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幕末スイカガール  作者: 空良えふ
第二章
134/139

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江戸城・大奥


「屈辱っ……!」


桃の井の扇子がバキリと音を立てて折れ曲がった。絵島を筆頭に侍女達は身震いする。和宮は特に気にした風でもないのが救いであった。


「よくもぬけぬけと宮様の御前で"愛しい女人"などとっ」

「仲良くなれるやろか…」


和宮はまだ見ぬ家茂の側室候補に思いを馳せた。どのような人物か想像もつかないが、家茂の表情を見ればきっと可愛らしい女子に違いない。ならばお近付きの印に自分の人形をあげようか。菊姫はやれないけれど……


「何を呑気なことを!宮様はお優し過ぎまする!」


和宮はクスリと笑った。


「殿方とはそういうものやと昔聞いたことがある。現に兄上とて複数の女人がいらっしゃるのやから」

「主上は特別にございまする!」

「武家も同じや」

「ええ!ええ!そうでしょうとも!けれども宮様もまた特別なのでございまする!最も高貴なる姫君を妻に迎え、殿方としてそれ以上の誉れがありましょうか!これではまるで宮様が卑しい身分の者に負けたようなもの!」


桃の井はピシャリと扇子で膝を叩く。


「許せませぬ!上様の此度の所業、断じて許容出来ませぬ!」


和宮が口を挟む暇もなかった。


「かくなる上は主上に陳訴致したく!其方ら!ついて参れ!」


三名ほどの侍女と共に、嵐のように去った後ろ姿を見ながら、和宮は呟いた。


「愛おしい御方なんて、誰にでもおるというのに…」


その言葉に驚いたのは残された絵島と侍女二名である。思わず顔を見合わせ詰め寄った。


「み、宮様!!真にございますか!?」

「愛おしい御方が宮様にも!?」


和宮は自分の後ろから一体の京人形を取り出し、前へと突き出した。


「そ、それはっ」

「上さん人形!!」

「ふふふ…」


上さん人形とは、ただの京人形だったものをリメイクしたものである。本来なら髪の長い姫人形であった。


家茂上洛の寂しさから自ら作成したのであり、和宮自身が散髪し、服装も青の裃に変えて、性転換(?)を施したのだ。



「んもう!宮様ったら!」

「うふふ。可愛らしい御姿やろう?」

「確かに愛らしい御人形にあらせられますけどー」

「うちの大切な御方や」

「ああんもう、宮様は健気な御方や」

「ほな一緒に"大奥ごっこ"で遊びましょ。うちは"上さん"や」

「そやったらウチは恐れ多いけど"宮様"の役やらせてもらいます」

(ふじ)は"天璋院"や」

「畏まりましたぁ。精一杯努めさせてもらいますぅ」


("大奥ごっこ"……)


絵島は和宮と侍女二人の楽しげなやり取りに固まる。こんなところを誰かに見られたら最悪だと思った。


良くも悪くも素直で純粋で、そして幼い和宮。まだ若年なだけに致し方ないにしろ、ここは江戸であって京ではない。今までのような生活など到底無理な話なのだ。


「宮様…」

「なんや?絵島」


首を傾げる愛らしい仕草。

穢れを知らぬ綺麗な瞳に、苦言を呈すことは憚られた。


「……いえ。何も」


和宮はにっこりと慈悲深い笑みを浮かべた。


「絵島も一緒に"大奥ごっこ"しましょ」

「いえ、わたくしは御辞退……」

「絵島は"桃の井"役や」

「えっ!!?」


その役だけは嫌だった。



◇◇◇◇◇◇◇



「上様。これは一体…」


御小姓組番頭の蜷川(にながわ)は山積みにされた金柑を見て絶句した。家茂はその隣りで何やら文を書いている。


「これを早急に勝に届けてほしいのだ」

「勝?……と申しますと、軍艦奉行の」

「うむ。早馬で」

「は、早馬……おそれながら、何ゆえそれほどお急ぎなのでございましょう」

「京にはもう金柑が実っていないようなのだ」

「そ、そうでございますか」

「早く送ってやらねば、りょうが…」


家茂は開いた襖の向こうの美しい庭を見て、ふっと笑みを浮かべた。


あれは生麦問題が解決し、大坂城で再会した日のことだった。小笠原が取り寄せたという茶菓子をたらふく食したりょうはイビキをかいて寝てしまった。


「ホーホー」

「船旅で疲れたのであろう」


いくら知に長けているとはいえまだ七つの幼子。幾分無理をさせてしまったのは己の力量不足。家茂は自責の念に駆られていた。


「ホーホー」

「どうしたのだ、ひまちゃん」


寒かろうと自分の羽織りをかけようとしたら、ひまちゃんが紐のような物を突いている。家茂は何だろう?と不思議に思いつつその紐を引っ張った。


刺繍糸のような紐であるそれは、りょうの袴の隙間から伸びていて、当初は袴のほつれかと思ったものだ。しかしグイッと力を込めて引っ張ると、ころりと姿を現したのは金柑だった。


