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幕末スイカガール  作者: 空良えふ
第二章
135/139

130




その日より蜷川はりょうを常に自分の側に置き、手取り足取り教えることにした。だがこの小姓はどうもネジが緩んでいるらしい。




「ええ!?上様ともあろう御方が、まさか御自分で歯磨きも出来ないのでございまするか!?」

「控えよ!!何たる言い草か!ーーーーーー上様。さあ御口を大きくお開け下さいませ」

「………」





「ば、馬鹿な!!上様が御一人で着物を着られないとは!齢七つのそれがしめでも一人で着るというのに!」

「馬鹿はお前だ!一緒にするな!ーーーーーー上様。こちらの袖に右の御手を」

「………」





「なんと!!上様が連れションを御趣味になさっておられるとは!!まさかとは思いまするが、御尻を拭く役目などもありまするか?」

「黙れ!上様ほどの御身分の御方は政に神経をお使いなのだ!某らは尊い御身を守るほか、酷使している心や身体を誠心誠意癒してさしあげる御役目に就いているのだ!ーーーーーー上様。心置きなく用をお足し下さいませ」

「………」




終始このような状況である。

蜷川はこの上なく疲れていた。

ただ幸いなのは、家茂がこの一連に対して顔色一つ変えずいつも通りなことである。無論もしかしたら怒っているかもしれないが、兎角従来表情の乏しい将軍であるため、その心中は計り知れなかった。


それでもなお、諦めることなく新人教育に余念がない蜷川だったが、一つだけわかったことがある。


「いやーハッハッハーお頭殿には感服致しまする。まるで赤子に接するほどの御心配り。上様は幸せ者でございまするなぁ~」


「コノコノ~」とばかりに家茂の脇腹を突く新人小姓。蜷川は心の中で悲鳴をあげた。


「予は"赤子"のようか?」

「生まれたてにございまする!」

「そうか…ならば少しずつ成長せねばならぬ」

「さすがは上様!向上心が天守閣以上にございまする!」



だがその時、家茂の無表情の仮面が剥がれているのに気付いた。


(う、上様が笑っている……!)


もちろん大口を開けているわけではないが、口角が僅かに上がっていたのだ。おそらくほとんどの者は気付かないだろう。脇に控えた小納戸役は平伏したまま目をぎゅっと閉じて震えているし、膳を運びに来た別の小姓は顔面蒼白で突っ立ったままだ。


しかし蜷川だけは見逃さなかった。

もう何年も御側にいるのだ。気付かないわけがない。蜷川は家茂の初めて見せた人間的な感情に驚愕し、同時に心が晴れ渡るように感じた。


"もしかしたら上様は、意外にもこの幼い新人小姓を気に入っているのかもしれない"


きっとそうだと思った。

二人の様子を見れば、そう思わずにはいられなかった。


とは言っても新人の行動や言動を、野放しにするつもりはない。例え上様がお許しになったとしても、蜷川が代わりに釘を打たねばならぬのだ。



「上様がお食事を召されておる時は、けして居眠りをしてはならぬ」

「承知致しましたでござる」


やや狭い部屋(と言っても二十畳ほど)には黒塗りの膳がぽつんと置かれている。家茂はその前に座り、りょうは促されるままに傍に控えた。


「本日の御料理はーーーー」


蜷川が品書を持って口上を述べる。


「豆腐のお味噌汁」

「ほう。豆腐でござるか。何やら硬そうでござるな。しかし葱が入っておらぬのは何ゆえか」

(すずき)のお刺身」

「出世魚でござるな。しかしこれは我が相棒が激怒するやもしれませぬ」

向付(むこうづけ)

「カスカスの(なます)にござるな」


蜷川の手がブルブルと震えた。しかしりょうは臆する風でもなくにこにことしている。


「う、上様。どうぞお召し上がり下さいませ…」

「…うむ」


家茂が箸を持つと、他の小姓が準備に取り掛かった。

髭を剃ったり髪を結ったり食事中にも関わらずテキパキとこなしていく。りょうはその手際の良さに感心しつつ、ジッと家茂を見ていた。



(此奴…!)


この時、蜷川は気付いた。

新人小姓がじりじりと上様に近付いていることを。しかも涎まで垂らしている。


(おいやめろ!それ以上近付くな!)


