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「小姓の分際で我々を愚弄するのか!」
「寺島!やめろ」
「たわけたことを。愚弄と言うならば、まず上様の御前において身の程も知らずに意見を申す己を恥じるがいい」
「何!?」
拳を振り下ろそうとした寺島を、桂が抱き込んだ。りょうは微動だにせず、真っ直ぐと寺島を睨みつける。
「真に申し訳ございません」
桂は抵抗する寺島を押さえつけて、共にその場に平伏した。
どんな理由があったとしても、将軍の前で暴力等は言語道断である。彼らはここでは帯刀すら許されぬ立場なのだ。姉小路も同様。いくら公家出身だとしても、位階では家茂の方が身分は上である。
将軍警備の近侍の者が、瞬く間に周囲を取り囲み、殺伐とした空気が漂う。桂は恥も外聞もかなぐり捨て、縮まったまま許しを請うた。
「上様。数々の非礼をお詫び致します。売り言葉に買い言葉とはいえ、少々度が過ぎたようにございます」
「良い。こちらも少々言い過ぎた節がある。りょう。ほどほどにせよ」
「御意にございまする」
りょうは忍者の如くササッと家茂の後ろに膝をつき、頭を垂れた。
「ところで刑部卿殿は如何致した。姿が見えぬようだが」
綾小路が話題を変えた。
「刑部卿様は二条城にて上様代理を務めておられまする」
水野がすかさず答えた。
本来なら生麦問題の件で慶喜は江戸へ帰還する予定だったが、解決の報を受けて引き続き朝廷側と攘夷期限の協議を重ねていた。しかし急進派の反発により話し合いは難航しているようで、家茂の帰東も延期が決定していた。
「おお。攘夷の準備に忙しいのであろう。それならば仕方あるまい。のう?大樹公」
「は……」
試すかのように嫌な笑みを浮かべた綾小路。幕府側からすればもどかしいことこの上無い。
所謂彼らは表面上は将軍に攘夷を実行させることを主としている。しかし実際はそれが不可能であることも承知していた。例えば高杉にしても上海渡航をきっかけに欧米と日本の歴然たる差を知り、"開国倒幕"へと転じているのである。ゆえに攘夷攘夷と声高に主張する輩は、真に日本の実情を理解出来ぬ痴れ者だと言っても過言ではなかった。
どちらにせよ攘夷期限が差し迫った今、それを回避するのが幕府にとって最大の悩みである。諸藩だけが相手であれば如何にもやりようがあるが、朝廷に対しては同じように出来る筈もない。ただ生麦問題の解決は対列強との開戦を回避したという点において、少なくとも幕府の権威がやや回復方向に向かっているのは確かであった。
「全く攘夷攘夷と威勢だけは良いでござる」
りょうの呟きは思いのほか響き、綾小路のみならず皆が皆固まった。
「こらこらお前ときたら」
勝はニコニコと拳骨を喰らわす。
「全く以って申し訳ございませぬ。生まれた時より遠慮の知らぬ子どもでして」
りょうはハッと口を塞いだ。
以前のように歯に衣着せぬ物言いは出来ない。
でなければ、りょうにとって人生最悪の事態に陥ってしまう。それだけは避けなければならないのだ。
家茂の関わる話になるとつい周囲が見えなくなってしまう自分を呪いつつ、りょうは即座に平伏した。
「まことに申し訳ありませぬ。何やら物の怪が取り憑いたようにございまする」
あっさりと引き下がったりょうに対し、家茂が口を開く。
「りょう。顔色が悪い」
「空腹により力が入りませぬ」
不穏な空気がほんの少し和いだ。
しかし寺島などは何か言い足りないようで、りょうを睨み付けている。
「そうか。ならば次の予定地に参ろう」
「御意にございまする」
その後は何事も無く予定通りに視察を終えたが、りょうの心は晴れなかった。何故ならーーーーーー
「大奥行きの便が一席空いてるってよ」
勝が満面の笑みで告げた。
「ご辞退申し上げまする」
もしもりょうが"怜"だと勘付かれた場合、家茂の側より安全な場所に押し込むのは当然である。
◇◇◇◇◇◇◇
大坂城
勝は内々に家茂に呼ばれていた。
こういったことは滅多と無いので流石の勝もやや緊張気味である。もしかしたら操練所の話を白紙撤回するつもりでは、などと考えてみたがもしそうならわざわざ家茂が出ることもないだろうと思い返した。とすれば、話は一つしかない。
「勝。予は誤っていた」
「……誤り、でございますか?」
「今までりょうの外側しか見ていなかったのかもしれぬ」
家茂は苦悶に満ちた表情で脇息にもたれた。
「予はこれまで人の言いなりであった。しかしこの時勢に置いて、それは言い訳に過ぎぬ。もしも予が第一に国を憂う器があれば、りょうに負担をかける必要も無かったのだ」
「上様はまこと御聡明であらせられる」
「そうではないのだ。予は永きに渡り、徳川幕府の存続こそ我が国の平和と思うておった。けれどそれは予自身が徳川の人間だったからに過ぎぬ。客体的に省みれば、それがいかに主観的であったか……」
