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「あれが外国船でござるか」
「そのようだ」
左に横浜を捉えた幕府御用船は、十数隻の外国船を目の当たりににした。甲板に居並ぶ唐津藩士や水夫らは、その物々しさに圧倒され、口を開くことも出来ない。
「あの中に入っていくには勇気がいるな」
小笠原は呟いた。
「まさかこのまま開港場に?」
「もう時間がないのだ」
「それはやめた方が良いでござる」
「何故だ」
「江戸城には水戸、尾張、留守居らがおられるのでござりましょう。先ずは先に慶喜公の方針を伝えるべきにござる」
「……あれは拙者と刑部卿様との間で交わされた秘中の秘なのだ」
「あんなもの秘でも何でもありませぬ。よほどの馬鹿でもない限り、皆気付いておりまする。こんな子供でも理解したというのに」
確かにそうだ。
あの場所には水野、板倉も同席している。慶喜の真意に気付かぬ筈はない。いや寧ろ、彼らもまた小笠原一人に責任を取らせようと思っているのかもしれないのだ。
「大体良く考えてみて下され。国の一大事だというのに、たかが老中格、たかが外国御用掛如きに、たった一人で矢面に立たせるなど正気の沙汰ではございませぬ」
「ならばどうしろと」
「江戸城へ行き、慶喜公の方針を詳らかにするのでございまする」
「しかし…」
りょうは船縁を叩いた。
「上司の下した命令を、部下が共有するのは至極当然でござる。自分さえ我慢すれば良いなど、ただの自己満足と言うもの。その自己満足の所為で、それがしめも、ここにおる者達も皆、命を捨てねばなりませぬ」
小笠原は言葉に詰まった。
「自分さえ」というのは、確かに聞こえは良いが、側から見ればただの"奢り"である。自分にも、彼らにも家族がおり、例え命を落としたとしても罪が消えるわけではなく、家族が責任をを取らされることも考えられる。
「お前もそう思うか?右仲」
右仲と呼ばれた青年は悔しげに俯いた。それは自分や家族のことよりも、我が主人だけが損な役回りであることを嘆いているようだった。
「それにもしかしたら、水戸様や尾張様から、より良い案を頂けるかもしれませぬ」
小笠原は成る程、と思った。
りょうの言うように、彼らとてただひたすらに集結する外国船を見ていたわけではないだろう。混乱する江戸を任されているのは何も自分だけではない。寧ろ彼らを蔑ろにし、慶喜の言われるままに行動を起こすのは、後々波乱の種になり兼ねない。そう思えばこれは自然の流れであると言える。
「……わかった」
最終的に小笠原はりょうと共に江戸城に上がった。御用部屋に集められたのは水戸藩・徳川慶篤、尾張藩・徳川慶勝を筆頭に、老中・井上正直、松平信義、更には水野忠徳など幕臣ら数名である。
小笠原は慶喜の命令を一言違わず伝え、彼らの反応を待った。
「な、なんと…」
「では開戦も辞さず、と?」
「ま、待て。上様はまだお戻りになられないのか?」
彼らは矢継ぎ早に言葉を発す。
結果的には支払われるものと彼らは思っていた。そもそも幕府は賠償金に対しては合意しており、支払いの段になって(将軍不在により)期日延長を申し出ている現状である。つまりそれを全てひっくり返すとなれば、開戦は免れない。
「いや、待たれよ」
しかし慶喜の裏に気付いた男がいた。
「それは…梯子を外されたと言うことではないか?」
尾張藩・徳川慶勝である。
彼は慶喜の真意に気付いた。攘夷決行を約束させられた今、朝廷を無視して賠償金を支払うことは出来ない。それ故に賠償金中止の命令をしたのだが、それすらも慶喜の考えた一種のパフォーマンスに過ぎず、真意はただ一つしかないという事実。
小笠原は平伏したまま、ゆっくりと頷く。皆が息を飲む音がした。
「つまり…こちらで勝手に賠償金を支払い、戦を回避しろということなのだな?」
「それしか方法がありませぬ」
「……」
長い沈黙の後、水戸藩・徳川慶篤が口を開いた。
「命令とあれば、仕方あるまい…」
皆の視線が慶篤に集中する。
つまり彼は慶喜の、小笠原に責任を押し付ける案に賛成したということである。
「う、うむ…」
「上様が京におられる以上、我らからすれば朝廷に人質を取られているといっても過言ではない。早急に英吉利と和平交渉し、上様には戻ってもらわねばならぬ」
他の老中らもバツの悪い顔をしながら、同調する。りょうは余りの横暴ぶりに声を出さずにはいられなかった。
「恐れながら申し上げまする。皆様方はたかが下民の我らに、全て押し付ける気でございまするか?」
「押し付けるとは聞こえが悪いではないか!」
「ならば我々に全てを委ねると?」
「それが慶喜公の御命令ならば、従う他あるまい」
「おお……何とまあ武士の鑑にございまするな」
「貴様は何者だ!無礼であるぞ!」
「それがしめが何者なのか今はどうでもよいことでござる。賠償金を支払わなかったからといって、戦などになるわけがないでござる」
