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大坂城・本丸御殿
小笠原以下五名が大広間に案内されると、両脇には松平容保を始め、老中、幕臣らが安堵の表情でずらりと肩を並べていた。
上座はまだ空席であったが、ひとたび皆が出揃うと「上様の御成にございます」という声がした。一斉に平伏する彼らの耳に聞こえたのは、ドカドカと勢い付いた足音と、小姓らの焦った声。広間に緊張が走った瞬間、勢い良く襖が開いた。
「りょう!」
皆が平伏する中、りょうはそろりと顔を上げる。上げた途端、黒の装束を身に付けた家茂の胴が目の前にあった。
「ホンゲェッ」
「りょう!!」
ムギュウゥゥと抱き締められたりょうは、必死でもがいた。先程食べた三色団子が込み上げて、もはややばい状況である。それに気付いた小笠原は慌ててりょうの身体を掴んだ。
「上様!お鎮まりください!」
「誰ぞ手伝え!上様!」
こんな家茂を見たのは誰もが初めてで、周囲の者達も、殆どポカンと口を開けたままだった。
「上様、りょうが死にまする」
小笠原の冷静な言葉に家茂はハッと我に返った。りょうはゼイゼイと息を整えながら、喉まで出かかった団子を再び胃の中に収めた。
「無事で良かった…」
「再びお会い出来て光栄にございまする」
「これより先はけして予から離れてはらならぬ」
「御心のままに」
家茂は満足気に微笑むと、小姓に付き添われて上座に戻った。
その後は英吉利との交換公文(国家間で交わす公式な合意文書)の提出及び、小笠原による報告が成された後、様々な質疑応答が始まる。りょうは完全丸投げ状態で、九割強は小笠原が応じた。
「小栗殿には申し訳ないが、これは御息女のおかげと言ってもよかろうな」
水野の言葉に面々が相槌を打つ。そこへ容保が割って入った。
「あの子供は私の小姓になる筈であった……」
「そ、それはまことでござりまするか?」
「どうしても私に仕えたいと申してな…」
「それはまた何と申したらよいか…」
"怜"は一言たりとも容保の小姓になりたいなど言ったことはない。りょうは半眼で容保を見て言った。
「もしや後ろの少女が肥後守様の小姓になるはずのお方でございまするか?」
「後ろ?」
容保は首を傾げる。
りょうは容保の後方を指差した。
「肥後守様の後ろに黒い髪の小さな少女が視えまする」
「なに!??」
「可愛い少女でござりまする。口から血を流しておりまする。おいたわしや」
「う、嘘だ…」
「おや。今、肥後守様の肩に手を置きましたでございまする」
「ヒッ!」
「おお…なんと。よほど肥後守様をお慕いしていたようにございまする。両手を肥後守様の首に回し、おんぶ状態にございまする」
「ヒィィイィイ!!」
容保はその場から三メートル吹っ飛んで、小笠原の陰に隠れた。
「りょう!やめんか!」
「視たままを述べただけにござる」
「肥後守様、大丈夫でございまする。何もおりませぬ」
「し、しかし何やらまことに肩が重うなってきた…
「「「えっ」」」
容保はりょうに縋り付いた。
「怜は…ま、まだおるのか?成仏しておらぬのか?」
「残念ながら、今は肥後守様の腰辺りにしがみ付いておりまする」
「ああぁあ!!どおりでぇぇ!どおりで腰が重いと思っておったのじゃー」
「りょう!いい加減にせんか!!」
「誰ぞ平馬を呼べ!!」
「殿ォオォ!!」
容保は平馬に抱えられ、逃げるように広間から出ていく。残された面々が深い溜め息をつくも、家茂だけは楽しげな表情であった。
「全く…」
「しかし上様より先に退出とは…」
「よい。今日は不問に致す」
家茂は皆を制した。
「此度の件。其方らの功績により、最悪の事態は免れた。礼を言う」
「勿体なき御言葉。この小笠原長行、我が命に代えましても徳川幕府の為に尽くす所存。そして何より上様の御為に…」
「其方の忠義に感謝する」
小笠原は感無量といった感じで肩を震わせた。右仲を含む数名の唐津藩士も目頭を押さえている。
「疲れたであろう。家臣共々、ゆるりと休まれよ」
「は!!」
「ではそれがしめも」
「ならぬ」
「なぬ!?」
家茂は小姓が止めるのも聞かず、りょうを引きずって奥へと引っ込んだのだった。
◇◇◇◇◇◇◇
大坂市中
翌日、家茂一行は大坂城を後にした。これは摂海巡視の為である。警備の為に随従したのは会津藩を筆頭に浪士組約20名、更には急進派公卿の姉小路と長州藩士及び肥後、紀州藩士ら約60名であった。
りょうは馬丁役でもないのに、いつものように家茂の馬を引きながら周りを見渡す。
周囲は会津藩士に囲まれ、物々しい雰囲気である。前方には容保。家茂との距離約50メートル。双方の間には会津藩士数十名と、列を成した浪士組、そして後方にはまた会津藩士が並んで、更に姉小路らへと一団が続いていた。
