104
いよいよその時が来る。
目の前に置かれた難題にどう立ち向かえばよいか、答えは無かった。
「どうしたの?怜」
ここでもし事件に対する注意を促せば、怪しまれることこの上ない。それに小栗との約束もある。それを反故にしてまで行動する意味があるのだろうか。
「何か気になることでも?」
「ううん。お父様の酒瓶の中に牛糞液入れてたの思い出しただけ」
「!」
「酷いよ怜!」
リチャードソンという人物を怜は知らないし、マーシャルがその男と関係しているのかも定かではない。ならばここで言及するよりも、直接マーシャルに会って確かめた方が得策だが、しかしーーーーー
「お嬢!中村半次郎が参りました!」
「......入りなさい」
「失礼致す!」
中村は足音無く入室し、怜のやや後方に鎮座した。
「まこと本日は愛らしい出で立ちで、全ての男児を魅了する勢いにございまする!」
「うむ。確かに中村君の言う通りだね。椿柄の着物がよく似合っているよ」
「お母様が買ってくれたんよ」
「巾着とお揃いなんだね」
「これは先生が.....」
久坂が以前長州で買ってくれたものだった。
ふと顔を思い浮かべて、あの約束を思い出す。
あれは怜が彼の運命を変えようとして出た言葉だ。
変わるか変わらないかはその時になってみなければわからない。しかし自分はそれに賭けたのだ。
ならば今、心にある憂いの種を変えることが出来るとするなら、或いは変えようがなくとも、何もしないよりは後悔しない。
(横浜へ行こう…)
それが一番だと思った。
マーシャルに会うだけでいい。彼がリチャードソンと知り合いでなければいいのだ。いや仮に知り合いだとしても阻止すればいい。
なんとしてもーーーー
「五郎君も帰るん?」
「そうだよ」
「寂しくなるね」
「うん.....でも」
東郷はちらりと小松を伺った。
小松はそれに気付いて笑みを漏らす。
「怜は京に行くんだろう?」
「うん12月頃に」
「私達も一旦薩摩に帰国した後京に行く予定だよ。また向こうで会おう」
「東郷君も?」
「勿論だ」
東郷の顔がパッと明るくなった。
「京の案内は私に任せて。美味しいお店いっぱい知っとるから」
「うん、楽しみにしてるよ!」
「その際は某もお供させてもらいますぞ!」
「君は薩摩で留守番だよ」
「な、なんとォォオォォオーーー!?」
生麦事件を皮切りに激動の時代がやって来る。英国公使館焼き討ち事件、八月十八日の政変、薩英戦争、下関戦争、四国艦隊下関砲撃事件そしてーーーーー
禁門の変
考えればキリがない。だからこそ怜は現実から目をそらしていたのだ。しかし歴史というものは、その一つ一つは様々な形をしているが、実は一本の線で繋がっているのである。初めは小さな物事が、波紋のように広がっていくのだ。
この幕末期はまさにそれだった。
「小松君。本題は?」
小松は瞠目した。
何かを察知した風に、怜が真っ直ぐ見据える。
小松は人払いをした。中村は元より、東郷の耳にも入れたくないのだろう。
「……肥後守様の小姓を務めるらしいね」
「断れるもんなら断りたいけど」
「出来ることなら阻止したかった。それは私も小栗殿も同じだ。しかしこうなってしまった以上は仕方がない」
小松は疲れたように眉間を指で揉んだ。
「私は出来ることなら君とは敵対したくない」
「……」
「意味はわかるね?」
「…うん」
怜は即答した。
「危ないことはけしてしないように」
怜の心を読むかのように、小松が釘を差す。
