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イギリス教室

作者: 森田 享

   イギリス教室



 大正時代。イギリス人女性だけで教える英語の学校が、長崎の、かつての外国人居留地にあった。

その頃、長崎の外国人居留地は日本に返還されていて、外国人は内地雑居を認められていたが、なお異国情緒のある西洋館や教会ばかりが並んでいる街が残っていた。その街に英国人一家の英語塾があり、十四歳の少年、龍平は友達と一緒に、『英国語学館』と書かれた木の看板が掛かっている西洋館の門を潜った。友達に誘われて龍平も、その『イギリス教室』に通うことになったのだ。

英国人一家と言っても、七人姉妹と、母親と称する五十歳くらいの女性一人で構成された一家なのだが、女性たちは一人一人、それぞれ顔立ち、体形など容姿が全然違う。龍平には、よく意味が分からなかったが、その英国人一家は、実は、イギリス本国からではなく、かつてイギリスの植民地であったインドやオーストラリアあたりで生活が貧窮し、やむなく職を求めて、長崎に移住して来た白人女性たちの寄り集まりなのである、という話だった。

その表向きにはイギリス人姉妹とされているのは、十五歳から四十五歳くらいまでの美しく魅力的な女性ばかりで、その美女たちが英語教師を務めるイギリス教室には、長崎市内から男性の生徒が、たくさん通うようになっていた。街でも、イギリス教室は評判だったので、龍平たちのような少年の耳にさえ、その噂は聞こえてきたのだった。


龍平が入った少年用のクラスの教師は、若いアメリーだった。アメリーは、多少の日本語を話し、片仮名くらいは書けるようだった。そして、やっぱりその姉妹たちとは、顔かたちなど容貌が、まったく似ていなかった。

少年用クラスの授業は午後に一時間くらいだった。龍平の入った初級クラスでは、三十人くらいの生徒が、イギリス語で書かれた本に、日本語の振り仮名がされてあるものを、みんなで訳も分からずにアメリーに続いて、ただ声に出して読む、といった授業が行われていた。

イギリス語で書かれた文章を、よく意味も分からずに音読するだけなので、その授業内容ではイギリス語が習得できるとは、とても思えなかった。間違いなくアメリーたちは英語の教師を専門の職業としている訳ではなく、あくまでも素人教師なのだと思われた。イギリス教室の少年クラスの月謝は一円で、それは当時、決して安くはなかった。

龍平の友達は、

「俺たちは未開国人で、イギリス人は文明国人であるから、俺たちがイギリス人からイギリス語を教えてもらって、それで高い月謝を払わされても仕方がないのだ」

と言った。さらに、その友達は龍平に語った。

「俺たちとは違って、イギリス語が少しは上手くなった金持ちの人は、『ぷらいべいとれっすん』とか言う個人授業を受けることができるらしい。その個人授業では、イギリス語で書かれた本を、みんなで、ただ声に出して読むんじゃなくて、ちゃんと教科書を使ってイギリス語を勉強したり、先生と自由にイギリス語で会話したりして学んでいるらしい。だから、その月謝は俺たちのよりも、ずっと高いんだ」

その友達は、父親の家業が失敗し、生活が厳しくなって月謝が払えないので、今月でイギリス教室を辞めなければならない、とも語った。


イギリス語教師のアメリーは、龍平と三歳しか違わない十七歳なのに、日本人の同年代の女子と比べても、とても大人びていた。素人教師なのに堂々と教壇に立っているから、優秀な人種の娘なのだと認めて、少年クラスの生徒は皆、初めはおとなしくその授業を受けていた。しかし、実は日本の少年たちが、アメリーの授業に気持ちを集中させていたのは、アメリーの姿かたちが、輝いて見えるように美しいからだった。アメリーは、いつも甘えているような愛嬌のある無邪気な顔をしていて、栗色よりももっと明るい茶色の髪と、明るく碧く輝いていて、見つめていると吸い込まれるような感覚がする宝石のような瞳をしていた。

龍平は、アメリーの着ているイギリスの衣服から露わになっている首筋や腕の白く艶やかな肌に、うっとりと見とれたり、頭が痺れるように興奮して、胸が苦しくなったりした。

アメリーは、日本の大人の女性と比べても、断然に背が高く、体も大きいが、心はまだ乙女で、なんでも直ぐに可笑しがった。授業の最中に、生徒たちの馬鹿な英語の間違いなどを聞いて、堪え切れずに笑い出す時のアメリーの笑窪に、龍平は恋した。

