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坂本は内心ホッとしていた。
半信半疑のままに勝にカマをかけてみたのだが、やはり当たりだったようだ。
千葉道場に寄宿していた彼は生麦事件を知り、瓦版の中に「ウィリアム・マーシャル」の名を見つけた。以前怜が知り合いだと言っていたことを思い出し、加えて日本人の子供が死亡したという記事を見て、「まさか」という思いで独自に調査に乗り出したのだ。
小栗家へ山田を出向かせ、淀屋にウィリアム・マーシャルを調べさせた坂本は、怜が犠牲となった事実に辿り着く。しかしやや不審なところに着目した。
事件が起きた時刻は昼八ツ(午後14時)だが、「日本人の子供が死亡した」という報がもたらされたのは次の日の朝だった。曰く子供は現場から離れた場所で死亡しており、生い茂る黄金色の麦畑の中で発見が遅れたとあった。
実際生麦村に行った坂本は、近所の聞き込み調査と共に、怜が発見されたとされるその場所まで足を運んだ。もちろん既に何の手がかりさえなかったが、聞き込みで得た気になる話を地元住民から聞いたのだ。
曰く、その男は豆腐屋を営む村田という者で、大名行列が通り過ぎる際は家の中にいたという。騒ぎに気付いて窓から覗き見た時、確かに一人の子供がいて、薩摩藩士に向かって銃を構えていたらしい。その直ぐ後に馬に乗った男が現れ、子供を連れ去ったのだと証言した。
この話は役人にももちろん報告済みで、消えた二人の捜査が行われたのだが結局見つからず、麦畑の所有者が子供の遺体を発見するに至って、連れ去ったのは外国人三名のうちの一人であり、逃げる途中で薩摩藩の鉄砲隊に銃撃され、その流れ弾が子供に当たって死亡したと結論付けられた。薩摩藩側は否定したが、実際銃は発見されておらず、逃げるように京入りし、数日も経たぬ内に薩摩に帰還したのは、疚しいことがあるのではと疑惑が残った。とはいえそれ以上は幕府側も追求出来ず、なし崩し的に封殺されてしまっている。
しかし不審なのは子供の遺体がリチャードソンの遺体より先にあったという点であった。子供を連れ去ったとされる男が外国人なら、三人のうちの誰かということになるが、淀屋の調査によるとマーシャルとクラークはリチャードソンよりも先に現場を脱出したと言い、子供に助けられたと発言したらしい。それが事実ならば、子供を連れ去ったのは必然的にリチャードソンということになる。実際英国側の見解も同じようなもので、薩摩藩の鉄砲隊から子どもを助けるためにリチャードソンが連れ去ったとされている。
だが深手を負っているリチャードソンが子供を抱えて逃げることなど出来るだろうか。いや仮に出来たとしても、遺体の発見場所を考えると、先に落馬しているのはリチャードソンでその後に子供ということになる。
それこそ、ありえないではないか。
流れ弾に当たった子供が先に落馬し、次に深手を負ったリチャードソンが落馬するというのであればその位置関係から、納得もするが……
坂本は第四の人物の存在を考えた。
怜の行動を把握出来る人物がいるとすれば、それは小栗以外にない。
事件当日、小栗は昼に江戸城へ出勤する予定だった。外国奉行という職業の勤務時間は、内容にもよるが昼から夕方、場合によっては夜まで仕事をしなければならない。他の職に比べれば長い時間を拘束されるのである。
しかしその日は暮六ツ。つまり小栗は午後18時に登城していた。普通であれば臨時休暇を取っても良さそうなものだが、それを敢えてしなかったのは何故か。
更に小栗の使いの者と名乗る下僕が、頻繁に勝の屋敷に出入りしている情報を山田が掴んだ。
そこで坂本は勝が何かを握っていると考えたのである。
「そこまで小細工するんは何でじゃ」
坂本はガシガシと頭を掻いた。
「たかがちっさい子供がやろう。ちいと頭は良過ぎるが、先生が気にする程度のもんじゃないぜよ」
勝は首を横に振った。
「アレを普通と思うなら、お前もまだまだ勉強が足りんな」
「やとしても、匿うっちゅうんは並々ならぬ理由があるとしか思えんのじゃ」
勝は思案するように顎に手を置いた。
「匿うというより、隠しているだけだ」
「同じじゃろ」
「全く違う」
坂本は首を傾げた。
「アレを長州や薩摩に取られるわけにはいかねえんだよ」
勝は不敵な笑みを浮かべて言った。
◇◇◇◇◇◇◇
大津・代官所
「りょう、こちらへ」
手招きした青年は涼しげな声で言った。呼ばれた小姓はドスドスと足音を鳴らして側に寄り、彼の前に座した。
