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幕末スイカガール  作者: 空良えふ
祇園の言霊
110/139



洗いたての紅花の髪を櫛で梳かしながら、怜は一年前の昔話をした。紅花はふふっと笑い、鏡越しに怜を見た。


「あの時の女の子やろ?」

「あ、思い出したん?」

「うちのこと、知っとったん?」

「あの時は知らんかったけど、あとでわかったんよ」


紅花は首を傾げた。


「私のお父ちゃんがね、お姉ちゃんの信奉者(ファン)なんよ」


町内の有力商人が集まる会合は"朱戯庵(しゅぎあん)"という茶屋で行われた。勿論表向きである。所謂会合と称したただの酒宴であり、そこに呼ばれたのが京屋の芸妓達であった。


善治郎はそこで出会った紅花に惚れ込み、会合と言っては家をしょっちゅう空ける始末。とうとうハツの逆鱗に触れたのだ。


ある日怜はハツに頼まれ、善治郎の後を付けたことがあった。偶然にも善治郎が利用した茶屋は、怜の知り合い(娘・十五歳)の茶屋で、事情を説明すると、内緒で店に入れてくれた。


「その時、押入れに隠れとったんよ。ほんでお姉ちゃんのこと知った」

「そうやったの…押入れに」


クスクス笑う紅花に、怜は手を止めて鏡を見つめた。


「お姉ちゃん」

「ん…?」

「私、いつか恩返ししようって思っとった。だから、前助けてくれたみたいに、今度は私がお姉ちゃん助けるからね」


紅花は久方ぶりに暖かい気持ちになった。この子供は明るい場所へ導いてくれる。暗闇に手を伸ばし、力強く引っ張ってくれる。


「ねえ…」

「ん?」


ただそこにいるだけで、不思議と心が穏やかになった。


「お願いがあるんやけど」

「お願い?」

「そこの衣装箱の中に、うちの大切なものが入っとるんよ。取ってくれる?」

「うん。わかった」



◇◇◇◇◇◇◇



京屋の店主は文机に帳面を広げたまま、険しい顔で正座をしていた。夜はとうに更けていて、ほとんど物音も無く静かだ。今日は三本の宴会が入っているため、芸妓や見習いは粗方出払っていた。イネでさえも手伝いに出てしまい、久しぶりに私室には一人きりであった。


店主はふと足音に気付いた。

キシキシと小さな音である。

これは仕込みの子供が厠へ行こうとしているに違いない。そう思って店主は腰を上げ、建て付けの悪い襖を開いた。


店主の私室は長廊下を挟んで中庭に面している。長廊下はL字型になっていて、廊下を突き当たったところが仕込みの大部屋となる。


「誰や?小梅か?」


大部屋の横の階段から、小さな人影が現れた。それが誰かと考える間もなく、廊下に声が響き渡る。


「あ、起きとった!ちょうど良かった」


浴衣を着た幼子は、にこにこと愛想良く店主の前で止まった。


「えーと、れ、怜やったか?」

「うん」

「厠か?」

「ううん。おじさんに用があるねん」

「用?」


怜が来て三日ほど経つが、一度挨拶を交わしたくらいで、その後は顔すら合わせていない。その幼子が自分に用があると、こんな夜更けに来るとは何かよほどのことがあるに違いない。

そう思った店主は、快く怜を部屋へ招き入れた。



「それで、なんの用や?」

「見てほしいもんがあるんよ」

「ん?」


怜という奇妙な子供は、浴衣の懐から紙を取り出した。筒状に丸めて紐で括りつけたものである。それを器用に振り解いて膝の上で広げると、店主の前に置いた。



「昔の瓦版やよ」


店主は言葉に詰まった。

何故、"これ"をこんな子供がーー



「こ、こんなもんどっから…」


怜はジッと店主を見つめて言った。


「紅花ねえちゃんの衣装箱(いそーばこ)の中」



◇◇◇◇◇◇◇



「……騙したな?」


若柴は狭い空間を四つん這いで進んでいた。前を進むのは言わずと知れた怜である。その先を照らす手燭の灯りは、ユラユラと二人の影を壁に写していた。


「なんでウチが屋根裏に忍び込まなあかんねや!」

「しーずーかーにー」


面白いものを見せてやると言われ、話に乗ったのが間違いだった。思い起こせば数年前、若柴がまだ"豆柴"だった頃の話だ。イネに使いを頼まれ、近くの八百屋へ行った帰り、油髪がべったりと顔に張り付いた怪しい男に、突然声をかけられた。