心で叫ぶ。その距離1メートル。

流石に家茂もそれに気付いて、箸の手を止めた。


「……空腹なのか?」

「365日空腹にございまする」


家茂は箸で刺身を一切れ掴むとりょうの口に運んでやった。まるで親鳥のようにーーーー


「上様!そのようなことはっ」

「良い」


満面の笑みで咀嚼するりょう。睨みつける蜷川に気付くと指で口元と蜷川を指し「え?あんたも欲しいの?」という意味合いを含む動作をした。


カッと目を見開く蜷川。


「失礼致しまする!」


スッと音もなく立ち上がる。

すかさずりょうの首根っこを掴んで瞬く間に退室した。


家茂の肩が僅かに揺れる。


「上様?」

「いや何でもない」




◇◇◇◇◇◇◇



「新人。付いて参れ」

「休憩はないでござりまするか?」

「我々が休んでいる暇などない」


総触れの為、大奥に渡った家茂を見送った後、二人は台所へと向かった。


「これは蜷川様。本日もお疲れ様にございます」

「御膳の用意は出来ておりますか?」

「ええ。こちらに」


となりの一室に並べられていたのは黒塗りの膳。およそ十人前がずらりと二列に並んでいる。これらは全て将軍の為に作られたものであり、万が一、毒を盛られるような事があってはならない為、多めに作られているのだ。


「おお……不味そうな膳にござる」

「「!」」


白飯に沢庵、蜆のお吸い物に干からびた魚。しかしたったこれだけの内容であっても使われている食材は全て最上級品である。


とはいえ、いくら何でも素食であった。庶民の方が贅沢だと言っても過言ではない。りょうはあらかさまに不機嫌になり、更に暴言を叩いた。


「それがしめの方が美味しい料理が作れまするーーーーーーイテッ」


蜷川は半眼になってビシリと額を叩く。


「御料理役の方の前で何たる発言!」

「申し訳ございませぬ」


りょうはぺこりと頭を下げた。


「い、いえ…」

「それがしめは正直者でございまして、嘘は付けない性分なのでございまする」

「尚悪いわ!」


蜷川はりょうの首根っこを掴み、中央の膳の前に座らせた。


「御毒味も小姓の大切な仕事だ。お前はこの御膳を食べよ。某はこちらを頂く」


十人前のうち二人前が毒見用らしい。

残りは「次の間」に運び出され、その内一人前だけが将軍に出されるのである。これはどれかに毒を盛られたとしても、将軍の口に入る確率を下げる意味合いがあった。


「では頂きまする」


りょうは嫌々箸を持ち、白飯を流し込む。綺麗さっぱり無くなるまでものの三秒であった。


「この白飯は全く水分が足りず、もそもそと口の中に残りまするな。……この魚は(きす)でございますな。全く味気のない代物にございまする。……沢庵はまずまず……お吸い物の出汁はなかなか良いと思いまするが、塩分が足りないようでござる」


捲し立てるりょうに料理人達が立ち竦み、蜷川は溜め息をついて箸を置く。


「誰が味の評価をしろとーーーー」


しかしりょうの次の言葉に、全員が顔色を変えた。




「毒が入っておりまする」




「ど、毒!!?」


りょうは茶をすすりながら頷く。

むろん誰がどう見ても毒を摂取した人間には見えなかった。


「馬鹿な!ならば何故平気な顔をしているのだ!」

「それがしめにしてみれば毒ではありませぬ。しかし上様にとって"毒"以外の何物でもありませぬ」

「な、なんだと!?」

「戯けたことを!」

「世迷いごとだ!!」


料理役ら数名が怒りの表情で声を荒げる。彼らにしてみれば、ここで身の潔白を主張しないと命に関わる事態であった。


「待ちなさい」


そこへ後方から代表者らしき初老の男が彼らを制して一歩前に進み出る。


「上様にとっては、と言われますが、仮に貴方様の言うようにこの膳に毒があるとすれば、この中でどれが毒だと申すのでしょう?」

「全てにございまする」


初老はゆっくり首を横に振る。


「我々は御典医様とご相談の上で食事の内容を決めております。食材も全て国産の最上級品を使用し、調理する前に一度確認して、工程段階でも幾度か毒味(味見)をしておる次第でございます。更にそちらにおられる監視役の方々が、常に我々の作業を見届け、不審な行動をすれば直ぐに気付かれます。そのような状況下で、我々が毒を混入するのは不可能なのでございます」