「それはまことか?」
「当たり前でござる」
きっぱりと言い切ったりょうに対し、たかが子供の言葉を彼らは鵜呑みにした。
「そ、そうか。ならば安心…」
「例えば」
りょうはじろりと皆を見回した。
「彼らが"巨人"とするでござる。対し我々は、その足元にも及ばぬ小さな蟻」
場の空気は一瞬に冷え切った。
「戦になる前に踏み潰されて"終わり"にござるよ」
カラッと笑い転げたりょうに皆が真っ青になった。
「どうせやられるなら一瞬の方が良いでござる。苦しみもがいて命を落とすなど、嫌でござりましょう?」
そういうことを言っているんじゃないと誰もが思ったが、あまりに衝撃過ぎてそれ以上何も言えなくなってしまったのだった。
◇◇◇◇◇◇◇
横浜沖
「一体おぬしは何がしたかったのだ!」
小笠原は怒り心頭だった。
「結局引っ掻き回しただけで、結果は一向に変わらなかったではないか!」
「落ち着かれませ!若様」
右仲が止めに入る。
しかしりょうは平然と言い放った。
「そんなことはありませぬ。呑気な彼らが、"真実"を知ることに意味があるのでございまする。更にはこれによって、誰が敵で誰が味方か良くわかりましたでござる」
「……何だと?」
「ご安心を。骨は拾いまする」
りょうはニヤニヤと笑みを浮かべながら、ぽそりと呟いた。
「そちらがその気ならこちらも容赦はしない。身分に胡座をかいて、せいぜい寝首をかかれぬよう注意するが良い……ふふふ」
氷点下の空気が周囲を取り囲んだ。
「なんだか寒気がするのだが…」
「若様……き、気のせいにございまする」
駐日英国代理公使・ジョン・ニールとの対面まで半刻を切っていた。
◇◇◇◇◇◇◇
横浜開港場から入港した幕府御用船は、英吉利の役人らに誘導されて碇泊した。
小笠原を筆頭に5名が陸地に降りる。残りは船で待機となり、周囲に外国船が取り囲む状況となった。
突き刺さる外国人らの視線に、小笠原を含む唐津藩士らもやや緊張気味である。りょうはじろじろと辺りを見て、一つの木に注目した。
そこには懐かしい相棒の顔があった。
こちらを見て小さく鳴いている。今直ぐ呼んで抱きしめたい衝動に駆られるが、それを押し留めて馬車に乗り込んだ。
案内されたのは居留地内、英吉利公使館。公使館の門前には、警備員と共に複数人の男がたむろしている。りょうはその男らが何者なのか直ぐに気付いた。好奇な目と筆を走らせる姿から、おそらく各国の記者だろう。
馬車は彼らの横を素通りし、門を潜り抜けて公使館の扉の前に止まる。りょう達が降りると、まるで逃げられないように配置された警備員が、両脇にずらりと並んでいた。
公使館の中は吹抜けの天井で、上部にシャンデリアが取り付けられている。赤い絨毯が敷かれた緩やかな螺旋状の階段が二階へと続き、光の差し込む長廊下を進むと一番奥の両開きの扉に通された。
中は約三十帖の広さを有した一室である。長テーブルの上にはどデカイ花瓶があり、そこには薔薇の花がこれでもかといった感じで飾られている。
りょうはぐるりと見渡して、開けた窓に目をやった。青々とした庭園には様々な木々が塀伝いに並び、外からの目を隠している。また数メートルおきに配置された軍人が、侵入者を警戒し目を見張らせていた。
「どうぞお座り下さい」
一人の男が声をかけた直後に、ぞろぞろと三名の英吉利人が入室する。初老の男がジョン・ニールであろう。その後ろには三十代くらいの男、更に二十歳そこそこの若い青年が続く。最初に声をかけてきたのはどうやら通詞だった。(以下『』英語)
『我が英国公使館へようこそ。私は公使代理、エドワード・セント・ジョン・ニールと申します』
『初めましてでござる。それがしめは幕府代理、勝りょうと申しまする。隣りの男は付き添いの小笠原でございまする』
りょうは小笠原を見て小声で「挨拶を」と言った。小笠原は頷くとなるべく落ち着き払った調子で口上を述べる。
「拙者は小笠原長行にござる。先ずは被害者の御冥福を祈ると共に、再三の期日変更について陳謝したい」
『小笠原は遅れてすまぬと申しておりまする』
かなり端折って通訳をするりょうだったが、ニールが動かないのを見て『座ってもよろしいか?』と声をかけた。
『…もちろん』
ニールは我に返った。
『いや待て待て!どういうことだコレは!』
こんな小さな子供が幕府代理など、考えられないどころかバカにしているとしか思えない。
『何の冗談だ!』
『冗談?まさかここへ来て冗談など申しませぬ』
『お前のような子供が代理のわけがないだろう!』
『事実ここにおりまする。それとも貴殿は子供相手だと何か困ることでもおありか?』
『ない!そんなものはないが、国家間の外交問題に子供を代表者にさせる国など聞いたことがない!』
りょうはめんどくさそうに踏ん反り返る。深すぎる溜め息を吐き、頭をポリポリと掻いた。その姿は完全に相手を舐め腐った態度で、英吉利側は元より、小笠原らをも震撼させた。
