表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/10

8. r’ - ライアー・トレイター・ヴェトレイヤー




 翌日は神無学園の創立記念日だった。


 平日ではあるが、生徒はみな休みである。


 今朝方、いつもの日課で母に髪を結ってもらった彩矢音がひどく緊張した様子で家を出て行った。えらくめかし込んでいたので、随分と気合いを入れないといけない友達がいるのか。はたまた年頃の娘らしく、男友達も含めたグループ交際という奴なのか。まぁ昨日の様子では彼氏と二人っきりでデートというわけではあるまい。


 今日も彩矢音の髪型でアーティスト精神を満足させた母が出勤するのを見送ってから、裕之輔も出かける準備を始めた。


 神楽御坂裕之輔、十七才。その趣味は、スイーツの食べ歩きである。


 白の柄入りTシャツとジーンズに着替えると、黒のシングルライダースジャケットに手を通し、お気に入りの白いスニーカーに足を突っ込んで裕之輔は家を出た。


 懐から携帯電話を取りだし、昨晩のうちに調べておいたネットの記事を読み込みながら裕之輔は歩く。


 こうやって都心に出て雑誌やネットに掲載されていた有名店のスイーツを味わうのが、裕之輔の休日の楽しみ方だ。今日は一人だが、場合によっては美里菜や多加弥、彩矢音が同行することもある。とはいえ、最近はみんな同行してくれることが少なくなった。美里菜はどうやらあの身長と体重の割にスタイルには気を遣っているらしく「お前はいいよな! 太らなくて!」と怒られたことがある。その割にはこの間は『ちきり』のジャンボクリームパフェを貪り食っていたようだったが、それも美里菜に言わせれば「これで一ヶ月は戦えるぜ!」とのことだ。どうやら甘いものは月に一度と自分で決めているようだった。多加弥と彩矢音も、たまには付き合ってくれるが、やはり基本的には甘いものが好きというわけではないらしい。


 そんなわけで今日も裕之輔は一人で最寄りの駅に向かって歩いていた。


 そういえば、この間の日曜日は今日と同じように都心に向かおうとして、駅前で麟華とばったり会ったのだ。あの時もいきなりベット・レイヤーを展開されて困ったものだ、と裕之輔は思い出しながら、曲がり角を左に折れた。


 後は、この道を真っ直ぐ行けば駅前に辿り着く。


 麟華が立っていた。


「え?」


 思わず声が喉からこぼれ出た。きょとん、としてしまう。


 道の真ん中に、まるで裕之輔の行く手を阻むように麟華が立っていた。


 今日は勿論、制服ではなく私服姿だ。長い髪を後ろでまとめていて、ピンストライプのブラウスに丈の短いライトグレイのテーラードジャケット、黒のタイトパンツという出で立ちである。こうして見るとかなりスタイルが良く、大人っぽい。


「おはよう、神楽御坂君」


 不敵な笑みをたたえて、麟華は言った。


 これに対して裕之輔は、あは、と笑う。


「おはよう、涼風さん。今日はどこかにお出かけかな?」


「ええ。あなたに会うために。先日もこのあたりで偶然会ったでしょう? 今日も会えると思って」


 すっ、と麟華は黒地に金色の模様が映えるカードを取り出した。裕之輔は笑顔を引っ込め、呆れ顔で溜息を吐く。


「また? 今日も僕、用事があるんだけどな。あ、そうだ。涼風さんもよかったら一緒にどう? イチゴのタルトが美味しい店を見つけたんだ」


 裕之輔の提案を麟華は、はっ、と鼻で笑う。


「こんな時にデートのお誘い? 悪いけど遠慮しておくわ。さぁ四の五の言わず、あなたもキビキビとカードを出しなさい。さもなくば――」


 キン、と澄み切った金属音が響き渡った。


「「――!?」」


 突然、ベット・レイヤーが展開した。世界は急速に色彩を失い、時間はその流れを止める。道行く人々は不自然な形で足を止め、車やバイクはただのオブジェと化す。意識の表層で聞き流していた様々な雑音が消え失せ、気味が悪いほどの静寂が舞い降りた。


