盟友
葉擦れの音が微かに鼓膜を刺激した。神経を更に研ぎ澄ませるべく、吐息を殺して瞼を落とす。この辺りは一面、緑の生い茂る巨木地帯。足元から頭上までが瑞々しい草木、雑草で埋もれていて、緑の中ところどころに薄紫やら黄色などの色どりがちらちらしている。ここらに咲く花たちだろう。虫たちが花の蜜や住処を目指して飛び交っていて、その虫を標的にした鳥がたまに囀る以外は基本的には静かな森だ。
ふと、右耳をつんざく様な予感が走った。
キッと右側を睨みしばし息を殺す。目に映らずとも、音と空気で推測を立てることは可能だ。俺の肌は敏感に空気の流れを読み取っている。さわりと風が右側から頬を撫でた。
今だ。
突如一線の眩いエメラルド色の光が足元めがけて向かって右側から発射された。タイミングはばっちりで、強く踏み込んで後方へと跳びのいた直後、丁度さっきいた場所にそれは激突し、激しい火花を散らして地面の土へ吸い込まれブスンと消化不良の煙を吐いて消えた。思ったよりも激しく煙が舞い上がったので、吸い込んで咳が出た。しかし、光が消え失せる前に右手で練っていた魔力を解き放つべく、敵が潜んでいたと思われる大樹の幹へと、相手と同じくエメラルドの光線を放っていた。放つ時の衝撃で右腕にビリリと衝撃が走り思わず顔面が少し引きつる。相手方は自分の居場所がバレたことを初撃の時のこちらの動きで察していたのか、素早く大樹の陰から左側へと移動する残像が見えた。放った光線はそのまま大樹の幹へ激突すると思わせといて、ぐりんと方角を九十度左へ変更した。敵の影は一旦静止したが、光線の衝突音が聴こえないことに異常を察知し、未だに自分を追跡していることを目視したのか、またもや逃げまどう。
「無駄だ、俺の術式はしつこいぞ。」
光線はどこまでもしつこく敵を追い続け、遂に敵が地面の根っこだか何かにつまずき転倒したとき、ここぞとばかりに狙って敵を射抜いた。眩いばかりの激しい光が爆散して、キィンという耳鳴り音と共に森を一瞬だけエメラルドの光で覆い尽くした。
すぐに周囲はもとの深い森に戻ったが、どうにも感覚が倒したそれとは違っていた。右の掌に浮かんでいた魔方陣は消えているが、敵を戦闘不能にしたという感触がまるで伝わってこない。
目がもとの光景に馴染んできたので、光線が爆発したあたりを見てみると、激突したはずの敵の姿が綺麗さっぱり消えていた。
「…、なんだ?」
まだ敵は倒されていない可能性が高いため、すかさず付近の樹に身を添わせる。
まだ終わってない。
森の中では、まだ敵がうろついている気配がなんとはなしに伝わって来た。追跡機能は確実に発動されていたので、術式に誤りがあったわけではない。行使している間も確実に仕留めるべく常に魔力供給に集中していたので、欠損があれば気がつけたはずだ。つまり、敵側が、なんらかの魔法を発動して回避したのだろう。しかし、光線を拒むような魔法をしかけられたわけでもないし、確実につまずいたところを突いたはずだ。自分の目でも見ているし、間違いないはず。
「まさか、ドッペルゲンガーを生成したのか?」
敵が自分の偽物を追わせていたのならば激突と同時に霧散してしまっていてもおかしくはない。だがしかし、ドッペルゲンガーは割と高度な至難技だ。自分の見てくれとそっくりなものを物理的に生成するこの魔法は、それなりに巨大な魔力を有する。魔力と言うのは、周囲のオブジェクトが放つ存在資源を、魔力化する回路に組み込むことでできあがる。それをもとに魔方陣を組み立て、術を放つ、というのが通常のやり方だ。
人間一人分の存在資源を吸収し魔力化するにはこの年代の子供にはかなり時間を有するはずだ。仮にやってみたとしても三十分は絶対にかかってしまう。能力がひ弱なのかと思うかもしれないがそれは違う。俺ことジルフィード・ソルダはこれでも学院では優秀な方であり、何よりも魔力生成と術の組み立ては得意分野なのだ。
「でも他になんの方法が…っっ!」
突然真後ろに濃厚な気配がしたので慌てて振り返る。そこにはついさっき狙い撃ちしたはずの敵の姿があまりに近距離まで迫っていた。
「はあい! ジルフィー。相変わらずビミョーに詰めが甘いねぇ! この僕が、まさか初撃でただの単発光線をかましただなんて本気で思ってくれただなんてね!」
恐れなんて全くない陽気な声で、こちらを向かい入れるかのように四肢を広げて言い放った。僅かな明かりでもギラギラと下品に輝く赤メッシュ入りの金髪と、左に泣きぼくろのある釣り目、いつでも口角の上がった口元は誰よりも明確に記憶している。
