010
「どがいしたんじゃ?」
「大丈夫ですか?」
(写真のままや、、、いや髪型がやや違うか。そやけど本物や)
「い、いやなんも。何もないよ」
「身体は大丈夫か?」
「大丈」
怜は自分の姿を見て驚いた。何故なら藍色の真新しい着物を着ていたからだ。
「誰が着がえさしてくれたん、、?」
「ああ。そりゃ俺やが。それよか何でおんし男装しとったんや。なんか理由」
何度も言うが、怜は五歳の子どもである。
しかし心は二十三歳のうら若き乙女なのだ。
確かに女らしさは皆無だが、自分の裸を見られたことなど前の世にも無かった。(家族以外では)
怜は坂本をギロリと睨み付けた。
「私の裸は、、、」
ボソリと呟いてグッと拳を握り締める。
「一万両の、、、」
そして大きく振りかぶった。
「ーーーーッ!!?」
「価値があるんや!!!!」
次の瞬間、乾いた音と男の絶叫が部屋に響いた。
「責任取ってくれるんやろな!?」
フンッと腰に手を当てて踏ん反り返る怜。
そう。彼女にとって坂本龍馬はただの歴史上の人物であってそれ以外に何の思い入れもない。簡潔にまとめれば「ただの男」でしかなかったのだった。
◇◇◇◇◇◇◇
「もう大丈夫そうやな」
船の所有者は怜を散々褒め称えた後、あの小さな子どもとその父親を連れて来た。
「本当にありがとう。小さいのに勇気があるね。ほら幸太朗もちゃんとお礼を言いなさい」
「ありがと。お兄ちゃん」
「これからは気をつけるんよ?」
「うん!」
怜は親子の後ろ姿を見送って、そのままデッキに上がる。空はもう明るく、太陽は真上を過ぎようとしていた。水夫らは暑い中を汗水垂らして作業し、その中にあの大男もいる。怜は大男の元へ駆け寄ると話しかけた。
「あ、もう大丈夫なんですね」
「うん。それより、なんで密航のこと言わんかったん」
てっきりバレてしまったと思ったのに、特に何も咎められず、好きなだけさっきの船室を使用して良いと言われ、更に食事なども用意される高待遇を受けたのだ。
「いや、何となくです」
「ふーん」
「でも坂本さんにはバレました」
「え!?」
「あの人、よく見てますよね。乗客も船員も全て把握してるんです。だからあの人には正直に言いました。そしたら自分の親類ってことにしておくと言って」
「そうやったん」(叩いて悪かったかも)
「あそこにいますよ」
大海原を見つめる坂本は、現在二十五歳。まだ薩長同盟どころか海援隊の前身である亀山社中も立ち上げていない時期である。
「お?起きて大丈夫がか?」
怜に気付いた坂本は満面の笑みを浮かべた。
「うん。あの、助けてくれておおきに」
「気にせんでええ。それよりおんしみたいな子どもが、なして密航なんかしたんじゃ」
「肥後に行きたいんや」
怜は自分の夢を語った。
普通なら無謀だと笑われるか反対されるかもしれないが、坂本ならそんなことはないだろうと考えたのだ。
「へえ。そりゃ壮大な夢じゃのう」
「今の人生は一度きりや。自分のやりたいように歩きたいねん」
「俺も同じじゃ」
「それはそうと坂本君はどこ行くん?」
「土佐じゃ。実家に帰る途中ぜよ」
「ふーん」
坂本はまた海に視線を戻した。
「世の中は知らんことばかりじゃ。それを知る為には若い時から色んなトコに行った方がええ。落ち着いたら俺も色々旅して周ろう思とる」
「知らんことなんかあるん?」
怜の言葉に坂本は豪快に笑った。
「知らんことばかりじゃ。例えばあの”太陽”は地球からどれだけ離れとるんかとか、どれくらいの大きさなんかとか」
「太陽は地球の百九倍や」
「百九倍!?なな!?ほりゃあ誠か?」
坂本は驚きの声を上げる。
「ほんなら、月もそんくらいということか?」
「月は地球の四分の一や」
「そりゃおかしいがやろう。月も太陽も同じ大きさやないか」
「あー、そやから月は太陽の四百分の一で、太陽は月よりも四百倍遠くにあるから同じに見えるだけ……」
怜は自分の学習能力の無さを嘆いた。
「おんし、、、何モンや」
「し、知り合いに天文学に詳しい人がおるねん。その人に教えてもろたんや」
「ほう。なるほどのう」
坂本は怜の嘘を信じた様子だった。
「ほんで、名は何と言うがか?」
「後藤怜や」
「”怜”か」
「あー!すっかり忘れとった!とりあえずおおきにな!ほなまた!」
怜は船の船尾へ走っていく。荷物袋を藁籠に入れたままだったのを思い出したのだ。
「ちゃんとあるな。よっこらしょ」
(あんまり話しとったら墓穴掘りそうで怖いな)
運が良いのか悪いのか、次から次へと偉人に出会う。西瓜糖作りが本格化したら、そのつてを利用出来るが今は時期尚早だ。しかし名を売るという意味では幸運だと思った。
怜は荷物袋を肩に担いで部屋へと入ると、下にそれを置く。ドサリとベッドに腰を下ろして一息ついた。
「そうや。明日は土佐観光しよかな」
朝には土佐に到着する。そこで積荷を半分降ろした後、逆に土佐の特産品などをまた積み、夕方に出航するといった具合だ。
「それなら俺が案内しちゃるわ」
