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「弱み?」
りょうは目を瞬かせた。しかし坂本は真剣な表情である。
「弱みなんてないよ。なんで?」
「お、おまんが上様にあまりにご執心やき、ちいと心配になったんじゃ」
周囲からすればそのように見えるのかもしれない。だが事実りょうは家茂の人間性を尊敬しているだけで他意はない。
例えば江戸城において常にりょうを庇ってくれたのは家茂だった。何故そこまでしてくれるのか理由はわからないが、どんな失敗をしても彼は常に優しい手を差し伸べてくれるのだ。
そうーー
どんなことをしてもーーーー
―――――――――
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"やられたら三倍返し"
後藤家家訓である。
「おのれ…」
りょうは空の皿を見て歯軋りをした。ギロリと睨んだ先には美しい三毛猫。
「よくも夜食の大福餅を…」
「ナオーン」(ご馳走さん)
「許さぬ!!」
三毛猫との距離、約1メートル。
りょうは瞬時に飛びかかった。
「おりゃああ!ーーーブベェ!!ーーーグギギ!ーーとりゃあぁあ!ーーーーボゲッ!!ーーはぁはぁ……クッソ
ォオォ!!」
だが残念なことに猫は俊敏である。
いくらりょうとて猫に追い付くなど至難の業であった。
「ナーオ」
「貴様…」
「ナーーオーー」(やんのかオラ)
裸足のまま中庭に降り、庭の池に向かって全力疾走。橋の欄干を軽やかに飛び乗る三毛猫につられてりょうも飛び乗り、両者は対峙した。
「おサト様ーーおサト様いずこへーー」
そこへ通りがかったのは城詰の役人二人である。どちらも慌てた様子で「おサト様」なるものを探していた。
「あ!!あそこに!!」
「おサト様だ!!」
役人は庭へ駆け下り、対峙するりょうの後方へと走り寄る。
「誰だか知らぬが感謝する!」
「早くおサト様を捕まえるのだ!」
「おサト様~?」
りょうは振り返りもせず、ナメた口調で聞き返す。
「この泥棒猫に"様"付けなど必要無し!!」
それはあっという間の出来事だった。
ふわりと飛び上がる両者が、空中で交差する。水面に映る互いの影は風の騒めきと共に波紋を作った。
「「なっ!??」」
と次の瞬間、ザバァァアァアンと派手な水音が立つのと同時に、水飛沫が上がる。
「ヒィイーーーー!」
落ちたのはりょうだった。
半刻後
「くしゅん」
「この……」
怒りに震える小姓頭。
「大馬鹿者がァァァ!!」
前代未聞の珍事件はりょうの"敗北"で終止符を打った。
「それがしめは悪くありませぬ!悪いのはあの泥棒猫にござる!!」
それでもなお変わらぬ小姓の態度に、蜷川は事切れる一歩前である。
「あの猫は!!ただの猫ではない!!あれは天璋院様の愛猫なのだ!!」
「ならば天璋院様に損害賠償を求めまする!!」
「ど阿保かァァァ!!」
いつもより長時間説教を食らったりょう。それによるダメージは無かったものの、反省室に押し込められ空腹に耐えるダメージはMAXだった。
「お腹空いた……」
朝から何も口にしていない。水一滴さえも。
このままでは死ぬ。確実に死ぬ。いやもしかしたら、蜷川を筆頭にこの江戸城にいる全ての人々は、我が"死ぬ"のを待っているのかもしれない。(上様以外)
「おのれ……」
大抵の場合、人は悪い方に考えてしまうものである。それは周囲からすれば『自業自得』だったとしても。つまり自分は被害者であり、上様以外は全て加害者となり、何故閉じ込められているのかその理由もすっかり忘れてしまったのだ。
りょうの心の奥底からフツフツと湧き上がる何か。
「がるるる…」
悪魔が目を覚ました。
◇◇◇◇◇◇◇
「何?鰆が足りないと?」
「は、はい。昨日味噌漬けにし保存庫に置いておったそうです。しかし今確認しましたら十匹ほど無くなっていたと」
「ふむ…それは異な事」
御膳所御台所頭の富士見は暫し考え込んだ。
「昨日は芋が消失したと申しておったな」
これについては単なる数え間違い、もしくは見間違いだろうと結論付けていた。
「はい。御賄頭の方が仰るには、芋と醤油、あと米も」
「それは由々しき事態。御奉行様に知られたら我らの首が飛ぶぞ」
「いかが致しましょう」
「犯人を見つけるしかあるまい」
その夜、富士見は信用のおける二名の台所役人を連れて、御賄頭の中村と共に食料保管庫へ向かった。ここには日持ちのする食材や調味料などが置かれている。
板戸に耳を当て中の様子を探ってみたが、物音一つなくシンと鎮まりかえっている。どうやら犯人はまだ来ていないようだ。
「中で待つとしよう」
「はい」
子どもほどの高さがある溜まり壺や、天井に届きそうなほどの米俵、根菜類はそれぞれ籠に分けられ山積みされている。富士見は無言のまま指で指示を出し、二人ずつに分かれ各々持ち場についた。
事が起きたのは丑の刻。
ヒタヒタと少しずつ近付いてくる足音に緊張が走った。いや足音だけではない。何やらフーフーという獣のような息遣いが聞こえる。まさかこれは天璋院様の愛猫ではないか?と誰もが思った。だとすれば下手なことは出来ない。無理矢理捕まえることは勿論、この手で触れることすら不敬となり、処罰されるのは自分達である。
(くっ…どうすればいい…もしおサト様なら手の打ちようがない!)