「そんな、どうして……!?」


 麟華が周囲を見回して、驚愕の声を上げた。やけに中途半端なタイミングで展開するものだからおかしいと思ったが、案の定、彼女ではなかったらしい。


「神楽御坂君、あなたまさか――」


「違うよ。僕じゃない」


 勿論、裕之輔でもなかった。裕之輔自身はカードを手にして以来、まだ一度もベット・レイヤーを展開させたことがない。サティの説明によると、ベット・レイヤーはその場に二人以上のヴェトレイヤーがいて初めて展開させることが出来るらしい。互いのデーヴァの力が共鳴し合うことで時間を停止させ、空間を固定させているのだと言っていた。


 となると必然、この付近に、裕之輔と麟華以外のヴェトレイヤーがいる――という結論になる。


「誰か、いるね。もう一人、ベトベトのプレイヤーが」


 考えてみれば、麟華以外のヴェトレイヤーの存在を認識したのはこれが初めてだった。


 はぁ、と溜息混じりに言って、裕之輔はカードに意識を集中させた。サティを召喚する。今日の長着は紅色を地に白い花が咲き乱れている柄だった。


「サティ、盾になって」


「へえ。ヨア・マジェスティ」


 サティが光を放って変化し、裕之輔の手元に紫の宝石を中央に埋め込んだタワーシールドが現れる。


「キューリアス!」


「あー今日もダルダルだな、ハニィ」


 麟華も純白の大鷲を召喚して周囲を警戒する。


「えーと、あと何人だっけ?」


 裕之輔はジャケットのポケットから取りだしたグレープキャンディを口に入れながら、手に持ったドゥルガーの盾にそう尋ねた。


「ヨア・マジェスティとそこの涼風はんを含めて、あと五人どす」


「あれ? 昨日は六人って言ってなかったっけ?」


「へえ、それが夜中のうちにまた一人、狩られたようなんどす」


 その瞬間だった。


 遠くで、ずん、という重い音が響いた。二人と一匹がそちらの方向に視線を向ける。


「――どうやら四人になったようだぜ、坊主?」


 キューリアスが自棄のように明るい声で言った。デーヴァである彼が言うのならば、それは事実なのだろう。つまり、残りは裕之輔と麟華を除けば、ヴェトレイヤーはあと二人のみ。




 山草誠司は新しい獲物を見つけた。


 彼はここのところ毎日、この片桐駅の周辺で網を張っていた。アラハバキに周辺を適当にサーチさせ、ヴェトレイヤーがいるようならベット・レイヤーを展開させる。そうして戦場に引きずり込んだ獲物を、一方的に虐殺してきたのだ。


 今日は運が良い。いきなりビンゴだった。たまたま近くにヴェトレイヤーがいたらしく、速攻でベット・レイヤーを展開させることが出来た。


 というわけで、まずは一人。若い女であれば良かったのだが、残念なことに、いかにも体臭がきつそうな中年の男だった。


 突然ベット・レイヤーに放り込まれて右往左往しているその男は、どうやら初心者のようだった。全てが凍り付いた空間の中、慌ただしくちょこまかと動いている姿は見ていて非常に苛ついた。


 誠司は、ちっ、と舌打ちを一つ。


「アラハバキィ!」


「イエス・サー」


 アラハバキが俊敏に誠司の右腕にまとわりつく。男はそれを苛立ち紛れに振り回した。


 一撃だった。スーツ姿の男がこちらに気付いて声をかけようとした瞬間、その身体にアラハバキの尾が直撃した。


 それだけで男の身体は粉微塵に吹き飛んだ。勢い余ったアラハバキの長大な蛇身が、その背後にあったビルの壁を激しく打ち叩く。ずん、と大音響が生まれ、ビルに大きな亀裂が入った。どうやらアラハバキも獲物の質の悪さに相当な怒りを覚えたらしい。いつもより若干威力が高かった。


