115
『馬鹿なことを言うな!!』
思わず立ち上がったのは対面に座るヘボン医師と妻以外の全員だった。その光景に小笠原と右仲はビクッと肩を揺らすも、「またか」と半ば諦め切った顔で溜め息を吐いた。
『そのような話聞いたこともない!デタラメだ!!』
『事実でござる』
『何を根拠にっ』
『何故なら、その少女はそれがしめの妹でござる』
『い、妹?』
『そう。双子の妹…』
りょうはゆっくり立ち上がる。
両手を後ろに結び、まるで紳士のように、一歩二歩と進んで窓の外へ目をやった。
『あの日妹は親友のワトソンとモリアーティ教授と共にマーシャル家に御厄介になっていたでござる』
何かを思い出すように薄く目を開き、透明パイプを持つ。その姿はさながらシャーロックホームズのようであった。
『ワトソン?…モリアーティ教授?』
『相棒でござる。ほら、あれをご覧下され』
りょうが指をさした方向に黒い影があった。ニールを含む英吉利人、そしてヘボン医師が窓辺に近付くと、目を細めてそちらを見る。
そこには一羽の夜鷹がいた。
『あの美しい夜鷹はワトソン。残念ながらモリアーティ教授は京に滞在中ゆえ、本日は欠席にござる』
そう言って、りょうは手を広げた。
すると夜鷹は一瞬でりょうの胸に飛び込む。
「ワトソン!!」
「キョキョン!」
ぎゅうぎゅうと懐かしい匂いを確かめるように、二人は幸せを噛みしめる。りょうの目から涙が溢れた。
『その鳥が何だと言うのだ!馬鹿馬鹿しい!』
りょうは涙を拭い、鈴木君をテーブルに座らせる。途端英吉利人らが顔を顰めた。
『その畜生を摘み出せ!』
『ワトソンはそれがしめにとっても良き相棒にござる!侮辱する者は抹殺するでござる!』
「ギョオオォオ」
『ヒッ』
翼を広げた夜鷹は、威嚇するには充分な大きさだった。英吉利人らは皆後退り、息を飲む。りょうは宥めるように夜鷹の翼を撫でた。
『妹は以前よりウィリアムと懇意にしておりましたでござる』
『馬鹿な…そんな話は…』
『知らないはずはありますまい。あのウィリアム・マーシャルのような馬鹿正直な男が、いくら祖国の為とは言え、自分達のために命を落とした少女を蔑ろにするとは思えませぬ』
『自分達の為?』
ヘボン医師が割り込んだ。
『妹が何故マーシャル家へ訪れたのか。それは彼らが観光へ行くのを知り、東海道神奈川宿から川崎宿までの通行禁止の通達に行ったからにござる』
『そ、それは本当ですか?』
りょうはこくりと頷いた。
『しかし彼らは忠告を無視したでござる』
ニールはドンとテーブルを叩いた。
『例えそうであっても!リチャードソンが少女を殺害する理由がない!』
『リチャードソンは少女を疎ましく思っていたでござる。"たかが日本人の小娘が、高貴なる我が英吉利人に命令をするとは。大名行列が何だ。列島民族は我々に道を譲りこそすれ、こちらが引くなどあり得ない"』
りょうはクククと笑って振り返った。
『そう。今の貴殿らのように』
図星を突かれ、ニール以下英吉利人はサッと蒼ざめた。
『彼らが出発し、妹はその後を追って生麦付近に到着したでござる。その時には既に薩摩藩と対峙していた状況であり、一番手前にいたウィリアムを先に逃がし、更にクラークをも逃す。最後はリチャードソンでござるが、彼は斬られながらも、その手に拳銃を構えていたでござる。妹は彼を庇う為に間に割り込みましたでござるが、リチャードソンはそれ幸いに妹を攫い、彼女を人質にして馬を走らせたのでござる』
りょうはテクテクと歩きながら、空気パイプを吸い、フーッと吐き出した。無論煙は出なかった。
