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幕末スイカガール  作者: 空良えふ
祇園の言霊
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1



『白川』沿いに軒を連ねる格子窓の一つから、一人の女が外を眺めていた。


名は紅花(べにか)

十七歳になったばかりである。


陶器のように滑らかな白い肌。夜露を含んだ大きな瞳と長い睫毛。ツンとした小ぶりな鼻は楚々な印象と共に独特の色香を漂わせている。


実はこの紅花、ここ祇園では有名な芸妓である。芸事はもちろんのこと、教養から立ち振る舞いまでどれもが洗練されており、祇園一の"名妓"と評されていた。



「紅花。お時間よ」



ぼんやりと白川を眺めていた彼女だったが、母親代わりでもある店の女将に声をかけられ、瞬く間に現実に引き戻された。


「粗相の無いようお勤めするようにな」

「へぇ。行って参じます」


"京屋"店主と女将が表まで見送り、男衆と用心棒三人に囲まれた紅花ら一行は、置屋を出た瞬間周囲の熱い視線を受ける。まるで見世物のように好奇な目もあれば、羨望の眼差しで見る者もいる。それをいつもの微笑で受け流し、目的地へ向かって歩き出した。



祇園新橋・白川一帯は、格式の高い店から敷居の低い店までおよそ五百程が軒を連ねている。この界隈はその多くが遊興を目的とする男ばかりである。勿論女もいるが大抵は同業者か、もしくはそれに関わる商売人であった。


「雪…」

「もうすぐ冬やねぇ」


見習いの小鞠(こまり)は十五歳。健康的な小麦肌と黒目がちの大きな瞳、明るく溌剌とした雰囲気の、元気一杯の少女である。お座敷に出るようになったのはつい最近で、接客や作法を学ぶ為に常に紅花と行動を共にしている。


「紅花姐はん。お顔の色、悪おすよ?」

「そう…?」

「なんや雪に溶けてしまいそうやわ」

「それもええねぇ」

「もう!縁起でもないこと言わんといて」


紅花はこの心配性の妹分を殊の外可愛がった。

大抵の見習いの少女達は、紅花と一線を引いている。それが尊敬や憧れの対象であるゆえの所為だと理解していた。無論、同い年か年上の芸妓も数人いるが、紅花の名が売れれば売れるほど、敵対心を隠しもせずに向けてくるのだ。


「小鞠。いつもおおきにね」

「紅花姐はん?急にどないしはったん?」

「なんも…」


紅花の頬に雪が触れた。

男衆がすぐ様真っ赤な長柄の和傘を広げ、後方から紅花に差し掛ける。


「小鞠急がんと。遅れたらまたお母はん(女将)に叱られてしまうわ」


一行はぞろぞろと足並みを揃え、目的地の茶屋"柳屋"へと急いだ。




◇◇◇◇◇◇◇



木津屋橋通・後藤家


「粗茶ですがどおぞ!」

「あらあら。怜ちゃん。大きゅうなって」

「おばちゃんこんにちは!」

「まぁまぁ。小っさいのにお手伝いかいな…偉いねぇ」

「うん!」

「この前やっと一つになった言うてはったのに、もう三つになったんねぇ」

「うん!」


怜は両手を突き出した。


「……なんや?その手は」

「お茶代や。十文な?」

「えっ…」

「これ!怜!」

「タダ働きはせん主義(すぎ)やねん」

「ハツはん…あんたどういう育て方したん...」

「…放ったらかし主義や」




後藤怜

やんちゃ真っ盛りの三歳。

呉服屋の女将からホクホク顔で十文を受け取った。


今日女将が後藤家に来たのは、来月子の成長を祝う行事、『七五三』に着用する着物の仕立ての為であった。


ずらりと並べられた色鮮やかな反物はどれも一級品ばかりの生地で、ハツは楽しそうに一枚一枚眺めている。隣の女将は追ってそれらを説明していた。


「それは紅型(びんがた)ですわ。琉球で作られた生地でな、こっちではほとんど出回ってへん代物やわ」

「初めて見たわ。…こっちは友禅やねえ」

「総絞りもありますよ。少々お値段張るけど」


怜は二人の会話を子守唄に、うつらうつらと舟を漕ぐ。着物に全く興味がない怜。全く無駄遣いだと思いはしたが、ハツにとってみればやはり初めての娘ということでやたらと張り切っていたので、見て見ぬ振りをしていた。


