第五十九話 家康の器
閃華達が浜松城に帰り付いた時にはすでに夜も明けており、朝飯時も過ぎていた。
「う〜ん、疲れたのう」
大きく伸びをする閃華。二人の姿は精霊武具ではなく、いつもの着物姿に戻っていた。
「さすがに眠いですね」
「そうじゃのう、じゃがその前に朝飯じゃな」
「よく食べられますね。私は今すぐに寝たいです」
「くっくっくっ、私は精霊じゃから二三日は寝ずとも活動できるんじゃ」
「……そうでしたね」
信玄暗殺という大任を果たした今、二人に掛かる重圧は無い。そのため二人はすっかりのんきになっていた。
「浜松城は海に近いからのう、大任を果たした褒美として海の幸を振舞ってくれんかのう」
「何を言ってるのですか。私達は影の任を果たしたのですよ、褒美なんて出るわけがありません。それに期待してもいけません」
どこまでも真面目な小松に閃華は笑みを浮かべながらある提案を持ちかける。
「なら帰りは、うまい海の幸を食べてから帰ろうではないか。どうじゃ、なかなかの名案じゃろ」
小松は呆れた視線を閃華に向けると大きく溜息を付いた。
「岐阜では旦那様と御館様が苦労しているのですよ。それなのに私達だけ遊ぶわけにはいきません」
「それなら大丈夫じゃ。信玄亡き今、義昭公に御館様は討てんのじゃ」
「どうしてです?」
「信玄を欠いた以上、包囲網は決定的な手を失ったんじゃ。後やっかいなのは本願寺じゃが。私達が使われたんじゃ、そっちにも誰かを回すじゃろ」
それに御館様は誰にも知らせておらん手を持っておるはずじゃ。たぶん軍師の力を持った精霊じゃろうが、よほどうまく隠しておるようでよう分からん。
閃華がそう思うのには一つの理由がある。それは桶狭間や金ヶ崎に見えるように信長は時折、神懸かった判断を下す。それは信長の力もあるだろうが、近くに優秀な精霊がいると考えた方が腑に落ちる。
たぶんじゃが、その精霊は私達を試したんじゃろ。今回の任は、断れば己に力量を理解して使える者、無謀に突っ込んで行けば切り捨ててもよい者、そして成功させれば切り札になる者、そういう基準が引かれていたはずじゃ。
それに信玄暗殺という大任をわざわざ私達を試すために使うぐらいじゃ。私達が失敗しても良いように次の手を幾つも用意しておるじゃろ。
御館様の近くにはそのような精霊が近くに居るんじゃから、本願寺の方に手を回さないはずは無いんじゃ。
閃華がそんな考察をしていると、小松は静かに口を開いた。
「……本願寺顕如ですか」
「いや、本願寺には顕如よりもやっかいな輩がおる」
「誰ですか?」
「雑賀衆じゃ」
「……あの鉄砲大名ですか」
「うむ、織田家の鉄砲量はこの国で随一じゃろうが、その織田家に匹敵する鉄砲を持っておると言われる雑賀衆。そしてその雑賀衆を束ねる雑賀孫一、かなりやっかいな相手じゃ」
「ですが、雑賀衆は地方の土豪に過ぎません。そんな人達が御館様の脅威になるとは思えないのですが」
「じゃが雑賀衆は謎が多い。私にはそのことが気になってしかたないんじゃが」
「そう、なのですか」
雑賀衆の頭領は皆「孫一」と名乗るの、それはこの国では珍しくない事じゃが、孫一というのはどうも見えてこんのじゃ。どうも頭領の名……では済ませられぬ物があっても不思議ではないのう。
「ということは、次に行くのは雑賀ですか?」
「いや、それはないじゃろ」
「どうしてですか?」
「私達が武田に向けられたぐらいじゃ。雑賀にも誰かが行っておるじゃろ」
「そうでしょうか」
「うむ、今御館様を囲っている包囲網じゃが、武田と本願寺さえ止められれば突破が出来るんじゃ。朝倉はすでに兵を引き上げたんじゃ、残された浅井だけでは御館様は止められんじゃろ。後は畿内の三好六角を討って終わりじゃ。そして武田が止まったこの好機、みすみす見逃すはずが無いじゃろ」
「確かに、この浜松城から紀州の雑賀までは距離があります。私達を呼び返すよりは他の者を行かせた方が早いですね」
「そういう事じゃ。じゃから私達の出番は終わりじゃ、じゃからゆっくり帰ろうではないか」
「……しかたないですね」
「くっくっくっ、この辺は何がうまいんじゃろうな」
話題は浜松城がある遠江の幸に切り替わり、閃華達は部屋へと戻って行った。
「お待ちしておりました」
部屋に戻っていた閃華達を待っていた者は、徳川家の女中であった。
女中は二人が入ってくるなり、平伏して二人を迎え入れた。
「そなたは?」
小松が聞くと女中は自分の姓名を名乗った後で、家康が閃華達を呼んでいる事を伝えてきた。
「家康様が、私達に会われたいと?」
「はい、御館様直々にお二人の功を称えたいと申しております」
「めんどうじゃのう」
「閃華!」
閃華にしてみれば正直後にして欲しかった。それは家康の狙いが閃華に分かっていたからだが、小松にしてみれば家康からの呼び出しを断れるはずも無かった。
