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幕末スイカガール  作者: 空良えふ
第一章
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「怜、開けるよ?」

「はい。どうぞ」


怜は文机の上で手習いをしていた。


「まだ寝ないのかい?」

「"源氏物語"を仕上げなければならないのです」

「ふむふむ。そうか」


小栗は満足そうに頷いた。


「けれど、そろそろ寝る時間だよ。残りは明日にして今日はもう寝なさい」

「はい。わかりました」

「ではお休み」

「お休みなさいませ。お父様」

「うむ!!」


ご機嫌な様子で退出した小栗を見送り、怜は文机の下から棒を取り出した。あの下僕に取ってもらったものだ。棒の先には引っ掛ける為の鉤のような物が付いている。足の間に挟んでいた長さ三十センチ、直径四センチの竹の棒を立て、その鉤を穴の中に押し込むと、内側をガリガリと削り始めた。


「もうすぐ完成や」


怜は密かに笑みを漏らす。


苦節数日。

怜にしては長かった。

憎っくき早乙女姫子。そして生意気なガキども。奴らをギャフンと言わせねば気がすまぬ!


いや、いつもの怜ならとうにやり込めていただろう。しかし自分は今「小栗怜」である。現在"外国奉行"の任に就く小栗忠順の娘なのだ。


さすがにあれだけ釘を刺されて、今までのように目立つ行いは出来ない。小栗だけならまだしも、道子に要らぬ心配をかけたくなかった。


ならば答えは一つ。


"仇討ち"しかない。



「よし」


怜は巾着の中のもう一つの竹の棒を取り出す。こちらはさっきのよりやや細い。先端には手巾が巻きつけられ、糸で何重にも固定されていた。



「水鉄砲の完成や」



◇◇◇◇◇◇◇



試衛館



「ほら食え」


鈴木氏の目の前には、てんこ盛りの茶色い土のような物があった。


「なんだその目は」


正気かこの男、そんな目である。


「これはなぁ、打ち身、捻挫、骨折、他にも風邪、熱、腹痛、何でも効く万能薬なんだ」

「石田散薬って風邪とか効いたっけ?」

「ああ。効く。この前近藤さんが風邪引いた時に飲ませたら一時間で治ったからな」

「スゲー!」

「だろ?」

「おい平助信じんな。んなもん効くわけねえだろ。しかもコレ、鳥だぜ?」

「馬鹿野郎。石田散薬は鳥でも人間でも何にでも効くんだ」

「殺す気かよ」

「黙ってろ原田」


土方は横たわる鈴木氏を抱き上げ、嘴に皿を持ってくる。鈴木氏は拒否の姿勢で顔を逸らした。


「ほら、嫌がってんじゃねーかよ」

「飲まねえと治らねえだろ」


グイグイと押し付け、無理矢理嘴を開く土方。抵抗する力も無い鈴木氏はされるがままになっていた。


「ゴォギオオォオ……」


地獄から這い出た亡者のような恐ろしげな声に、原田と平助は抱きしめあった。


「ひぃい」

「怖ええ!」


しかし土方は構わず全部流し込む。


「よしよし」

「ギョボォ……」


焙じ茶の香りがしたと思ったら、舌に差し掛かかったところで苦味が脳内を駆け巡る。


「ホギョオォオオオオォーーー!!」


突如暴れだす夜鷹。

自分の意思に反するままドスンバタンと部屋中の壁を打ち、天井にぶつかったところでヒラヒラと落下した。


「ヨヨョ...」


思考回路が定まらない。びくびくと痙攣を起こした身体から、熱が放出するような感覚に襲われ、鈴木氏は白目を向いてぶっ倒れた。



「死んじまったな」

「なーにぃ!?」

「馬鹿野郎。ちぃとばかり眠っただけだ」



鬼の片鱗を垣間見た瞬間である。



◇◇◇◇◇◇◇



「お師匠様、大変でございます!藤原家の御息女、綾乃様が!」

「……参ります」


早乙女は「またか」という風に眉根を寄せた。それでも冷静に、無表情に、内弟子の後を静々と進む。長廊下を左に折れると園庭があり、そこには早乙女自慢の色とりどりの紫陽花が咲き乱れているのだが、人垣の所為で眼に映ることはなかった。



「うえぇぇん」


いつもの傲慢さは無く、地面に座り込んだまま泣き崩れる綾乃の姿に、早乙女は絶句した。


顔も手足も着物も草履も、全身が真っ黒に染まっている。暗闇なら気付かれぬほど。つまり、まごうことなく真っ黒に染まっているのだ。


「一体どうしたというのです!?」

「い、…いき…なり……ヒック…誰かに……墨を……かけられてぇ…ヒック…」

「な、なんと…一体誰が…」

「お師匠様、いかが致しましょう…」


早乙女は歯噛みした。近頃この指南所では、不可解な物事が相次いでいる。一昨日は商家の娘"タキ"が池の水をかけられた。昨日は御家人の娘"八重"が紅い墨を。


そして今日は旗本の娘"綾乃"


(何者の仕業か……)


「風呂の用意を」

「は、はい!」

「それから藤原家に使いの者を」

「かしこまりました!」


早乙女は周囲をぐるりと見回した。

怯え震える少女達。次は自分かもしれないと思っているのだろう。生意気にも「こんな恐ろしい所、辞めようかしら」などという声も聞こえる。


何と傲慢な言い草か。

自慢ではないが、この早乙女指南所。こちらから辞めてもらうことはあっても、その逆はない。いや有り得ない。



(面白い……面白いじゃないの)



これはまさに早乙女姫子への挑戦状。



(受けて立ってやろうじゃないの!)