『あっちで楽しいことがあるんやけど、行けへんか?』

『楽しいこと?楽しいことって何?』

『んー…気持ち良くなれることや』

『気持ち良いの?』

『そうや。天にも昇る気持ち良さや』

『天にも昇るって、死ぬってこと?』

『死にはせん。気持ち良過ぎてウヒョウって感じや』

『ウヒョウ?』

『ああ。ウヒョウや』

『行くぅ!』


しかし帰りが遅いと心配したイネと店主が、豆柴を探しにやって来た。


『ウチの娘を何処に連れ込む気や!』

『お母はん!?』

『な、何やお前…』

『人攫いや!!だれか御役人さん呼んで!』


その夜、豆柴が懇々と説教を食らったのは言うまでもない。


好奇心に駆られれば、後先考えず行動してしまう先天性の性分は、大人になっても変わらないらしい。


「腰が痛いんやけど」

「まだ若いのにおばあさんみたいな事言うんやね」

「減らず口はよろしい。あんたは一体何処へ行くんや」

「行くんやない。探しとるんよ」

「探す?何を?」

「なぁ、お姉さん」

「聞け。人の話を聞け」

「ここはどのあたり?」

「ああん?…ここぉ?」


怜が若柴を誘った理由の一つは、一人部屋だったからである。押入れの天井を外し、屋根裏にあるはずの「あるもの」を回収しなければならなかった。


「多分階段の上やな」


若柴はおおよその距離から推測し、位置を特定した。


「ほんならもう少しや」


そこで若柴はハッと息を飲む。


「あんたまさか……」

「紅花姉ちゃんのお部屋ちやうよ?」

「ほんなら何処や」

「見習いさんの大部屋やよ」

「……なんでウチの部屋から行くんや。大部屋の押入れから入ったらええやろ」

「他の子に見つかるでそう?」

「はあ?」


若柴は意味が分からず眉を寄せた。

ただ、それはただ何となくであったが、このあどけない幼子が"何か"とんでもないことをしようとしているのは理解出来た。


「あんた、一体何をしようとしとるんや?」

「私は宝探しをしとるだけやよ」

「宝探し?」


ますます訳がわからない。

若柴はその場から動けないまま、行ったり来たりする小さな灯りを見つめていた。


「ところで一つ聞きたいことがあるんやけど」

「なんや」

「小鞠ちゃんはシロって言ったよね?」

「それがなんや。あの子がもし紅花を憎んでるとしても、変な薬飲ませてるわけでも、身体傷つけてるわけでもない。寧ろ、その逆や」


"超"が付くほど心配性で、どんなに仕事で忙しかろうと紅花の見舞いに行くのは決して絶やさない。若柴はそれを見る度に、憎しみの中にある底知れぬ愛を小鞠から感じ取っていた。


