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嶋原・夭華楼
ここ夭華楼は置屋兼揚屋である。男衆らも合わせれば嶋原では一番の大所帯であり、敷地もかなりの広さを有していた。大抵客はここで芸妓遊びに興じるわけだが、他の揚屋や御茶屋に呼ばれることもある。特に人気芸妓などは休みを取るのも難しい状態で、紅花もその一人であった。
「りょうちゃん」
紅花はひしとりょうを抱きしめた。
「来てくれたんやね」
「うん」
今朝、突然紅花から文が届いた。兼ねてより夭華楼潜入の機会を窺ったいたりょうは、"奴ら"が来るのを待っていたのだ。紅花によれば昨夜予約が入り、偽名ではあったが久坂玄瑞、桂小五郎他、数名らしい。
「またよからぬことを考えとるな…」
偽名という点で怪しさ満点である。
長州は攘夷決行による外国からの報復を受けたばかりである。近頃では攻撃を慎むよう通告しに行った幕府軍艦"朝陽丸'"が、失った藩艦の代用に拿捕され、役人も皆、長州藩士らに暗殺されたという話もあった。
「来たんかえ?」
「あ、お母はん」
細身の気難しそうな女は夭華楼の女将である。後ろから楼主もやって来た。彼らとは軽口を言い合う仲である。紅花が祇園から嶋原へ拠点を変える以前から京屋で何度か顔を合わせていた。というのもたまに小遣い稼ぎに働いたことがあったからである。
「えらいまん丸になってしもとるえ」
「どないしたんや…それ」
楼主は上から下まで舐めるように見た。あまりの肥満体型に驚き、言葉がそれ以上出ないようである。しかし女将の方は特に表情も変えず淡々としていた。
「紅花から話は聞いとりますえ。今日はお手伝いに来てくれはったんやろえ。まあお上がりになっておくんなさいえ」
「おばちゃん相変わらず忙しいん?」
「忙しいどころの騒ぎやないえ。今日は予約で満席やえ」
「羽振りがよろしいおすな?」
りょうがくくくっと笑みを浮かべると女将もまたニヤニヤと肩を揺らした。
「金儲けほど楽しいもんはないえ」
「同意え」
後方で楼主と紅花は大きな溜め息をついた。
◇◇◇◇◇◇◇
近衛家の別邸である御花畑屋敷は小松の仮住地である。
京都御所より西側、堀川通りに位置し、サッカーコートほど広さがあった。近くに薩摩藩邸もあるが、その昔、久光の養女が近衛家に嫁いだ際、それを担当したのが小松でありその功により寓居を許されたのである。
「現在、勝りょうと名乗る者は鍛冶屋町だるま屋敷腹下ルに住まわれおるようです」
「腹下ル?」
そんな住所あったかな、と小松は訝しむ。
「まあいい。つまり東帰しなかったのだな」
「は。罷免されたなど様々な噂が飛び交っておりますが、どれも信憑性はありません。ただ現在の御役目は会津、肥後守様付き御相談役と占い業に従事していると報告が上がっております」
「ほう」
何故家茂公は勝りょうを連れて帰らなかったのが気になるところだ。いつもどこでも供をさせ、側に置いたというのに。
(何か裏があるのだろうか……)
「占い業とは?」
「"だるま占い"というものであります。京では知らぬ者はいないと言われるほど人気があり、予約を取るのも数日待ちとか」
「…やりそうなことだ」
「え?」
「いや、何でもない。報告ありがとう」
「はっ」
間諜役が退出すると、傍で控えていた東郷が声を上擦らせた。
「あ、あの、本当にその、"りょう"という者が"怜"なんですか?」
「おそらく、ね」
小松は苦笑しつつ立ち上がる。
「それを確かめために来たんだ」
「じゃあ今からっ」
「ーーーー今はまだ泳がせる」
「えっ」
おそらく薩摩藩に対し嫌悪しているに違いない。
生麦事件で命の危機に晒されたのだ。目の前で人が殺され、我が身にも降りかかった火の粉。いくら賢くても幼い子供の精神状態は並大抵ではなかったはずである。
「もう少し我慢しなさい」
りょうが頼れるのは現状では勝麟太郎だけであり、どんなに懐かしい人が現れたとしても、逃げてしまうだけだと想像がついた。
小松は項垂れる東郷の肩に手を置いた。
「五代君が藩邸から戻ってきたら嶋原へ行く予定だからお前もついて来なさい」
「し、嶋原ですか!?」
「もう十五なんだから」
東郷の顔がみるみるうちに赤くなった。
◇◇◇◇◇◇◇
だるま屋敷
「おりょうは何処行ったんじゃ」
「今日は御実家に泊まるらしいですよ」
「ほうか。たまには親孝行せにゃならんの」
山田が坂本にお茶を出すと、ちょうど勝と陸奥が帰って来た。多忙な日々を送る彼らだが、今日はそれぞれ早めに事を済ませたようだ。ただ勝だけはまだ人と会う用事があるようで、帰宅早々仮眠を取ると言って立ち上がった。
「勝先生、今夜は何処に行くがじゃ」
「ああ、嶋原だ」
「し、嶋原ァァ!?」
「密談にはもってこいだろ?」