「分かりました、行きましょう。閃華もそれで良いですね」
「しかたないのう。まあ、悪い呼び出しではないからいいじゃろ」
女中は再び平伏すると礼を言ってから二人の案内に立った。
浜松城内を進む閃華達。実は閃華達が堂々と浜松城内を歩く事はこれが始めてである。閃華達はあくまでも隠密扱い、浜松城に着いてからもすぐにその存在を隠されて普通に接触できたのは半蔵だけであった。
そんな二人に家康が直々に会うのだから、これはかなり異例な事であった。
そして家康が待つ部屋に着いたのだろう、女中は跪くと中に声を掛けて、返事が返ってきて後に障子を開けた。
小松と閃華が中に入ると障子は静かに閉まった。部屋の中には狸のようなオヤジが一人、閃華達が入ってくると呼び寄せた。
これが徳川殿じゃな。
家康の前に座ると閃華達は平伏する。家康はすぐに優しい声で頭を上げるように言ったので、閃華達は頭を上げて家康と向き合う。
「小松殿、此度の大任を良くぞ果たされた。本来ならこの家康が決着を付けねばならぬのだが、三方ヶ原で多くの忠臣を失ってしまった。亡き忠臣の敵を討ってくれた事、この家康心からお礼申し上げます」
頭を下げる家康。小松は慌てて平伏したので、閃華も小松に合わせて頭を下げる。
「勿体無いお言葉です。家康様にそのようなお言葉を頂けるとは身に余る光栄、どうか、頭をお上げください」
小松としては、まさか家康から直々に礼を言われるなんて思ってもみなかったことだが、閃華は家康の出方に感心していた。
ほう、まさかここまで謙虚に出てくるとはのう、これで小松の心は懐柔されたも同じじゃな。
その後も家康は下手に出ながら小松の功を称え、そして労った。自分達の協力を一切出さずに全てを小松の功として称えたのだ。
そんな展開になれば小松も家康の協力があったからと言わざる得ない。いや、本人が意識しなくても勝手に口にするだろう。そして自分が口にした事と言うのは、意外と心に残る物だ。
これで小松の口からは家康の悪口は出んじゃろう。もちろん御館様に報告する時も、家康の協力があったからこそと付け加えるじゃろう。うまいのう、小松の功を半分攫いおった。
小松の口から言わせることで、小松に自分の功を認めさせる。そして家康は何度も続ける事で小松に印象付けて決定的なものにさせる。なかなか見事な懐柔策であった。
だが後ろで小松と家康の会話を聞いている閃華はさすがに飽きてきた。まあ閃華としては、ここで小松が家康の良い様に懐柔されても別に構わなかった。それで小松に害が及ぶわけではないし、小松にもちゃんと功績が残る。
確かにこれで一番得をするのは家康だが、それでも三方ヶ原を帳消しにするだけでそれ以上の手は打ってこなかった。
欲張らないからこそ、家康は確実に自分を高めていけたのかもしれない。
それにしても、そろそろ終わりにしてくれんかのう。
家康が何がしたいかを分かっているからこそ、閃華は飽きてきた。家康の株を上げる為だけにある場、そんなのに付き合いたくない閃華は適当に視線を泳がせて遊ぶ。
……んっ、なんじゃあの掛け軸は?
そして閃華の目に映ったもの、それは家康の後ろにある掛け軸。そこに描かれているのは、しかめっ面で座る変なオヤジ。どうみても芸術性を感じられない物だ。
なんでそんな物があるかは分からないが、見てると少し笑える絵だ。だからだろう、閃華の頬も自然と少し緩む。
そんな閃華に気付いたのだろう、家康が閃華に目を向けたので小松も振り返る。
「閃華と申したな、この絵が気になるか?」
「えっ、いや」
絵に見入ってた閃華は慌てて言い繕って顔を伏せる。そんな閃華に小松は不思議そうな顔をするが、閃華が見ていた物を見つけるとやはり頬が少し緩んだ。
「ずいぶんと面白い絵でございますね」
「これか」
家康は立ち上がると絵の横に立つ。
「笑える絵であろう」
「ええ」
素直に答える小松に家康も笑顔で返す。
「これはな……儂を描いたものだ」
「えっ!」
思ってもみなかった事に小松は驚き、慌てて頭を下げて謝った。
「申し訳ございません、無礼な事を申しました」
「いや、構わんよ。これは人に笑われる為に描いたものだからな」
小松が顔を上げると家康は笑顔を返す。どうやら先程の事は家康のいたずらだったらしい。そして小松が不思議そうな顔になると、家康は絵の方へ向いて説明を始めた。
「これは三方ヶ原かたった一人で帰ってきた後、すぐに描かせた物だ。数多の忠臣を失い、命辛々たった一人で浜松城に帰り付いた時のなんと無様な事か。その屈辱、そして忠臣達が儂に託した思い、それを忘れぬために儂はこの絵を描かせて生涯傍に置いておくつもりだ」
真剣な顔で語る家康。その話は小松の心を強く打ったのだろう、両手を付いて口を開く。
