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「Go back!!」
眼前に広がる景色は、弧を描いた刀の残像と真っ赤な血飛沫だけだった。
まるでスローモーションのように鮮明で、そして残酷だ。
男はリチャードソンの脇腹を斬り上げ、刀を返して肩から斬り下げた。それを合図に他の侍達が一斉に二人に襲いかかり、辺り一帯に怒号が響き渡った。
怜は目の前の状況にたたらを踏む。薩摩藩士の勢いに圧倒されてしまったのだ。「キョキョォオォ」と甲高い鳴き声に振り返れば、低空飛行で怜の元に来た夜鷹の翼に赤い染みが見えた。怜は身震いして彼を抱きしめると、懐に隠し持っていた銃を取り出す。
スミス&ウェッソンⅡ型アーミー(32口径)
上海で高杉に買ってもらったものである。使うことはないと思っていた。けれどこの喧騒を止めるには他に方法が思いつかなかった。
怜は地面に降りるとぼーちゃんの背中の上に鈴木君を乗せた。ぼーちゃんは怜に応えて方向転換し、元来た道を逆走する。主人を心配した夜鷹が「キョーーーー」と声を上げたが、怜は振り向かなかった。
銃身を前に倒し、装填済みのシリンダーを装着する。カチリと金属音がしたあと撃鉄を起こした。
未だかつて銃など撃ったことはない。
しかしこの状況を打破するには何かを仕掛けなければならなかった。
怜は両手で斜め上方向に銃口を向けた。銃口の先には松の木が数本並んでいて、数羽のカラスが止まっている。太枝に狙いを定め、引き金に人差し指を伸ばす。
ぎゅっと目を閉じて指を引くと、辺り一面に銃声が鳴り響いた。
「何者だ!!」
一斉に怜へと視線が集まった。
まさかこんな子供が銃を持っているとは思わなかったのだろう。皆が皆、言葉を失って動けないでいる。
「Hurry up!」
その隙に怜の後ろを通り過ぎたのはクラークだった。リチャードソンは振り落とされそうになりながらも何とか馬にしがみ付いている。斬られた彼は、その身を真っ赤に染めながらも必死で馬を返して、来た道を駆け戻る。怜は銃口を向けたまま動かなかった。
状況を理解した薩摩藩士らが怒りを露わにじわじわと近づいてくる。鉄砲隊の男達が銃を構える準備を始めた。
逃げなければならない。
このままでは殺される。
しかし怜の身体は時が止まったように、一歩も動けず固まった。
これほど恐怖に駆られたことは一度もなかった。
何度か死に直面したことはあったが、何も怖くはなかった。
それなのにーーー
死を覚悟した瞬間、怜の脳裏に一人の男の顔が浮かんだ。
ーーーーーーー
ーーーーーーー
ーーーーーーー
「ーーーー怜!」
迫り来る男がスローモーションのように近付くのを見た。その後方から馬に乗った男が駆けてくる。皆が皆、怜に気を取られて自分達の後ろに気づかなかった。
「せーーーー」
ほんの数秒のことだった。
◇◇◇◇◇◇◇
「異国人?」
後列で進んでいた小松は眉をひそめた。
「はい。三名の異国人が行列を乱したと。既に排除し、一名は死亡。他二名は逃走中の由」
「先程の銃声は異国人のものか?」
「は、いえ。それはわかりません。鉄砲組頭の者を呼んで参ります」
「うむ」
東郷が駆けて行くのを見送って、小松は隣りの中山に声をかけた。
「不味いことになりました」
「いかがいたしましょう。このまま神奈川宿を目指すは危険かと思われますが」
「異国人らの報復が危ぶまれます」
「では保土ヶ谷に宿を変更し、明朝より先に進みましょう」
中山は馬廻組の数名を呼び、即座に指示を出していく。小松は近習の一人に変更報告を久光に伝えるよう申し付け、そのまま馬を走らせ前方へと進んだ。ちょうど前から東郷が二人の男を伴ってくると、小松は馬を脇に寄せて下馬する。男達はその場で膝を付いた。
「先程の銃声はお前達のものか?」
「いえ、我々ではありません」
「では異国人か?」
「.....いえ、それが」
言い淀む彼らに小松は訝しむ。
「子どものように見えました」
「子ども?」
「い、一瞬でございましたので見間違いかもしれませんが」
彼らは慌てて言い訳するも、その表情は真剣だった。
「子どもが異国人の後方から銃を撃ったように見えました」
「なんだって?」
「しかし我々に向けてというより、空へ向けてーーー」
咄嗟に脳裏を掠めたのはあの少女の姿であったが、「まさか」と払拭する。
「その子どもはどこに?」
「わかりません。他の異国人に連れ去られたと徒士組の者が申しておりましたが」
「.....そうか。わかった。隊に戻りなさい」
「は」
異国人に連れ去られた子ども?
異国人を助けようとして子どもが現れ、そのまま逃げ去ったということだろうか。しかし何故子どもが銃など....
