123
フランス軍艦を砲撃した長州藩は、その三日後にはオランダ船籍にも砲撃を開始した。外国側は抗議を行うも「幕府の命令に従ったまで」と引かず、更にはこの行動に対し、朝廷までもが手放しに喜び、褒勅を下賜したという。
「また賠償問題が発展しそうだな」
「そんなもん長州に払わせたらええし」
「そうもなるまいよ。攘夷決行は表向き幕府も公認した事実だ」
「長州藩は最初から幕府に責任をなすりつけるつもりで決行したんがやろう」
元々勝ち負けを意識したものではなく、倒幕を視野に入れて外国勢を利用する身勝手極まりない手口である。
「まあしかしさすがにやり過ぎだという声もある。朝廷も喜んでいるのは一部の人間だけだ。諸外国の軍艦が馬関海峡に集結しているという情報もあるしな」
「こりゃ戦争は免れん」
「上様…大丈夫やろか」
「ああ、そういや慶喜公も後見職を辞すると朝廷に辞表を提出したそうだ」
慶喜は攘夷期日を引き延ばすために奔走していたが、不可能とみて攘夷の勅旨による横浜鎖港を理由に近頃東帰した。だが前述のように慶喜はれっきとした開国派であり、如何様にも攘夷など考えてなどいない。ゆえに外国勢力の動向に乗じて、朝廷に攘夷不履行を示した上で、全責任を自身が追うことで決着を図ったのだ。
「まあ、そう心配しなさんな」
勝はカラッと晴れやかに笑みを浮かべてりょうの頭を軽く叩いた。
「上様はお前が思ってる以上に頭も良く、強いお人さ。近頃じゃあ身体を鍛えると言って、毎日庭で稽古をしているんだ」
りょうは目を瞬かせた。
(へえ…あの上様が…)
家茂は幼い頃こそ一通りこなしたというが、殺生嫌いな性分ゆえに得意とせず、所謂文官肌といった感じであった。ともあれ、良い心境の変化にりょうは少し安堵する。無論どういった変化があったのかはわからなかった。
とその時、勝が背にした縁側にドドドドドーという爆音と土煙が舞った。
「ヒィーーーー」
「ぼーちゃん!?」
土煙から現れたのは黄褐色のロバ。
思わず立ち上がり目を見張る。
「おりょう!」
りょうは後ろの声も無視して、裸足のままで縁側を飛び降りた。
「……何かあったん?」
ぼーちゃんの様子にりょうは後藤家に何かがあったと悟った。ハッと蔵を見れば明かりとりから鈴木君が飛び立って瞬く間に消えていく。
りょうは裸足のままでその背に飛び乗り、首に掴まった。
「おりょう!どこ行くつもりじゃ!」
「おい!一人で行動するな!」
りょうを乗せたロバは、羽が生えたようにひと足掻く。
「おりょ……ッ…」
まるで忍者のように土塀を飛び越え、一瞬で姿を消したのだった。
◇◇◇◇◇◇◇
木津屋橋通・後藤家
「この店が攘夷派の奴らに多額の献金をしていると報告があってなぁ」
芹沢はどかりと式台に腰掛けると、合わせ襟に差し込んだ鉄扇を抜いた。
「献金…でございますか」
善治郎が首を傾げると、更にもう一人が一歩前に進み出る。
「とぼけちゃあいけねえぜ店主さんよ。近所の話じゃあ、長州の男が頻繁に出入りしてたって話じゃねえか」
「それは…」
善治郎は言い淀んだ。
確かに出入りしている。
怜が亡くなって以降月命日には、久坂玄瑞という長州藩士が必ず訪れるのが慣例になっていた。
「お、お待ちください。お侍様」
そこへいつの間にか寺から帰ってきていたハツが、小走りにやって来て善治郎の横に平伏した。ハツは店の周辺に異変を感じて、裏口から長男と屋敷に入ったのだ。使用人にことの状況を聞き、自分も行くという喜一郎を押し止めて駆け付けたのである。
「それは献金ではなく、亡くなった娘の焼香に…」
「言い訳無用」
「ひっ…」
鉄扇の重い音が床板を叩いた。
善治郎とハツは額を擦り付けるように平伏する。
「儂は何も責めてるわけじゃァねえ。証拠があるわけでもねえからな。所詮口さがない奴等の話だ。………だかなァ店主」