初老は毅然とした態度で言い切ると蜷川へと振り返る。蜷川は驚きを通り越して"怒り"を露わにし、今にも怒鳴らんばかりであったが、やはり年の功。初老はそれをも押し止めてりょうの答えを待った。


「不可能……」

「ええ。不可能にございまする」


料理役らと蜷川、そして御典医は、こと将軍の命を守るといった点では、ある種運命共同体の間柄である。ゆえにりょうの不躾とも言える言葉は彼らの自尊心を傷付けるものであり、反感をかっても仕方がないだろう。しかしりょうは全く平然と口を開いた。


「それはその通りでございましょう。それがしめは何も、貴殿らが毒を混入したとは申しておりませぬ」

「では誰が一体…」

「ただ、貴殿らは"毒"を知らぬのでございまする」


それを聞いた周囲は皆失笑を漏らした。


「少なくともここにいる者達は、子供よりは幾分物知りかと思うが」

「いやそれはないでございまする」


りょうはきっぱり否定した。(半笑いで)


「「!?」」

「それがしめは幼少の頃より神童と呼ばれておりましたゆえ、大抵のことは誰にも劣らぬ知恵を持っておりまする」


さらりと自画自賛をしたりょうに対し、蜷川が鼻で笑った。


「ほう…大した自信家だ。では、我々も知らぬという膳に盛られた毒とは一体どのようなものだ」

「一言で申せば"低カロリー"でございまする」

「低…かろり?」

「人間にはエネルギーが必要であり、それが力の源となっておりまする」

「えねるぎ、とはなんだ」

「熱量でございまする。ーーーーと申したところで理解出来ぬと思いまするが。とにかく、人間というものは食事を摂らなければ生きてはいけませぬ。しかし食事をしたからといって、けして死なぬとは限らないのでございまする」

「うーむ……問答のようだな」


りょうはスッと立ち上がると、ゆっくり歩き出した。


「毒性×摂取量×時間=危険性、にございまする」

「……なんだそれは」

「とある西洋の書物にそういった数値が記されておりました。例えば"人間"という生き物には水と塩分が必要でございまするが、それを摂りすぎたらどうなるか。塩を摂り過ぎると、高血圧、腎臓疾患、あるいは癌になる可能性が高く、やがては死に至りまする。では逆に、塩分を摂らないとなると、脱水症状や無気力感、そして肉体疲労により、やはりいつか死に至るのでございまする」

「そんな話は聞いたことがない」

「西洋書物の引用にございまする。まだ翻訳すらされておりませぬゆえ、知らなくて当然にございまする」


りょうは一番端の膳の前に座り、箸を取るとお吸い物の入った椀をすすり始めた。


「こういった種類のものは、よほどの重病人かもしくは肥満などには効果がありまするが、上様のような健康な者には"毒"だと申しておるのでございまする」


言い終わるや否や、りょうの背後にある一人の男が現れた。その瞬間、周囲は皆息を飲む。


「身体を動かせば、腹も減りましょう。そんな時にこのような食事を出されても体力などつきませぬ」

「では一体どのような食事が良いと?」

「肉が良いかと思いまする。飯は玄米。海藻などもよろしいかと……」


とその時、りょうはハッと我に返って後ろを振り向いた。


「どちら様で?」


そこにいたのは人の良さそうな中年男。けれど瞳の奥に理知の光が垣間見えた。


「私は医師の松本良順と申します」

「松本良順……貴方様が…」


目をパチクリさせて、まじまじと彼を見た。想像よりも少々気難しそうな印象だったが、敵意は感じない。


「君は医学の心得があるのかね?」

「いえ。それがしめは以前読んだ書物を引用しているにすぎませぬ」

「その書物とは?」

「長崎にて知り合いの男に借りたものにございまする。しかし、その男は既に母国へ帰国しましたゆえ、現在手元にはありませぬ」

「男とは…」

「シーボルトにございまする」

「シーボルト医師……ああ、あの御方か」

「はい」

「ではシーボルト医師の弟子ということだろうか?」

「ただの"知り合い"でございまする」


松本は感情を表に出すこともなく、りょうを見つめた。何か言いたいような、それでいて憚るような不思議な光を宿している。


「松本先生。申し訳ございませぬ。たかだか子供の戯言にございますゆえ、お気に止める必要もないかと存じます」


蜷川は遮るように間に入り、いつも如く首根っこを掴んであっという間に立ち去る。


もちろん待ち受けているのは、本日幾度目かの"説教"であった。






多忙により次の更新は遅れます。

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