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「ほう。あの子供は安房守(勝)の息子であったか」
「立ち話も何でございますゆえ、どうぞこちらの椅子に」
甲板の上にはデッキチェアがいくつか並べられていた。と言っても今にあるような一枚の布で出来た簡素な作りではなく、背もたれと肘掛け、足置きのある木の椅子である。また肘掛けの下側にレバーがあり、リクライニング式になっていた。
実はこの椅子は、生麦事件の後の大坂までの船旅の途中に、唐津藩士らに作らせたものだった。自分用に作ったつもりだったが、何故か皆から気に入られ、あれよあれよと改良する内に実用的な椅子になってしまったのだ。
「西洋の椅子とな…」
姉小路が不愉快な顔をした。
「これは我が息子が考案した和製椅子にございます」
「なんと、……和製であるか」
「この棒を一旦手前に戻し更に奥にしますと、こちらの歯車が回り、凹みの箇所に爪が入るといった仕組みでございます」
「ほう。カラクリのようじゃな」
姉小路は感心したように頻りに頷き、寺島、桂などは驚きの表情で横から後ろから椅子を観察している。
「座り心地も頗る良い。気に入ったぞ」
「恐れ入ります。よろしければお一つお持ち帰りいただければ」
「おお…それでは考案者に礼を言わねばならぬな」
姉小路はすっかり機嫌が良くなった。
「そなたらも座ってみるといい」
「いえ。我々は結構でございます」
「そうか?」
寺島は即座に断り、桂と共に姉小路の後ろに回る。そして勝に呼ばれたりょうがやって来た。
「名は何と申す」
「上様付き御相談役の勝りょうにございまする」
りょうはその場で平伏した。
「御相談役?」
寺島が胡散臭い顔で呟く。
「正確には小姓兼御相談役にございまする。貴方様はどちらのお方で?」
りょうは寺島をジッと見つめた。
「某は寺島忠三郎でござる」
「私は桂小五郎と申します」
「長州のお方でございまするな」
「おお…そなたなかなか鋭い眼をしておるな」
姉小路は感心した。
だが寺島と桂は「長州」と名を出したりょうに対し、多少なりの不快感を覚えたようで、特に寺島はあからさまに表情を変えた。
「それがしめは田舎者の匂いに敏感でございまするゆえ」
しかし、それでも飄々と毒突くりょう。
寺島は殺意の篭った眼差しを向けて応戦した。
「貴殿を見れば、どれほど怠惰に生きてきたかよくわかる。自己管理の無さは身の破滅でござる。そのような丸々と肥えた形りでは、上様をお守りすることも叶うまい」
寺島の嫌味に周囲がドッと沸く。(主に勝が)姉小路は「もっともじゃ」と頷いた。
「そなた、波に揺られて海に落ちぬよう気をつけよ」
「その際は皆様方をも道連れに致しまする」
「ホホホ…なかなか面白い子供である」
姉小路は扇で口元を隠しながら、りょうを見て少し身震いした。何故なら顔が本気だったからである。
「将軍殿が気に入るほどの器量があるとも思えぬがの。そう思わぬか?桂よ」
「見た目は兎も角、良い目はしていると思います」
桂は値踏みするようにりょうを見る。
怜とは全く気付いていないようだが、油断は出来なかった。
りょうはわざと顎を上げ、下目遣いで桂を見た。まるで見下す態度にムッと口を引き結んだ桂であったが、場所が場所だけに我慢しているようだ。
「用が無いのであれば、それがしめは上様のお側に戻りまする」
りょうは踵を返した。
「とんだ時間の無駄にござる」
ぽつりと呟きさっさと立ち去るりょうであったが、全員に聞こえていたようだ。小笠原や老中らは血の気を失くし、寺島と桂は驚愕の表情で、姉小路に至っては、はらりと扇を落とした。
「ハハハ!親が申しますのも何でございますが、なかなか優秀な息子でございましょう?」
勝だけは空気が読めないようだった。
◇◇◇◇◇◇◇
一刻後、予言(?)通り海が荒れ始め、危険と判断した勝は、摂海を南下して紀州の加太まで戻る。
上陸した頃には陽もすっかり傾いて、加太宿本陣に到着した時は既に、夕刻に近い時間帯であった。
因みに本陣には家茂、姉小路、容保が宿泊し、脇本陣には老中ら数名。勝や寺島、桂などは旅館に宿泊し、残りは交代で警備にあたる。りょうは当然ながらひまちゃんと共に家茂に随従していた。因みに鈴木君は桂を避けるため、距離を置いている。
「あの子供、どう思います?」
寺島が酒を煽りながら言った。
「口は達者だな。子供のくせに」
「あの噂は流言なんじゃないですか?」
「噂?」
桂が聞き返すと、寺島は頷いた。
「歳が14、15、という噂です」
「……というと、お前は」
「ええ。あの子供が将軍の懐刀なんじゃないですかね。今日一日見ていましたが、将軍のあの入れ込みようは普通じゃないと思うんです」
「まさか」
「認めたくはないが、なかなか知恵もあるし度胸も」
「知恵と度胸か。まるで…」
桂はふと"怜"を思い出した。
あの見下すような視線。
声は……やや低く感じる。
顔は……?