『それがしめは、我が主君より全権を委任されておりまする。何故ならそれがしめは、かの亜米利加総領事、ハリス殿を始め、そちらの公使ラザフォード・オールコック殿とも懇意にしておるからでござる』
『そのような戯言…』
明らかに強張るニールだったが、確かに日本人でここまで流暢に英語を操る者はいないということに気付いた。ならばこの者が事実全権を委任された幕府代理というのも、あながち嘘ではないかもしれない。
むろん半信半疑ではあったが。
『信じぬのならそれも良し。子供などと話が出来ぬと申すならば、今直ぐ帰る所存にございまする。ただ、今日の事は表に待ち受けておられる各国の記者に申し述べる所存にござる。"英吉利は一方的に協議を放棄した"と』
『なんだと!?』
『此度の件において、各国のマスメディアはどのように収束するか大変興味があるようでございまするな。結構な記者が表におりましたでござる。どちらにせよ、こちらとしては特に隠し立てすることも無く、寧ろ二度とこのような不幸な事件を起こさない為にも、注意喚起を促す意味で、事の成り行きを公ににすることが適切かと思われまする』
ニールのこめかみに青筋が立った。
『因みに、放棄するということは、その全てを放棄するということにございまする。よって支払い義務は生じないと同義でござるが、それでもよろしいか?』
『黙って聞いていれば、めちゃくちゃな理論だ!』
『まあ放棄した方が身の為でござる』
『馬鹿なことを言うな!』
『ならば協議を進めてもよろしいか?』
ニールはグッと詰まった。
『……良かろう』
りょうはニヤリとして、姿勢を正すと一番端に座る若い男に声をかけた。
『貴殿はアーネスト・メイソン・サトウでござるな』
ギョッとした若い男は思わず腰を浮かせた。
『オールコックから聞いておりまする。若く優秀な通訳生がおられると』
『閣下から、でございますか?』
『"エルギン卿遣日使節録"を読み、我が日本にいたく興味を持ったそうな』
『は、はい。その通りにございます』
この時彼らは、りょうの発言が全て真実だと悟った。たかが子供役人が、一介の通訳生でしかないアーネスト・サトウを知るはずがない。となれば本当にオールコックと面識があり、これほどの軽口をたたく間柄であると思わざるをえなくなったのだ。ただりょうにしてみれば、単に写真で彼の顔を知っているにしか過ぎなかったが。
『日本語は覚えられたでござるか?』
『いえ…なかなか難しく』
『日本語は英語と異なり習得するまで時間がかかりまする』
『語学というものは全てそのように思われます』
『そうでござるか?それがしめは英語を習得するのに一週間もあれば余裕だったでござるが』
りょうはさらりと嘘を言って、置き去りにされたニールに向き直った、
『本題に入る前に、一つお頼みしたいことがありまする』
『頼み?』
『ここに被害者の一人である、ウィリアム・マーシャルを呼んでほしいでござる』
『なんだって?』
『傷の具合を確認し、直接謝罪したいのでござる』
ニールは怪訝そうに眉を顰めた。
『何か問題でも?』
『いや、ない。しかしそれはお断りする。彼らはあの事件により、心身躁鬱状態にある。未だ恐怖に怯え、日本人を見るとパニックになるのだ』
『おお……それはまた大変でござるな』
『人ごとのように仰るが、元々は』
『ならばヘボン医師をお呼びして頂きたい』
りょうはニールの言葉を遮った。
『ヘボン医師だと?』
『彼が皆の診察をしたと聞き及びましたでござるが?』
『た、確かにそうだが』
『ウィリアムマーシャルが来れないのであれば、ヘボン医師に彼らの容体を聞くしかあるまい。お手数でござるが、お頼み申す』
ニールは、この子供が被害者の状態を確認しようとしているのだと思った。英吉利側が賠償金欲しさに大袈裟に騒いでいると考え、それに難癖を付けた後、あわよくば少しでも減額出来れば良いと。
日本側の思惑に辿り着いた彼は、やはり蛮族は蛮族だと心の中で毒づく。ならばその思惑を悉く粉砕してやろう。そしてこの生意気な子供を、公衆の面前で跪かせてやろう。
ニールは余裕の笑みで口を開いた。
『宜しいでしょう。直ぐにヘボン医師並びにそれに立ち会った者もお呼び致しましょう』
打って変わったニールの丁寧な口調に、英吉利人達が顔を見合わせた。
『早速書簡を書いて参ります。彼らが来られるまでしばしお待ち下さい。ーーーー客人におもてなしを』
協議が始まるとばかり思っていた小笠原は、途端に慌ただしく出ていく英吉利人らに不安を覚えた。
「……何が始まったのだ?」
「おお…これはセイロンティーですな」
「おい、聞いているのか!?」
「被害者を診察したという医師を呼んでもらったのでございまする」
「医師を?何の為に?」
しかしりょうはそれには答えず、腕を組んで先ほどのやり取りを思案した。
そしてぽつりと呟く。
「まずいでござるな…」