生徒たちの中には、アメリーは、どうせ日本語がよく分からないだろうと侮って、野卑な日本語で、アメリーをからかったりする者もいた。

しかし、アメリーは何となくその日本語の恥辱の意味を理解したのか、イギリス語で何やら反撃していた。そんな時も、その少し怒ったアメリーの美しい横顔と、興奮して薄桃色に染まった頬や首筋を見て、龍平は一人、夢見心地になっていた。


英国語学館は二階建ての西洋館で、一階には授業で使用する大きな教室が五つ並んでいた。二階はイギリス語教師たちの居住空間になっているが、二階の一部分には、個人授業で使用する小さな教室が三つあるらしい、という噂だった。

アメリーたちイギリス語教師は、授業が終わると、英国語学館の一階の教室から、二階の彼女たちの居間に入ってしまい、龍平たち少年は、もうアメリーの姿を見ることはできない。普通の日本人は誰も、英国語学館の二階に立ち入ることは許されていなかったのだ。

龍平の親友の兄に、敏郎という二十歳の青年がいた。アメリーに出会うまでは、龍平にとって敏郎は、顔も体つきも格好が良くて、勉強や運動、仕事や遊び、何をやっても上手くやっているように見える唯一の憧れの存在だった。

その敏郎は、イギリス教室に龍平たちよりも、ずっと前から通っていて、アメリーとかなり親しくなっていた。敏郎はアメリーに気に入られているのか、個人授業を受ける生徒ではないのに、二階に上がることを許されている数少ない日本人の一人だった。

龍平の親友は、そんな兄の敏郎に付いて行って、一度だけ英国語学館の二階を見たことがあったから、

「二階は赤い絨毯や白いレースのカーテン、外国の椅子や、部屋の奥の方にはベッドもあるようで、まるで本当にイギリスへ行ったみたいなんだ」

と龍平に自慢した。

そして、その親友は、なぜか今度は声を潜めて、

「敏郎兄さんは、アメリーに恋しているんだ。でも、敏郎兄さんがアメリーに恋したって仕方がない。だって、アメリーたちイギリス語教師は、秘密に日本の紳士やイギリス商人をお客に取っている、いわば異国人の花魁に違いないんだからな」

と語った。

「おいらん?」

龍平は、意外な言葉を聞いて思わず大きな声で問い返していた。

「おまえ、花魁って知らないのか? 色町に立っている女と同じ意味なんだぞ」

「えっ! じゃあ、女郎のことか?」

「まあ、そうだな、女郎と同じことなんだと思う。おれもよくは知らないけど」

龍平は、『あのアメリーが花魁……』と固唾を飲んだ。あまりに驚いて、ぼーっとしている龍平の耳に、さらに親友の囁く声だけが聞こえていた。

「夜に、二階で行われているイギリス語の個人授業は、実は、異国人の花魁との逢瀬の時間に違いない」


ある日、午後の授業が終わってから少し時間が経ったあと、龍平は、英国語学館の二階を一度だけ見たことがある親友と二人で、密かに二階の様子を見てみようと思った。一階の教室や廊下に誰もいないことを確認しつつ、龍平と親友は階段を上った。色鮮やかな花畑のような部屋の中を、ちらっと覗くことができた。そこは、おそらくイギリス語教師たちの居間で、窓際にはアメリーがイギリス商人の男と並んで立っているのが見えた。アメリーは、ただイギリス商人と話していただけなのだが、龍平には、アメリーとその男が恋仲のように見えたので、勝手に一人で失恋して、傷心したような気持ちになってしまった。

龍平は、アメリーとイギリス商人のことを敏郎に告げようと思った。

結局、アメリーの恋心は、あのイギリス商人にあるのだ。アメリーに思いを寄せられてはいない敏郎も、金を払ってアメリーの一般の大人用の授業を受けたり、二階の居間でアメリーと二人だけで会話したりはしているのかも知れないが、少年クラスの龍平と、失恋するしかない哀しい立場は同じなのだ。あの敏郎でも、アメリーの心を得ることは決してできるはずがない。敏郎も、早くアメリーを諦めるべきだ。そう考えたから、龍平は、早く今日二階で見たことを、敏郎に伝えなくては、と思ったのだった。