ほくそ笑む勝に坂本が縋り付く。
「俺も行きたいぜよ!」
「ちょっと坂本さん、先生は遊びに行くんじゃないんですから」
陸奥が制止するも坂本はむんずと袴を掴んだまま離さない。
「先生にゃ用心棒が必要じゃ!」
「用心棒ならもういるじゃないですか!」
「そりゃ中までは入れんがやろう!」
「妓楼は帯刀禁止ですから大丈夫ですよ!」
「阿呆!刀が無くても危ない世の中じゃ!」
呆れ顔で苦笑する勝だったが、必死な坂本の様子に肩を竦めた。
「まあお前さんも最近はよく動いてくれてるし、たまにはいいだろう」
「よっしゃあ!」
「陸奥君もな」
「えっ!?そ、某も!?」
返事を聞く前に退出した勝はそれから仮眠体制に入ったのだが、上機嫌で長唄を口ずさむ坂本のおかげで全く寝れなかった。
◇◇◇◇◇◇◇
長州藩邸
「慶喜公が入京する前に攘夷親征の勅命が下りそうです」
再三の辞表を提出していた慶喜だったが朝廷はそれを却下し、認めることはなかった。最終的には横浜鎖港の状況を報告するよう告げられ慶喜上洛は決まっていた。長州藩は他藩らに親征の必要性を説諭し。彼に阻止される前に勅命を得ようと目論んでいるのである。
「島津公の方はどうなっている」
「そちらも手は打ちました!」
寺島は興奮したように声を上げる。
久坂より三つ下の彼は血気盛んな若者である。時々先走ることはあるが、将来有望な男であった。
先日朝廷を掌握するために会津藩一掃を企て、藩主東下の勅命を画策した彼らだったが結果的に失敗に終わっていた。誰の助言があったのかは不明だが、偽勅と見破られたの確かだろう。しかし薩摩の方は上手く行きそうであった。天皇及び穏健派公卿は久光入京を待ち望んでいたが、急進派公卿の圧力に屈し取り消しになったのである。
「ところで向こうの戦況はどのようになっているのですか?」
「今は停戦状態だが、砲台はことごとくやられた。高杉らも善戦したが、やはり奴らの持つ最新武器には敵わない」
藩の用命が無ければこの大事な戦局の中、京に戻るつもりは無かった。ーーーー否、だからこそなのかもしれない。
久坂が思案に耽ると、それまで黙っていた吉田が明るい調子で肩を組んだ。
「まあまあ。今宵は全て忘れて飲み明かそう」
「私の信条に"忘れる"という言葉はない。それに仲間が死にものぐるいで戦っている最中に、呑気にも遊びに行くなど断じて許されることではない」
「桂さんも来るし、積もる話もあるだろ?」
「わざわざ揚屋に行かなくとも話なら私の仮住に」
「はいはい。もう予約済みなんだから今更取り消しは無理」
嫌がる久坂を引き摺るようにして藩邸を後にした。
◇◇◇◇◇◇◇
屯所
「よう近藤局長」
「芹沢さん、何処行くんだ」
取り巻きを数人引き連れた芹沢が屋敷から出て来た。
「お前にゃ関係ねえだろう」
含み笑いをする芹沢に近藤は睨みを効かせる。しかし芹沢は一笑し、わざと自分の肩で近藤を押し退け、その横を通り過ぎた。
「これ以上問題を起こさないでくれ」
近藤の言葉に芹沢は立ち止まる。
「問題?」
近頃芹沢の行動は常軌を逸していた。摂海巡視の際には、大坂の両替商宅にて百両もの金を脅迫で押し借り、更に将軍東帰で下坂した際には、相撲集団と乱闘騒ぎを起こす。京においても、あの後藤家への金策は言わずもがな、他の豪商に対してもが強引な金策を繰り返していた。
「身に覚えがねえなあ」
勿論、彼にしてみれば増え続ける隊士らの面倒を見なければならないわけで、背に腹は変えられない事情がある。ただ一つ憂慮するとすれば必ずしも誰彼構わずというわけでもなかった。
「アンタのせいで俺達は目を付けられているんだ」
しかし近藤側からすれば疎ましい存在であった。
芹沢一派が何かする度に、商人や民衆らは奉行所に申し立てに行く。そこから会津藩に伝わり、近藤が呼び出され聴取されるのである。
「そりゃ光栄なこった。ーーーー行くぞ」
芹沢は意に介さず平然とした様子で暮れかけた夕日に向かって歩き出した。
取り巻き達は慌ててその後を追い、ある種の尊敬の眼差しを向ける。臆することない彼の態度が人を惹きつける所以である。
「芹沢局長。今日も角屋ですか?」
「今日は夭華楼だ」
◇◇◇◇◇◇◇
夭華楼
その頃りょうは夭華楼のお姉様方にもみくちゃにされていた。
「小豆ちゃん!?」
小豆とはりょうの芸名である。
「お久しぶりおすー」
「えらい太ってしもて」
「ぷにぷにやー」
きゃっきゃっうふふと騒ぐ彼女らを女将が手を叩いて制した。
「今日は忙しい日え。皆倒れるまで頑張るえ」
長州、しいては久坂玄瑞を探るために潜入したりょうであったが、今宵は何か起こりそうな予感である。
「気合い入れていくえーー」
「「承知えーー」」
ここ嶋原・夭華楼に様々な思惑を抱えた、様々な男達が集結しようとしていた。