「あの子がよう庭先で泣いとるのも知っとる。だから私はーーー」

「あったーーー!」

「……聞け。最後まで聞け」


怜が何かを拾い上げた。

若柴は「ちっ」と吐き捨てながらそばに近寄る。


「何があったんや。ネズミの死骸か?」

「人形やよ」

「人形?」


この子供は、たかが人形を探していたのかと、若柴はがっくり肩を落とした。


「あんたなぁ、いい加減にーーー」


しかし次の瞬間ギクリと肩が飛び跳ねた。


目の前に突き出されたのは藁で編み込まれた人型の人形。その中央にはしっかりと五寸釘が刺さっている。そう。それはーーー



「藁人形や」



若柴は白目を剥いてぶっ倒れた。



◇◇◇◇◇◇◇




衣装箱の中には紺地に赤い花が描かれた巾着があった。促されるままに中の物を取り出した怜は思わず目を見開いた。


「これ…」


それは15年前の瓦版だった。

相当古いものだから所々虫に喰われているし、大分黄ばんでしまっている。ただきちんと四つ折りにされているところを見れば、大切にしていただろうことは感じ取れた。


「小鞠の落としもんや」



それはほんの数週間前にいつものように部屋を訪れた小鞠が、気付かずに落としたものだった。


「読んでもええ?」


紅花は僅かに頷く。


瓦版には15年前の嶋原太夫殺人事件の概要がつぶさに記されており、遺児である二人の名も記されていた。


「うちの幼名は"すづ"なんよ。」

「そうなん…」

「"紅花"はお母はんの"紅葉"から一文字取って付けてくれはったんや」


懐かしそうに目を細める紅花。

怜は彼女が自分の生い立ちを知っていた。同時に、紅花もまた怜がそれを周知していることに気付いた。


「うちには妹がおったんやね」

「お姉ちゃん…」


視線が交差する。

紅花の綺麗な瞳が、穏やかに怜に問う。


「小鞠、………なんやね?」


紅花は悲しそうに微笑んだ。

その感情がどういう意味かはわからないが、少なくともそこには"妹"への気遣いがあった。




◇◇◇◇◇◇◇




茶屋を出た一行は「寒い寒い」と言いながら襟巻きを目深に巻きつけた。外はまだ日も登っておらず、昇華した霜が地面を張っている。一行は滑らないよう注意を払い、身を寄せ合って帰路に就いた。


京屋では、仕込みの少女達が店先で姐のお迎えをするのが日課である。当然その朝も、一行が目にしたのは日々と同じ光景だった。唯一違ったのはいつも上り口で出迎えるはずの店主と、一際小さな子供がそこに並んでいたことだろうか。


小鞠はそれを認めて眉間に眉を寄せた。

あの子供とは相容れない関係だ。

特に目つきが気に入らない。何もかも見透かしたような、それでいて強引で自分勝手で、周りを振り回す。



そうだ。あの人に似ている。

そう辿り着いた瞬間、恐怖が湧いた。


「おかえりやす」

「お疲れさんやったな」

「お出迎えおおきに」


店主が労わりの声をかけるとイネもそれに応える。続いて芸妓らも頭を下げ、ぞろぞろと中へと消えていく。


小鞠は怜を見つめたまま動かなかった。


「小鞠、どないしはったん?早よ入り。寒いやろ」


ハッと我に返り、歩を進める。

心無しか不安が生じた。思わず目線を下に落としたが、ふと誰かの声が耳を触った。


"しづ…"