"ドスドス"と聞こえは悪いが、本人はわざと音を出しているわけではない。満月のようにまん丸の顔。肥えた身体はちょっと押せばコロコロと転んでしまいそうなほどの体型をしているのだ。
「…あの身体、何とかならんのか」
「シッ!聞こえるぞ」
簡潔に言えば、単なる肥満体型だった。
周囲に控えた近侍の者はあらかさまに嫌な顔をしつつもそれを見送る。彼らが何と言おうとも、主君のお気に入りなのだから仕方がないのだ。
「もうすぐ京だ」
「誠に」
「予は歓迎されまいな」
「万人に好かれる者など、この世におりませぬ」
「貴様!上様に向かってなんたる無礼!」
家茂は近侍の一人を制した。
「りょうの言うことはもっともである」
「し、しかし」
「造言を聞かされるよりは余程良い」
「は……」
生暖かい空気が流れていても、"りょう"は気にもならない様子で家茂の膝辺りを見ていた。
「いかがしたのだ?りょう」
家茂は笑みを浮かべる。
りょうはハッと我に返って目線を合わせると、再び下を向いて生唾を飲んだ。
「ああ…これか?」
家茂は膳の上に置かれた、きな粉がたっぷりかかった団子に目をやった。
「この辺りで有名な力餅というものだ」
「そ、そうでございまするか…」
家茂はジーっとりょうを見つめた。
りょうは膳を凝視している。
「予は先程頂いたゆえ、食べられぬ。誰ぞに下賜しようかと思っているのだが…」
そっと前へ押し出すと、すかさず小さな手が伸びる。家茂はサッと膳を引き戻した。
「さて、誰に致そうか…」
りょうは「ハイ!!」とばかりに満面の笑みで挙手したが、家茂は気付かぬふりをして周りを伺い見た。
「上様…」
家茂の後方に座っていた男が笑いを堪えつつ嗜める。両脇に並んだ家臣もまた、目を逸らして肩を揺らした。
「そうか。誰もおらぬか…」
しかし家茂はにっこりと微笑んだままりょうを見つめるだけであった。
りょう 七歳
元の名は小栗怜である。
◇◇◇◇◇◇◇
"あの子供を長州や薩摩に取られるわけにはいかない"
坂本は勝の言葉に首を傾げた。
「つまり……なんじゃ…死んだことに見せかける必要があったっちゅうことか?」
「そうだ」
『でなければ、奴らはいつか怜を奪おうとする』そう示唆したのは小栗だった。ともあれ勝自身は、当初そこまで彼が怜に心酔する理由がわからなかった。
怜が家定公の娘だと告げられるまでは。
「死んだことにしておけば探しもすまい」
「そこまでする意味がのう…」
坂本がポツリと零すと、勝はさらりと言った。
「アレは家定公の娘だ」
それを聞いた勝は漸く苦悩する彼の心情を理解出来た。それは小栗が家定公に取り立てられ、近侍の中でも特に信頼厚く随従していたのを良く知っているからだ。さればこそ、怜を亡き者にすることも考えたと言うが、親愛する主君の落とし胤に、あろうことか自身で手に掛けることなど出来なかったのだ。
坂本は盃を落とした。
一拍して「……はあ!??」と大声を上げる。
「どどどどういうことじゃ!」
勝はクククッと口角を上げて、話を続けた。約七年前の篤姫が輿入れしたところから遡り、今に至る全てを坂本に聞かせる。
「俺も最初は驚いたさ。小栗さんから聞いた時はな」
生麦事件が起こり、小栗から至急の使いが来た時は一体何事かと思った。互いに相容れぬ関係性であり、まず仕事以外でのやり取りなど初めてだったからだ。
小栗の文には子供を預かってほしい旨が書かれており、読み終わるや否や駕籠が屋敷に到着した。中を見ればらすっかり意識を失った子供がおり、漸く不測の事態が起きたと理解したのだ。
その後江戸城で合流し、事の巻末を聞いた勝は、小栗に協力を約束した。いや寧ろ、知らなかったとはいえ怜を表舞台に引っ張ってきたのは自分なのだ。
勝は小栗と共謀し、後藤(小栗)怜をこの世から消してしまうことにした。もちろんそれで悲しむ人間がいることはわかっている。しかし怜の存在はどこにあっても脅威以外の何物でもなく、彼女を生かす為にはそれ以外の方法が見つからなかったのだ。
勝は自分に任せてくれと、小栗を家に帰した。彼が自ら動くとバレる可能性があるからだ。
勝は昔の知り合いを数人招集し、詳細は隠して吉原近くの寺で子供の遺体を手に入れた。生まれは女郎の子供らしいが定かではない。ただ住職の話では事件の前日に寺に捨て置かれていたらしく腐敗はまだ進んではいなかった。偶然にもその娘と怜は背格好が非常に似ており、怜の着物を着せればそう見えなくはない。