ジルフィードの唯一の敵、ハインツ・ウェルドニーだ。
ハインツから距離を取るべく思い切り後退しようとしたが、反応が遅かった。
ジルフィードの体は完全に硬直してその場で真正面から眩いばかりのエメラルドに包まれていった。
*
最後の試験は、学院内の東に広がる森の中での実践試験だった。使用可能な魔法は光線それのみ。相手の意識を先に戦闘不能した側を勝者とみなすという単純なもの。そして、森という空間資源のみに存在する事物をもとに生成された光線であれば、そこにどんな術式を組み込むことも許される。これの意味というのは、試験前に、あらかじめ光線に仕込む術式を組み立てたりするのは禁止ではあるが、森の中に入ってからであれば、光線という形態を保っていれば付属する術式を組み込むことを可とするということだ。ジルフィードが追跡機能を導入したのが一例である。森の中で生成された光線だから、ジルフィードもハインツも、森の色素であるエメラルド色の光線を放ったというわけだ。
ジルフィードは呆気ない敗北となった。
事前の学科試験では僅差ではあるがジルフィードの方が高得点であったのにも関わらず、この実践試験ではあまりにもあっさり倒されてしまった。その敗北のわけは、当初こそ全く予想が立たなかったが、あとになってあまりにすんなり答えを導き出せた。
「お前、初撃の光線に幻術を仕込んだろ。派手に煙が散るように設定しておいて、光線を避けた俺が、幻術が仕込まれた煙をしっかり吸ってくれるようにした。」
ジルフィードは確かにあのとき咳込んだ。おそらくそれがハインツの狙いだったのだ。
煙を吸い込むことでジルフィードの体内への侵入を果たした幻術が発動され、幻覚を見る。
幻に向かってジルフィードが攻撃を仕掛けているうちに背後に回り込み撃つ。そんな単純明快な策略にまんまと引っ掛かったのだ。
「ご名答~流石は第二位のジルフィーだね。でも僕はちょっと残念だったよ。君だったら他の奴らとは違ってもう少し踏ん張りを見せてくれると思ったんだけど。」
ゴシック調な造りの教室内、その中央の席に座し、右手は肘をついて左手では万年筆を宙に浮かせてくるくる回転させたり、空中に絵を描いて見せたりしながらハインツは気だるげにしている。ジルフィードは彼の左隣の席に座り、上体をハインツへ向けながら話をしていた。
「くっ、言ったなハインツ! 俺だって今回は不完全燃焼なんだ!」
「敗者の雄叫びほど惨めなものはないよジルフィー。」
上目づかいで至って柔和な口調のまま小馬鹿にしてくるハインツ。しかし宙を浮かぶ万年筆はその表情と裏腹に『バーカ』と金色に光る文字をジルフィードの頭上に大量に並べている。それを見上げたジルフィードは顔を真っ赤にして文字を睨み、人差し指を文字に向かって突きたて片っ端から燃やしていく。
「くそっ試験で一位になれば伯父さまに褒美を頂けたのに!」
もんもんと怒りを募らせながら全ての文字を消しさる。こうしてハインツを眺めていると初対面のころを思い出す。
ハインツ・ウェルドニーと初めて出会ったのは、丁度ジルフィードが今の屋敷へやってきて、本格的な魔法の勉強をするべく、この国立魔法研究機関学院本部、通称魔法学院への入学を果たした時のことである。
「はい、皆さん静粛に。今から新しいお友達を紹介します。」
副担任のメルナ先生が、愛らしい笑顔で手を叩いて生徒たちを静まらせた。まだ8歳くらいのことではあるけれど、あのとき、教室に足を踏み入れて見渡した頃からだった。何人もの少年少女がガヤガヤと覚えたての魔法を使ったりおしゃべりしていたりするなか、既にひときわ目立っていたのがハインツだった。クラスの中央で両足を机の上に丸投げしてふんぞり返り、当時から抜群の魔法センスで周囲の取り巻きを魅了していたのだ。
ジルフィードは冷酷な表情のまま、目の前の光景を足蹴にするかのような一瞥をハインツに向けた後、厳かな声音で自分を名乗った。
「はい、それじゃあ、ジルフィード君の席はクラスで一番の優等生、ハインツ君の隣になります。分らないこととか多いと思うけど、彼の隣なら安心だからね。」
メルナ先生はどこか天然で、彼女としては先のセリフにもなんの悪気もないのだろう。しかしこの時、教室の誰もが少し唖然としていた。新入生は厳しい目つきでハインツを睨んだことは誰が見てもわかったのに、メルナ先生はさっぱり気がついた様子がなかった。
随分おとぼけな教師がいたものだ。魔法学院ってこんな程度なのか?