「――報告であります、サー」


「あん? なんだよ?」


 ビルの壁に生まれた亀裂が消えていくのを眺めながら煙草に火を点けた誠司は、珍しくまともな言葉を話すアラハバキの女性的な声に耳を向けた。


 四散した男の身体が消滅した後に残されたカードを飲み込んで戻ってきたアラハバキは、いつもの恬淡な声で報告を述べた。


「このベット・レイヤー内にはまだ他に複数のヴェトレイヤーがいるであります」


「――なんだと?」


 吸い込んだ煙を吐き出して、誠司は聞き返した。一度に複数のヴェトレイヤーをベット・レイヤー内に取り込んだことはまだなかった。というより、そんなことが出来るとは思っていなかったのだ。


「なんだよ、こいつは一対一の対戦形式じゃねえのかよ?」


「ノー・サー」


 ただの思い違いだったらしい。


 誠司は火を点けたばかりの煙草を地面に落とし、革靴の底で踏みにじった。


「んで、そいつらはどっちだよ?」


 ぷうっ、と最後の煙を吐くと、誠司は口元に陰惨な笑みを刻んだ。何はともあれ獲物が増えることは良いことだ。今度は期待はずれでないことを祈って、アラハバキに道案内をさせる。


 果たして、そいつらはすぐ傍にいた。


 ベット・レイヤーは色のない停止空間のため、色を持っていて動いているものは目立ってしょうがない。


 ガキ二人である。片方は弄ってもたいしておもしろくもなさそうな男のガキだが、もう片方はなかなかにそそる女の獲物だった。


「へっ、あっちもこっちのことには気付いてたらしいなぁ」


「イエス・サー」


 さっきのクソ親父みたいなド新人じゃないだけ、多少は骨があるかもしれない。まずは男の方をぶっ殺して、その次にじっくり女の方をやろう。この間の若い女は途中で潰してしまったから、今度は上手くやらなければ。十代の肌はぷりぷりしていて実に感触がたまらないのだ。


「いくぞぉアラハバキ。まずは小手調べからだ」


「ラジャー」




 予定と違う。


 予期せぬ事態を前に、麟華は内心で叫んだ。


 こんなはずではなかったのだ。裕之輔を待ち伏せにして、それから戦いに雪崩れ込んで――と考えていたというのに、本当に世の中はままならない。


 一体どこの誰なのか、と猛り狂う思いと同時に、胃の腑が絞られるような緊張感が全身を駆け巡っていた。なにせ〈Betrayer's on The Bet Layer〉のこの局面まで残っているような人間だ。自分や裕之輔のような、素人に毛が生えた程度の相手ではないはずだ。しかもキューリアスからの情報によれば、この一週間で三十人以上からカードを奪ったヴェトレイヤーがいるという。そんな鬼神じみた強さのヴェトレイヤーがすぐ近くにいるのかもしれないと思うと、怖気が全身を震わせるのを止めることが出来なかった。


 そうして、先程の凄まじい音の犯人であろう男が、駅方面から悠然と歩いてくるのを麟華は見た。


 チャラチャラしている、というのが第一印象だった。ネイビーのモードスーツを着崩していて、一言で言うなら『ホスト崩れ』といった風だった。


 ただ、危険な男だ、というのは見ただけですぐにわかった。目つきがおかしかったのだ。否、はっきり言えば、目がイっていた。あれはどう見ても堅気の目ではない。輝きが一切ない、節穴のような瞳。蛇のような顔。


 殺される、と本能的に感じた。あの男は、間違いなく自分たちを殺すつもりでこちらに歩いてきている、と。


「それじゃ僕はこれで」


「――へっ?」


 驚いて変な声が出た。振り向くと本当に裕之輔が盾を片手にこちらへ背を向けて走り出していた。


「ちょ、ちょっとかぐ――待ちなさいよっ!」


 名前を噛みそうになったので省略して麟華は怒鳴った。


「待ったないよー」


 と暢気な返事を残して、デーヴァの恩恵で強化された身体能力を十全に発揮した裕之輔は、素晴らしい速度で逃げ去っていった。


 呆気にとられるとはこの事だ。


「よお、嬢ちゃん。彼氏には振られちまったか?」


「っ!」


 弾かれたように振り向くと、男はもうすぐ近くにまで来ていた。見ると、その全身に何か太いロープのようなものが巻き付いている。大蛇だ。色のない世界でネイビーのスーツに巻き付いているせいでわかりにくかったが、それは確かに漆黒の蛇だった。男のデーヴァだろう。


「それじゃちょっと俺と遊んでいかねぇかぁ? んふっ、心配すんなよ。たっぷり可愛がってやるからよぉ」


 下卑た笑いに、蟻走感をもよおす舌なめずり。


 ――本当に、何てこと。予定外にも程があるわ……!