ただ顔は似ても似つかなかったため、怜に"ある薬"を飲ませた。それは以前長崎海軍伝習所にいた頃、とある人物から入手した代物で、飲めば仮死状態になるという珍しく貴重な薬だった。ただ試したことが一度も無かった為、実際に効果は使って見なければ分からなかった。或いは本当に死んでしまうかもしれない危険性の高い薬でもあった。けれど、これは一種の博打であり、勝は怜を信じてそれに賭けたのだ。
仮死状態の怜を実両親、親族、小栗の妻、更には怜の知り合いだと名乗る者達と対面させ、娘が"死んだ"と信じ込ませることは容易いことだった。無論、非道な行いだとは思うが、怜を生かす為には必要なことでもあったのだ。
その甲斐もあり、思いのほか"事"は円滑に進む。無事に葬式を済ませ、遺体のすり替えをした後、偽物の遺体を埋葬したのだ。
「……それはまっことか」
確かに怜が家定公の娘だとしたら、利用されることは容易く想像がつく。或いは命を狙われることも考えられる。しかし坂本はあの少女が亡き家定公の娘とは思いもしなかった。
「証拠の品も見た。十中八九間違いないだろう」
「本人は…怜はこの事を?」
「いや、何も知らん。知っているのは小栗さんと薩摩の小松、そしてお前さんだけだ。だが、もしかすると長州の奴らも知っているかもしれねえがな」
坂本はまだ信じられないようで勝を見つめたまま固まっていたが、ハッと我に返った。
「そんな大事なこと、俺に言うてええんか」
「お前さんを信用しているからさ。それに」
勝はニッと白い歯を見せた。
「協力してくれるだろう?」
「そ、そりゃあ...」
「一筋縄ではいかん子どもだからな。俺一人じゃ手に負えん」
勝は軽く息を吐いて頭を掻いた。
数ヶ月同じ屋根の下で暮らした記憶が、まざまざと蘇ったのだろう。坂本は敢えて聞かずに「確かに」と心の中で同意した。
「どちらにしろ、この件は隠し通さねばならん。下手すれば幕府が分裂しかねんからな」
坂本は腕を組んで唸る。頭の中で整理するのに時間が必要だった。
「まあ信じる信じないはお前さんの勝手だが、この件は誰にも言うんじゃねえぞ?」
「むろん言いやせんが、怜は今どこにおるんじゃ」
「そりゃあ、お前…」
勝はニヤリとほくそ笑む。
「一番安全な場所だ」
◇◇◇◇◇◇◇
二条城
総勢三千からなる行列は三月四日、着京を果たした。将軍を警護する者達は全て講武所の鉄砲隊、剣術隊で配備され、二条城周辺は蟻一匹近寄れぬ、物々しい雰囲気に包まれていた。
二条城・東大手門から二の丸御殿に入った家茂を出迎えたのは、一橋慶喜、松平春嶽、そして松平容保である。格式張った口上を述べた後、旅の疲れを癒す間もなく会議に入った。
「そこまで圧するのであれば、その後の手立ても考えておるのだろうな」
家茂は穏やかな中にも、少々呆れ気味に言った。
尊王攘夷派の特に長州藩寄りの公家・三条実美らは、攘夷決行を迫り春嶽や慶喜らに圧力をかけていた。到底出来るはずもない問題を、至極当然に要求する朝廷に対して、呆れるのはもっともである。
それは国際社会を鑑みれば誰しも理解出来ることであり、攘夷決行こそ日本の消滅を意味すると言っても過言ではないのだ。
「あれらは長州と懇意にしているそうにございます。おそらく奴らに吹き込まれたのでございましょうな」
「刑部卿殿。御言葉に気をつけられませ。誰ぞに聞かれたら一大事に御座りますぞ」
春嶽は慶喜(刑部卿)をたしなめたが、構うものかという風に話を続けた。
「朝廷は無理難題を上様に申されましょう」
「そうであろうな」
「何かお考えでも?」
「このような大事。予が独断で決めることなど出来まい。皆と良く相談し、対面に備えるとしよう」
家茂は話を打ち切ってスッと音も無く立ち上がった。
「本日はこれまで。皆疲れたであろう。今宵はゆるりと休息を取るが良い」
「ははーっ」と皆が平伏する。
しかし慶喜だけは軽く頭を下げただけで、さっさと部屋を後にした。
残された者達は疲れたように息を吐く。二人が不仲の関係性であることは、ここにいる誰もが知っていた。もっとも家茂は表情に出すような性格ではないため、真の心の内は誰にもわからない。しかし慶喜が家茂を疎ましく思っていることは、誰の目にも明らかだった。
「上様、お疲れでございましょう。夕餉まで二刻ほどございまする。寝所へご案内致しましょう」
「では直ぐにりょうを呼ぶように」
「りょ、りょうでございまするか?」
家茂はこくりと頷いた。
「りょうと一緒に寝る」