ジルフィードは呆れ顔を一瞬だけメルナ先生へ向けると、足早にハインツの左隣りへ進んでいった。
「やあ。初めまして。」
まだメッシュを入れていない金髪を肩すれすれまで伸ばしたハインツが爽やかに話しかけてきた。
「どうも、隣失礼します。」
素っ気なくジルフィードは鎮座した。これ以上は何も話しかけるなとでもアピールするかのように、右頬にハインツの視線を感じながらも真正面でいろいろお知らせをするメルナ先生を凝視しつづけた。
「あの先生、学院内では一番の可愛い系美女なんだぜ?」
「あ、そう。」
ハインツの次なる言葉もゴミでも捨てるかのように流した。すると、ジルフィードの手元に小さな水晶が転がって来た。透度はまあまあと言ったところか。しかしこの歳の子供が作る水晶にしては立派と窺える。ちらっとハインツを見ると、彼はもう他の生徒と戯れていた。このころは魔法の知識はほぼ皆無に等しかったが、かつて伯父が家で美しい水晶を作って異国の風景を見せてくれたことがあった。そこからの推測で、おそらくはこれが伝言を含んでいるのだろうとわかった。水晶を軽く振ってみると、中で黄金に煌めく文字がふわりと浮きだした。
『初めまして、ソルダ家のお坊ちゃん。僕はハインツ・ウェルドニー。君の一族の中ではウェルドニーの家はよく知れているんじゃないかな? これからよろしく。』
文字は伝言し終えると砂粒が散るように消えて行った。
「…ウェルドニー、だと?」
ジルフィードは思わず右隣のハインツを見やった。彼はクラスメイトと楽しげに遊んでいたが、不意にジルフィードの視線を感じたのか、こちらをちらりと見て、謎の微笑みを湛えた。ゾクっと背筋を虫が這うような感覚がしたが、彼はすぐにクラスメイトとのやりとりに向き直ったのでそれ以上は何も起こらなかった。
「ウェルドニー家はソルダ家とはライバルと呼べる立場にある由緒ある官僚一族だ。だから俺は、貴様とはしっかり勝負をつけたい。」
「だから勝負はついたじゃん。」
「違う! 試験じゃなくて、一対一の真剣勝負! そうだ、明日の晩にウーレルダルクのコハブの花でも摘んできてみないか?」
「ウーレルダルクってあの、町境にある山? あれを?」
ハインツの様子が少しだけ真剣になった。
「そうだ。実力者ならそれくらいたやすいはずだ。どっちが先にとれるか勝負しないか?」
ジルフィードの挑発的な口調に目を薄くして押し黙っていたが、
「ああ、その勝負乗った!」
ハインツはさらりと了承した。
*
まさしく真っ暗闇という言葉が匹敵なほどに、周囲がまるで見えなかった。自分の体が宇宙の黒にでも飲み込まれたかのような、あるいはどこまでも先の見えぬ巨大な空間に跳び込んでしまったかのような、安定感からひと際離れた場所だった。
ジルフィードは明るいうちにため込んでおいた太陽光の資源をもとに、手のひらから白く輝く光玉を生み出して、ホタルのように宙に泳がせた。太陽の光がもとで、更にジルフィードがそこに光源増殖のための術式を組ませているので、まっ白い絵具をぶちまけたように一気に視界が開けた。
「よし、完璧だな!」
そこは先の見えない大きな洞窟だった。
コハブの花とは、誰もとることのできない花として麓では有名なものだった。ウーレルダルク山の中腹まで登れば見ることができるらしいが、どういうことか誰ひとりとして摘み取って来たものはいなかった。大人たちは、『花が見たければ立派に成長したときにでも自分で見に行くと良い』と言い聞かせるばかりで、その実態については全くわからないままだった。学院の子供たちも少なからず気になっている者たちはいるが、子供のうちに上る山ではないと、誰も見に行こうとするものはいなかった。
引っ込み思案な腰ぬけ共め!