『しかし、彼の傷は自分の想像よりも酷い状況にあったでござる。馬もまた傷を負っていたゆえ、全く速度が出ませぬ。深手を負った彼は妹を取り落としてしまったでござる。妹は今のうちにと麦畑の方向へ逃げるでござるが、リチャードソンは死への恐怖から自暴自棄になり、妹を銃殺したのでござる。そうして彼はその場で気を失い、落馬したのでございまする。薩摩藩が彼に追い付いた時は既に事切れ、虫の息だったそうな』
『……もしそれが事実なら英吉利国の要求は、横暴としか言えないが…』
ヘボン医師は考え込むように腕を組んだ。
『お待ち下さいヘボン医師。たかが子供の戯言をまさか貴方ともあろうお方が信じるのですか?』
『いや、勿論証拠が無いと何とも言えんが』
ニールは平静を装い、取り繕った笑みを浮かべた。
『あの事件の際、近くに住む男がこう証言している。…"銃を持っていたのは少女であった"と。おそらくリチャードソンは少女を助けようと思ったにに違いない。ゆえに戦線離脱する目的で少女を連れ去ったのだろう。……しかし運悪く薩摩藩に銃撃され、不幸にもそれが当たったのだ』
りょうは突然笑い出した。
『稚拙な推理にござる』
『何だと?』
『幼い子供が銃など持っているわけがないでござる。常識でござるよ』
『し、しかし我々はそのように…』
『ならばお聞きする。そちらの国では、六つの少女が銃を使用するのでござるか?』
ニールは押し黙った。
『近くに住む男というのは豆腐屋を営む村田でござる。村田が事件を目撃したのは事実でありまするが、当時その者は泥酔状態であり、毎回聴取する度に証言が変わりまするゆえ、幕府内では信憑性が無いとして認知されておりまする』
『馬鹿な…』
『また薩摩藩が発砲したというのも虚偽にござる』
『なんだって?』
『確かに薩摩藩は鉄砲を構えてはおりまするが、一発足りとも撃っておりませぬ。これは村田以外の住人が証言しておりまする。確かに二発の銃声は聞こえたが、一発はリチャードソンの方向から放たれた銃声であり、薩摩藩士らの後方に立っていた大木に当たったと』
ニールの表情がみるみるうちに変わった。
『確かによく考えれば、藩の鉄砲隊などは上司の命令で一斉に撃つのが基本にござる。そのような声を聞いた者は誰一人としておりませぬ。そして二発目は先程申し上げた通り、リチャードソンが妹を銃殺する為に放った一発』
りょうの推理は人々を納得させるものだった。確かに辻褄が合う内容である。ただその少女が、一般的な"少女像"を有しているならば、であるが。
『……まるでその目で見たようなことを言うが、証拠があっての発言だろうな?』
『ウィリアム・マーシャルに聞けば、全て解決にござる』
勝算はマーシャルにかかっていると言っても過言ではなかった。彼が真実を発言すれば、"小栗(後藤)怜"が彼らの為に行動を起こした事実は明るみになる。
当然ながら、リチャードソンが怜を殺害した事実はないが、その場面をマーシャルもクラークも見ていないのだから何とでも言える。
『成る程…貴様が先程マーシャル氏を呼べと言ったのは、それを証言させる為というわけか』
ニールはほくそ笑む。
『残念ですな』
額に手を当て、さも気の毒そうに首を振った後、
『マーシャル氏は……』
ニヤリと口角を上げた。
『事件の事を覚えておらぬ』
りょうはヘボン医師に目をやった。
彼は難しい表情で頷き、肯定を示す。これはりょうにとって想定外であった。
『彼は…ウィリアム・マーシャルはね、相当なショックを受けていたわ。私達も懸命に尽くしたけれど…』
クララが申し訳なさそうに言うと、ヘボン医師は後に続いた。
『事件前後の記憶が一切無いんだよ』
りょうはつかつかとヘボン医師の前に進み寄った。
『ウィリアム・マーシャルは今何処に?』
『療養の為に夫人とその妹、そしてクラークと共に日本を離れている』
