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第二章スタート
1863 京
雪解けの、まだ寒さが残る都。穏やかな古き町並みは平和そのものである。だが実態は極めて不穏な空気が漂っていた。
天誅と称した残酷極まりない事件が横行していたこの頃、それは最盛期を迎えていた。拡大する一連の騒動は政治的弾圧に留まらず、佐幕派の藩邸に出入りする商人、諸外国との貿易に携わる商人など、一般市民にも被害が及んでいた。
しかしこういった騒動に対し幕府は消極的であった。それは加害者を捕縛することにより、過激な攘夷志士達を一層刺激することになるからである。よって数々の事件は単なる私怨行為と見なされ、政治的背景とは無関係であると黙認された。つまり幕府による権威は完全に失墜しており、京の街は無法地帯と化していたのだ。
そのような最悪の状況下で新星の如く京に降りたったのは、陸奥国会津藩第九代藩主・京都守護職・松平容保である。
前年12月、約千名の会津藩兵を率いて京へ上洛した容保は、左京区黒谷の金戒光明寺を本陣としていた。
未だ慣れぬ京での生活は、容保だけでなく藩士らも同じであった。しかしそう言ってはいられない現状なのも事実だった。
14代・徳川家茂が、実に徳川将軍として229年振りの上洛を果たすことになっていたからである。
この上洛の目的とは和宮との婚礼に対する御礼と、攘夷の勅諚を受けるためであった。
恙無く警護を務めるにあたって、昼夜審議を重ね、万が一も起こらぬように最善を尽くす一方、上洛に伴う余波は予想以上に拡大しており、幕府側関係者は休む暇もなかった。
この時、将軍警護を目的として清河八郎発案のもと"浪士組"が結成されるが、京に到着後直ぐに分裂した。
元々、清河は尊王攘夷論者で、近藤勇もまた同じである。しかし両者が決定的に違うのは、前者が長州藩らと同様の考えだったのに対し、後者はあくまで公武合体を前提とした尊王攘夷派、つまり彼らは容保と同じ思想なのである。
よって相容れぬこの関係が分裂に喫したのは自然の流れであった。
京に残留を申し出た24名の浪士は、その後『京都守護職・会津藩松平肥後守容保中将御預浪士・壬生浪士組』として壬生を拠点とする。
後の新撰組である。
◇◇◇◇◇◇◇
俺は恋をしている。
あの美しい人に……
着崩した薄紅色の衣を纏い、格子窓にもたれて外を見つめる女人は、儚げな天女のようで、今にも空に飛んでしまいそうだった。
「ああ……紅裙の君」
若者は誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いた。小柄な体格の若者は18の歳の頃だが、幼い顔立ちの所為で14、15にしか見えない。つまり"少年"といった風貌である。黒目がちの大きな瞳。愛くるしい唇。色白で滑らかな肌。女装すれば間違いなく"可愛い"と想像出来る。
しかし彼は、まごうことなき一人前の男なのだ。
「紅裙ねえ……上手いこと言うじゃねえか」
「そうだろ?俺が考え……ギャー!!」
尻餅をついた若者の前に、竹串を咥えた男が見下ろしていた。短すぎるくらいの短髪は針のように上を向き、がっしりと逞しい身体が威圧感を漂わせている。
「は、原田さん…」
「平助、俺思うんだ」
「へ?」
「女なんて、所詮"お荷物"でしかねえのよ」
「な、何を」
平助が狼狽えると、原田はしゃがみこんでズズイと顔を近づけた。
「よく考えてみろ。例えば土方さんに女がいて、いいことあったかよ?」
「そ、それは」
「迷惑は被っても、いいことなんてなかったよな?」
「……確かに」
「女なんて所詮見てくれだけしか見てねえ。もしくは金さえ持ってりゃ股開くんだよ」
「股ぁぁっ!?」
「デケェ声出すな」
「ご、ごめん!」
「ま、お前には高嶺の花だ。やめとけ」
原田が立ち上がったと同時に、平助の背後から誰かの腕がのし掛かる。
「左之の言う通りだ平助」
「ひっ!?ーーー永倉さん!!」
原田とは違ったやたら凄みのある男は、柔和な眼差しを向けながらも、嘲るような笑みを浮かべて平助をもみくちゃにする。
「やめてよ!!離し…」
「せいぜいお前に寄ってくるものといえば、……動物くらいだろ」
え?と言う前に二人は背を向けて歩き出した。
「な、なんなんだよ、もう!」
平助は土を払いながら立ち上がった。
あの二人にからかわれるのはいつものことだ。いちいち気にしてなんかいられない。それよりも好きな人がバレてしまったことが最大の痛手であった。
「あーあ…」
ちらりと見上げれば、綺麗な瞳と目があった。
ーーーーーー紅裙の君
「!!」
こちらを見てくすくすと笑っている。
平助の顔がみるみるうちに真っ赤になった。
(えっ…え、な、なんで……?)