面白がる口調から、呻くような低い声に変わる。芹沢は鉄扇で善治郎の顎を捉え、無理矢理顔を上げさせた。
「そりゃ不義理ってもんだろうよ」
「へ、へい…」
「儂らはこの京の治安を守る為に日々耐え忍んでるってわけよ。アンタらを守る為に命をかけてるってえのに、恩を仇で返す真似だとは思わねえのかい」
「それは…ま、まことに…」
「謝罪なんぞいらねえのよ。んなもんは口だけで実がねえ」
芹沢は男らに目配せした。
「誠意を見せてもらおうじゃねえか」
言うや否や全員が鯉口に触れ、カチャリと金属の音がした。
「一千両、用意しろ」
「い、い、一千両…ッ!?」
「そんなお金っ」
とてつもない金額に二人は青褪めた。
「これだけの立派な家だ。大した金額でもねえだろう。……ああそうだ」
芹沢は良いことを思いついたとばかりに、再び鉄扇で床を叩いた。
「儂らの屯所をこの屋敷に変えてもいいなァ」
「そりゃあ名案だぜ。芹沢局長」
あり得ない提案にハツはいよいよもって身を震わせる。四人の手下が中へ入ろうと足を踏み入れたところで、善治郎は慌てて立ち上がった。
「お待ちを!!」
「退けーー!!」
「あんたっ!!」
「お待ち下さい!お金はご用意致します!」
善治郎はハツに目配せした。
それでも居座られるよりはマシであると、そんな目であった。
しかしーーーーーーーー
「今すぐご用意致しますので、しばらーーー」
善治郎は突然左胸を押さえた。
口と目を見開いたまま、両膝を付く。
「ッ……」
「あんたっ!?」
締め付けられるような苦しみ。
最近時々チクリチクリと痛むことがあった。誰にも言わなかったのは家族に心配かけたくなかったからだが、根底にはこれで怜の元へ行けるかもしれないという僅かな望みもあった。
(怜………)
閉ざされる脳裏に我が子の姿が浮かび、自分から離れていくのが見えた。追いかけようと前進するが身体がそれ以上動かない。
(お父ちゃんも一緒に……)
小さな身体が少しずつ消失すると共に、善治郎もまた意識を失った。
「あんたっ!しっかりして!」
ハツは善治郎の身体を揺すり動かすが、ピクリともしない。陰から見ていた番頭が大慌てで飛び出した。
「旦那様!!」
心臓に耳を当てたハツは、ハッと息を飲んで番頭を見やった。
「医者や!医者呼んできて!」
「へ、へい!」
しかし式台を下りて草履を履こうとした番頭は、次の瞬間「ギャー」と叫んで土間に転がった。
「おいおい。用はこちらが先だろう」
芹沢が番頭の足を鉄扇で叩いたのだ。
「お、お待ちくださいお侍さん!今はそれどころやなくて、主人がっ」
「……それどころじゃない?」
芹沢は目を細めてハツを睨んだ。
「幕府の役人たる儂らより大事な用があるとは思わねえが……そうか、ここの店はやはり攘夷派の立て場(溜まり場)ということか」
ゆっくり立ち上がった芹沢は、仲間を見回してニヤリと口角を上げる。同時に足元に蹲る番頭に対し、鉄扇を振り上げた。
とその時、耳元を何かが通り過ぎた。
それが鳥だと気付く前に、背中から鋭い声が響く。
「そこまで!」
振り返るとそこには小さな子供が立っていた。 特に目立った風でもない何処にでもいる子供だ。
「てめえは誰だ」
一人の男が口を開いた。
しかしその子供はスタスタと彼らの前を通り過ぎ、善治郎へと向かう。芹沢はそれを遮るように鉄扇で前を塞いだ。
「儂の前を素通りするのは罷り通らぬ」
「それがしめの用が済めば何刻何日でも話を聞いてやるでござる」
「誰に向かって口を聞いてやがる」
隣りの男がりょうの手首を掴んだ。
「風呂も入らぬ汚らしい手でそれがしめに触れるとは、言語道断でござる」
「ギョオォオオォォオ!!」
「イテッイテテテテテテ!!!」