ジルフィードはそんな周囲の生徒たちに対して、心の奥でよく罵っていた。限界への挑戦をせず、為すがままに日常を過ごし、苦痛や恥辱を避けて通る生ぬるい根性を持つ周囲がとてつもなくくだらない存在に思えていたのだ。
しかしハインツだけはそうではなかった。
ハインツは器用だとか才能があるだけではない。洞察力も応用力も群を抜いて秀でている。そのくせ気さくな性格で、自分に群がる腰ぬけ達を動物たちと戯れるかのように受け入れる。つまり人づきあいも器用にしてのけるのだ。
両手に握る地図を見ながらも迷うことなく洞窟を進んでいく。
ジルフィードはいつの日か、コハブの花を摘んで帰ってくるのが夢だった。そのため、夜中にこっそり屋敷を跳び出しては、山の中腹へと行ける最短で安全なルートを探し続けていたのだ。
というのもこの山、普通に進んでしまっては危険があまりにも多いのだ。飛竜が住まう巣だとか、永遠と迷ってしまう幻覚霧の漂う地帯、下の見えない谷もあれば壁のように掴みどころのない山肌もあり、難易度はかなり高い。
さきほど登山口でハインツと一度顔合わせをした。そして、
「お前、本当にやる気あるんだよな?」
ジルフィードは念のため、最後の確認をした。これで、実は登る気などサラサラなく、ジルフィードが登り始めたのを見届け、自分はとっとと家に帰られたらたまったものではないからだ。しかし、ハインツときたら、紙袋にたくさんの色とりどりな果物を詰めたものを左手に持ち、そのうちの一つであるリンゴをボリボリ咀嚼しているのだ。
「ん? あるから来たんじゃないか。」
間の抜けた声で答えながらも、美味しそうに頬を膨らませていた。まるで観光にでも訪れたかのような緩い空気が充満していた。
「どうやって登る気かは知らないけど、今回は絶対に勝てる!」
ジルフィードは既に見知ったルートを歩くだけなのだ。洞窟を出た先までは行ったことがなかったが、その先はすでに中腹に近い地点なため動物はあまりいない。だから安心とは言い難いが、山についてそこまで分っていないハインツよりは有利であることは確かだ。
やがて長い道のりの先に仄かな青白い光が見えた。地図上を見直すと、そろそろ出口へ差しかかる。おそらくあれは月の光なのだろう。ここから先は、ジルフィードも未踏の地になる。はやる心を抑えきれず、一気に駆け抜けて行き、ついに視界が夜空を捉えた。
「出ちゃった…。」
思わずため息と一緒に、そんな情けないとも思える声をだしてしまった。足元はごつごつとした岩肌が覗き、左側にはのぼりつめてきたことを思わせるような果てしない針葉樹の傾斜面が広がっている。遠くを見下ろすと、僅かに、町で一番高い時計塔が見えた。かわって右側の方は岩を積み上げたかのような山の壁面があり、遠くでぼんやりと頂上の三角形が見える。今回は中腹のコハブの花が咲く場所まで行けば良い。ジルフィードの調査では、この岩山を登ればそこへ辿りつけるはずなのだ。
ハインツに勝てるかもしれない。
その思いだけで興奮が湧きあがり頭のてっぺんから吹きだしてしまいそうだった。
洞窟でつけた光玉を消して、周囲に警戒しながら歩みを進めて行った。すると、
「わっ!」
目の前を突如、何かが横切った。虫か何かだろうか? 前をしっかり見据えると、青白に輝く物が宙を羽ばたいていた。よくみると、その体は丸みを帯びていて尻へ向けて鋭利になっている。
「蜂か。」
勿論ただの蜂ではない。こうして青白に煌めくということは、彼らは微量ながら魔力回路を持っているのだろう。おそらく、今宵の月光を資源に輝いているから、青白い、もしくは青みを帯びた白銀のような色合いなのだろう。数秒してすぐ、蜂は飛び去ってしまった。
「まあ、なんてことないな。」