「これは」


祈祷師や巫女などの宝飾品である首飾りのような姿形である。何故このようなものが袴の隙間から出てきたのか、家茂の思考回路は完全に停止していた。


「はっ……」


とその時りょうが目覚めた。


「おはようございまする。上様」

「う、うむ」

「いかがなされましたでござりましょうか」


家茂は意を決して口を開く。


「りょう、これは何だろう」


目の前で見せつけると、りょうは顔色一つ変えず言った。


「キ◯タマにございまする」




◇◇◇◇◇◇◇



大坂


一仕事終えた二人は、船宿近くの割烹料理屋で少々早い夕食をとっていた。


「勝先生、俺は一つ解せんことがあるぜよ」

「あん?」


煮魚をつつきながら、勝が顔を上げた。「せっかくの美味い料理を目の前に、めんどくさい話はしないでくれ」という目である。しかし坂本は気付きもせず話を続けた。


「おりょうは何故にああも将軍を慕っちょるんじゃ。自分の身の危険も棚に上げて、ちょいちょい入れ込み過ぎがやろう」

「ああ、確かにそうだよなあ」

「何じゃ。先生も知らんのか」

「まあ何となくおかしいとは思っていたがな」


坂本は周囲を確認した後、声を潜めて言った。


「弱みでも握られちょるんかの」




◇◇◇◇◇◇◇




家茂とりょうの対面は、上洛のひと月前だった。



この頃、勝の屋敷で世話になっていた怜は、様々な思いと焦燥感で何をする気にもなれずにいた。今まで感じたことのない怒りや悲しみが、日を追うごとに大きくなっていくのだ。


誰に、というより自分に対してである。そのどうしようもない気持ちを払拭するように、いつしか怜は"食"に走っていた。




「お前の名は"りょう"だ」

「りょう…?」

「明日より江戸城に出仕してもらう」


勝が大坂へ向かうのを機に、怜は"りょう"として登城することになった。何度となく訪れた場所であるが、名前が変わるとやはり前とは何かが違うように思う。


「上様の小姓として励め」

「上様?」


虚ろな瞳の子供は両手にアンコきゅうりをもったまま固まった。「アンコきゅうり」とは、その名の通り味気の無いきゅうりの上にアンコをたっぷりと塗りつけた本日のおやつだ。


味は察してほしい。


「これからは"勝りょう"として生きろ」

「勝りょう……」

「そして俺の息子として、上様に仕えるように」


そこにどのような思惑が存在するのか、りょうは考えもしなかった。ただ後藤家はもとより、小栗の元にも帰ることも出来ない。


ゆえに、確かなのは選択肢がないということである。



「……承知でござる」



次の日、りょうは勝に伴われて江戸城へ向かうと、そこで漸く家茂と対面した。


そして初めて気付く。

以前会った美少年が年若き将軍だったのかと。むろん家茂は気付いていなかったが。


「面を上げよ」


優しい空気を纏った将軍。御目付役や御小姓組番頭が並ぶ。後ろに控えているのは表の小姓であり、まだ十二、十三の少年であった。


「其方が安房守の息子か」

「勝りょうにございまする」


りょうはボケーと家茂を見つめた。あまりのアホヅラに小姓らが眉を顰める。



「食事は日に何度ありまするか?」


家茂は一瞬何を聞かれたか理解出来なかった。だが勝は飄々とした表情で「三度。オヤツ付きだ」と答える。りょうは「ありがたき幸せ」と、こうべを垂れた。


しばらく家茂は観察するかのようにりょうを見つめた。反対にりょうは満面の笑みである。


「上様…御断りしてもよろしいかと」


御目付が小声で言うと、勝はすかさず声を上げた。


「作法も知らぬ若輩者ではございますが、きっと上様のお役に立つことと思われまする」

「立ちまする!」


家茂を除くその場にいる誰もが、これは早々にお役御免になるに違いないと内心思った。


小姓は忙しい職なのだ。

朝は早く夜は遅く、日によっては宿直も務めなければならない。常に将軍に付きっ切りで、自分の食事はおろか生理的現象さえ悠長にしてはいられないのである。


「上様…よくよく御考えを…」


家茂は無言のまま立ち上がると、勝へと視線を移した。


「……励むように」

「はは」


むろん周囲は納得のいかない様子ではあったが、家茂の決定が覆ることはない。



こうしてりょうは家茂付きとなり、御役は中奥の小姓として仕えることとなったのだがーーーー



「ば、馬鹿な……」


就いた早々やらかした。


蜷川(にながわ)はあり得ない状況にその場で腰を抜かした。何故なら宿直役の新人小姓が、将軍の寝所の前の板間でグースカと高いびきをかいて寝ているのだから。


「蜷川様!大丈夫でございますか!?」


彼にとってこのような事態は初めてである。ゆえに完全に思考回路が停止し、別の小姓に声をかけられても動けなかった。しかし寝所の襖が開いた瞬間、反射的に身体が解けた。


「う、上様!」


家茂は蜷川を見て「りょう」を見て、また蜷川を見た。


「申し訳ありませぬ!此度の失態、全て某の責にございまする!この上は御役を御免し、早々に切腹を!」


彼の言う通り、小姓の失態は小姓頭の責任である。新人だからと考慮してもあり得ない失態であった。もしも賊に入られ、万が一将軍に何かあれば自分だけでは済まされない。家族から親戚に至るまで、全ての人間が最も重い処分を受けねばならないのだ。よって彼は事態を省み、最小限の被害で済むようそう申し出たのだった。