怜は痩せ型だった。ガリガリとまではいかないが、中の下といったところである。りょうは丸々と太っているが、もし痩せたらどんな顔になるだろう。
「うーむ。狸が頭から離れん」
「え?」
「いや。なんでもない」
桂は強制的に"怜"を排除した。
◇◇◇◇◇◇◇
次の日、将軍一行は早朝から北西へ航路を進む。
「あの島の向こうに見えるのが淡路島だ」
りょうは目を細めてそちらを見た。
加太から見る景色は世の中の喧騒を忘れさせるほど自然に恵まれた美しい姿である。
「手前が友ヶ島といって砲台のある島だ。……もっとも土俵が積まれただけの簡素なものだが」
「あれが友ヶ島でござるか…」
「知っているのか?」
「いえ、名前だけでござる」
友ヶ島といえば、大日本帝国陸軍の要塞の一つ"由良要塞"の一部である。ここ加太の深山地区、そして淡路島の由良地区の中央に位置し、摂海防備に重要な拠点であった。
「中途半端な防備でこの畿内を守ることは出来ませぬ」
「以前と比べれば随分良くはなったんだ。むろん改善の余地はあるが」
実際、ペリー来航まで畿内の砲台は15ヶ所あるかないかくらいの数しかなかった。江戸という遠い地の事件は、関西人にとって現実味のない出来事である。平和な世の中で生きた者は、危機管理に乏しいのだろう。
しかし翌年のディアナ号が摂海に侵入し、天保山沖に碇泊した際は、流石に対岸の火事と安心出来ず、各藩によって次々と砲台を築いて、今では80ヶ所以上存在する。もっとも勝の言う通り、砲台としての機能を果たすかどうかはまた別の話である。
「砲台建築も重要だが、それに伴う力も人間も必要だ」
「海軍でございまするか」
「そうだ。江戸には操練所があるがこっちにはない。日本は海に囲まれているからな。万一他国と戦争になれば、海軍力が勝利を分ける」
「それをそれがしめに手伝えと」
「今日は神戸まで上る。その時に操練所の必要性を上様に申し上げるつもりだ」
「ではこの文を」
「届けてやる」
「金子も忘れずよろしくでござる」
「直ぐに手配しよう」
りょうは小躍りしそうな勢いで家茂の方へ歩いていく。勝は少々呆れた顔で息を吐いた。
二人の間には義理の親子という関係性以外に、互いの野望が混在している。勝は日本国を強くする大志があり、りょうには西瓜糖を完成させるちっぽけな野心があった。
生麦事件以降、りょうは佐吉らと連絡を取っていなかった。万が一を考えて接触を避けたのである。だがその代わりに勝が佐吉らの出資者として、月に一度金銭的な援助をしている。
無論最初は佐吉らもその提案を固辞していた。彼らにとって後藤怜は想像以上に大きな存在であり、怜がいないのであれば意味が無いとまで思い詰め、手を引こうとしていたのだ。
しかしそれを知ったりょうは、何とか引き留めようと勝に頼んだ。勝はその願いを聞き入れ、熱心に彼らを説き伏せ、怜の為に、怜の夢であった西瓜の完成を受け継いでほしいと熱く語ったのである。
そうして今、あのグラバーから貰った種の初植え時期を迎え、りょうの頭の中は大半がそれを占めていた。去年未発達に終わった種のことを考える内に、水やりにも原因があるのではないかと思ったのだ。
佐吉が書いた日記を思い出すと、彼は二日に一度のペースで水やりをしていた。素人目で見れば、西瓜などのウリ科の植物は充分な水が必要だと思っていたが、よほど乾燥していない限り、与える必要はないのではないだろうか。よくよく考えれば、勝手に自生する西瓜である。少々では枯れない強さを持っている。特にあの地域の土壌は伏流水が含まれているため、水の与え過ぎによって発芽しなかった可能性が高いと考えたのだ。
りょうはそういった育成に関わる物事に対し、本心では彼らと綿密な連携を図りたかったが、"怜"という少女が消えた以上表立っての行動は厳しいと判断し、勝を通して連絡を取り合うようにしていた。