「迷うわぁ。どれもこれも怜にお似合いやわ」

「怜ちゃんは器量良しやからねぇ」

「そうなんよ!困ったもんやわ!」


女将に持ち上げられすっかり気を良くしたハツは、あーでもないこーでもないと悩んだ挙句、最終的に三枚の反物を選んだ。


「ほんなら早速寸法計らせてもらおかしら」

「そうやね。怜…ーーーあら」

「あれまぁ寝てはるわ」

「これ、怜」

「まぁまぁええやないの。また日改めてもええですし」

「お忙しいやろにまた来てもらうん悪いし、良かったらもう一杯お茶飲んでいって。そのうち起きるわ」

「ええんです?」

「珍しいお菓子があるんよ。大坂の息子が昨日送ってきてねえ」

「それは楽しみやわ。ほんならお言葉に甘えて」


元々ハツは女将にとって上客であった。しかしこう二十年も付き合いをしていると、いつの間にか客を通り越して、何でも話せる旧知の仲と言っていいほどの間柄になったのだ。


「仕事儲かってはるの?」

「ウチは相変わらずやわ。でも知り合いの同業者が二つほど店畳んでしもてねぇ」

「どこも厳しいんやねえ」

「まあウチとこはまだマシですわ。祇園の芸妓はんらの衣装も手掛けとるから。それにあちらの世界は不況なんて関係あらしませへん」

「ウチの旦那もよう行ってはるわ」


ハツが自重気味に言うと、女将がポンと手を叩いた。


「そうや。祇園で思い出したわ」

「なんや?」

「じつはねぇ、ウチの上客で"紅花"ゆう芸妓はんがいはるねんけど」

「"紅花"…聞いたことあるなぁ」

「祇園では一番有名なお方や」

「そのお人が何か?」

「酷い病に苦しんで、なんやもう命も短いらしいんですわ」

「あら…まぁ…」


ハツが眉を顰めると、女将は「それでね」と身体を前のめりにして言った。


「その病っちゅうのがどうも普通やないとか」

「普通やないって、性病とか?」

「ちゃうちゃう」

「ほんなら何やの?」


女将は「噂やけどね」と前置きした上で、




「"呪い"ーーーらしいですわ」



◇◇◇◇◇◇◇




いつからだろうか。寝てばかりの日々を過ごすようになったのは……


よく考えてみればほんのひと月ほど前だとわかっているのに、枯れ木のような細腕を見ると、何ヶ月、いや何年も床に臥せっているような錯覚を覚える。


紅花はゆっくりと身体を起こした。

身体中が縄で縛られているかのように、窮屈で重たい。軽く目眩を覚えて目を閉じると同時に、襖が開いた。


「紅花、起きたんか?」


紅花はホッと息を吐き、薄っすらと笑みを浮かべる。


「お母はん…」


母親代わりの女将"イネ"である。

小柄ではあるものの意志の強そうな目に理知の光が垣間見える。凛とした姿勢が品の良さを表していた。


「身体の調子はどうや?」

「お仕事…」

「仕事のことは心配せんでええ。あんたの代わりに小鞠がよう働いてくれとる」


イネは紅花の身体を優しく包み込んだ。


「こんなに痩せ細ってしもて……」

「お母はん…」


紅花はイネに甘えるようにその胸に顔を埋めた。


元々孤児であった紅花は、二つの頃このイネに拾われた。自分の両親も知らず、それ以前のことは全く記憶にもない。だから店主とイネを自分の本当の両親のように慕い、置屋こそが故郷と言えるものだった。


「紅花の仕事は、まず身体を治すことや」


まるで幼子に言い聞かせるように、イネは紅花の両手を握った。女将として厳しくもあったイネだが、二人の時はいつも優しい。それは店主も同様で、皆の手前もあって必要以上に可愛がりはしなかったが、紅花は二人の気持ちを痛いほど理解していた。


「身体が冷とうなってしもうとる。もう一枚お布団持ってくるから、横になっとき」

「…おおきに」


イネが部屋を出ると、紅花は枕元の手鏡に手を伸ばした。格子から溢れる光が、どれほど紅花を照らしても、以前のような透明感の白さは無い。病人特有の青白さ、目の下にはクマがあり、長い髪はすっかり艶やかさを失っていた。


「はぁ…」


ほんの少し前の、栄光。

一身に注目を集め、祇園を闊歩した日々。一方的に愛され、義務的に応え、それでも尊厳を失ったことなどなく、この仕事に誇りさえ持っている。物心ついた頃から芸事を仕込まれた紅花にとって、"芸妓"は天職といえるものだった。