数日後のある夕暮れ。龍平は、イギリス語の授業を受け終わって英国語学館の門を潜って出て来た敏郎と、偶然に出会った。

龍平と敏郎は話しながら歩き始めたが、ふいに敏郎は振り返って、英国語学館の入口の前で挨拶を交わしているアメリーとイギリス商人の男の姿を見つめていた。アメリーとイギリス商人は、日本人同士では決して交わさないような感じの笑顔と会話を楽しみながら、英国語学館の中へ入って行った。

アメリーの姿が見えなくなって、切ない表情をしている敏郎の横顔を見た龍平は、先日目撃したことを敏郎に告げる良い機会が来たと思った。でも、先に口を開いたのは、敏郎の方だった。

「きっと、あのイギリス商人は、これから二階でアメリーの個人授業を受けるんだ」

「敏郎兄さんも、授業が終わってから、二階でアメリーと話すんだろ?」

「ああ。でも、俺は、アメリーの休憩時間に少し話をするだけだ。今日も、二階の居間でアメリーと話していたけど、そしたら、またあのイギリス商人が来て、邪魔された……。俺は個人授業を受けることができないから帰るしかなかった。俺のは、あのイギリス商人とは違って、ほんの十五分間だけの短い個人授業さ」

「あのイギリス商人の個人授業は今から一時間くらいなのかな?」

「いや、あのイギリス商人は、大金持ちらしいから、高額の授業料を払っていて、今から夜まで三時間くらい居るらしい……」

敏郎は、嫉妬で悔しいらしく、強く奥歯を噛みしめていた。

龍平も、生まれて初めて、はっきりと嫉妬という感情を意識できた。

「でも、敏郎兄さん。考えてみると何かおかしいね。だって、日本人の紳士がアメリーにイギリス語を習うのは当然だけど、なんで、あのイギリス商人は、イギリス人なのに、アメリーからイギリス語を習う必要があるのかな?」

「アメリーにはイギリス語の他にも、あのイギリス商人に教えることが、きっとあるのさ」

 龍平は早く、年上の敏郎から、本当にアメリーがイギリス人の花魁なのかどうか、その事実を確かめたかった。

「アメリーは、あのイギリス商人が好きなのかな?」

「まさか」

「日本人紳士の中に、他に好きな人がいるのかな?」

「いる訳ないだろう。個人授業の生徒の中に好きな人なんて、あるもんか。個人授業は、あれはアメリーのただの仕事なんだ」

敏郎は自分に言い聞かせるように、そう言った。

龍平は、まだアメリーが異国人の花魁であるとは信じたくなかった。でも、遂に本題を切り出した。

「でも、おれ友達から聞いたんだ。実は、英国語学館は、夜だけは色町にある遊郭みたいに成るらしいって。アメリーたちはイギリス語の教師ではなく、本当は異国人の花魁なんだって」

「花魁?」

 敏郎は、龍平の口から思い掛けない言葉が飛び出したので驚いていた。

「花魁だよ。敏郎兄さんも知ってるだろ。色町に立っている女たち。アメリーたちイギリス人教師も、あの日本の女郎と同じなんだって」

「おまえ誰から、そんなこと聞いたんだ」

「誰って、この前、友達みんなで、そう話してたんだ」

「そんなの嘘だ! おまえたち子供だけで、そんなことを話すな」

「敏郎兄さん、おれ、もう十四歳だよ、子供じゃない。花魁くらい知ってるさ」

「…………」

「この噂は本当なんだよね?」

しばらくして、敏郎は思い悩んだような表情を龍平に隠すこともなく、呟いた。

「そうだ。アメリーは、たしかに遊女かも知れない……。あのイギリス商人や大金持ちの日本人紳士は、大金を払ってアメリーと夜を共にしているかも知れないが、アメリーの体はそこにあっても、アメリーの心は、きっとそこにはない」

「心? 敏郎兄さん、心って恋心のことか?」

「龍平。恋だよ。俺が、俺だけが、これから、誰も触れてはいない、アメリーの本当の心を掴んでみせる。そして、アメリーを遊女の境涯から救い出すんだ」

「救い出すって、どうするの?」

「それは今、考えてるけど、やっぱり二人で逃げるしかないだろうな。分かるだろ?

