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三の間
「何やら騒がしいな……」
「曲者ではあるまいな」
板倉勝静と水野忠精は顔を見合わせた。二人は共に家茂上洛に従った老中である。側に控えていた小姓は「見て参ります」と二人に告げて、部屋を出て行くと数分もしない内に戻ってきた。
「申し上げます。かの小姓殿が消えてしまわれたと」
「……消えた」
「上様がいたく御心配なされて」
二人は顔を見合わせ、「またか」と肩を落とした。一体何度目だろうと暗に含まれた口調である。
「伊賀守(板倉)殿、ここは私にお任せを」
「かたじけない。和泉守(水野)殿」
水野は「失礼」と言って部屋を出ると、小姓の案内に従って奥へと向かった。
家茂が上洛する直前に勝海舟が連れて来たという小姓は、実に変わった子供であった。とかく食べることしか頭になく、いつも腹を空かせている。
「皆の者。奴は御膳所、もしくは収蔵庫にいる。手分けして探せ」
数十人の小姓、そして近侍の者は「は!」と一斉に頭を下げ、先を争うように走り出す。水野は溜め息を吐いた。
「全く…」
不届き者と手討ち出来れば簡単だろうが、そうは出来ない並々ならぬ理由があった。
幼い頃より時代に翻弄された家茂は、自我も無くまるで人形のようだった。感情を表すことも表情に出すこともしないのだ。
最も高い地位に就きながら、思うままに動かす器も無いと、ある者は"傀儡の将軍"と呼び、反対に慶喜を『今家康公』と呼んだ。
しかあの子供が来てからは、家茂に変化が見られるようになった。何が一体そうさせたのか誰もが首を捻るが、実際見ていればわかる。
あの子供は家茂にとって、もっとも心許す相手であり、ある種の救世主でもあったのだと。
「申し上げます!御膳所にて例の小姓を捕らえました!」
「でかした!案内致せ!」
「は!」
小躍りしそうな足取りで御膳所へ入ると、土間の中央に丸々と太った子供が三人がかりで捕まっていた。
「お前は何をしておったのだ」
「おお……これはこれは老中様。本日はお日柄も良く…」
「な・に・を・し・て・お・っ・た・の・だ」
「上様の御食事の毒味をしておりました」
「ほう…毒味を」
そこへ別の小姓が小声で言う。
「米びつを抱えたまま寝ておりました」
「……」
水野は半眼でりょうを見つめた。
口元にはご飯粒が付き、手には杓文字を持っている。
「それは良い心がけである」
「ありがたき幸せ」
「しかし御吟味役の仕事を奪い取るのは感心せぬ」
水野は後方で膳を持ったまま動かない小間遣の一人を手招きする。
「その者、こちらへ」
「は、はい!」
声をかけられた小間遣は慌てて水野の前に跪き、膳を高々と持ち上げた。
「これか?」
「はい!」
膳の上には小鉢や椀など数種の皿が並んでいる。しかしどれも食い尽くされ、汁一滴も残っていなかった。
「りょう」
「は」
「毒味とは、全て食すことではないぞ?」
「ま、まことでございまするか!?」
「……これを申したのは三回目だ」
「なんとっ」
水野は御台所頭の姿を見とめると声を上げた。
「この者の夕餉は準備せぬように!」
「はは!」
踵を返した水野に対し、りょうはその足元に駆け寄って袴に縋り付いた。
「お、お待ち下され!老中様!」
「お前はもう頂いたのだろう」
「毒味でございまする!」
「馬鹿者!何が毒味だ!」
「ならば代わりに菓子を」
「阿保か!!」
やいやいと言い合いながら去っていく二人。取り残された人々の間に生暖かな空気が流れた。
二条城・白書院
「りょう。勝手に御膳所に行っていたらしいな」
「恐れながら上様」
「なんだ」
「古来より"腹が減っては戦が出来ぬ"とことわざがございまする」
「それくらい予も知っている」
「それがしめはそのことわざを教訓に、いつでも戦えるように準備しているのでございまする」
「ならば聞くが、この京において"戦さ"が起こると考えておるのか?」
「"戦さ"と申しましても、物理的なものだけではございませぬ。人の心の中には、常に様々な葛藤がございまする」
「うむ」
「その葛藤こそが、戦さなのでございまする」
「つまり?」
「空腹に打ち勝つ為の"戦さ"ということにございまする」
「その心は」
「三戦三敗にございまする…」
悲しげに庭を見る小姓。
反省の色はない。
家茂は笑いを堪えた。
「後で京の菓子を取り寄せよう」
「まことでございまするか!?」
家茂が頷くとりょうはにっこり笑顔を見せた。
「さあ寝るといい。疲れたであろう」
りょうがもぞもぞと布団に潜ると家茂はぎゅうっと抱きしめた。
側から見れば歳の離れた兄弟。
しかしりょうにはわかっていた。
家茂はこの抱き心地の良い子供を、ぬいぐるみか何かと間違えているということを。
◇◇◇◇◇◇◇
明朝から二条城は不穏を通り越して険悪な雰囲気に包まれていた。攘夷決行の諸問題に頭を悩ませている幕閣は昨日からほとんど寝ずに話し合いを重ねていたが、結局問題の糸口も見つかっていない状態であった。
上座に座るのは家茂。
一段下がった広間の左手には慶喜、春嶽、容保更には土佐藩・山内容堂、伊予宇和島藩・伊達宗城が並び、その前には老中首座・水野を始めとする三名が横並びに座っている。
全員が着席すると、先ず口を開いたのは春嶽だった。
「昨日申し上げました通り、御上洛に先立ち、身を粉にして努力して参りましたが、公家方には伝わりませぬ。上様が別の案をお持ちならともかく、なければ政権を返上し、かくなる上は、将軍職を辞職された方が宜しいかと存じ上げまする」