家茂は溜め息をついたものの、勝は微笑を浮かべたまま言った。
「上様。世の中を変えようと思えば、必ずそこに犠牲が生じます。大切なのは"御覚悟"にございましょう」
「覚悟か」
「世の流れを止める術はございませんが、御覚悟さえあれば流れを"変える"ことは出来ましょう」
「変える…」
「りょうは、恐れながら"徳川家茂"という一個の人間しか見ておりませぬ」
家茂は目を見開いた。
りょうが何を考え、そして行動しているか、それは"徳川幕府"という巨大な組織ではなく、"徳川家茂"という一個人であると、勝がそう気付いたのは生麦賠償協議の時であった。逆に言えば、徳川幕府のことなど微塵も考えてはいない。
「勝」
「はい」
「予は、其方に聞きたかったことがある」
「何なりと」
「りょうは……」
家茂は真っ直ぐと勝を見つめた。
「あの娘は何者だ」
◇◇◇◇◇◇◇
京・鍜治屋町
二条城から黒門通を進み六角通と交差する地点は、その名の通り鍛冶屋等の多くの職人が住む地域である。
刀鍛冶は勿論、農具鍛冶、包丁鍛冶などそれぞれの専門店があり、金属を叩く音が、朝早くから聞こえることも少なくなかった。
鍜治屋町でも大宮に近い場所に、二百坪ほどの古い屋敷があった。元は金持ち商人が愛人を囲う為に買ったというが、一年前に売りに出されたらしい。
どうも事業が失敗して一家心中したとか、愛人諸共本妻に刺されたとか、様々な噂が飛び交っていたようだが、詳細は定かではない。
ともあれ漸く終息した頃、屋敷に新しい住人がやって来た。
「あらあら早起きなんやねぇ」
「おばちゃんおはよう!」
「お早う。まだ片付いてないやろ思て、おむすび持ってきたんよ」
「ええー!ほんまに!?嬉しい!」
言わずとしれた"りょう"である。
近所の住人を手中に収める日も遠くはない。何故ならりょうは彼女の恩人なのである。
「そやけど、ほんまに昨日は助かったわ」
「また困ったことがあったらいつでも言うて」
「小さいのに頼もしいわぁ」
彼女の名は"静"という。
子供はおらず夫婦二人暮らしであり、主人はやはり鍛冶屋であった。
主に刀鍛冶を専門としているが、大体は修理がほとんどらしく、当然ながら客は武士や浪人ばかりである。ゆえに羽振りの良い客ばかりで、豊かな生活をしている……と思われがちだが、実は逆である。特に下級武士の大半は貧乏で、内職等で凌ぐ者がほとんどなのだ。
そういった実情であっても、命である刀の手入れだけは怠らないものだから、時に修理を余儀なくされれば、何処からか借金をしてでも鍛冶屋を利用する者が多く、支払いはツケが当たり前だった。
遅れてでも支払いをしてくれるのであれば、それはまだ良客だと言える。だが共通して言えるのは、彼らは武士としてのプライドばかりが高く、人としての本質に欠けているのだ。
「たかが半年くらいでグダグダ言うんじゃねえ!俺を誰だと思ってやがる!」
「ひぃ!!」
「あなた!」
そんな場面に出くわしたりょうが、黙っていられるはずもなかった。
「待てーい。糞浪人」
「なーにぃ!?」
「そこの隣りのお姉ちゃん」
「はあ?なんやの?」
「そんなはした金も払えん男と一緒におって幸せなん?」
「え…」
「ちょっ!お前何抜かす…」
「たーとーえーばー。お姉ちゃんに新しい着物とか買ってくれても、所詮全てツケ払いやよ?ホンマにええ男は、"即金払い"が出来る男や!」
「ほ、ホンマやわ。ウチ、なんで当たり前のことに気付かんかったんやろ」
「おい!明代!」
「ウチに触らんといて!"ツケ払い男"なんかごめんや!」
「明代ォォオ!」
とまあこんな感じで、図らずも鍛冶屋作兵衛と静を助けたりょうであったが、夫妻は殊更りょうに感謝し、顔を出してくれるようになったのである。
それはさておき何故りょうが家茂の側から離れ、この鍜治屋町の屋敷に住むことになったのか説明しなければならない。
神戸村の一件で、長州藩及び公卿に対し侮辱と取られたりょうは、特に長州藩から度重なる苦情を受けて、幕閣の詮議にかけられた上、罷免された。
ただ何故か公卿から何の抗議も無かったのは、姉小路自身が何か思うことがあったのかもしれない。
どちらにせよ、驚くべきことに家茂本人はそれに対して反対はしなかった。というのも、りょうの身を案じたことが大きな理由であるらしく、詳細などは聞かされなかったが、勝と相談した結果でもあったようだ。
そうして、勝が用意したのがこの鍜治屋町にあるこの屋敷であった。ここであれば二条城にも近く、誰でも行き来出来る。
そう。誰でもーーーー
「失礼するぜよ」
「!!」
りょうの前に現れたのは、坂本龍馬であった。
「すまんが、怜っちゅう子供はおらんかの?」
しかし、坂本は目の前の丸々太った子供が、まさか怜だとは気付かなかった。
残念無念である。
大樹公ー将軍