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幕末スイカガール  作者: 空良えふ
祇園の言霊
111/139

5


人から愛されたことがない自分が、初めて誰かに愛された。初めて誰かに必要とされたのだ。



「嬉しかったぁ…」


小鞠は目を細めて笑った。


「もしかしたら、みんなウチを愛してくれるかもしれへん。だってウチ、悪い子やないもん…あの人が言うとったもん……」



しづは何も悪くないと。

悪いのは全部"すづ"で、今までしづを苦しめ、身も心も全て傷つけてきたのは"すづ"だったと。


しかし紅花と初めて顔を合わせた時、それが間違いであると気付かされた。根底から覆され、何もかも否定されたのだ。


綺麗な紅花。

優しい紅花。

みんなから愛される紅花。


無いものを全て持っている。


その時自分の心の奥底から、真っ赤な炎が噴き出して、身を燃えつくすような激しい嫉妬に駆られたのだ。


何故あの時、"すづ"じゃなく"しづ"だったのか。もしも逆だったら、自分こそが"紅花"で、人々から注目され、店主からも女将からも愛されて、きっと幸せだったに違いない。


「ウチは紅花姐はんが憎らしかった。何も知らん顔して、のうのうと生きとる。そやから…」



死ねばいいと思った。



しんと静まり返った部屋に、小鞠の笑い声が響く。嬉しそうな、楽しそうな、純粋な子供の声だ。



「あんたは阿保や」


若柴はさらりと吐き捨てた。


「紅花がここまで登り詰めたんは、小さい頃からの努力の賜物や。お父はんやお母はんにも甘えられへん。怒られても叱られても負けんと頑張った努力の結果なんや」

「それでもウチより幸せやったはずや!」

「確かにそうかもしらん。そやけどそれは、紅花のせいやないやろ?」


若柴が言い聞かせるように小鞠の手を握った。後ろでは、嗚咽を漏らしていたイネが震えた声で涙を拭う。


「小鞠……悪いんはウチら大人やったんよ」

「堪忍や…まさかあの赤子が、そこまで酷い目に合うてると思わんかった。小鞠…ほんまに済まんかった…」


聞こえなかった。

靄がかかったみたいに、人の声も、外の音も、自分の息遣いさえも。



何だろう。

何か大切なことを忘れている気がする。けして忘れてはいけないことなのに、頭の中が真っ白だ。


「小鞠?」


小鞠…


鈴を転がすような声が、耳のそばで聞こえた。美しく、澄んだ音色である。



「紅花姐はん…」


小鞠は手を振りほどいて立ち上がり、そわそわと周囲を見渡した。


「なあ、紅花姐はんどこ…」

「私の家におるよ」


一つの視線とぶつかった。

それは髪を二つに括った小さな子供で、藁の人形を抱き抱えている。


「小鞠ちゃん」


にこりと無垢な笑顔を見せた子供は、次の瞬間、小鞠に藁人形を押し付けた。



「あんた…だれ…?」


耳鳴りがする。

どこかで会ったはずなのに思い出せない。


「私はーーーー"しづ"」


その子供の名は『しづ』

何処かで聞いた名前。

誰かに呼ばれた名前。



「しづ……?」


そう呟いた瞬間、世界が暗転した。



ーーーーーーー

ーーーーーーー

ーーーーーーー





ーーーーーしづ



『しづ。けして忘れたらあかん。あんたを愛しとるのはこの()だけや。この傷もこの痣も、全部すづの仕業や』

『すづ…』


養母の顔は慈愛に満ちていた。

まるで昔から愛されていたように、スーッと胸に染み込んでーーーー



『そうや。そやからしづ


私が"呼んだ"時は、


すづのーー』



すづの……?