「ま、まさか怜じゃないですよね」
不安そうに瞳を揺らした東郷に小松は首を振る。
「今は先を急ぐ。お前も隊に戻りなさい」
二人がその子どもが怜だと知るのは、三日後であった。
しかし時は既に遅くーーーー
◇◇◇◇◇◇◇◇
「もう大丈夫だ」
通り過ぎ間に怜を掻っ攫らったのは、小栗だった。慣れた手付きで手綱を捌き、土を起こしながら西へ向かう。
「お.....」
緊張から解き放たれた瞬間、怜は気を失った。小栗は怜を抱えたまま前を走っていたロバの後を追う。
街道は危険だと判断した小栗は、道を外れて北西方向に向かう。前を走っていたロバもしばらくして後方から姿を現した。
今極めて重要なのは、薩摩藩よりも英国人による報復である。逃げ出した英国人らは、おそらくあのまま領事館へと駆け込むだろう。度重なる外国人襲撃に、対日関係は更に悪化すると考えられる。
今まで数々の事件が頻発していたが、被害者は一様に外交官、もしくは軍人であった。つまり一般の外国人(商人)が斬られたのは初めてなのだ。
今頃、武装した各国の兵が報復するために準備をしているかもしれない。開港場が近いこの辺り一帯がもし戦場にでもなれば、とんでもないことになる。
外国船は並々ならぬ武器を搭載しているのだ。最新式の榴弾砲やカノン砲は、射程距離が長く、我が幕府が所有している大砲より格段も上であるのは周知の事実だった。その外国船がもし集団で攻撃を仕掛けてくれば、町の一つ二つどころか、藩一つ消滅するほどに被害をもたらすかもしれないのだ。
オールコックが休暇中の今、対処にあたるのは代理公使であるジョン・ニールだろう。ならばまだ見通しは悪くない。
彼は先の東禅寺事件において、失態を侵している。元々オールコックは第一次東禅寺事件の際に幕府の警護を不安視し、公使館を横浜に移動させていた。しかしオールコックが休暇で日本を離れた途端、再び東禅寺に公使館を戻したのだ。
そうした背景の元、目の前で英国警備兵二人の命を奪われたニールにとって、代理責任として辛酸を舐めさせられた思いだったに違いない。
所謂日本情勢を認識し、物事を見極める能力があるのなら、今回の事件に対する武力攻撃は得策とは考えないだろう。そうなれば日本という国が一致団結し、被害は自国にとっても莫大なものとなる。
対して、薩摩藩はその報復を回避する為、早急に帰国せざるをえなくなった。神奈川宿を宿泊予定にしていると聞いたが、おそらくその先の保土ヶ谷まで行くはずである。でなければ居留地と目と鼻の先にある神奈川宿では危険だからだ。
つまり両者とも、そこに現れた小さな六歳の子供に構っている暇は無いということなのだ。
小栗は腕の中の怜を見た。
安心したようにその身を預けている。ゆっくり速度を落として怜を抱え直すと、硬いものが手に触れた。
「これは....」
手に持った銃は、緊張のせいかまだそのまま握られていた。小栗は怜の指を慎重に一つ一つ外してそれを取り上げる。
「どこでこんなものを....」
そう呟いた直後、遠くに空砲が鳴り響いた。
亜米利加か英吉利か、どちらにせよ異変が起こった際、沖の軍艦に知らせる合図であった。
もう時間がない。
「怜……ここまでだ」
頭に浮かぶのは嬉しそうに笑う怜の笑顔だった。
短いながらも親子として暮らした日々。泣いたり怒ったり、笑ったり。どれもかけがえのない思い出だ。
しかしそれも今終わりを告げる。
「静かにお休み」
絞り出すようにそう告げて、銃口を額に当てる。
ーーーーー
ーーーーー
銃声と共に、劈く夜鷹の鳴き声が一帯にこだましーーーー
そして消えた。
ーーーーーー小栗怜 享年六(歳)
◇◇◇◇◇◇◇
浜松宿
生麦で起きた不幸な事件は瞬く間に日本中を駆け巡った。薩摩藩は報復されることなく無事に街道を進み、行く先々で民衆から歓迎される始末。瓦版は飛ぶように売れ、奔走する幕府を嘲笑うかのように日本中が湧き立っていた。
久坂もその一人の筈だった。
ある夜、吉田から急報が届くまではーーーーー
「……死んだ?」
馬鹿な、と久坂は吐き捨てた。
高杉は苦悶の表情で瓦版を投げて寄越す。久坂はそれを食い入るように見た。
薩摩藩の無礼打ちによって死傷したのは三名。そのうち一人が死亡。二人は軽傷。どれも英国人である。
そして巻き添えを食らった日本人の子供が一名、流れ弾に当たって死亡と書かれてあった。
「こ、これが怜だと…?」
「吉田の文には、そう書いてあった。コレに名は記されていないが、間違いないと」
「嘘だ…」
「向こうで葬儀も済ませたらしい。木津屋橋に住む親御さんも江戸へ行って参列したと書いてある」
「……嘘だ!」
「遺体も確認したと吉田がーーーー確かに怜だったと」
久坂は瓦版を握り潰した。
まさかあれが最後だというのか?
長州で再会したあの日が、今生の別れだと……
「出発する」
「久坂!」
「この目で見なければ信じない!」
結婚を約束した小さな少女は、いつも手の届かないところにいた。
捕まえても捕まえても、目を離すと煙のように消えて失くなるのだ。
どんなに自分が呼んでも、羽根を持った鳥のように自由に羽ばたいていた。
だからこそ"儚い"のではないか。
少女に接した者は、所詮まだ幼い子供だということを忘れてしまうのだ。その知恵と行動を目の前にして、皆が騙されてしまうのだ。
自分達と同じ"ただの"人間であるということを。
第一章 ー完ー
ひとまず第一章終了です。長きに渡りありがとうございました。
評価、ブックマーク、コメントを寄せて頂いた方々には心より感謝致します。また機会がありましたらご返信させていただきます。
第二章につきましては手直し作成中ですので、気長にお待ち下さると助かります。現在幕間を編集しておりますので、また近々更新致します。今後とも宜しくお願い致します。 空良えふ




