014
いよいよ薩摩への出航の日を迎え、港では様々に別れを惜しむ人々でいっぱいであった。
たった数日間であったが、噂が噂を呼び、どういうわけか「京の神童」という異名を持つことになった怜である。
全力の”否定”が「謙虚」を生み、”肯定”は「尊敬の眼差し」へと変化を遂げた時、怜の心は「諦め」に変わった。
「寂しくなるわ。ここで住めばいいのに」
「坊主、ワシの養子にならんか?」
「また遊びに来るから、それまで死なんと長生きしてな」
怜はにっこり笑うと直ぐ隣りの坂本らにぺこりと頭を下げた。
「坂本君、色々ありがとう。中岡君も」
「まっこと行ってしまうんがか」
「怜、やはり薩摩へは…」
同じ台詞を何度聞いただろうと、怜は溜め息をついた。
「二人ともやることがいっぱいあるやろ。私に構っとらんと前に進んで行かな。それにまたどっかで会うこともあるやろうし」
「……そうじゃの。また会えるか」
怜はこくりと頷いた。
「坂本君」
「おう?」
「二回助けてもらった事は忘れへん。今後もし、坂本君が窮地に立たされた時は私が助けに行くからね?」
坂本は一瞬驚いた顔をしたが、直ぐに笑顔になった。
「ほりゃあ心強いの」
「私は恩を仇で返すような女やないから」
「怜さーん!出航しますよ!」
「二人とも元気でな!」
怜はくるりと船の方へ向き直り、山田と共に船に乗り込む。しばし姿が見えなくなった後、甲板から顔を出した。
「みんな元気で!」
大きく手を振る怜。皆が口々に別れを告げる。同時に出航の汽笛が鳴り響いた。
「怜!元気で!」
「土佐にまた来いよ!」
「またねー!」
少しずつ小さくなる商船は生まれたての太陽の中へと消えていく。目を細めてそれを見ていた坂本はフッと息を吐いて踵を返した。
「面白いガキじゃった」
「本当に。でも……ちょっと心配です」
「お?中岡君も気付いたか?」
坂本は目を輝かせた。
「そりゃ気付きますよ」
「そうやの。……けんどそれも怜の宿命じゃ」
不思議なあの子どもは、近い内にきっとその名が日本中に広まっていくだろう。そして気付くのだ。怜を手に入れた者が百万の富を得るということを。
「やっぱり嵐も……」
「神懸かりじゃ」
怜が高波に攫われた瞬間、ぴたりと鎮まったあの嵐。坂本は確かに見たのだ。怜を包む光輝く存在を。無論その事は誰にも言っていない。本人がそれに気付いているのかどうかもわからない。
ただ嵐を鎮めたのは確かにあの小さな少女なのだ。
「利用されるか、利用するか。まあ今のところ後者じゃの」
坂本は「西瓜糖」を思い出して笑みを浮かべた。
「怜に負けられんぜよ。中岡君」
「はい!」
新たな決意を胸に二人は前進を始めたのである。
◇◇◇◇◇◇◇
一方、怜はというと。
「あ、淀屋」
「なんや?」
「ポセイドンは?」
「ポセ……ああ、あれならここに」
淀屋は大きめの巾着からあの古びた人形を取り出し「おや?」と首を捻った。
「おかしいな。確か手に魚持ってなかったか」
「貸して」
怜は人形を手に取るとまじまじと見つめた。
(やっぱりあの爺ちゃんや。ずっとここに戻りたかったんや)
初めて坂本家で会った時、後ろ姿に見覚えがあると思ったのは、やはり間違いはなかったのだと怜は思った。きっと出会うべくして出会い、そして導かれたのだ。
「そうやろ?」
問いかけると微かにそれが瞬きをする。怜は「元気で」と呟いて人形を海へと放り投げた。
「あー!!ワシの十二両がー!!」
「……男のくせにみみっちいな」
半泣きの淀屋に、怜は更に追い討ちをかける。
「それから淀屋、遅延料貰うで」
「ええ!?んなアホな!」
「あったりまえやろ?もし肥後の西瓜が無かったらあんたのせいなんやからね?」
「そやけど嵐やったから…」
「言い訳はよろしい!」びしゃり
「痛いぃ!」
「取り敢えず薩摩から肥後までの費用は頼んだで?……わかったな?」
「ひぃい!!」