空虚な目が、若柴を捉えた。



()()姐はん…こんなとこにおったん?」

「小鞠…?」

「あかんやん。ちゃんと寝とかな。お顔が真っ白や…」


ほっそりとした指先が若柴の首に触れた。


「小鞠……っ…!?」

「小鞠!!」



これで終わる。


全てから解放される。




『しづ…』



漆黒の闇が、瞬く間に視界を飲み込んでーーーー



『すづの……息の根を止めるんや』



ーーーーー養母の高笑いが響いた。


ーーーーーー

ーーーーーー



◇◇◇◇◇◇◇



木津屋橋通・後藤家



広い庭から高い煙が立ち昇る。


後藤家の末娘は「もっと木持ってきて」と使用人に指示を出した。


楽しそうに次から次へと枯れ木を投げ入れた後は、火かき棒でガシガシと奥へ寄せる。火は瞬く間に木々を飲み込み、ゴオォと燃え上がった。



「あの子…これからどうなるん?」


縁側でそれを見ていた紅花が声をかけた。


「私の知り合いでなー、面倒見のいい和尚(おそう)さんがおるんよー」

「和尚さん?」

「うん。だから小鞠ちゃんは大丈夫ー」


怜は振り返って笑った。



小鞠の時間は15年前に戻った。

まるで生まれたばかりの赤子のように。

無垢で何も知らない少女のように。


小鞠はそうすることで自分を、そして姉を守ったのだ。


本妻の憎悪の想念は小鞠を隅々まで支配し、怜が()()()()()あの時、紅花を殺そうと若柴に手をかけた。


けれど彼女の中には、自分すら気付いていない小さな愛がそこにあった。


耳鳴りと共に響くのは、養母の声。


目の前には苦しげに涙を溜める紅花(若柴)。


その時、ちりんと鈴の音が響き渡った。





『小鞠』


紅花の顔。

紅花の声。



『小鞠。うちと姉妹の盃交そか』

『姉妹の…盃?』

『だって小鞠はうちの妹やから』



小鞠は妹……


『おねえ…ちゃん…?』



何かが抜けていくように、突然彼女は気を失った。

それから三日三晩死んだように眠って、気がついた時には全てを忘れてしまっていたのだ。


「紅花姉ちゃん。いつか会えるから」

「……怜ちゃん」

「だって、本当の姉妹やろ?」


彼女の壊れた心を戻すには、しばらく時間が必要なのだ。けれどそれは遠くない未来のような気がした。


「…そうやね」


紅花の顔が綻んだ。


「あの子はうちのたった一人の妹やから」

「うん!」


二人が互いに微笑み合ったその時、首に包帯を巻いた若柴が、憤怒の顔で駆けてきた。



「怜ぃいぃぃ!!どう責任取ってくれるんやァア!」

「まさか紅花姉ちゃんを囮にするわけにはいかんし」

「先に言っといてくれたら心の準備も出来たのに!!」

「若柴姐はん…怜ちゃんの所為やないんよ。全部ウチの…」

「紅花は謝らんでええ!ウチは、この悪ガキに一言言わな気が済まへんのや!」

「それより、持ってきてくれた?」

「聞け!人の話を最後まで聞け!」


そう吠えながらも、若柴は怜に風呂敷を手渡した。


「おおきにお姉さん」

「人を使いっ走りにして!」

「若柴姐はん、落ち着いて。こっちでお茶でも頂こ?」


中身はあの藁人形。

あれは養母が亡くなる前に小鞠に送ったものだった。小鞠は単純に"すづ"を呪い殺すための道具として考えたようだが、怜の推理が正しければーーー


「怜ちゃん」

「ん?」


怜は藁人形をぎゅっと握り締めた。


「それどうするん…?」


怜は紅花の問いに答えもせず、そのまま火に逃げ入れた。突如燃え盛る炎は、断末魔のような轟音と共に藁人形を一瞬で飲み込む。


「ひっ」と短い悲鳴を上げたのは若柴だった。


「あんたっ呪われるで!」

「お姉さん、現実主義(げんじつすぎ)やなかった?」

「そ、そうやけど…」

「それに、この藁人形は何の効力もないよ」

「なんでわかるんや」

「だって藁人形は呪う相手の一部を埋め込まな成立せんし」


怜の推理が正しければーーーー


おそらく重い病で死ぬ直前になかなか実行に移さない小鞠に対して、紅花への"殺意"をけして忘れないように"釘を刺した"のだ。