虫であっても危険な物は注意を払うべきだが、蜂は危害を加えなければ基本的には人間に興味を示さない。しかし、どういうわけか、視界の先の方で、幾つもの眩い光がチラチラと明滅している。蜂が飛び交っているのだ。
「どけっ。」
風の魔術を放ったら、初めは吹き飛んで見えたが、なんと風が止んでしまった。
「なんでだ?」
もういちど飛ばすが同じだった。そして静寂ののち、突如豪風がジルフィードへ直撃した。体が宙に浮き、左側の斜面へ派手に投げ飛ばされた。魔術で対抗を試みたが、
「みえないっ!」
目を開いているのに、おびただしい数の蜂たちの放つ白銀が鋭く瞳に飛び込んできて視界はまっ白も同然だった。ジルフィードはもはや闇雲になり、どこにあるのかわからない資源を吸い取りなんの術だかわからない魔法を連発した。だが、しばらくして少し視界が晴れたかと思った瞬間、
巨大な岩が真ん前に迫ってきて、そのままジルフィードの体ごと、大砲の弾の如く遥か彼方へと吹き飛ばされた。
*
「うわああああああああっ!」
上体を思い切り起きあがらせたジルフィードの第一声がそれだった。辺りはさきほどとは変わってどこまでも緑に囲まれた森の中だった。両目を瞬かせて辺りをきょろきょろ見渡し、ふと尻周りを見ると、なにやら柔らかく少し毛羽立ったふさふさした物に自分が座っているのがわかった。果てこれはなんだろうかと、水色の毛を一部掴み、思い切り引っこ抜いた。すると、
ピギイィィッィ!
「うわああああああああっ!」
予期せぬ雷撃の如き吠えに驚き、三センチほど全身を跳びあがらせ、その勢いでごろごろとおにぎりのように水色の毛の傾斜を転げ落ちてしまった。今だ状況が掴めず、しかし背後からの異常な存在感に全身が総毛立った。石像のように固まりきっていたら、
「はーあ、何してるんだジルフィーは。ダメじゃないかメリーを怒らせたら。」
聞きなれた声が上からしたので、すかさず立ち上がった。そこには相も変わらずのんきに佇むハインツの姿があった。
「お前っこんなとこでなにやってるんだよ! いてて…。」
突然体を動かしたせいだろうか、体のあちらこちらが鈍い痛みを訴えていた。ハインツは情けない者を見る目で
「それはこっちのセリフ。何があってあんな大岩と一緒にここまで飛んでくるのさ。」
と数メートル先で数本の木をなぎ倒し大地を穿っている大岩を指した。ジルフィードはなんとなく思い出した。見えなかった時、おそらく岩の資源から魔法を適当に展開していたのだろう。そしてあの蜂たちはジルフィードの魔法を吸収し、全く同じものを返していた。蜂たちが真似をして作った岩ごと吹っ飛ばされたということだ。
ジルフィードが黙っているのでハインツは岩への興味を無くし、今度は水色の御方、飛竜を指した。
「これはメリー。この森に住む飛竜でさっき友達になった。」
メリーはじろっと威圧的な眼光をジルフィードへ向けている。メスなのか、大きな瞳がくりくりしていて可愛らしい竜ではある。
「ご、ごめんよ。君の上で伸びてただなんて気がつかなかったんだ。」
メリーはぷいっとそっぽを向いた。彼女をよそにハインツが提案した。
「ジルフィー、この山は危険だ。僕はこれからメリーと一緒に中腹まで行くけど、どうだい? 乗っていかないか?」
「だけどそれじゃ勝負にならないじゃないか!」
「勝負は、コハブの花を先に取って戻った者の勝ち。つまり、中腹まで行くことは兼ねてないと思うんだけど?」
確かに、山を登ると言うことを勝負と断言してはいなかった。あくまで花を摘む勝負ということだった。
「乗せてくれ。」
ハインツにまたも一手取られた気がして少々癪に障った。しかし、あれだけ綿密に計画していても蜂ごときでこのざまだ。やはり本来は子供のくるべき場所ではないのかもしれない。
メリーの背にハインツが乗る。その後ろに一緒に乗ると、
キュウウゥゥン!