大阪から薩摩まで一切お金を使わず、怜はホクホク顔で海を渡る。不思議なことに、通常三日かかる土佐から薩摩までの距離は、何故か追い風を受けて一日早く到着した。ありえない記録を出した淀屋の商船は、以降「神風号」(命名・怜)と名付けられ、人気を博したのは言うまでもない。
そしていよいよ薩摩に上陸した怜であったが、その地に降りた瞬間、生まれて始めての大きな衝撃を受けたのだった。
「う、嘘やろ……」
「どうしました?怜さん」
信じられなかった。
いや確かに耳にしたことはあったが、いわゆる人の話には尾ヒレが付くもので、おそらくそれも”妄信”に近いものだと勝手に思い込んでいたのだ。
怜は思わず叫んだ。
「西郷どん率、九割?!」
見渡す限りの西郷どん。小さいのや大きいの、形は様々だが顔は紛れもなく西郷どんだ。
「五代君は違うかったのに何でやろ。もしかしたらみんな兄弟?」
「怜さん、何をブツブツ言ってるんですか?行きますよ」
「そやけどこれやったら戦になっても敵味方の区別がついて便利やな」
怜はウンウンと頷いて山田の後を追うのだが、ハッと気付いた。
「いやちょっと待って」
「なんですか?」
「何で山田君がおるん?仕事があるやろ」
「坂本さんに頼まれているんですよ。怜さんの小姓として仕えろと」
(いらん配慮やな.....)
「私は一人でも大丈夫や。必要なんは坂本君やろ」
「え?まさか。坂本さんこそ大丈夫ですよ。剣の腕も確かだし頭も切れるし」
「ていうか、あんた水夫やろ?淀屋はどうするん?」
「それなら大丈夫です。本当は土佐までの旅だったんで」
よくよく聞けばこの男、ただの放浪者だという。神風号に乗り込んだのも、一度船に乗ってみたいという好奇心からであって、金子がないゆえに水夫として乗船させてもらっていた。
「あ、そう。ほんで次は坂本君に雇われたっちゅうわけやな?」
「そういうことです」
「それやったら尚のこと土佐に戻って坂本君の小姓になったらええわ」
「でも」
「これから命を狙われるんは坂本君の方なんよ?あの男は普通じゃないんよ」
「(……それを言える立場だろうか)」
「もう直ぐ坂本君は土佐勤王党に加入する為に江戸へ向かう。まあ直ぐに辞める事になるけど。その後は脱藩したり暗殺者として疑われたり、追われる身になるんや」
「脱藩!?暗殺者!?」
「山田君でかいんは図体だけで充分や。もっと小さい声で話して」
「で、でもどうしてそんなことがわかるんですか!?」
怜は自分のこめかみをトントン叩いた。
「勘やよ」
メチャクチャな言い分である。しかし山田はすっかり信じたようで、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「坂本君を守れるんはあんたしかおらん。頼むで!山田君!」
人は皆このひと言に弱いのだ。
そう。
”あんたしかおらん”
まさに言葉の魔法である。
男女問わず相手にそう言われたら、不思議と力が沸いてくるのだ。付加すれば人を盛り立てることにかけて、怜は神業的な力を発揮する。前の世では”飲み会に欠かせない女”として引っ張りだこであった。
「あ、あんた、、しか、、おら、、ん」
「そうや!"坂本君にはあんたしかおらん"のや!」
その二つが融合した今、怜に対する坂本の配慮は、ものの見事に粉砕された。
「わ、わかりました!!僕、坂本さんの元に戻ります!」
「じゃ私は行くわ。淀屋にも宜しゅう伝えといて」
「怜さんもお気を付けて!」
「山田君もな」
怜は坂本を思い出しながら溜め息をついた。薄々そうなるとわかってはいたが、やはり「傍観者」など怜には無理なのだ。
不可抗力とはいえ、坂本には二度も命を助けられており、このことは怜が知る歴史には存在しない事実だ。もちろんこのまま放っておけば良いのだろうけど....
「はぁ.....」
時既に遅し。坂本にすっかり情が移ってしまった怜であった。