富士見の額から玉のような汗が噴き出た。
板戸が動く音がした。隙間から一筋の光が射す。ゆらゆらと揺れる光は恐らく手持ち行灯だろう。
(さすが天璋院様の愛猫…!行灯を使いこなすとは!)
ぎりりと歯を食いしばった富士見。そっと覗き見てハタと我に返った。
(………あ、あれはッ)
思わず立ち上がった彼の前方には黒くて丸い塊。
蹲るようにしてガツガツと何かを食らっている。
「ひぃ……」
隣りにいた台所役人の一人が腰をぬかして声を上げた。ピタリと動きを止めた塊がゆっくりとこちらに顔を向けーーーー
「ば、化け物……!」
その顔は人間の肉を喰らう山姥のようであった。否、富士見自身山姥など見たこともないのでそのように形容するのもどうかと思うが、しかしそう思いたいほどに、まんま山姥だった。
「見ーーたーーなーーーー」
その化け物は血走った眼で味噌漬けの魚を持ち、口の周りにはその味噌がべっとりと付いている。富士見は後退りしつつも、何とか口を開いた。
「ひ、ひっ捕らえよ!」
富士見の声に反応して、中村ともう一人の台所役人が飛びかかる。
「ガルルルーーー!」
「ぎゃあぁあ!」
「くそッ!大人しくせよ!」
「フギャーー!」
「足を待て!」
富士見も加わりドスンバタンと響くほどの物音を立てながら、何とか取り押さえた黒い化け物は、それでもフーフーと鼻息荒く暴れまわっている。
「こ、この者は先日の小姓!」
富士見は漸くこの山姥が上様付きの小姓であると気付いた。
「なんということだ!信じられん!」
「今すぐ同人衆を呼んで参ります!」
とそこへ、場に相応しくない人物が現れた。
「やめよ」
現れたのは家茂と蜷川だった。
「う、上様っ」
すぐさま平伏する四名。
実は最近りょうが宿直中に半刻ほどこっそり抜け出しているのを家茂が気付き、蜷川と共に後を付けてきたのだ。
「お、恐れながら、上様」
目の前には黒い布を被った珍妙な生き物。口には味噌漬けの魚を加えている。脇に控えた蜷川は怒りに震え、ぷるぷると拳を握りしめていた。
「ぜ、前代未聞かと思いまする。幼いとはいえ、盗みは犯罪。厳正な処分をーーーー」
しかし家茂は表情一つ変えず、さらりと言った。
「予が頼んだのだ」
「ーーー!?」
「遅うまで書物に没頭し過ぎてしまい、少々空腹になったのでな。この者に何か持ってくるよう頼んだのだ」
「そ、そうでありましたか」
勿論出任せだとわかっていても、上様が言ってしまえばそれが真実となる。
「騒がせてすまぬ」
「滅相もございませぬ!」
富士見は板間に擦り付けるようにして懇願した。
「今後もしこのようなことがあれば、御遠慮なくお申し出頂きとうございまする!いついかなる時刻でもご用意致しまする!」
家茂は頷くと、りょうに手を差し伸べた。
「りょう」
「う…え……さま」
この時りょうは家茂の後ろに五光が見えた。
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「ーーーーってことがあってねー。上様は神様みたいな人や」
「命知らずにもほどがあるっちゃ…」
「それから一緒に寝るようになったんよ」
何でもないようにさらりと言い切ったりょうに、坂本は一瞬固まって次の瞬間ーーーー
「はあぁああ!?」
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ーーーーーーー
家茂の時間のその殆どは常に誰かがそばにいる。唯一寝る時のみ一人きりだが、それでも襖を隔てた向こうに宿直の小姓が控えているので、完全というわけではない。
「お休みなさいませ」
今宵の宿直はりょうだった。恭しく頭を下げ、家茂が寝所に入室するとスーッと襖を閉める。しばらく足音がして定位置につくとその場で三角座りをした。
眠れぬ夜が続いているのは、まさに将軍となった日から。いつ何処にいようとも、落ち着ける夜などなかった。
「上様。眠れぬ時は団子を数えるのでございまする」
襖越しの声に、家茂は目を開けた。
「団子?」
「"団子が一つ、団子が二つ、団子が三つ……」
りょうの声が少しずつ小さくなり、団子を五つ数えたところで途絶えた。
「……」
まさか…
いやいや……あり得ない。
家茂はそっと布団から出て、襖を開ける。
「ぐぅ…」
「!」
りょうは鼻提灯をぶら下げて寝ていた。瞠目する家茂。パンと弾けた鼻提灯で瞬時に目覚めたりょうは慌てて平伏した。
「おはようございまする」
「まだ夜だ」
「なんと…」