鈴木君が目潰しからの糞落とし攻撃を仕掛け、男が転げ回る。その間に善治郎の元へ駆け寄ったりょうは、そこで初めてハツと目を合わせた。
「れ、…」
ハツが驚愕に目を見開くと、りょうはその口元に手を置く。「その名を口に出すな」という意味を込めて無言のまま首を振り、善治郎の心臓に耳を当てた。
「大丈夫でござる。一過性の意識消失発作でござろう」
「命に別状は…」
「ないでござる。しばらくすれば気がつかれるゆえ、奥で休ませるように」
「へ、へい!」
ハツは使用人を呼びに行く。
りょうは番頭に肩を貸してやると、奥から慌ててやって来た男衆らに託した。
「まさかこの店に手を出す阿保がいるとは思わなかったでござる」
りょうは独り言のように呟いた。
「貴殿らは普段からこのような無礼な真似をしては人々から金を奪っているのでござるか?」
「人聞きの悪い…」
芹沢はフンと鼻で笑った。
「儂らは悪事や不正を働く輩に、正義の裁きを課しているだけだ」
「まるで役人のような言い草でござる」
「俺達ァ"会津藩お預かり"の浪士組よ!俺らに楯突けば幕府が黙っちゃいねえぜ」
「江戸から流れたただの浪士組にござろう。何の特権もない末端の田舎侍に過ぎぬ」
「知ったような口を聞くじゃねえか」
「それがしめに知らぬことは一つもござらん」
「ほう…」
「貴殿は芹沢鴨でござろう」
その名を告げた瞬間、鈴木君が鳴いた。
「キョオォオ!」
ドォオンとりょうは壁に弾き飛ばされる。打たれた頬にジンジンと熱がこもり、口の端からは真っ赤な血が滴り落ちた。
「これは面白い」
芹沢は鉄扇に付いた血を手拭いで拭き取ると、りょうと同じ目線になるようにその場にしゃがみ込んだ。
「貴様のような子供は初めてだ。名は何という」
「それがしめの名を聞いても、貴殿らには損しかない。それでも聞きたいと申すか?」
りょうは挑発するかの如く、ニヤリと笑みを浮かべた。
「なんて口の減らねえガキだ!」
「芹沢さん!このガキやっちまいましょうよ!」
りょうは口元を拭い軽やかに立ち上がると、ぺっと赤い唾を吐いた。口内が裂けているようで、拭いても拭いても止めどなく血が流れている。
「それがしめをやっちまう前に、貴殿らに一つ質問がござる」
けれど痛みは感じなかった。
「この店の店主、後藤善治郎の亡き娘は外国奉行である幕臣、小栗忠順の御養女であらせられるが、それを知っての狼藉か?」.
彼らは驚きに目を見開いた。
「な、なんだって……」
「お奉行様の養女……まさかそんな」
ただ芹沢だけは少し目を細めたくらいで、焦りや動揺は見られない。
「……だからどうした。幕臣だろうが何だろうが、不正を働く輩を成敗するのが儂らの仕事」
「何の根拠も証拠もなくただ金をせしめようなど、その辺の盗っ人や辻斬りと何ら変わらぬ」
りょうは芹沢へと近付いた。
「それでも尚、強硬するというのであれば、こちらにも考えがござる。……詐欺、恐喝、傷害及び殺人未遂。家屋の損壊、営業妨害。これらの悪事について、厳重なる抗議を会津公に申し上げ、賠償請求をーーー」
とその時であった。
「お待ち下さい!」
二人の間に一人の男がりょうの前にひれ伏した。
「申し訳ございませぬ!」
いつの間にか芹沢の取り巻き達が複数人の男に捕らえられていた。その中に土方や沖田、原田の姿を見て、りょうは目の前で土下座する男が何者かを知った。(鈴木氏は即座に雲隠れした)
「拙者は近藤勇と申します。此度の件に置きましては、全て拙者の不徳の致すところ。如何様な裁きも受ける所存にございまする!」
「退け!近藤!」
「引かぬ!」
芹沢は一喝するも、近藤はその姿勢を曲げなかった。
近藤は山崎からの報告を受け、大急ぎでここにやって来たのだ。彼にとって、芹沢一派は内部においても目障りな存在ではあるが、表面上は同じ組に属す仲間。勿論悪事の数々は組の総意ではないが、かといって放置すれば問題が大きくなると思ってのことであった。