今四人はマーガレットの住む香港で療養しているらしく、しばらく戻る予定は無いらしい。りょうは「ツイてない」とばかりに舌打ちした。
『使えぬ男どもでござるな。全くこれだから英吉利人は……。まだ亜米利加人の方がマシでござる』
りょうの暴言に英吉利人は立ち上がる。しかしニールがそれを制した。
『想像力逞しい推理については褒めてやろう。しかし貴様の話は荒唐無稽な妄言だ。そう思いませんか?ヘボン医師』
ヘボン医師は息を吐いた。
『私の口からは何とも』
『でしょうね…ククク』
『だが……』
一瞬言い淀んだ彼は、意を決して口を開く。
『当たらずとも遠からず、といった印象ですな』
少なくともヘボン医師は英吉利の味方でもなかった。というのも彼もまた知り合いと共に、尾張藩の大名行列に出くわせた過去があった。ただこのような事件にはならなかったのは、彼らが日本文化を理解していたに他ならない。
『しかし証拠が、ね』
ニールはしたたかな男であった。
彼は事件直後、比較的軽傷だったマーシャルから事件の概要を聞いている。確かに一人の少女の存在について言及しており、りょうの発言の通り、少女に助けられたとも言っていたのだ。それはクラークも同様だった。
ただ彼らはその後のリチャードソンと少女がどのようになったか見届けていない。尚且つ、ヘボン医師にさえ告げていないが、マーシャルの怪我は薩摩藩から受けたものでは無く、逃走途中で転倒したり落馬したりのトラブルで負った傷である。
よって英吉利側にとって非常に不利な状況であった。
現状この事件において、各国が英吉利に対し同調している風に見えるが、実際はそうでもない。特に亜米利加などの新聞社は英吉利を批判している記事が多い。
例えば亜米利加人の女性宣教師は「幕府の勧告があったにもかかわらず、彼は道を譲らず行列に割って入った」と非難し、また別の亜米利加総領事館に勤める男も「英吉利人が非礼を招いた為の自業自得」だと糾弾した。
加えて、チャールズ・リチャードソンを良く知る英吉利人は、彼を好意的には見ていないのも悩みのは種であった。例えば北京在住の英吉利公使は、彼に対して冷静な見解を示しており、罪の無い下位の者に残虐な方法で暴力を加えることがあり、極めて素養の無い浅慮な人間性だと証言しているのだ。
つまりニールにとって、不利をいかに逆転させるかが重要であった。特にマーシャルについて、彼は少女の死に責任を感じていた。事件を招いたのは自分達の方であるとのたまったのだ。
ゆえに幸運だったのは事件から数日経ち、偶然にもマーシャルが記憶障害に陥ったことであった。これを機に彼らを日本から遠ざけるのに成功し、更には薩摩藩が黙秘していることも英吉利側を有利にさせたのである。
『さあ、幕府代理殿』
ニールは朗らかに手を広げた。
周りの英吉利人らも僅かに喜色を浮かべている。
『まだ何か言いたいことがあるのなら、今のうちに聞こうではないか。それとも、もうネタが尽きてきたのかね?』
『………』
りょうは俯いた。
いつの間にか足元に鈴木君がいて、翼を広げては閉じ、また広げては閉じを繰り返している。りょうの眉間に皺が寄った。
「お、おい…話はもう終わったのか?」
小笠原が覗き込むようにして、顔を寄せた。成り行きがよくわからない彼でも、その場の空気が悪い方向に向かっているのを、肌で感じとっていたのだ。
『さっきまでの威勢はどうしたんだね?ん?』
英吉利側から失笑が零れたその時、『おお!そうだ!』とニールがテーブルを軽く叩いた。
『幕府代理殿は先程、今日の協議について、表に待ち受けておられる各国の記者らに全てを話すと申していたが、仰る通り、確かに一理ありますな!』