つまり藁人形は小鞠を表し、"しづ"という言葉で発動する確信的な"呪縛"を小鞠に植えつけたのだと。


「それでも何か気持ち悪いわ。てか、そういえば、なんで小鞠が藁人形を持ってるってわかったん?」

「あー、それは…」


紅花の髪を梳いていた時、ひと束分だけ短く切られ箇所があった。おそらく紅花が寝ている隙に小鞠が切ったのだろう。何故そんなことをしたのか、考えるまでもなかった。


「え、待って。紅花の髪が切られてたってことは、その藁人形に埋め込んだん違うの?」

「ううん。私も最初(さいそ)はそう思ったけど、小鞠ちゃんはそんな子じゃなかった」

「え?」

「やっぱり小鞠ちゃんは紅花姉ちゃんが大好きなんやね」


紅花の髪は大事そうに和紙に包んで庭に埋めてあった。最初はそのつもりだったのだろうが、出来なかったのだろう。


「ほんなら、なんで紅花は病みたいに弱っていったんや…」

「それは…」


怜は火かき棒を使用人に渡して、二人のところまでやって来ると、手巾で手を拭いて若柴の隣りに腰掛けた。


「"言霊"って知ってる?」


言葉には、その一つ一つに魂が宿っている。それは何も人間だけじゃなく、動物も植物も花も食べ物も皆同じだ。例えば農家の老人が、自分で植えた柿の木に「大きくなれよ」と毎日言葉をかけてみれば、みるみる大きく成長するようなもので、人間もまたーーー


「毎日"顔色が悪いね"とか"真っ青やね"とか言われ続けたら、誰でも元気がなくなるんよ。人間って弱い生き物やから」

「そうなんや…」

「うちもいつの間にか自分で自分を苦しめてたんやね」

「けど、よう屋根裏にあるってわかったな」

「大体子供が隠す場所(ばそ)言うたら、地面に埋めるか、屋根裏に隠すかくらいやしね」

「……あんたも子供や」


やれやれと肩をすくめる若柴に、紅花はくすくすと笑う。不思議なもので、後藤家に厄介になったその日から、体は順調に回復に向かっていた。ハツも良く面倒を見てくれるし、善治郎は(少々浮かれ気味ではあるが)優しく接してくれる。自然と気持ちが上昇するのは、きっと怜のおかげなのだろう。


「そういえばお母はんが怜に渡したいもんがあるて言うとったわ」

「いらん!そう言うて京屋で働かせようと思ってるんや!」

「え?そうなん?」

「なんや、えらい気に入ってしもて、紅花の後継者やって意気込んではんねん」

「ふふ…そうなったら楽しみやね」

「怜、その気になったらおいで。ウチがビシバシ鍛えたるわ」

「いかへん!!」


怜がそっぽを向くと二人は声を上げて笑った。




◇◇◇◇◇◇◇




『白川』沿いに軒を連ねる格子窓の一つから、一人の女が外を眺めていた。


名はイネ

三十八歳を過ぎたばかりである。


「今日は何の日やろ…」


イネの声に紅花と若柴が振り返った。


「ん?お母はんなんか言うた?」

「ほら。子供が可愛らしいお着物着てはる」

「あー、今日は七五三やない?」


イネは大人達の人波に紛れて歩く、一人の幼子を見つけた。真っ直ぐの黒髪は肩よりやや上。耳の横辺りに白い花飾りがゆらゆらと揺れている。朱赤の三ツ身には見事な花扇と飛鶴が舞い、生成色の被布が一層赤を引き立てていた。(被布→袖無しの上着のようなもの)



「あの子…」

「どないしたん?」


幼子は無邪気に飴を舐めながら、物珍しそうにキョロキョロと周りを見ている。


「怜ちゃんや!!」

「お母はん!!どこ行くん!」



一気に階段を駆け降りて、外へと飛び出す。若柴がそれを追い、紅花もまた若柴の後を追いかけた。


「怜ちゃん!!」

「ギャッ」

「あらあらまあまあ…なんて可愛いらしい格好や…もっとよう顔見せて?」

「お、おばちゃ…ぐるじぃ…」

「あぁあ!お化粧もしてはるやないの!京人形みたいや!」

「お母はん!怜が死んでしまうわ!離したげて!」

「だってほんまに可愛い過ぎてウチもうあかん!」

「お母はんしっかり!」

「はなじで…っ…」(離して)



日常に戻りつつある、11月の秋だった。




閑話「祇園の言霊」完





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