龍平。駈け落ちだよ」

「駈け落ち? あのアメリーと敏郎兄さんが?」

敏郎は強く頷いて見せて、さらに、必ず駈け落ちしてみせる、と息巻いていた。

しかし、龍平は、アメリーには全くその気があるはずがない、と思った。そして、不意に龍平は、敏郎にだけはアメリーを独り占めされたくないようにも思った。龍平自身が、アメリーを独占したいと、急に訳も分からず、ただ漠然と、そう思った。龍平は、恋について聞いたり読んだりするのではなく、実体験で恋心を知って今、少年から男に成ろうとしていた。

龍平はまた、早熟な頭で考えて、少年である自分はアメリーを諦めるしかないことを分かっていた。そして、青年である敏郎も、やっぱり色々な状況から考えてアメリーを諦めるのが当然だと思い、ようやく、先日目撃した光景を敏郎に語り始めた。ただ、龍平は、話を少しだけ誇張した。いや、龍平は敏郎に嘘をついた、と言った方が正確かも知れない。

「この前、友達とイギリス教室の二階に忍び込んで、敏郎兄さん、俺、見たんだ。アメリーが、あのイギリス商人と抱き合って、唇を重ねてた。俺には、二人が本当に愛し合っているように見えたよ」

敏郎は、それを聞いて放心状態になっていた。

龍平は、呆然自失としている敏郎を残して一人で歩き始めたが、英国語学館の敷地から少し離れた場所で、敏郎のことを密かに恋しているらしい日本人の女学生たちが、嫉妬の眼差しで英国語学館を睨みつけながら、会話しているところに出くわした。

「敏郎さんは、あのイギリス語教室に通うようになってから本当に変わったわね」

「あそこへ通っている男たちは、みんなイギリス人女性教師に夢中なのよ」

「イギリス語の習得が目的ではなく、イギリス式の恋愛を、全身を使って習いたくて通ってるなんて、軽蔑するわ」

「あなたも、もう、あんなところへ通い詰めている敏郎さんのことなんて、早く忘れた方がいいわよ」

「なにが英国語学館よ。私から敏郎さんを奪った、あの異国の遊郭に火を点けてやりたいわ」

女学生たちの、そんな会話を耳にして、イギリス教室の実態は、あんな娘たちでも知っているんだな、と龍平は驚いた。そして、あの娘たちがアメリーに嫉妬しているように、龍平自身も敏郎やイギリス商人に嫉妬しているらしいことを鋭く意識し始めていた。


数日後。敏郎のその後の様子が気になっていた龍平は、待ち伏せをして、再び英国語学館から出て来た敏郎と偶然を装い会うことができた。敏郎は、アメリーとの叶わぬ恋に悩み、さらに悪いことに、父親の家業の破産と、経済的理由による進学の断念という厳しい現実もあり、前よりもより一層、人生を悲観し苦悩していた。

敏郎は、苦悶の表情を浮かべながら、

「おれ、一人旅に出るつもりなんだ」

と、龍平に自分の胸の内を吐露した。

少年時代の出来事で、大人になって考えてみると、なぜ自分はあんな事をしたのか、その動機がよく分からない、と言ったことがあるが、龍平のこの後の言動がまさしくそれだった。

花魁や遊女とは何なのか? 遊女であるアメリーの個人授業では具体的には何をしているのか? そんな疑問や、龍平には手の届かないアメリーと恋をしているらしい敏郎への嫉妬心などの感情が入り混じって、龍平は気が付いたら敏郎に意地悪をしてしまっていた。悩み切っている敏郎に追い討ちを掛けるように、龍平は、少年の残酷さで、敏郎の耳元に、こう囁いた。

