の欠片もありませんから」
「どういう意味だ」
「まあ平たく言えば、あの子はこの"西瓜糖”という薬の事しか頭にないということです」
「………ふん。まあいい。だが何かあれば責任は取ってもらうぞ」
「ええ」
大久保は不敵な視線を投げつけ、バンッと襖を閉めて去っていく。小松はホッと息を吐いた。
彼の目を見れば明らかだ。遠島など全く信じていない目だった。自分にも他人にも厳しいあの男が見逃してくれたのは、例えば怜が幕府に訴えたとしても"五歳の子供"の話など誰も信用するわけがないと踏んだのだ。それは小松も同じ気持ちだった。
しかしそれはただの子供というのが前提の話ではあったが。
◇◇◇◇◇◇◇
鎭國寺の一室で宿泊させてもらうことになった一行は、いわゆる精進料理という質素な食事を頂いた後、本堂の裏手にある、粗末な造りの風呂に案内された。
もちろん三人一緒、というわけにもいかず、大隈に勧められるまま先に風呂に入った怜であったが、彼らが交代で部屋から出ていった後、夜の境内を散策することにした。
「わあ……綺麗」
空は輝くばかりの星がひしめいている。
ひときわ輝く星は織姫、天の川隔てたところに彦星がキラキラと瞬いていた。まるでリアルプラネタリウムである。
日本はこんなにも美しかったのだと、怜が改めてその余韻に浸っていると、しばらくしてジャリと小石を踏む音がした。
「子どもは星が好きだな」
「……寺の人?」
「いや。一晩世話になっているだけだ」
「じゃあ私と一緒やね」
「どこから来たんだ?」
「んーと、桜島の方」
「へえ。俺は”桜島の方”へ帰る途中だ」
男は屈託の無い顔で笑った。
どん率は高めの八十パーセント。
目鼻立ちのハッキリした薩摩隼人である。
商人のような出で立ちであるが、おそらく武士だろうと怜は推測した。
「旅人さん?」
「いや、所用でな」
「仕事?」
「まあそんなとこだ」
一瞬”追っ手”かと思ったが、どうもそういった雰囲気ではない。何となく”嘘”をつけないタイプに見える。
「なあ、ところでお前、風呂に入っただろう?……どうだった?」
青年は怜の顔をじっと見つめてきた。
真剣な表情である。怜はこの青年が何を聞きたいのかわからなかった。
「入ったけど、どうって……何が?」
「いや、だから……いたか?」
「”いた”?……へ?」
青年は苛々と頭を掻き毟った。
「だーかーらー!あの黒くて光ってるヤツはいたかって聞いてるんだ!」
「黒くて光ってる?」
「隅の方をゴソゴソと這いずり回り、危険を感じた途端羽を広げて飛ぶヤツだよ!わかるだろう!」
「ゴキカブリのこと?」(※ゴキブリ)
怜がさらりと言い放つと、青年は化け物を見たように真っ青になった。
「貴様ァその名を口にするなァアァ!」
青年はどうやらゴキブリが苦手のようである。それは以前この寺に泊まった時、風呂にゴキブリを発見し、草履で潰しそうとしたら顔面に飛びつかれ、それがトラウマになっているらしかった。
「ひえぇ……大の大人がゴキカブリ如きで。そっちの方がよっぽど恐怖やわ」
怜はケタケタと笑った。
「お前にはわかるまい!!ヤツと目が合った時のあの不気味さを!」
「まあ、アレの生命力は半端ないらしいからな。”生きた化石”と言われてるくらいやし」
「い、生きた化石……?」
「そうや。ヤツは三億年前からおったんよ。三畳紀辺りやね」
「三畳紀…」
「白亜紀、ジュラ紀ときて、次が三畳紀や」
青年の手が震えているのを見て、怜は楽しくなってきた。
「つまり我々の先輩や。先輩は敬わな」
「敬う!?俺には無理だァア!!」
青年が頭を抱えて叫んだ時、風呂から上がった東郷が怜を探しに来るのが見えた。
「怜ーっ」
「こっちこっち!」
手を振る怜に気付き、駆け足で二人の前にやってきた東郷は、警戒心を露わに怜の手を握り締める。
「勝手に出たら駄目だ……ろ…」
と、その時ちらっと青年の顔を見た東郷が、信じられない顔で叫んだ。
「く、黒田さん!?」
「アー!お前は東郷!!」
「黒田さん、どうしてこんなところに!?」
「(黒田って、あの黒田清隆?)」
黒田清隆(了介)はこの時二十歳。
下級武士の出にも関わらず、持って生まれた才能と手腕で内閣総理大臣にもなる男である。
(へえ……この男が……)
マジマジと見ると確かにそうだと怜は思った。未来の写真では恰幅の良い髭男だった為、全く気付かなかったのである。
「仕事にきまっているだろう。江戸行きの件で色々手配しなければならないからな」
「一人じゃないですよね?」
「当たり前だ。皆疲れて寝てしまったんだ。それよりお前は何故ここに?」
「小松さんのお使いです」
「小松さんか。なるほど。……ところでこの子どもはお前の知り合いか?」
「はい」
「後藤怜と申します。宜しゅう」
ぺこりと頭を下げると、怜は黒田の足元を指さした。
「あーー!!ゴキカブリや!!」
「ギャアァアアァ!!!」
「黒田さん?!!」
「ブフッ……冗談や」
大爆笑の怜。意地の悪い子どもである。
「き、貴様ァアァ!!」
「黒田さん!落ち着いて!」
黒田は半泣きだった。