「あ…」
だんだら模様の薄い青緑の羽織に、額には鉢金。鋭い目を光らせる集団は、言わずと知れた"壬生浪士組"である。
ということは、この中にこの前会った原田がいるはずである。りょうは何となくその姿を探して背伸びしたのだが、とある男に気付いて目を見開いた。
「りょう?いかがした?」
「いえ…」
遠くからでも目立つ彼らに、周囲の人々は恐れおののくように目を逸らす。その中で、一番前を闊歩する一際上背のある堂々とした男は、恐らく芹沢鴨だろう。隣りは近藤勇。原田左之助の姿も見えた。
その中央を歩くのはいつか見た男だ。
「稲江しお…」
何故、あいつが……、そう思う前に隣りの男が目に入り、りょうは思い出した。
何処かで見たことがあると思った。祭りの際、鈴木君との再会の喜びですっかり忘れてしまっていたが、確かに知った顔だったのだ。
今、こうして見れば、何故気付かなかったのだろうと不思議に思う。
そうだ。彼はーーー
「土方歳三でござったか……」
りょうはポツリと呟いた。
「クク…」
18歳…稲江しお。
今は19になっているはず。
新撰組の中でそれくらいの歳といえば、斎藤一、藤堂平助、もしくは沖田総司くらいしか思い出せない。
あの捻くれた根性と何を考えているかわからない曲がり腐った性格を考察すればーーー
"沖田総司"
それ以外考えられなかった。
「りょう、いかがしたのだ?」
「いえ」
まさかバレることはないだろう。
怜とりょうではそもそも体型が全く異なるし、性別さえ完全に偽っている。動物のように鼻が効くならともかく……
沖田は肩より下のサラ髮を一つに縛っていた。一人だけ鉢金を付けていないのは腕に自信があるからだろうか。
とその時、「キョー………」という、聞こえるか聞こえないかの細い鳴き声が聞こえた。
りょうは上空を見上げる。
そこには悠々と翼を広げる夜鷹と梟がいた。だが一瞬目が合ったのも束の間、バサバサと翼を動した後、ぐんと高度を上げていく。
りょうは後ろを振り返った。
今の鳴き声はまさしくりょうに警戒を発しており、背後に"誰か"がいるのだと暗に告げている。
そこには会津藩士らが並んでいて、更に後方には、姉小路が乗っているであろう煌びやかな駕籠の上部が見える。その周りは長州、肥後、紀州ら、所謂過激攘夷派の精鋭が囲み、真っ直ぐ前を見据えている。だが、りょうの位置から全ての面々を確認するのは不可能だった。
りょうは歩きながら、目を閉じた。
周囲の者はそれに気付いて驚くも、家茂に無言で制されてとどまる。
りょうが何かを考えている時は、どんな状況であっても静観する。家茂は短い間に会得していた。
日和見主義は、生麦事件の解決で幕府が有利に立ったと思っているようだが、そんなものは何の意味も持たない。そもそもそれだけの為にあの事件を解決したわけではないし、また解決したからといって、長州らが大人しくなるなど万に一つも無いことを知っていたからだ。尚且つ重要なのは、それ以外に"敵を増やした"ことである。
りょうは将軍としての家茂の権威の回復を第一としている。それは世間へというより、幕府に対してである。無論、根底にあるりょうの真意はそれだけにとどまっているわけではないが、あくまで現状の目的は一つだ。
その為には、相手が誰であろうと排除するしかない。
その後、一行は堺に到着した。
出迎えたの勝海舟である。相変わらず余裕のある表情でりょうを見た後、お偉い方に挨拶を済ませて家茂と姉小路を順動丸へと案内した。
順動丸に乗船するものは限られている。家茂、姉小路、容保は言わずもがな、板倉と小笠原、複数の小姓。そして警備は大坂奉行所の与力や会津藩士、姉小路の付き添い数名のみで、残りは待機となる。
りょうは船に乗り込む人々を一人一人確認した。
「42点…59点……」
「な、なんだその点数は」
小笠原がギョッとした。
「91点……63点……8点」
「8ッ…!…それは低過ぎないか?」
8点の評価を受けた男があからさまに肩を落とした。
「オゥ…3点」
りょうは「呆れた!」とばかりに額に手をあてて首を振る。8点の男は途端に元気を取り戻し、泣き崩れた3点の男の肩を叩いて慰めた。
目糞鼻糞である。
そして最後の集団が前を通り抜けた時、りょうは漸くある男に気付いた。
(……しばらく見ぬ間に老けたでござる)
心の中で毒突くりょう。
最後に会ったのはいつだったか、もう随分前のように感じる。よくよく考えたら、歴史上の人物で最初出会った男が此奴であった。
(桂小五郎…またの名を"居眠りの小五郎")
後ろの男に押され、たたらを踏んだ桂を見て、りょうはニヤリとほくそ笑んだ。
姉小路に随従し、家茂の観察兼監視に来たのだろう。