「不問に致す」


だが家茂はまるで何も気にしていないかのように、スタスタと板間を通り過ぎ廊下の前で振り返った。


「上様…?」

「其方の責任ではなかろう」

「で、ではこの者を小姓の任から外し…」

「このままで良い。まだ慣れぬのであろう。たった一度の失敗で事を急ぐ必要はない」

「上様…」

「まだ幼子ではないか」

「……忝うございまする」


蜷川は涙を流して感謝する。隣りの小姓も貰い泣きをしていた。家茂がそのまま廊下へ出ると蜷川は小姓に「上様のお側へ」と命じ、自分はその場にとどまった。



「……此奴め」


この騒ぎの中でも、りょうは全く起きようとしない。こちらは命を賭けたというのに。あまりの腹立たしさに、ズカズカとりょうの前に腰を下ろした蜷川は、耳元で叫ぶ。


「起きろーーー!!」

「ぎゃあぁぁあ!!」



りょうは飛び起きた。



◇◇◇◇◇◇◇




小姓部屋


「相談するんじゃなかった……」


実はこの蜷川という青年。小栗忠順の義兄弟にあたる。妻の道子と蜷川の妻が姉妹なのだ。今回の小姓御役は、この青年が小栗に話を持ちかけたことから始まる。



***回想***



『小姓ですか?』

『はい。先日二名が辞めてしまいまして』


江戸城内の一室で蜷川は小栗と対面していた。ちょうど勝もその場にいて、蜷川が割り込んだ形である。


『そりゃまた…』


勝が呻く。


近頃、将軍・家茂の小姓は立て続けに離職者が相次いでいた。理由の大半は"病"であったが、ほとんどが"原因不明"である。


『……厄介だな』


小栗もその噂は聞いたことがあった。

ある者は突然体中に痣が出来、そのまま事切れたとか。またある者は朝まではいつも通りだったのに、夕方になると急に吐き気や下痢を繰り返し、今では重篤となって明日をも知れぬ事態らしい。


『色々お声はかけているのですが、皆嫌がってしまわれて』


小栗は溜め息をついた。

将軍の小姓というのは、大変名誉な事である。誰も彼も就ける職ではなく、幕臣の中でも特に古参で信頼のある武家の子供が選定されるのだ。


『今は表の小姓を中奥に引っ張って任にあたらせているのですが……さすがに人手が足りないのです』

『それは困りましたね』


ふと思い浮かんだのは怜の顔だった。

しかし今は自分の手元から離れてしまっている。


『……』


(さすがに上様の小姓などやらせるわけには……いや、待てよ……今、怜はほぼ軟禁状態で過ごしている。外に出すにはまだ危険であり時期尚早だと思っていたが、逆に考えれば将軍の手元が一番安全なのではないだろうか)


『誰か心当たりでも?』


ちらりと勝を見ると、彼もまた同じことを考えていたようだ。二人の視線が交差して、勝が頷いた。


『俺の息子を小姓に上げてやるよ』

『そ、それはまことですか!?』

『歳は七つだが、頭の回転は速いし、弁も立つ。なかなか見所のある息子なんだ』

『それは助かります!』

『まあ、そちらの許可が下りればの話だが』

『それらは某にお任せください!』


蜷川がホッとした。

本当は二、三人欲しいところだが、無理は言えまい。どちらにしろ、これで小姓らの環境が少しは改善されるだろう。


『良かった良かった』

『ありがとうございます!義兄上!小姓らも喜ぶことでしょう!ようやく負担が軽減されるのですから!』




***回想終了***




「と、そう信じていたのだ!!!!!」


息巻く蜷川にりょうは目をこすりつつ身支度を整えた。


「お頭殿」

「その呼び方をやめろ!」

「それがしめは寝ていても起きておりまする」

「な、…に?」

「常に神経を研ぎ澄ましておりますゆえ、何か"事"が起これば瞬時に覚醒するのでございまする」

「某が叫ぶまで起きなかったというのに、何をぬけぬけとハッタリをかますのだ!」

「むむ……ということは、何か眠り薬を飲まされたのかもしれぬ」



その言葉の衝撃に、蜷川は気が遠くなった。




(この子供には何を言っても通じない!!)






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