カタリと扉が開いて坂本が顔を出した。
「まだ何か用?」
「俺の部屋やが。親族言うことにしとるき、同室は当たり前じゃろう」
「嫁入り前なんやけど」
「くっくっ。五歳の子ォに手ェ出すほど飢えとらんき」
そりゃそうだと怜は納得し、荷物袋の紐を解き始めた。その時、部屋をノックする音がした。
「坂本はん、一緒にカヒでもどうでっか?」
現れたのはこの船の所有者だ。
「ありゃ土やが。苦ごうて飲めんぜよ」
「慣れれば結構イケまっせ。嫌やったら酒もあるさかい」
「ほな行くか。怜も来いや」
怜は「お酒」の言葉に敏感に反応した。
(そういや最近飲んどらんな)
「うん!行くぅ~」
怜はスキップで部屋を出たのだった。
◇◇◇◇◇◇◇
西洋風の食堂は、丸いテーブルがいくつかあり、趣味の悪い置物や素人が描いたようなど下手くその絵画が飾られていた。
「ほんなら土佐戻ったら、また直ぐに江戸へ行くんでっか?」
「ひと月はおるけどな」
「相変わらず忙しい方や」
この船の所有者の名は”淀屋”と言った。大坂の商人である。坂本とは馴染みの仲で、なかなか気風の良い人物だった。
先祖代々大豪商であったが、その財力が武家社会に影響を及ぼすという理由で、幕府から財産没収の処分を受けた過去がある。とはいえ処分が下される前に、伯耆国(現鳥取県)に暖簾分けした店を構え、廃業まではいかなかった。その後はまた大坂で再興し、現在はこの八代目淀屋孫三郎が当主となっている。
「アギに呼ばれとるんじゃ」
「アギって何なん?」
「武市半平太っちゅうアゴ(アギ)の大っきいど偉い先生や」
怜の問いに淀屋は続けた。
「あん人は素晴らしい先生やわ」
「その素晴らしいアギ先生に江戸へ来るよう言われての」
怜は「あっ」と気付いた。
(そうか。武市半平太ってことは”土佐勤王党”やん)
土佐勤王党とは約ひと月後の未来に結成される政治組織である。尊皇攘夷を掲げた過激派グループで、党首は武市半平太(瑞山)。坂本の遠縁にあたる人物であった。
◇◇◇◇◇◇◇
商船が土佐の手結港に到着したのは明け切らぬ朝であった。地平線はほのかに水色を差してはいるが、日の出には早い。しかし、港は活気にあふれていた。
「怜、早よう来い」
「うん。そやけどなんでこの人おるん?」
怜と坂本の後ろから、あの大男がぴたりと付いてくるのだ。
「おまんの用心棒やが」
坂本はサラリと言った。
「ふーん。アンタ名前は?」
「山田です」
「……普通過ぎるやろ」
「よく言われます」
確かに”用心棒”には適した人材である。しかし怜は勘違いをしている。この山田は怜を守る為の用心棒ではない。怜から人々を守る為の用心棒なのだ。
「そういえば淀屋は?」
「……知らぬが花じゃ」
◇◇◇◇◇◇◇
昨晩。それは前触れもなく起こった。
「い、今なんて?」
「だーかーらー、あんた趣味悪すぎやろ」
怜は淀屋に絡んでいた。
「怜、おんし酒飲んどるんか?」
「坂本君は黙っといてくれるか。なあ淀屋。なんやあの絵画。あんなもん私でも描けるわ。それにこの不気味な置物。なんやこのジジィ」
「アホウ!それは守り神や!西洋に伝わる海の守り神”ポセイドン”なんや!」
「ひ弱なオッサンにしか見えんけどな。髭も生えとらんし、トライデントも持ってないやん」
「とらいでんと?なんじゃそれは」
「先が三つに分かれた槍や。このジジィが持ってんのは槍やなくて”魚”や」
「ほ、ホンマかそれ!?」
「いくらで買うたん?」
「、、、十二両や」
怜は大袈裟に溜め息をついた。
隣りの坂本はあまりの酒臭さに「ウッ」と鼻をつまむ。
「あの西洋商人、ワシを騙しよったな」
淀屋は怒りに震え、拳を固く握り締めた。
「騙される方が悪いんや!このアホウ!」
「こら、やめんか」
淀屋はさめざめと泣き出した。
「泣くなて。ーーー怜、飲み過ぎやが」
「私はくだらんことにお金かける奴が大嫌いなんや。世の中にはな、今日のご飯もままならん人がいっぱいおる。そういう人に使うんが世の為人の為や。それこそ”生きた金”ちゅうんや!」
「怜、こら机の上に乗るな」
坂本は必死で引き摺り降ろそうと試みるも、淀屋に抱きつかれ身動きが取れない。
「私はやるで!億万長者になって、貧しい人を助けるんや!」
「怜やめい、、」
「頑張れよ!チビ!」
「小さいのに偉いぞ!」
「おおきに!」
「怜、、、」(言うても無駄みたいやの)
周りからの拍手喝采にすっかりご満悦の怜は、その後、ばたりとテーブルに倒れ、そのまま夢の中へ入っていったのだが、もちろん本人は覚えていない。そして今日、淀屋は憔悴しきりで、船室から一歩も出てこなかった。
「坂本さん!」
「中岡!お迎えご苦労じゃの。元気にしちょったか」
「坂本さんこそ、、、この子は?」
「ああ、俺の親友じゃ。な?」
怜はこくりと頷き、中岡をマジマジと見つめて言った。
「七十五点。”後藤怜”言います。宜しゅう」
「七十五点、、、何だろう。惜しい感が否めない」
「中岡、深く考えるな」