「ああなってしもたら終わりやね」

「ええ気味や」


聞こえよがしの嘲罵は、紅花を更に苦しめた。元々紅花は気の弱い方ではない。醜い女の嫉妬など一々気にする性分ではなかった。ただ、少しずつ何かが削り取られていくように、人からの口さがない言葉や中傷が、孤独感と共に侵食していくのだ。


生気を失い、老婆のように日に日に身体が衰え、そして痩せていく。


怖かった。

何もかもが怖かった。


まるで全ての外界から閉ざされ、一人取り残されてしまったよう。



紅花の瞳からひとしずくの涙が零れた。



◇◇◇◇◇◇◇



「"呪い"ねぇ…」

「"麹屋"の奥方ちゃうかって話やわ」

「あの女狸が!?」

「旦那はん、えらい紅花はんに惚れとるてもっぱらの噂よ。週に一度は通とるみたいやしねえ」

「あの狸なら、やりかねんな」

「ウチも同意見やわ」


うんうんと二人が頷き合っているところに、ムクリと起き上がった幼子が好奇心に瞳を輝かせた。


「呪いってほんまにあるの?」


ドキッと肩を揺らしたハツは、胸を押さえながら苦笑を漏らす。


「怜っ……起きてたんかいな」

「うん。今起きた」

「ほんならあんたもお菓子食べるか?」

「でも........お高いんでそう?」

「我が子にお金なんかとるわけないやろ」


女将は二人のやりとりにくっくっと笑いを堪え、そういえばこの幼子が普通ではなかったことを改めて思い出した。と言っても、年の割にしっかりした物言いや金への執着心に対してーーである。


「ねえ、おばさん。その芸妓さんの話やけど」

「怜、子供が大人の話に入ったらあきまへん」

「えー」

「まあまあハツはん。ええやない」


女将は茶を一口含んでふうっと息を吐くと、怜に向き直った。


「紅花はんはウチの店の上得意や。何せあの娘はんのおかげで、よその方々も注文くれるようになったからねぇ。ウチらにとったら神様みたいなもんやわ」

「神様ねぇ」

「出来ることなら何とかしてやりたいけど…」


ハツは肩を竦め、茶を一気に流し込んだ。


「そやけど……一言で"呪い"言うてなぁ。医者に診てもろたん?」

「あちらの女将はんが言うには、有名な町医者に三人ほど診てもろたらしいわ。そやけど、何の異常もない言われて」


怜は「ふーん」としばし物思いに耽った後、ズズイと女将のそばにすり寄った。


「なぁおばちゃん。その芸妓さんに会わせて!」

「何言うとるんや怜!」

「"呪い"に興味あるんやもん」


思わず女将は目を丸くし、ハツは大きな溜め息を吐く。


「あんたまた良からぬこと企んどるな?今度は誰を殺す気や」

「殺すぅぅう!?」


断言する。怜は人を殺したことなど無い。(物理的な意味で)


「だから"呪い"に興味があるだけやよ。だって、もし本当にそんなんあるんやったら自分の手汚さんでええもん」

「な、なんちゅう事を…」


女将は絶句してハツを見たが、彼女も彼女で怜の言葉に何やら思うことがあったらしい。「ふむ…」と腕を組んで、ニヤリと口角を上げた。


「それも一理あるな」

「ハツはんまで何言い出すんや!」

「ちゃうちゃう。ウチが言いたいのは逆の意味や」

「……逆?」

「ウチら商売人は人から羨ましがられる分、憎しみも買う。何せ商売っちゅうんは競争やからねえ。アンタだってそうやろ?」

「まあ、……確かに」

「支払いの悪い客だけやない。繁盛すれば御役人にも目ェ付けられるし、同業者に反感買うこともある」

「そうやからって人を殺めたいとまでは…」

「だから逆や」

「え?」

「ウチらが恨み買うて殺されることも、多いにあるっちゅうことや」


女将は身震いした。

確かにハツの言うことはもっともで、先日廃業した店主にしても、会う度に恨みがましい目でこちらを睨んでいた。勿論、選ぶのは客で自分達に非はない。しかし世は不条理に出来ている。例えば浮気した男が一番悪いのに、その浮気相手を憎む妻の心理に良く似ている。


「ウチ、殺されるんやろか」

「確実に呪い殺される」

「ひぃ!嫌や!まだ死にたくない!」

「おばちゃん大丈夫やよ」


怜はにっこりと微笑んだ。


「"呪い"がほんまにあるんやったら、"呪い"を返す方法だってあるはずや」

「呪いを返す方法?」

「もしかしたら、その芸妓さんも助かるかもしれんし」


怜が呉服屋の内弟子として祇園白川沿いの"京屋"に入り込んだのは、三日後の朝であった。





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