(小賢しいヤツめ…)
水夫らが慌ただしく出航の最終確認をしている中、全員が乗り込んだのを確認した勝が、家茂と姉小路に出航時間を告げる。家茂は辺りを見渡して舷梯を昇るりょうを見つけた。
「りょう。足元に気をつけるのだ」
「恐れ入りまする」
りょうは桂の視線を感じた。
いや、桂だけではない。その場にいる過激派の視線が突き刺さる。
将軍直々に声をかけられた子供。
更には、将軍自ら手を差し伸べている。「奴は何者だ」と、彼らの目が告げていた。
◇◇◇◇◇◇◇
摂海運航中
「あの男が、小笠原か…」
桂の問いに寺島が頷く。
「だが、奴は将軍の懐刀ではないと思います。歳が行き過ぎていますし。14、15の少年だと聞いたんですが」
家茂の周りにはいつも4~5人の小姓がいる。常に近侍するものは限られており、中でも三人は家茂より歳上に見えた。その身なりからおそらく身辺警護の側近だろう。残りはまだ5~6歳、無いし10、11ほどの幼い顔立ちで、身の回りの世話をする小姓衆のようだった。
「某はあの少年かと考えたんですが」
「20は超えているんじゃないか?」
「ですね…」
「まあ、将軍の小姓とも限るまい」
桂はそう言いながら、小笠原や他の小姓らにも目を配る。ちょうどその時、姉小路、老中、そして勝が水平線を指差しながら話をしていた。
「向こうが松帆という地でございまする。対岸の舞子にも砲台を築き、瀬戸内海からの侵入を防ぐ役目を果たしましょう」
「南からの侵入は如何する」
「砲台は紀州、そして天保山にもいくつかありまする。むろんそれ以外にも神戸は当然ながら、西宮の今津、香枦園浜にも配備する計画でございまする」
姉小路は嬉々とした表情でしきりに頷いている。これだけの備えがあれば容易には攻めてこられないだろうと顔に書いてあった。
「そなたら、如何が思う?」
姉小路が二人に問うと、寺島は蒼々とした口調で口を開いた。
「防備が万全なれば、攘夷決行の足がかりとなりましょう」
「うむ。我が国の力を持ってすれば、卑しい外国人など尻尾を巻いて逃げ出すであろうな」
ホホホと公家らしい笑い声が響くと同時に、馬鹿にしたような誰かの笑い声がした。
「いや、失礼を」
勝であった。
「おや、桂君」
「御無沙汰しております」
勝は寺島の後方に立っていた桂に気付き、軽い調子で手を挙げた。
彼らはほんのひと月前に大坂で対面している。桂が海防の意見を聞く為に、軍艦奉行並の勝を訪ねて来たのである。
「長州の若者は剛毅な者ばかりで何とも羨ましい限りだ」
勝にしてみれば単に褒めたつもりであったが、寺島は馬鹿にされたと思い、グッと前に進み出た。しかしすかさず桂が「場所を弁えろ」と耳打ちすると、寺島は不遜な態度で引き下がった。
「いやいや。言葉足らずで申し訳ない。こちらにも貴殿らのように有能な者が多くいれば、今のような事態にはならなかっただろうと思っただけだ」
歯に物を着せぬ言い方に周囲の方が緊張するが、勝は何処吹く風で話を続けた。
「これほどの防備があればと、皆様方のお気持ちはよくよく理解出来ますが、これほどの防備を持ってしても、外国を蹴散らすことは出来ませぬよ。単なる時間稼ぎのみで、敗北に喫するのは必然でありましょう」
さらりと言った勝に周りは目を見開いた。
「防備にも強化にも"予算"というものがありますゆえ」
「そんなもの日の本全体から掻き集めればどうにでも…」
姉小路が口を挟むと、勝は首を振った。
「予算には限界があり、そして防備には限りがない。何れは崩壊することを意味しております」
「ではどうすれば良いのだ?」
「他国と、積極的に貿易を行うことです」
「それは!開国を意味するのではないか!」
「開国が日本の滅亡ではございませぬ。開国こそが日本を強くするのでございますよ。諸外国が強い理由も、経済が安定しているからに過ぎませぬ。真の戦争とは肉と肉の戦いではなく、知の知の戦いなのですから」
「知と知…」
勝は振り返った。
その視線の先には家茂と容保が水平線を眺めている。その横で、片膝をついて控える子供がいた。
「あれは愛する我が息子にございます。親が言うのも何でございますが、なかなか見所のあるーーーー」
「う、海坊主!?」
「ほら、そこに。…おや隠れたでござる」
「みみみ見間違いではないのか!?」
「それがしめの視力は、四キロ彼方の親父の浮気現場も正確に把握出来まする」
「な、なんと!」
「肥後守様。掛け声をかけねば再び現れまする」
「なんと言えば良いのだ!?」
「"ヤーヤーヤー、ヤー、ヤーヤーヤー"でございまする」
容保は声を荒げた。
「ヤー!ヤーヤーヤー!ヤーヤーヤー!」
「今宵は海が荒れまする」
「ヒィィイイィ!」
「ーーーーー息子にございます」