「ご立派なお心がけです。それだけでも亡き忠臣達は浮かばれるというものです」
「そうだと良いのだがな」
再び笑顔となった家康は元の位置に座った。
なるほどのう、あの御館様が徳川殿との関係を重視するわけじゃ。
閃華はこの時初めて、家康が持つ器の全貌を見た気がする。
まだまだ未成熟じゃが、大きさで言えば御館様と変わりないようじゃ。もし御館様がおらんかったら家康殿が天下を取るじゃろうな。なんとも、人の世というのは分からんものじゃのう。
信長と家康、同じく天下を治める器量を持ちながら二人の気質は大きく違っている。信長は早くからその気質を表し始めた。始めはうつけと認められなかったが、今では天下に向けて疾走している。逆に家康の気質は未だに定まっていないと言えるだろう。だからこそ、今でも進化し続けることが出来る。
後の世では、信長は乱世の雄と治世の王を併せ持ち、家康は治世の王のみを持っていると言われているが、それはちょっと違うのではないかと思う。
信長、秀吉を経て時勢は納まりつつあった。だから家康は乱世の雄を捨てたのではないだろうか。確かに関が原では家康の雄が目立つが、その後の大阪の陣では随分とお粗末ではないだろうか。
まず大阪の陣で皮切りとなった方広寺の鐘。この鐘に刻まれた言葉が家康を呪い殺すものだと因縁をつけている。これでは大義名分があったものではない、どう見ても無理矢理因縁をつけたとしか思えない。
そして大阪夏の陣、これには三日分の兵糧しか持って行かなかったという。
とてもではないが関が原で勝った人物とは思えない。だがこう考えれば納得が行くのではないか。関が原以降、家康は戦を戦とは思っていなかった。そして家康は晩年でも進化をし続けた。
天下分け目と言われた関が原、それ以降の豊臣は家康の敵にすら成り得なかった。だから家康は乱世の雄を捨てて治世に専念したのではないだろうか。と、勝手な事を思ったりもします。
閑話休題。
絵の話しになって話題が途切れたのだろう、家康は座り直すと閃華にとっては嬉しい事を言って来た。
「信玄暗殺という大任を負ってた以上、そなた達の存在を隠してきたが、大願成就の今は隠す理由など無い。これからは織田家の客人として持て成そう。実はな、新たに部屋を用意しておいた。そこに遠江の幸が並んでいるはずだ。じっくりと疲れを癒すが良い」
ほう、これはこれは。
思わぬ言葉に閃華は感心するのと同時に小松と一緒に頭を下げた。
「過分な待遇、恐悦至極に存じます」
「じっくりと疲れを癒してから岐阜に戻ると良いだろ」
「……ではお言葉に甘えさせてもらいます」
家康が外に声を掛けると静かに障子が開き、一人の女中が姿を現して閃華達を案内するように申し付けた。
閃華達は家康に丁重に礼を言った後、その場を後にする。
そして新たに案内された部屋、そこにはこれでもかというぐらい海の幸をふんだんに使った料理が並べられていた。
「ほう、これは凄いのう」
料理に感心する閃華、女中は更に閃華が喜ぶ事を言って来た。
「お酒もあちらにご用意しておりますので、ご存分にお飲みください」
「ほう、それはありがたいのう」
「閃華」
「今日ぐらいよいではないか。折角徳川様がご用意してくださったものだ、手付かずでは罰が当たるというものじゃ」
「はぁ、しかたないですね」
「今日ぐらい小松もどうじゃ」
「結構です」
「くっくっくっ」
閃華達は海の幸を存分に味わった後で眠りに付いた。さすがに疲れが残っていたのだろう。小松は翌朝まで目を覚まさなかった。
それから三日、閃華達は存分に家康の好意に甘えた後、浜松城を後にして岐阜へと戻って行った。
……なんか、途中真面目に語ってしまった。さすがに時代物となるとそんな気持ちになってしまいます。恐るべき時代物。
さて、そんな訳で途中変な事を語ってしまいましたが、エレメにはこんなのいらねえよ、と思う方いらっしゃったらご一報ください。以後エレメでは控えようと思います。そして何もご意見が無い場合は、いつものように好き勝手やろうと思います。
さてさて、気が付けば五十九話……長いですね。しかも! 閃華の話はまだ続きます。……なんか、まだまだ話数を使いそうです。まあ、純情不倶戴天編は閃華の過去にまつわる話がメインだから良いのかな、とも思ったりなんかりしちゃったりしちゃってます。
ニコチ――――――ン!!! はっ! しまった、手元にタバコが無いからつい叫んでしまった。
ではでは、ここまで読んでくださりありがとうございました。そしてこれかもよろしくお願いします。更に評価感想、そして投票もお待ちしております。
以上、とあるオークションサイトで虎徹の脇差を見て欲しいと思ったが、すでに百万以上の値が付いていたことに凄く驚いた葵夢幻でした。