目を閉じれば、浮かんで来たのは大切な人ばかりだった。
「私は大丈夫」
◇◇◇◇◇◇◇
横浜・外国人居留地
二日後、怜はぼーちゃんと鈴木君を連れて横浜へ向かった。事前に鈴木君に文を届けてもらい、マーシャルより通行許可証を得たのである。
小栗には東郷の帰郷を見送りに行くと言って出てきた。本人も行きたがっていたが仕事のため叶わなかった。
ぶらりぶらりと通りを過ぎながら、怜は珍しい風景に夢中になっていた。沿道に植えられた松や柳の木が、馬車道に溶け込み、洋風建築の建物にも意外と調和が取れている。以前来た時は見る暇も無く早々と立ち去ったが、こうしてゆっくり見学していると色んな景色に感動するのである。
居留地は横浜村の山下町辺りで、「関内居留地」と呼ばれる一帯であり、関内へ行くには関門を通過しなければならなかった。関門は吉田橋という木橋のたもとにあり、ここから"馬車道"と呼ばれる道を直進すると開港場となっている。
ここにある関所は、幕府直轄の役人から諸藩藩士まで様々である。
そもそもこの一帯は川に囲まれている。元からある川もあれば堀割りされた川もある。随所に橋が架けられている為、その一つ一つに関所が設けられており、そちらの方にも役人や番役らが派遣されているのだ。しかし番役らの中には、明らかに外国人を疎ましく思っている輩もいる。そういう者は何かと難癖を付けては日常的に外国人とトラブルを起こすのだという。
「あ、サムや」
怜は懐かしい顔に気付いて手を振った。以前マーシャル家で世話になった庭師の男だ。
現在、ここに住む外国人は約200人ほどである。大半が英国人であり、大体は一攫千金を夢見てやって来た商人ばかりである。確かに彼らは自国では成功者として名を馳せるだろうが、日本では単に"余所者"でしかない。それは時代に限ったものではなく、"単一民族"という意識そのものが色濃く残る日本社会では、至極当たり前の感情なのかもしれない。
「元気じゃったか?」
「うん。お迎えありがとう」
「随分大きくなった...」
「もうすぐ七つになるんよ」
「そ、そうか。早いもんじゃ...そうか...(女の子じゃったのか!)」
怜達一行は関門を通過し関内へと入った。一歩入れば更に別世界が広がっている。出島とはまた違った趣きで、こちらの方が一層洗練されているように感じた。
マーシャルの家はいくつかの角を曲がった先である。緑色の屋根と真っ白な外壁が特徴で巨大な庭が広がっていた。相変わらず庭の手入れは素晴らしく、様々な種類の木や花が咲き乱れていた。
マーシャル家の門内に入ると館へ続く真っ直ぐの道があり、そこには看板が建っていた。前はこんなものは無かったはずだが、と怜はその看板の文字を目で追った。
"Chivalry"
「生意気な…」
怜は舌打ちした。Chivalryとは"騎士道"を意味する。どんな道でも命名したがる西洋人特有の気質。怜の許容範囲を超えた。
「お嬢ちゃん一体何を…」
矢立てを取り出した怜は、Chivalryを消してその上に"A fool"と書いた。
"愚か者"ーーーーーである。
「相変わらずじゃの…」
サムは苦笑した。
「自分の家の道にまで名前を付ける奴なんか普通はおらんし。ほんまにあの男だけは根っからのーーー」
とその時、バアァァァンという衝撃音と共に、洋館の扉が勢いよく開いた。
「やあ!レイ!long time no see!」(久しぶりだね!)