高音の鳴き声と共にメリーが両翼を激しく上下し、一気にぐわんと高度が上がった。風で髪や衣服が舞い上がり、見上げると夜空が間近に迫って来るかのようだった。そして方角を定めるべく旋回すると、またも一気に山肌を滑り上がっていく。
「うわあああああっ」
「わああああああっ」
二人揃って間抜けな声を上げてしまった。思わず互いを見合って、その阿呆が貼りついた顔を指差しあって爆笑する。メリーが背中でゲタゲタ笑う者どもを諌めるようなうめき声をあげたので、途端二人とも口を塞いだ。
ピイィィ
メリーが速度を落としホバリングする。ゆっくりと下降して、ついに着陸した。
「ありがとう。少しだけ待っててくれ。」
降りた直後にハインツがメリーを撫でながら言った。
ジルフィードと言えば、ハインツよりも先に花を摘むために必死で辺りを見回していた。しかし、
「おい、花なんてないぞ。」
ウーレルダルク中腹は、切り取られたかのように平らな大地が存在する。しかし、どうみても岩の地面が広がるばかりで草すら生えていない。二人はのろのろと歩きまわり、たまに魔法を使ってみるがさっぱり見当たらない。
「大人たちは嘘をついてたのか?」
ジルフィードが不安を口にした。ハインツがメリーのもとへ引き返し、ズボンから何かを出した。
「メリー、この最後のリンゴをやるから教えてくれないか。コハブの花ってどこなんだ?」
ジルフィードはぽかんと口を開けてしまった。ハインツが初めにたくさんの食べ物を持っていたのは、飛竜を口説くためのものだったのだ。無謀な登山をせずしてここまでやってくる方法をこんな風に編み出すとはやはり侮れない少年だ。
するとメリーはリンゴを加えてどしどしと岩の大地を歩き始めた。そして大地の中央あたりで立ち止まり、そっとリンゴを地面に置いた。
「…え!」
その時、リンゴが眩い光に包まれて。そこから光の粒がひとつ、またひとつと、湧き出てきて、それはゆっくりと宙へ浮かび、天へと登り始めた。幾つもの光の粒を目で追っていくと、自然と空を見あげていた。するとどうだろうか。深い青色の夜空では、動くことのない北極星を中心に渦巻くように星たちが輝き、光の粒がそこへ吸い込まれるように入って行き、不思議な曲線を描いているのだ。よくみると、リンゴからだけではない。山のあちこちから光の粒が飛んできて、夜空を光で装飾しているのだ。
「もしかして、これのことか?」
ジルフィードは小さく呟いた。北極星を中心に広がる光の粒や星たちが、まるで花弁のような図形を作り上げているからだ。
「なるほど…。もしこれがコハブの花の正体なら誰も持って帰れない。きっとこれはこの山のこの位置でしか見られない特別なものなんだよ。」
ハインツが空を凝視しながら呟くように言う。
「星が存在資源を夜中に調節しているんだ。いらない資源はこうして粒になって、天空へと登っていく。この星空は、明日を再び迎えるために備えているんだ。」
メリーの背で、二人は寝転がって見あげた。
ジルフィードは美しい煌めきを見つめながら、ふと隣を見た。ハインツも愛おしそうに眺めている。ハインツはきっとこのさきも敵であり続けるだろう。しかし今までの天敵として常に気を張る関係というでわけではなく、それは…
「おい、俺が先に花の正体に気がついたから、勝ちは俺だよな。」
「いや、僕がメリーに聞かなければわからなかったから、僕の勝ちだ。」
それは唯一の盟友とも呼べる敵なのだ。
花咲く星空を見あげて、ジルフィードは心の奥でそう、思うのだった。