ニールは新たな名案を思いつき「勝利」を確信した。
記者を前に、協議の内容及び結果を全て詳らかにし、完膚なきまでに日本を叩きのめせば、世間の非難を一掃することが出来るかもしれない。まさにこれこそ一石二鳥の名案だと。
りょうはハッと顔を上げた。
ニールはニヤリと笑みを浮かべたまま、りょうの反応を楽しんでいるかのようである。
『彼らをここに呼びたまえ』
『構わないのですか?』
『幕府代理殿の希望なのだから仕方がないだろう?』
『承知しました』
スキップしそうな勢いで一人の男が出て行くと、ものの五分もしない内に記者らが雪崩れ込んできた。
『さあ。お集まりの皆さん』
ニールは窓を背に、高らかに宣言する。
『我が英吉利国と日本国との間に起きた不幸な事件について、我々はより建設的に物事を解決するに至って、冷静且つ理性的に協議を進めて参った』
記者が次々と声を上げた。
『事件の概要を説明して下さい!!』
『それは解決したと捉えて構わないのですか!?』
『幕府より賠償金は支払われたということですか!?』
『キョキョキョキョ!?』
『英吉利の要求は横暴だと非難されていますが、それについて一言お願いします!!』
現代で言うところの"記者会見"である。
『一つずつ、お答えする』
ニールは似合わないウィンクをすると、
『事件の説明する前に、犠牲者となったチャールズ・リチャードソンと、日本の少女に御冥福をお祈り致しましょう』
紳士らしく一礼し、胸に手を当て黙祷を捧げた。
『今回の不幸な事件は、我々の想像を超えるものである。周知の通り、今までにも数々の事件が、日本国によってもたらされているが、省みるに被害者は皆、一定の地位を持つ者ばかりであった。しかし此度の件については、英吉利の、最も模範的な一般人が犠牲になった事実を強調しなければならない』
ニールは一言一言噛み締めた。
『日本文化に乏しい彼らではあったが、それが罪と言えるだろうか。彼らにしてみれば、その文化を理解しようと大名行列を観覧したに過ぎなかったであろう』
もっともらしく告げる彼もまた、並々ならぬ担力の持ち主だと言えるだろう。
『武器を持った薩摩藩の若者は、リチャードソンのみならず、自国民にまでその刃を向けた。それを見て、リチャードソンは傷付きながらも少女を助けようと馬を走らせるが、血気盛んな鉄砲隊の放った一発が、不幸にも少女の身体に当たり、それが致命傷となってしまったのだ。更にリチャードソン自身も深手を負い、手綱を操ることも不可能になった。落馬した彼は追い付いた若者らによってトドメを刺され、そして絶命した。遠く離れた母国の地を踏むことも叶わず……』
ニールの発言に記者らが騒ついた。
『それは事実ですか!?ミスターリチャードソンが少女を助けようと?』
『噂では傲慢な男だと聞いたが、あれはガセだったのか?』
流れは完全に英吉利に向いていた。
ニールは記者らを鎮める為、パンパンと両手を叩く。
『結果的に少女は死亡してしまったが、その勇気は素晴らしいと思わないかね?』
『た、確かに』
一人の記者が相槌を打つと、ニールは満足気に頷いた。
『皆さん。リチャードソンは少女の為に命を落としたと言っても良い!我々英吉利人はそう考えている。まさしく彼こそ英雄と呼ぶべきに相応しい人物だと思うのだ!』
この発言はヒーロー好きの欧米人には抜群の効果があった。記者らは頬を紅潮させ、メモを取っている。
『そしてミスターリチャードソンは、子供達の世界にとっても、英雄である!』
『おお………』
しかし、それはある人物のたった一言で奈落の底に突き落とされる。
『異議あり!!』
我が日本国、幕府代理殿は満面の笑みで挙手していた。