また勝の方は幕府の海軍養成機関を神戸に創設する思惑を抱いていた。昨今の情勢を鑑みるに、本格的な海軍の育成は急務と言えた。特に摂海は京、大坂を背にした重要拠点であり、交通と産業の要衝である。ひとたびこの区域を攻撃されれば、日本は真っ二つに分断されるのは間違いないからである。
こうした勝の革新的思考というものを、未だ幕府は理解していない。これもひとえに「鎖国」の影響が根付いていると言えるだろう。
勝は今回の摂海巡視に賭けていた。
幕府に意見してもその場限りに議論されるだけで、けして上奏されることはない。ならば例え無礼にあたっても、家茂に直訴する方が良いと考えたのである。
「彼方に見えますのが神戸でございます」
僻村とも言える幕末の神戸村は長閑な漁村であった。しかしここは港を作るには最適な立地条件に恵まれている。というのも、この一帯は水深が深く大きな船でも入港出来る天然の港なのだ。また、勝が目を付けたのはそれだけではない。
ここには既に「船たで場」が存在することであった。
船たで場というのは"乾ドック"のことで、船の製造や修理などを行う施設である。これは網屋という男が築いもので、修理を主とした設備のある立派な施設が建てられていたのである。
接岸した順動丸から降り立った一行は、粛々と出迎えを受けた後、揃って船たで場のある、神戸村安永新田浜の入江に入った。
「上様。京、大坂と主要地を控えたこの摂海は、非常に重要性の高い一帯であります」
勝はそれを利用することで、この地こそ海軍操練所に相応しいと考えていた。
「村には既にこの船たで場もあり、利便性の高い地にござります。故にこの村に操練所を創設することをお許し頂きたく存じまする」
勝がその場で平伏すると、それを聞いていた板倉や水野が慌てて声を荒げた。
「これ!無礼であるぞ!」
「このような時に何を血迷ったことを!」
しかし家茂はそれを制した。
「海軍操練所か」
家茂はぐるりと辺りを見渡した。
様々な場所をその目で検分した結果の、切実なる請いであろうと家茂は思った。
「りょう」
「は」
「其方は如何思う」
「列強と肩を並べる為には人材育成は急務かと思われまする。幕臣のみならず諸藩士らも募集し、畿内一の養成所及び操練所を立ち上げることこそ、富国強兵への第一歩となりまする」
「富国強兵か」
家茂は頷いた。
「良い。許可する」
勝がパッと顔を上げた瞬間、後ろから姉小路と寺島、そして桂が現れた。
「おお…何やら楽しそうな話をしているようじゃな」
「何やら操練所、と聞こえましたが…」
「たった今、上様より御許可が下りましてござる!まことにめでたい!」
勝は浮かれていた。
当然だろう。長年の夢が叶うのだ。
しかし勝のその一言で姉小路らの顔がみるみるうちに変化する。
「この地に操練所を?」
桂が問う。
彼ら長州藩もまた摂海の重要性を理解している。いや彼らだけでなく、特に朝廷は外国に対して畏怖の念が強い故に、京に近い摂海の防備の強化はもっとも懸念しているといっても過言ではなかった。
そういった中、以前より長州藩は独自の調査を行っていた。先日桂が勝の元にやって来たのもそれが理由である。
「我々の申状を上様はご存知であろうか」
寺島が家茂に対し嫌味ったらしく言うと、りょうが庇うようにズズイと前に進み出た。
「むろん丸々と肥えたそれがしめも目は通しましてござる。"摂海戦守御備"なるものでございましょう。アレはなかなか面白い読み物にござる」
「よ、読み物だと!?」
「おお……よもやあれが正式なる建白書とは申されますまい。あまりに稚拙過ぎて、丸々と肥えたそれがしめの知り合いの太夫や天神などは腹をよじらせて笑っておりましたでござる。ホホホホホホーー」
「ホーホー」
りょうはかなり根に持つ性分である。
年末に差し掛かり、少々仕事が多忙ですので遅れ気味に投稿することとなりますがご了承の程よろしくお願い致します。