早乙女は闘志を燃やしていた。



◇◇◇◇◇◇◇



「あらあら、東さん」

「ご無沙汰しております。あの、先生は御在宅でしょうか?」

「ええ。今日は久方ぶりのお休みですのよ。さあどうぞお上がりになって」

「ありがとうございます。失礼致します」


今日東郷が小栗家にやって来たのは、怜が帰還したのを知ってのことである。約一年ぶりの再会。ずっと会えなかった寂しさと、やっと会える嬉しさ。人前で平静を繕う毎日だった。だが長年見てきた小松は、仕事に集中出来ない彼に気付いていたのだ。そして今日一日休みをくれたのである。


「先生。朝から申し訳ありません」

「いやいや毎日来てもいいくらいだよ」

「いえ、せっかくの休暇ですのに」


小栗は満面の笑みを浮かべた。


「怜に会いに来たのだろう?」

「えっ、そ、それは」

「ふふふ。隠さなくてもいいよ」


東郷の顔は朱に染まった。


「けれど、残念ながら怜はお稽古に行ってしまっていてね、今は留守なんだよ」

「お稽古ですか?」


小栗は軽く頷いた。


「初めはどうなるかと思っていたが、やはりあの子は飲み込みが早い。方言も治ったし作法も完璧だ。どこに出しても恥ずかしくない娘になってくれたよ」

「あの怜が、ですか?」

「あの怜が、だよ」


東郷はにわかに想像がつかなかった。

あのお転婆娘が、まるで小さな男の子のようなじゃじゃ馬娘が、本当に小栗の言う"お淑やかな娘"に生まれ変わったのだろうか。と。


「見に行ってみるかい?」

「見に?……いいんですか?」

「こっそりだけどね」


小栗は悪戯っ子のように言った。


「やれば出来る娘なんだよ」

「はい。そうですね」


東郷は何となく小栗が変わった気がした。怜の話をする表情が、まるで本当の父親のように柔らかくなるのだ。愛おしそうな、それでいて慈しむような、今まで見たこともない顔だ。


「本当に娘とは可愛いものなんだね」

「はい!」


東郷の胸がじんわりと温かくなった。




◇◇◇◇◇◇




早乙女指南所



"妖怪蛇女"


早乙女の眉がピクリと動いた。


「………」


今、「妖怪蛇女」と聞こえた気がする。どこから聞こえたのか。近いようで遠い声。


目の前に座っているのは、桔梗組の三人の少女達だが、それぞれ"伊勢物語"の書写に集中している。


「(気のせいかしら……)」


早乙女は姿勢を正した。

朱筆を取り、宿題として出していた源氏物語の写本を一枚ずつ丁寧に捲る。


「トモさん」

「は、はい!」

「癖のある字は直すよう申し付けたはず」

「申し訳ありません!」

「次は、ありませんよ?」

「は、はい!!」


美しい字は女性の嗜みであり、子供といえど容赦しない。早乙女は次の写本に手を伸ばした。


"早乙女姫子。またの名を早乙女蛇子"


思わず立ち上がった。


「誰です!!」


ぽかんと口を開けた少女達。どの顔も不思議そうに目を瞬かせている。今の声はこの子達の中の一人から聞こえたと思ったが……いや、後ろから聞こえた気もする。


早乙女は振り返った。

もちろん後ろは床の間と壁しかないので、人などいるはずもない。


「……続けなさい」


三人は黙って頷いて、また書写を再開した。早乙女は妙な感覚に寒気を覚えながらも、胸に手を置いて心を落ち着かせる。


「(疲れているのだわ…)」


しばらくすると一人の少女が「先生」と手を挙げた。


「何です?怜さん」

「終わりました」

「……持ってきなさい」

「はい」


怜は作法通りに立ち上がり、恭しく早乙女に手渡す。早乙女はペラペラとそれを捲り、朱筆を取って全ての紙にバツを付けた。


「やり直し」

「はい」


少女は特に感情も出さず、素直に返事をする。思えば早乙女は、この少女が嫌いだった。噂によれば、京出身の商家の生まれだとか。身分不相応にも幕臣中の幕臣、小栗家の後継として迎えられ、この先の未来は明るいものと確定している。