「しかし申し開きをお許し頂けるのであれば、我等は京の治安を守る為に江戸より参りましたが、何分先立つものも無く、隊士らを含め皆が困窮している次第にございます。ゆえにその立場から」
しかしりょうは鼻で笑った。
「貴殿らは金策をする相手を間違えているでござる。会津藩お預かりなれば、そちらから給金を頂くのが筋というもの。真面目に働く商家から金銭を奪うなど言語道断にござる」
「ごもっともにございます」
「近藤!勝手なことをするな!」
芹沢が近藤の肩に手をかけると、土方と沖田が制した。
「もういいだろ」
「引き際も肝心だよ芹沢さん」
二人の殺意を込めた眼差しに芹沢が言葉に詰まる。りょうはそれを認めて近藤に向き直った。
「二度は無いでござる」
「は。肝に命じましても」
「あの鉄扇は此度の"詫び"としてそれがしめが貰い受ける」
「御心のままに」
近藤は芹沢の手から鉄扇を奪い取ると、恭しくりょうに手渡した。
「待て!!それは儂の」
「では、これにて」
「近藤!取り返せ!」
「失礼致しました」
「離せーー!」
芹沢の悲痛な叫びが周辺にこだました。何事かと集まった野次馬達はざわざわとまだ騒がしい。その人垣の間から顔を出したのは坂本であった。
「おりょう!」
「遅ーい」
「アホウ!何処に行くとも告げんと勝手に出歩くなっちゃ!」
坂本はよほど疲れたのか、式台に座り込んで息を漏らす。とその瞬間、背後からハツの叫びが響いた。
「今日は店じまいやァァァ!!」
それを合図に、使用人や男衆らがドドドドーーッと流れ込み、二人が呆気にとられている間に暖簾が片付けられ、入り口が固く閉ざされる。薄暗い土間に立っていたりょうは、誰かに抱き上げられ、更には坂本まで男衆らに担がれて奥へと連れ込まれた。
当然だが、りょうを抱き上げたのはハツである。ハツはそのまま居間に向かうと、抱き締める手を緩めることなく畳の上に下ろしてギュウギュウと力を込めた。
「お、お母ちゃ…くるしい…」
「あ、あんたっ……生き……」
流石母親とあって、すっかり変わってしまった姿であっても我が子だと気付くらしい。ハツは声にならない声を上げて号泣した。
「どれだけっ…辛かったか……ッどれだけ後悔したかッ……」
「お嬢様!!よくぞっよくぞ生きてっ」
「お嬢様が生きとった!!バンザーイ!!」
番頭は怪我も忘れて喜びを露わにし、使用人らと揃って万歳三唱を繰り返す。そこに遅れて喜一郎や朱美が顔を見せた。
「怜が生きとるってホンマか!?」
「怜ちゃん!!」
二人はりょうの姿を見るや否や、ガバリと抱きつく。りょうのHPが百ほど減った。
「怜ちゃん!良かった!」
「お前っ!今まで何処におったんや!」
「墓から這い出て来てん」
「お前ならやりそうなだけに兄ちゃんぐうの音も出ーへん!」
りょうは胸が苦しくなった。
自分の死がこれほどまでに家族を悲しませているとは思わなかったのだ。無論、悲しみはあってもそれはひと時であり、時間の経過と共に少しずつ消えていくとさえ思っていたのだ。
そしていずれ"その時"が来れば家族に会いに行けば良いと、つまりそこまで重きを置いていなかったのが正直なところであった。
しかしそれは完全なるりょうの落ち度といって良いだろう。人の気持ちというものは、そう簡単に割り切れるものではないのだから。
「旦那様がお気付きになられました!」
使用人に支えられた善治郎が、よろよろと襖伝いに姿を見せた。
「れ、怜………?」
「お父…」
どこにいても、どんな時も、りょうの心にいたのはハツであり、兄弟であり、そして善治郎であった。
「お父ちゃ…ん…!」
しばらく見ない間の老いた姿に、胸が震える。
思わず駆け寄ったりょうは、誰憚らず善治郎に抱き着き声を上げて泣いたのだった。