愚か者の登場である。
◇◇◇◇◇◇◇
「さあ!」
来た早々マーシャルに増設された庭へと案内された。奥へ進むと植樹されたヤマボウシの高木が、白い花を付けて一角を囲むように立ち並んでいる。中央は凹凸のない平面の芝。よく見ると小さな穴が空いていた。
「見てごらん!これはねーーー」
ドヤァァァと広げた腕を、怜は手刀で振り下ろした。
「ゴルフやろ」
マーシャルは苦しげに胸を抑えた。
「や、やはり知っていたか...」
「あれだけビリヤードに嵌ってたのに」
「ビリヤードなんて今時流行らないよ」
紳士の嗜みで知られるゴルフは、この時代ではまだまだ現代に及ばない。クラブはヒッコリーという樹木から作られていて、ボールは羽毛を皮で包んだ"フェザーボール"と呼ばれるものである。
「ほんでわざわざグリーン作ったんやね。お金もったいなーー」
「日本人には理解出来ないだろうけど、我々英国人は、人生を楽しむことを第一に考えているのさ。そのためにはマネーに糸目を付けないんだよ」
「そのうち借金で首が回らんなるな」
「有難いことに商売は上々さ」
「そういえばクレメンティナは?」
「彼女は買い物へ行っているんだ。もうすぐ帰ってくるよ」
マーシャルは振り返りもせずに声を上げた。
「ポッター1等級のアップルティーを!」
「ははっ」
怜はマーシャルに促され、更に奥へと向かう。そこにはグリーンを見渡すようにオープンデッキがあり、温もりのある木のテーブルと椅子があった。
「座りたまえ」
「キョキョ」
「ヒー…」
「……君たちは向こうで待機していてほしいのだが」
「ギョギョォオォ」
「ヒーーーーー…」
「二人とも、ちょっと耳貸して」
怜はマーシャルに聞こえないよう何やら耳打ちをする。すると怒り心頭だった鈴木君とぼーちゃんは、みるみる表情が柔らかくなり素直に応じて、二人から離れて行った。
「さあ、早速だが要件を聞こうか」
マーシャルは長い足を持て余すように横向きに足を組み、背もたれに身体を預けて腕を肘掛けに置く。怜も同じ格好をした。
「要件は文に書いた通りやよ」
怜が送りつけた文は"遊びに行く"という至って簡素な内容だった。しかしマーシャルは何かを企んでいるのではと疑っているのだ。
「何か理由があってのことでは?」
マーシャルはじろりと怜を横目に見る。
「まさかクレメンティナを横取りしようと……」
「あんた…私の格好見てよくもそんなことが言えるね」
マーシャルはこの時初めて気付いた。
前は薄汚い男児用の着物を着ていた怜が、今日は橙色の四つ身に青い結び帯を着用している。
「ま、まさか女装の趣味が…!?」
「生まれた時から可愛らしい女の子や」
「!!」
マーシャルは胸元のハンカチーフを手に取り、額の汗を拭った。
(レディだったとは!!あ、あり得ない……そんなことあるはずがない!日本のレディと言えばお淑やかで恥ずかしがり屋で、男性に対しては優しく、受け身で従順なタイプだとばかり思っていた!少なくとも私が今まで見た日本のレディに、"こんなの"はいなかったのに!)
怜はマーシャルの心を読んだ。
(ちなみに彼は顔に出やすい男である)
「残念ながら、私が日本代表や」
「………よくも騙したなジャパン!」
思わず叫んだマーシャルだったが、ポッターがアップルティーを持ってきたのとほぼ同時に、遠くから聞こえる馬の鳴き声にハッと我に返った。
「帰ってきたようだ」
「じゃあ私も挨拶に…」
「もちろん来たまえ」
マーシャルの後に続いて、玄関へ向かうと、ちょうど馬車から降りるクレメンティナとサスケ、そしてマイケルの手に掴まる若い女性が姿を見せた。(以下『』英語)
『お帰り。クレメンティナ』
『ただいま.ーーーーあら...あなた...』
クレメンティナが目をぱちくりさせて怜に近付いた。
「レイ?ーーあなたレイね?女の子だったのね!」
驚きを隠せず、口元に手を当てるクレメンティナ。マイケルやサスケもぽかんと口を開けたまま固まった。
「うん。前はちょっと事情があって」
「わかるわ。日本では女が船に乗るのにもちょっと面倒だったりするわよね」
「あーそうか。だから男装していたのか」
大いなる勘違いだったが、否定しない怜を見て二人は納得したようである。
「今日はレイが来ると聞いていたからとっても楽しみにしていたのよ」
そこへ後ろの女性がひょっこりと顔を出した。
『お姉様、この子は?』