本来なら、自分の孫が小栗家に迎えられる予定だった。もちろん決定されたものではなかったが、そういう打診が"あった"のだ。


◇◇◇◇◇◇◇


一年前



元々道子は早乙女の教え子である。

けれどそれは遠い昔の話であり、今では折々に季節の便りを出す程度の間柄であった。しかしある日突然、道子の元に早乙女から屋敷に来るよう文が届いた。



「奥様、お子様はまだですの?」

「え、ええ…」

「女というものは、子を成して漸く真の女人となるのです。おわかり?」

「ええ…勿論ですわ」

「三郎。お入りなさい」

「はい。お祖母様」


三郎は八つになったばかりだった。


「まあ。先生のお孫さんですか?」

「ええ。この子は五人の孫の中でも特に優秀ですの」

「利口そうなお孫さんですわね」

「顔も性格も一番私に似ていますのよ」

「本当に。よく似てらっしゃいますわ」

「この子なら立派に小栗家の跡取りとして、その役目を果たすでしょう」

「え?」

「はしたないですよ奥様。女人が"え?"などと…」


早乙女は蔑みの目を向けた。


「申し訳ございません。ただ聞き捨てならないお言葉が聞こえてきましたので」

「とにかくそういうことですので、いずれはこの子を小栗家の御養子としてお迎え下さいますようお願い申し上げますわね」

「お言葉ですが、そのような大事な話は私の一存では決めかねますわ」

「まあ、……それもそうですわね」

「主人に相談致しますので、今日はこの辺で失礼致します」

「そう。では宜しくお願い致しますわ」



その後、しばらくして小栗家当主から書簡が届いた。今はまだ養子縁組など考えていないという。思いがけない当主の言葉に早乙女は憤りを感じた。しかし、そうは言ってもいつか現実を思い知る時がくる。ゆえにその内あちらの方から頼み込んでくるものだと勝手に思い込んでいたのだ。


だが思惑通りにはいかなかった。


道子から喜びの文が届いたのはひと月前。可愛らしい六つの女子を養子に迎えたと書かれてあった。


許せなかった。何たる侮辱。

早乙女家に泥を塗ったも同然だと思った。


そこで早乙女は道子に娘への教育を提案したのだ。浮かれている小栗夫妻はその提案を快諾し、そしてあの忌々しい子供はやって来た。


意志の強そうな目。

初めて怜を見た時、早乙女は思った。

頭は悪くないようで、受け答えもしっかりとしている。また字も子供にしては上手だ。だがよくよく観察すれば、ガサツで下品で言葉遣いも知らない田舎者。こんな子供に自分の孫が負けるとは、断じて許せない。


早乙女は"教育"と称して怜を追い出す決心をした。幸いにも早乙女指南所の厳し過ぎる教育方針は合法なのだ。出来れば本人が投げ出すか逃げ出すかしてくれたら万々歳だが、そうでない場合、不出来な娘だ報告し、小栗家には釣り合わないと進言すれば、あの夫妻も気が変わるかもしれないと考えていた。



早乙女はちらりと怜を見た。

涼しい顔で筆を動かしている。


「先生。終わりました」

「では、幸乃さんは帰ってよろしい」

「ありがとうございます。お疲れ様でございました」


幸乃に続いて、もう一人の少女も退室し、怜はとうとう一人になった。


「まだ終わらないのですか?」

「もう少しです」

「要領の悪さは人柄を表すのです」


怜はぺこりと頭を下げた。


「申し訳ございません」


早乙女は「はぁ」とあらかさまに大きな溜め息をつく。


「これだから田舎者は…」


と、早乙女が呟くと、再び声がした。


"蛇の化身。その名は早乙女姫子"


早乙女は飛び跳ねた。


「な、何者です!!」

「先生?どうしたのですか?」


"我は貴様を許さない"


「出て来なさい!」

「先生、一体何を仰っているのですか?」

「あ、貴女は、聞こえないのですか!?」

「何をですか?」


"貴様は地獄に落ちる者"


「ほら!今言った!」

「?」


怜は首を傾げた。


"落ちろ…地獄に落ちろ"


「ほら!!聞こえたでしょう!!」

「いいえ先生。私には聞こえません」

「そんな馬鹿な!」


早乙女は驚愕の表情で怜を見返した。


"見るな…可愛い少女が腐ってしまう"


「卑怯です!顔を出しなさい!」

「先生、大丈夫ですか?」

「何者です!?今すぐ姿を現しなさい!」

「先生、誰もいませんし、声など聞こえません」

「そ、そんな……」


自分は気がどうかしてしまったのだろうか。こんなにはっきりと不気味な声が聞こえるのに、この娘には全く聞こえていない。伺うような瞳は嘘をついているようにも見えなかった。



"滅びろ…早乙女姫子…"


「やめてぇぇええ」


その場に蹲り、耳を塞いで目を閉じた早乙女だったが、声は止まなかった。


"ほーろーびーろー………"


「ひぃぃぃいいいぃ!!」



早乙女は部屋を飛び出した。




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