015
夏の薩摩はそれほど気温は高くないようだった。それより気になるのは、桜島の降灰と硫黄の匂いである。
人々は慣れているせいか気にも止めていなかったが、鼻の奥がむず痒く落ち付かない。怜は荷物袋から手拭いを出すとぐるりと顔に巻き付けた。
「この灰から身を守る為に、みんな”西郷どん”なんやわ。……ということは放っといたら私も西郷どんになるかもしれん」
'西郷どん”とは言わずもがな「西郷隆盛」であるが、怜の言う”西郷どん”は眉毛がやたら濃く、団子目玉(黒目がちの大きな瞳)、縮れ毛といった三拍子の人間を指す。(一応)怜は女の子なので、団子目玉以外は避けたかった。
「取り敢えず市場へ行ってみよ」
怜は懐から淀屋に書いてもらった地図を広げた。淀屋の話では”納屋馬場”が薩摩唯一の鮮魚市場で、青果市場も併設されており庶民の台所としても親しまれている。もしそこに西瓜があるとすれば、肥後から卸されている可能性が高いと考え、栽培地を特定する為に情報収集することにしたのだ。
「あっちやな」
怜が再び地図を折り畳んで懐に入れると、ここで予想だにしない事が起こった。
「え……なんで…?」
地面に置いたはずの荷物袋が無いのだ。ついさっき手拭いを出した時は確かにあったのに。
「ちょっと冗談は西郷どんだけにして」
失礼な発言をしつつ、怜は辺りを見回す。すると人波の中に揺れ動く怜の荷物袋がチラリと見えた。よく見れば歳上かと思われる少年達がこちらを気にしながら早足で歩いている。それを見て、怜はようやく盗まれたことに気付いた。
「おのれ...!」
あの中には金子五両近くと、大事な西瓜糖が入っている。失えば見知らぬ土地で無一文であり、それだけは避けねばならない。
「……しゃーないな」
怜は草履を脱いでペッと両手に唾を付けるという無意味な行動をする。
「on your mark…」(※位置について)
陸上選手の如くクラウチングスタートの体勢に入った。もちろんスターティングブロックなどない。手を地面に付き、キッと前を睨んで呟く。
周囲がザワッと慄く。そして薩摩の時が止まる。
目を閉じた怜の耳に、つんざくような歓声と共に平成の記憶が蘇った。
懐かしき陸上競技場。煉瓦色のトラックに白のレーン。
中学時代、怜は短距離選手であり県大会で優勝した実績を持っている。あの時の感覚と同じだ。埋め尽くされた観衆。仲間達の声援。緊張と高揚感で全てが無になり、唯一自分の心臓の音だけが鳴り響くのだ。
「set…」(※用意)
そして目を開いた瞬間スタートを合図するピストル音が響いた。
土煙りを上げながら風を切るように走る。軽快かつ颯爽としたその姿は、見る者を圧巻させるに充分だった。
「忍者か!?」
「まさか!!」
「あれは猪や!!」
口々に叫ぶ群衆を尻目に、怜は何でも無いように人波を潜り抜ける。少年らはまさかあんな小さな子供が追いかけてくるとは思わなかったに違いない。逃げるのも忘れ、あんぐりと口を開けたままの姿は高知県桂◯水族館のゆるキャラ「おとどち◯ん」のようであった。
「ゴーーール!」
怜は息一つ乱れさず手を差し出す。
「人の物盗むっちゅうんは立派な犯罪や。覚悟は出来とるんやろな?」
するとハッと我に返った少年の一人が前に出てきた。
「チビのくせに生意気じゃな」
「チビやから言うて舐めとったら痛い目見るで?」
怜はポキポキと指を鳴らした。
ちなみに口は達者だが喧嘩は得意ではない。本気でかかってこられれば当然負けるだろう。しかしそんなことも忘れるくらい取り返そうと必死だったのだ。
「お前らやめとけ。役人がくるぞ」
「やれやれ!」
「ガキ同士の喧嘩か」
どんどん集まる野次馬達は、止める者、囃し立てる者、心配そうに見守る者それぞれであった。
「一対一で勝負や」
群衆が見守る中、怜と少年はジリジリと円を描いて回り出す。互いに一挙一動見逃さぬといった目であった。
「坊や、怪我すっからやめときなさい。あの子らはこの辺では有名な暴れん坊なんじゃっよ」