「お母ちゃん見てぇ、あのお兄ちゃんの周りに動物がいっぱいおるー」
「こら!見ちゃいけません!!」
「え……」
足元を見ると、数十匹の可愛らしい犬が周囲を嬉しそうに走り回り、猫はスリスリと身を擦り寄せている。頭の上には沢山の小鳥が飛んでいた。
「にゃーお」
「な、な、何これ……」
「クゥーンクゥーン」
「や、ちょっ…」
「チュンチュん」
「うわぁああぁあーー!!」
人よりも動物に愛される男。
その名は"藤堂平助"ーーーーーー
◇◇◇◇◇◇◇
嶋原・夭華楼
「先生…あの人飲み過ぎやないどす?」
「……放っておけばいい」
桂は溜め息混じりに言った。
視線の先には久坂玄瑞。
手酌で酒を煽りつつ、ブツブツと独り言を呟いているものだから周囲から距離を置かれている。
後藤怜という子供が死んでしまったことは、彼らにとって大きな痼りとなっていた。元々気性の荒い久坂だったが、更に酷くなっている。怜を撃ったと見られる薩摩藩に対して、怜を守らなかった幕府に対して、そして何より、何にもしてやれなかった自分に対して憤りを感じているのだ。
生麦事件が発生した後、怜が死亡したと知った久坂は高杉と共に江戸へやって来た。桂、吉田と合流し、身分を隠して弔問に伺ったのである。小栗家には、憔悴しきった後藤家の実両親、親族、そして小栗忠順と妻がいた。
怜の亡骸は当然ながら埋葬された後だったが、最後に身に付けていた着物は乾ききった血が生々しく散っていた。
だが久坂はそれでも怜の死を信じなかった。小栗がどこかに隠しているのではないかと、高杉や吉田と共に昼夜探し続けたのだ。
しかしいくら探しても手がかりを掴むことはなかった。小栗にもその周りの人間にも怪しいところは一切無く、更には怜と懇意にしていた薩摩藩の家老・小松帯刀の小姓の憔悴を見るにつけ、これが現実のものであると納得せざるをえなくなったのだ。
もっとも久坂を喪心させたのは、なんといっても夜鷹の姿だった。
墓から一歩たりとも動かぬ夜鷹。毎夜主人を弔うように鳴き続ける。それを見た時、久坂の心はガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
「さて、帰るか」
「もうお帰りどす?寂しいわぁ」
酒に溺れる毎日を誰も止めることは出来ない。
あの子供が幕府側の人間だから何だというのだ。家定公の娘だから何だというのだろう。あの子はあの子であり、それは唯一無二の存在なのだ。背景がどうであろうと、そんなことは小さな物事の一つにしか過ぎないのだから。
久坂は肌寒い夜の空を見上げた。
真っ白な息が上へと昇る。
「結局、今日も酔えなかった」
久坂は誰に告げるでもなくぼんやり呟く。
桂はその肩をポンと叩いて元気付けた。
「そんなもんさ」
二人は肩を組んで夜の闇に消えていった。
◇◇◇◇◇◇◇
大坂
「あないなとこに造っても役に立つとは思えんっちゃ…」
「張りぼてでも、"ある"ってことがいいのさ」
「……長州の監視っちゅうわけか?」
「ま、そういうこった」
遠き水平線を眺めながら、勝海舟と坂本龍馬は言った。沈みかけた太陽が湖面を照らし、眩しいほどに輝いている。目の前に広がるのは摂海(大坂湾)であった。
数年前から重要視されていた外国勢力に備える防衛が、いよいよ現実を増していた。幕府は神戸や西宮に砲台建築を決定したのだ。その指導を任された勝海舟は江戸と大坂、兵庫を何度も行き来し、今は大坂にいる。そこへ去年弟子となった坂本龍馬が訪ねてきたのである。
「そろそろ宿に戻るか」
用心棒を引き連れた二人は、横並びに歩き出した。
「ところでお前さん、国元には帰らねえのかい?」
「帰らんぜよ。勝先生に付いて回る方が面白いっちゃ」
「……ほう」
約一年前、土佐藩を脱藩した坂本は、江戸の千葉道場に寄宿していた。その後、松平春獄の取り成しにより勝海舟を紹介してもらい、弟子入りを志願したのである。
ちなみに春獄ほどの身分の者が、一介の郷士である坂本と対面することなど、通常あり得ないのだが、寄宿先の千葉道場(桶町)創始者である千葉定吉が、鳥取藩(江戸屋敷)の剣術指南役を勤めていたことがあり、その顔の広さから伝手を頼り、巡り巡って対面を許されたのである。もっともそれには身分差の垣根を超えた開明的思想家である春獄の人柄を良く表していると言っても良いだろう。
「理由はそれだけじゃなさそうだが」
「……まあの。確かめたいことがあるがやき」
勝は両手を組むようにして袖にしまい込むと、クククと楽しげに笑い出した。
「また勝先生がどっかの女子をタラし込んだ言うて、もっぱらの噂じゃ」
「まあ女は嫌いじゃねえ」
「にしても、今回は"毛色"が違い過ぎるじゃろ」
勝はニヤリとほくそ笑んだ。
「"親友"に是非にと頼まれてな」
「小栗か?」
「そんな名前だったかな」
坂本は眉間に眉を寄せた。
「勝先生、隠し事は無しじゃ」
「俺は何も隠しちゃいねえよ」
「ありゃあ俺の、……その…」
「"許嫁"ってのは無しにしとくれ」
坂本がハーッと息を吐くと、勝は声を上げて笑い出した。
「……食えんやっちゃ」
紅裙(魅惑的、魅力的)