ああ、そうだった。

自分は一人じゃない。

大好きな人がいつもそばにいる。


確信にも似た幻覚に、途端力が湧いてくる。


「紅花姐はんに挨拶してこな…」


小鞠は気もそぞろに高下駄を脱いで、風呂敷をイネに押し付けてると、早足に廊下を駆けていく。


「なんやあの子…」

「おばさん」

「え?」


小鞠の後ろ姿を見送りながら、怜はイネの袖を引っ張った。



「今日は過去の過ちを清算しよ」



二人の間に冷たい風が突き抜けていった。



◇◇◇◇◇◇◇



「姐はん、起きてはる?」


大きな音を立てて襖が開いた。

部屋の中央に敷いた布団がもぞもぞと動く。小鞠はホッと息を吐いて、枕元に座ったものの、違和感に気付いた。


「……?」


紅花が布団を頭まで被るなんて今までなかった。人形みたいに真っ直ぐ仰向けに、"死人"のように眠っているのが"普通"である。


「だ、誰や!」


小鞠が布団を掴んでそれをめくると、そこには意外な顔があった。


「若柴…姐はん…」

「お勤めご苦労はん」


若柴は無造作に頭を掻き毟った。

いつもは薄紫の襦袢なのに、今日は真っ白な装いである。


「なん…で、…ここに…」

「知らんわ。怜に言われて寝とっただけや」


若柴は忌々しくもさらりと言い放った。


「べ、紅花姐はんは?」

「さあ~ね~」

「ふざけやんといて!!」

「ウチの部屋にでもおるのと違う?」


小鞠はグッと拳を握りしめ、何か言いたいのを堪えながらも立ち上がった。


しかしーーー


「紅花姉ちゃんは、この店にはおらんよ」


背後から場にふさわしくない軽やかな声が聞こえた。


「あ、んた…」

「もう茶番は終わりの時刻やよ」

「茶番…?」


怜の後ろには険しい表情を浮かべた店主と、涙を流すイネの姿。


「はい。落とし物」


怜はあの瓦版を懐から抜き、小鞠の手に握らせた。


「これ…」

「小鞠ちゃんのでそう?」

「なんで…?」


いつか失くしたはずの紙切れ。

探しても探しても見つからなかった。けして人の目に触れてはならないと、養母が亡くなる前にくれたものだった。それを何故、この子供が持っているのか。


「ほんまに?…ほんまに小鞠があの時の赤子なんか?」


イネが涙を溜めて小鞠を見る。


「なんで今まで黙っとったんや…」


店主も目を赤くしてその場に座り込んだ。


「堪忍してや…小鞠…ウチらのせいで、あんたに辛い思いさせてしもて……」


遺児の名は、姉が『すづ』妹は『しづ』といった。15年前、この幼い姉妹を引き裂いたのは夭華楼の楼主、そしてイネ達であった。むろん出来ることなら二人一緒に面倒を見たかったのだが、本妻がそれを許すはずはない。元来いくら周りが騒いだとしても、当主の血を受け継ぐ子の親権は本妻にあるのだ。


そこで彼らはまだ生まれて間もない"しづ"を本妻に渡し、"すづ"は流行り病で死亡したと偽った。自我が芽生えつつある二歳の子供より、無垢な赤子を送り出すことが最善、と判断を下したのだ。


それが事の始まりだとも気付かずに。



「あんたらにウチの気持ちなんかわかるわけない!」


小鞠は憎しみを込めた目で二人を睨んだ。



物心ついた時から養母にきつく当たられ、使用人には蔑みの目で見られる。食事もまともに貰えず、怒りを買えば折檻される。


どうして憎まれているのか、その意味もわからなかった。ただいつしかそれにも慣れ、心を持たぬ人形のように、毎日過ごしてきたのだ。


そんな時、養母に呼び出された。


『すづが生きとったみたいや』

『…すづ?』

『あんたの姉さんや』

『姉さん…?』


この時の喜びは言葉では表せない。

自分にも血の繋がった姉がいる。そしたらこんな家さっさと飛び出して、姉と一緒に暮らしたい。高揚を抑えるのは大変だった。


『あの女によう似た女が祇園におるいうて、まさかとは思たんやけどな。下のもんに調べさせたら、間違いないっちゅうことや』

『祇園…』


思わず身を乗り出した。

すると養母は含み笑いをする。いつもの嫌な笑みだ。それだけでヒュッと喉が渇いた。


『会いたいか?』



言葉が出なかった。

会いたいと言えば、また折檻されるかもしれない。身を以て知った彼女の性格は、痛いほどわかっている。

迂闊な発言はできなかった。


『それにしても……この私をよう騙してくれたもんや。楼主も…あの紅葉っちゅう女も……』


目の前で高笑いをする養母。

今思えば、とうに狂っていたのだ。


『あんたは父親似やから、向こうにとったら要らん子やったんやろ。すづにも悪影響やしなぁ』


養母は「不憫な子」「可哀想な子」と散々笑った。まだ年端も行かぬ少女をなじり、それを生き甲斐にしているようだった。


そうしたら急に魂が抜けたように呟いた。


『まさかあの人がおるとは思わんかった……妊娠してから部屋は別にしとったし、あの夜も会合で帰るの遅なる言うとったから』


遠い日の養母の追憶。

まるで昨日の事のように告げるのだ。

震えが止まらなかった。

この人が父を殺した。そして母を。


『やっと忌々しいあの女を殺した。これで全部終わったと思たのに……ああ…あの女と同じ血が流れる子供がまだ二人もおる』


養母は小鞠を見ているようで見ていない。誰かを重ねているみたいだった。


『この時の絶望感、わかるやろか?』


養母は右へ左へ視線を彷徨わせ、突然現実に引き戻されたように、小鞠の腕を掴んだ。


『いっそ母親似やったら、あんたをさっさと亡き者にしとったのに…』


殺されると思った。


思わず身が竦んで目を瞑る。

けれど次に訪れたのは、痛みによる衝撃では無く、養母の温もりだった。


父の代わりだろうか。

それともやっぱり……



『小鞠…』


夢の中にいるような気持ちだった。


『会わせたろか?』


初めて養母の優しい声を聞いた。




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