「よかぞ!やれやれ!」
「また彼奴らが何かやったんじゃっか?」
(なるほど。不良グループってヤツか。ま、何処にでもおるもんやな)
京でもこの手の類いは沢山いる。若干若い気はするが、多分グループの中でも手下の部類なのだろうと怜は推測した。
「ほな、先に行かせてもらうで」
怜はそう言うや否や、右横に立っていた町娘の持っている竹箒を取り上げ、奇声と共に真っ向から振り上げる。
「キエェェェ!!」
「ギャアアァ!!」
弧を描いた竹箒はバシィンと高い音を立て少年の頭を直撃。少年はその場にうずくまって悶絶した。怜はそれを見て高笑いをする。
「ざまあ!!ハッハッハ!」
あまりの卑怯さに、少年を含む周囲の人々は開いた口が塞がらなかった。
「お、お前……ズルいぞ……!」
「リーチが違うでしょ。ハンデもろただけや」
「はんで?……りーち?……」
「それに私は女や。当然やろ?」
怜がそう言うと周りはギョッと目を見張る。
「お、おんな?」
少年はフルフルと震え出した。
プライドが傷付けられたのか、顔が真っ赤である。
「”薩摩隼人”は勇敢で強いって聞いたけど、大したことないんやね」
「な、なんじゃと」
スッと立ち上がった少年の拳は、固く握られていた。怜は咄嗟に身構えて、一歩距離を取る。
と、そこへ陽気な声が聞こえて二人の間に男が一人割り込んできた。
「最近の子どもは威勢が良いね」
「おっちゃん邪魔するなや!退け!」
少年は男に噛み付く。しかし男は余裕の笑みを浮かべたままだった。
「ケンカするなら自分より大きいヤツとケンカしろ。相手は女の子だ。女の子を守るのが男の役目。ご両親に習わなかったか?」
その言葉に少年は何も言えなくなった。
「さあ、荷物を渡しなさい。今返したら見逃してやるから」
歳はおそらく坂本と変わらない。一見穏やかな優男だが、なかなか頭が切れそうなタイプに見える。
(この人誰やろ……)
「お嬢さん。大丈夫かな?」
「はっ…!ひゃい!どうも、お、おおきに」
怜は男の手から荷物袋を受け取った。
見覚えのない顔であった。怜とてこの時代、活躍した全ての志士らの顔を知っているわけではない。むしろ名前しか知らないことの方が多かったりする。
「大坂から来たの?」
男は目線を怜に合わせて聞いてきた。
「京から…」
「ほう…京か。ところで君は異国の言葉が話せるのかな?」
「なんのこと?」
「さっき聞きなれない言葉が聞こえた気がしたからね」
「さあしらん」
怜はすっとぼけてみせた。男はフッと微笑を浮かべ、周りを見渡す。何もかも見透かれたような雰囲気に、一抹の不安が過ぎった。
「ご両親は?」
「た、多分その辺に…」
「迷子なんだね。一緒に探してあげよう」
「(あかーん!!コイツは危険人物や!)」
五歳なりに培った勘である。
怜は一歩二歩と後ずさり、「結構ですぅ!」と声を張り上げながらその場から逃げ出した。
「あ、待っ」
市場どころではない。さっさと薩摩から脱出しないとマズイことになる気がする。
「はぁはぁ……何者やろ…眉毛の濃さからすると六割弱」(※西郷どん率)
あの雰囲気からすると只者ではないと、怜は薩摩出身の名のある武士を思い返してみた。
「西郷どんは違う。大久保…でもない。板垣……あれは土佐か。黒田清隆…ちゃうな。ネルソン(東郷平八郎)か?いやあれはまだ若いはずやし。後は森有礼か伊地知か」
もっと勉強しておけば良かったと怜は後悔した。日本史の偏差値は大体六十五前後。どちらかと言えば戦前戦後の日本、つまり昭和時代の方が得意分野であった。
「後は……大山巌…どんな顔やったっけ。それから…小松帯刀…」
「ほう……よく知っているね」
「ギャア!?」
真後ろに立つのはやはり先ほどの男。不敵な笑みで怜を見下ろしている。
「な、な、なんでごわすか…」
「ついてきてもらおう」
「きょ、拒否権は…」
「無い」
我が身の愚かさを痛感した怜であった。