周囲が息を飲んだ。
「越前守殿!正気か!」
「上様に対し、辞職しろとは何たる無礼!」
しかし春嶽は詰め寄る老中らを無視し、真っ直ぐと家茂を見つめた。
春嶽は慶喜や土佐藩主・山内容堂らと協力し、朝廷内の穏健派である関白らと、協議に協議を重ねていた。朝廷内は穏健派と急進派に二分されており、急進派は長州藩を後ろ盾にしている。それは京の現状そのままに反映され、幕府同様穏健派の威厳は失墜している状況だった。
勢い付く三条実美ら急進派は、慶喜、春嶽に攘夷期限日を決定するよう迫り、両者はそれに押し負けて、4月中旬に攘夷決行の約束をしてしまっている。故にこれを覆すのは困難と見て、大政を返上し、加えて将軍職をも辞職する案を提示したのである。
「上様の御意見をお伺いしたい」
家茂に視線が集まった。
「……予が」
政事の大部分は老中らが取り仕切る現状で、家茂に決定権は殆ど無い。所詮はお飾りの将軍であり、むろん誰もが知るところであった。
「予が上洛するに至り、攘夷決行の選択しか出来ぬよう計ったのであろう。よもや現状において容易ではないと、誰もが知っていることだ」
「では上様は彼らがそこまで迫るのは何故だとお考えで」
「我が徳川幕府を倒すことを第一の目的であろうな」
齢十九の将軍は、ただの傀儡ではないらしい。誰もがそう思った。
「だが、朝廷はそうではあるまい」
慶喜が割り込んだ。
「長州の激派が公家方の一部に取り込み、朝廷を利用しているのだ。奴らの掌で転がされてはいるが、倒幕までは考えてはおらぬ。大政を返上されたとて政事に関わる自信はないのであろう」
「かといって、我々の苦労に同ずるも無し」
更に容保が追随し、慶喜は笑みを浮かべつつ家茂を再度見た。
「幕府が崩壊すれば、朝廷を牛耳るのは長州だ。そのようなことをすれば、日本は一気に滅びる。………上様、いかがなされるおつもりで?」
まるで他人事のような言い草だが、家茂を試しているのがありありと見て取れた。
「予は越前守の申す通り、大政を朝廷に返上致すのが一番だと思う。もしくは改めて委任を得るか、どちらかであろう」
つまり、政事委任を改めて朝廷から得ることにより、長州などの激派を抑制するということである。朝廷から直々に委任されたと約定があれば、誰からも文句は言われないだろう。
「改めて大政委任を得る……なるほど、それなら攘夷激派の連中を一掃するのも可能かもしれぬ」
「いやしかし越前守殿。朝廷が承諾するかどうか…」
「その時は全て放り投げれば良いではないか」
「上様!?」
家茂は涼しげに言っ切った。
「公武一和とはそういうものであろう。互いが認めあって体制を整えることこそ、日本の未来も明るいのではないか」
◇◇◇◇◇◇◇
協議が終わると慶喜は皆を集めた。
「先程の上様のご様子。暫く見ない間に、すっかり変わられたように思うが」
山内は少々興奮した様子で頷いた。
「上様があのような見識者であられるとは……そう思わぬか?伊達殿」
「まことに感慨深い思いにござる」
慶喜は目を細めて考えた後、水野に向き直った。
「上様の身辺に、何か変化があったのだろうか?」
「いえ特に…」
「無口なお方であったが、今日はなかなかの弁達でござったな」
「私もあのような上様を拝見するのは初めてにございまする」
春嶽の言葉に容保も同意する。
口々に声を揃えて讃えるも、慶喜はどこか腑に落ちない様子だった。
「何者かが口添えをしているのではないか?」
「口添え?」
「まさかそのような…」
「そなたら、江戸より同行したのであろう。何か不審な者が近付きはしなかったか?」
「何を根拠のないことを」
板倉が呆れた口調でそう言うと、慶喜は厳しい表情で一瞥した。
「上様はまだお若い。それを利用し、政事に介入しようと近付く輩がいないとも限らないだろう」
「しかしそのような者がいれば我々が気付かないわけがありますまい」
「不審者という者はそう見えぬから不審者なのだ。例えば道中に、上様に御目通りを願う者などいなかったか?」
「ふむ…」
しばし沈黙の後、水野が思い出したように膝を叩いた。
「不審な、というほどではありませぬが、上様が変わられたのは小姓のおかげかもしれませぬ」
慶喜は眉間に皺を寄せた。
「小姓?」
◇◇◇◇◇◇◇
黒書院
「国を強くするにはどうすれば良いのだろうか」
家茂は園庭を眺めながら言った。
その足元にはいつもの小姓・りょうが控えている。
「富国強兵しかありませぬ」
「なんだそれは」
「現在、日本と欧米では国力に大きな差がありまする。それを解消する為には国を豊かにすることが基本でございまする。つまり経済を発展させ財政を立て直し、豊かにすることが"富国"ということにございまする」
「ならば強兵とは」
「軍事力の強化にございまする。最新武器の輸入、いずれ我が国でも製造出来るようにし、強い軍隊を作るということが"強兵"でございまする」
「なるほど」
「海外に行けばその必要性が理解出来まする。鎖国の長かった我が国では欧米諸国との差が歴然でありまするから」
家茂は感心したように頷く。
「となれば、やはり開国の道しかないのだろうな」
「外国から多数の技術者を呼び、それらを取り入れ、強き日本を作ることに繋がるかと思いまする」
「だが、現状ではそうもいくまい」
「一に必要なのは万民の支持を得ることにございまする」
「万民の支持か……」
それがいかに困難であるか、その表情に出ていた。