『私のお友達よ。レイって言うの』
『初めまして。小栗怜です』
『まあ、英語が話せるのね』
『それは私も知らなかったわ!』
『私も初耳だよ....レイ』
女性はクレメンティナの妹・マーガレットだった。姉に似てこちらも美しい女性である。英語を話せる怜が珍しかったのか、目を輝かせながら話しかけてきた。
『まあ!この前まで上海に?私は香港に夫と住んでいるの』
『そうだわ。彼は上海から観光に来たのよ?あちらで商売をしていたんだけど、会わなかったかしら』
『彼?』
『もうすぐ帰ってくるわ』
視線を追った先にもう一台の馬車が止まる。
マイケルが扉を開けると、中から二人の男が出てきた。
どちらもフロックコートと同じ黒い帽子を被り、長身で口元には髭を蓄えている。一人はガタイの良い男で髪はやや癖毛。もう一人は細身で髪をきちんと後ろへ撫で付けていた。見るからに英国人そのものの気品さが伺えるが、大抵長身の人間は、普通にしていても姿勢さえ良ければ格好良く見えるものである。
『全く女性というものはたかが花を買うのに随分時間がかかる』
細身の男がやれやれといった調子で言った。
『あら、それは当然よ。モーリス夫人に野花をプレゼントするわけにはいかないわ』
マーガレットは悪戯っぽく笑う。そこへマーシャルが割って入った。
『紹介するよ。この子はレイ』
『小栗怜です。宜しゅう』
怜はスッと手を差し出した。
細身の男は一瞬瞬きをしたが、感心したように頷いて握手に応じる。
『私はクラーク。ウッドソープ・クラークだ。よろしく』
クラーク。その名に覚えはなかった。
『クラークはハード商会という会社に勤めていてね、去年まで上海にいたんだか、今年横浜に赴任したんだ。そして彼はーーー』
マーシャルが視線を送ると、ガタイの良い男が進み出た。
『チャールズ・リチャードソンだ』
威風堂々と、まるでこの中で一番身分が高い人間かのように怜を見下げた。
(ああ....やっぱり....)
この運命的な出会いからは、やはり逃れられそうもない。
『ねえ、チャールズ。怜は上海に行ったことがあるのですって』
『ほう...』
『でも私は仏蘭西租界地の旅館におったから、英国租界地はあんまり行ってなくて』
怜は後悔した。
上海にいる時にチャールズ・リチャードソンを見つけておけば良かったと。向こうで会っていたなら、何としても日本に来させないよう手を尽くしたのに。
『しかし英語が話せる日本の子どもは初めてだな』
『まだこんなに幼いのに。きっととっても賢いのね』
『日本人は勤勉な民族よ。接してみればわかるわ』
リチャードソンがフンと鼻で笑った。
『上海人の方がよほど勤勉さ』
『そうなの?』
『英語を話す者も多いしね』
『それは仕方がないんじゃないかしら。日本は島国だし、鎖国の所為で他国とはほとんど関わりが無かったのだから』
『だからいつまで経っても発展しないのさ』
マーガレットが冷静に反論するが、リチャードソンには通用しなかった。
『長崎で拘束されそうになったのをまだ根に持っているな?』
クラークが含み笑いを浮かべると、リチャードソンが苦々しい口調で吐き捨てた。
『....全く忌々しい思い出だよ。だから嫌いなんだ。日本人は』
『やめなさいよ。子どもの前で』
クレメンティナは怜の目線になって両手を握ると、心配そうに顔色を伺った。
『レイ。気にしないで。彼はまだ日本のことをよく知らないの』
『ううん。大丈夫』
怜は笑ってみせた。
今まで様々な外国人に接して来た。
大半は一癖も二癖もある男ばかりだったが、自分自身が三癖(自称)ほどあるので、特に気にも止めなかった。
しかし、今まさに目の前にいる軽薄そうな白人は、その予想を遥かに超えている。
侮蔑な態度を隠しもせず、相手をリスペクトする気持ちすら持ち合わせてはいない。あのオールコックでさえ、このような態度はしなかったというのに。
『さあ。二人とも。良いワインが手に入ったんだ。一緒にどうだい?』
『おお!それはありがたい。是非』
二人を誘導しつつオープンデッキへと歩き出したマーシャルだったが、ふと思い出したように振り返った。
『レイも来るかい?』
悪戯っぽい笑みで、でもその瞳の奥に「このままやられっぱなしでいいのかい?」と、まるで試すかのようにそう告げている。
『もちろん』
怜はクレメンティナが止めるのも聞かず、マーシャルの元へ走った。
一気に駆け抜けます。