「敏郎兄さん。俺、噂で聞いたんだ。アメリーは、あのイギリス商人と一緒に、船に乗ってイギリスへ帰国するらしい」


はたして、次の日、敏郎は街から失踪した。

龍平は、自分の嘘が招いた悲劇に衝撃を受けていた。まるで自分の手で恋敵を追い落としたように思ったのだ。取り返しのつかない事をしてしまった。

――敏郎兄さんは、本当に一人旅へ出た。いや、逃げたんだ。アメリーを簡単に諦めて、この街から逃げ出して行った。

龍平は、あんな嘘をついたことを後悔すると同時に、敏郎がただ逃げて姿を消したという意外な結末に落胆してもいた。

しかし、さらにもっと意外なことがあった。龍平のついた嘘が現実のものになったかのように、アメリーがいなくなったのだ。また、あのイギリス商人の男が、英国語学館へ通って来ることもなくなった。

アメリーは実際にイギリスへ帰国したのか? とにかく、もうイギリス教室に、アメリーの姿はなかった。

龍平も、英国語学館へ通うのを辞めた。アメリーのいないイギリス教室に通う意味はない、と思ったからだ。

ほんの短い期間、アメリーがイギリス教室の教師だった間は、龍平にとって、家や学校の近所と、街のイギリス教室がある辺りだけが世界の全てのように思われた。しかし、アメリーがいなくなって、その世界は、龍平の周りから消え去り、今、龍平の眼の前には、新しい世界が開かれようとしていた。


敏郎が街から失踪して一週間くらい経ったある日、警官と刑事が、龍平の家を訪れた。

刑事は、母親の隣に並んで座っている龍平に、敏郎の失踪について質問し始めた。

「龍平くん。彼の失踪の理由について何か心当たりはないかな」

「………」

「彼は、街を出て、どこかへ行くつもりだとか言ってなかったかい?」

龍平は黙ったまま、答えなかった。

刑事は、失踪した敏郎とこの街で最後に話したらしい龍平は、何か事情を知っているに違いない、と思っていた。敏郎の失踪と龍平には深い関連があるはずだと勘ぐっている。

龍平は尋問されているように思い、緊張し体が冷たくなった。

刑事は、龍平に矢継ぎ早に質問し続けた。

「彼は自殺する、と言うような事を口にしていなかったかな? イギリス人女性のアメリーとの事を、失踪直前に彼は何か言っていなかったかね」

「………」

「アメリーを、どうにかするつもりだとか、たとえばアメリーを英国語学館から連れ出すつもりだとか、あるいは彼女と無理心中をするつもりだ、と言うような事はなかったかね?」

龍平は、自分が犯人として疑われているかのように思い、手が震え、心底、怯えた。

刑事は、敏郎失踪について、龍平の関与の疑惑を捨て切れなかったが、少年相手なので、それ以上の尋問は断念した。そして、最後には、笑顔を見せて、龍平に礼を述べた。

「龍平くん、もう、質問は終わりだ。協力ありがとう。尋問みたいな真似をして申し訳なかったが、敏郎青年と、イギリス人女性アメリーが共に失踪しており、その後の行方が全く掴めず、二人一緒に消息不明のままで、我々も困っているんだ」

「……? 二人一緒に消息不明……?」

「そう。あの二人は一緒に行方不明なんだ」

「………」

「まさか、日本男子が、本当に、イギリス女と駈け落ちでもしたかな」

刑事は軽口をたたいてから、警官を引き連れて去って行った。


――アメリーはイギリスへ帰国してはいない。敏郎兄さんは諦めなかった。誰も触れてはいない、アメリーの本当の心を敏郎兄さんだけが掴み取って、そして、ついにやった。アメリーと駈け落ちしたんだ。

 龍平は一人、胸の内で確信した。

日本男子の敏郎と、イギリス美女のアメリーが、手を取り合って、街から逃げて行く後ろ姿が龍平の目に浮かんだ。

家が破産し、進学もできずに、どこかの家や商店の奉公人にでも成るしかなかった絶望の青年と、イギリス植民地だったオーストラリアあたりから売られてきて、昼は野卑な日本人の子供相手に英語を教え、夜は日本の紳士やイギリス商人の男たちを客に取らされる薄幸の異国遊女。その男女二人の、わずかの希望を求めた末の駈け落ち。

龍平の愚かな嘘が、かえって火種になって、二人の恋が一気に燃え上がり成就した。

急に龍平は、アメリーと敏郎の恋が、なにか自分のことのように嬉しくなって、居ても立っても居られずに、長崎の町へ一人、駆け出して行った。

 少年であった龍平も、もう、恋の味を知ってしまったのだ――。




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