態とらしい驚きを見せた小姓に、心の中で苦笑する。このような者は初めてだった。蜷川とやり合う度胸はさることながら、自分に対する態度、側から見れば無礼だと思える言動や行為も、何故か嫌ではない。寧ろ好ましいとさえ思う自分に気付いた。
「りょう。こちらへ」
「御意」
家茂はりょうを寝所に招き入れた。
むろんこのような行動は将軍になる前から思い返しても初めてのことである。
「今宵は一緒に寝よう」
「しかしそれがしめは宿直が…」
「予の隣りであっても出来よう」
「むむ……」
りょうはしばし考えた後、ニコッと歯を見せた。
「上様の御命、それがしめが御守り致しまする」
袴を脱ぎ捨て、小袖と褌姿になったりょうはするりと布団に潜り込んだ。
「さあ上様!寝ましょう!」
「…うん」
バンバンと自分の隣りを叩くりょうに、家茂は一瞬呆気に取られたが、言われた通り横になる。
「ねーんねこーねんねこー」
「……」
その夜は不思議と深い眠りについた。
ーーーーーーー
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「上様の布団フカフカなんよ!凄いやろ?」
「う、うん」
「でも一番嬉しかったんは、あんこきゅうりや」
「あんこきゅうり?」
思い出すかのようにホウと息を漏らしたりょうに坂本は怪訝な顔をした。
ーーーーーーー
ーーーーーーー
「りょう。これを」
「う、上様っ…もしやコレは」
「"あんこきゅうり"というものだ」
りょうは号泣した。出仕してからずっと江戸城にて従事する毎日。ずっと我慢していたのだ。蕩けるようなあんこの甘み。染みるようなきゅうりの水分。それが相まって口溶けの良い不思議な感覚が全身を駆け巡る(らしい。本人曰く)
「忝のう…ございま…する…っ…うぅッ」
「……」
宿直の度に寝言で「あんこきゅうり」を連呼するりょうに、あまりに不憫に思って作らせたのだがまさか泣くとは思わなかった家茂だった。
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一通りりょうの話を聞いた坂本はスッと立ち上がった。
「おまんの肥満の原因がわかったぜよ!」
「は?」
「明日から摂食じゃ!」
「摂食ぅぅーーー!?」
坂本によるりょうのダイエット計画が実行することになった。
◇◇◇◇◇◇◇
文久八月ーーーーーー
夏のうだるような暑さは、もうピークを過ぎていた。以前に比べれば陽が落ちるのも早く、太陽が照りつけても木陰に入れば涼しい。
『もう行くの?』
『ああ』
「……また来てくれる?」
フッと苦笑が漏れる。
『俺ァしがない旅がらすよ。こんな男さっさと見限って、いい旦那見つけな』
『ま、待って!』
『あばよ!!』
女を振り切ってヒラリと飛び立つ鈴木氏。『あんたはカラスじゃないわ!夜鷹よ!』というスズメ(雌)の抗議声明には聞こえないふりをした。
「キョキョ~」
京中の雌鳥を余すことなく網羅する鈴木氏は、上機嫌でだるま屋敷に向かう。途中馴染みの鳶(雌)に声をかけられたが軽くスルーした。
「あれ?鳥さんじゃん」
そんな声が聞こえたのは、ちょうど大宮通りを東へ横切った時である。
「キョ…」(貴様は稲江しお…)
「沖田だよ」
「キョキョ」
道の真ん中に立つ沖田を、囲むように数人の男がいた。皆が皆刀を構えているが、何故が狙われている沖田だけは両手を組んで袖の中に手を突っ込んでいる。ほんの少し興味を持った鈴木氏は近くの木の枝に降りた。
「京にいたんだ~」
「キョキョ」
「じゃああの生意気な子供も?」
「キョキョキョキョ」
「えっ…」
沖田は目を丸くした。
「絶対に死にそうにないのに…」
「キョキョ」
「……そっか。また会えるの楽しみにしてたんだけどな」
怜の死を聞いた沖田の胸が、何故かチクリと痛む。
「この不思議な感情は一体何だろ…」
と、首を傾げた沖田に夜鷹はきっぱり言い切った。
「キョキョキョ」(ギャフンと言わせたいだけやろ)
「それだ!!」
と次の瞬間、男達が一斉に飛びかかる。
「覚悟ォォオ!!」
「どりゃあぁぁ!」
しかし沖田は鞘を抜くことすらせず、並外れた瞬発力と拳一つで対峙した。
「あの子供をーーー」
「なッッ!?」
「ーーーこんな風に!」
「グギィッ!」
「ーーー跪かせて!」
「や、やめッ……グハッ!」
「ーーー泣こうが!」
「た、助けて…くれッ……」
「ーーー喚こうが!」
「ギャアァァァ!!」
「コテンパンにしたかったんだ!!」
にこやかに作業を終えた沖田。
「……キョキョ」(……イカレてやがる)
鈴木氏は気を失った男らに合掌した。