 麟華は歯ぎしりする。この街に来てからずっと思い通りにならないことばかりだ。フラストレーションが溜まる一方だった。


 もういい。ここでぶちまけてしまえ。


「ええ、いいわよお兄さん。私、最近欲求不満なの。可愛がってくれるかしら?」


 懐から特殊警棒を取りだし、振り抜く。じゃきんと音を立てて特殊警棒が伸長した。投げナイフもジャケットの裏とポケットに潜めてある。本当は裕之輔用に用意したものだったが、この際我が儘は言っていられないだろう。


 ドライアイスの剃刀のような瞳で、麟華は男を睨め付けた。


「そう……せめてあなたには、まともに戦ってもらうわよ!」


 先手必勝。


 それを信条とする麟華は男の返事も待たずに前へ一歩踏み込んだ。


 キューリアスと共にある限り、麟華の肉体は常人を遙かに凌駕する。十メートル以内など目と鼻の先も同然だ。この時も麟華は彼我の距離を瞬き一つ分の時間で詰め、特殊警棒を振りかぶった。


 ――頭!


 そう念じて振り下ろす。電光石火の一撃が男の額を打ち砕く寸前、固い手応え。漆黒の蛇がその顎で特殊警棒に噛み付いている。刹那、じゅ、という微かな音が麟華に耳に届き、蛇の口から立ち上る煙を見て、異様な匂いが鼻腔をついた。


 特殊警棒を手放して後ろに二十メートル以上も飛び退いたのは、ほとんど衝動的な行動だった。そしてそれは正解だった。


「はっ! 物騒なもん持ってるじゃねえか、お嬢ちゃん。いいねぇ、気の強い女は大好きだ!」


 男が嘲笑う。その額のあたりで蛇が咥えていた特殊警棒が、ぽろりと地面に落ちて乾いた音を立てた。そのまま、じゅわぁ、と特殊警棒が高熱で炙られたかのように変形する。溶解したのだ。


「溶解液か。なかなかにハードな相手だな、ハニィ」


 宙を滑って麟華の傍に来たキューリアスが偉そうに評する。麟華は男から目線を離さないまま、


「なにをしているのよキューリアス。あなたもさっさと主人のフォローをしなさいよ」


「わかっているさハニィ。【キビキビ】と、だろ?」


 シニカルに言った瞬間、キューリアスは翼を振って純白の疾風と化した。撃ち出された砲弾のごとく男に突撃していく。


「ハハッ!」


 男は哄笑し、身体にまとわりついた蛇がその意思を受けたようにまた動いた。蛇は螺旋を巻いて男の右腕に巻き付く。男はそれを手甲のようにまとってキューリアスを迎え撃とうとする。


 麟華はキューリアスの突撃に合わせて投げナイフを連続で放った。六つの刃が流星のごとく大気を貫いて飛翔する。


「いくぞアラハバキィオラァッ!」


「ラジャー」


 男が叫び蛇が応答するのと同時、それは起こった。


 黒い竜巻。


 男が猛然と振り回す長大な蛇身が渦を巻き、漆黒の竜巻と化したのだ。逆巻く漆黒の塔に純白の砲弾が激突し、しかしローラーに弾かれたように上空へ吹き飛んだ。遅れて届いた投げナイフも全て弾き飛ばされる。


 次の刹那、出し抜けに竜巻のベクトルが変化した。風切り音が微妙に変わったことで麟華はそれに気付いたが、その時にはもう遅かった。


「!」


 黒い一陣の風が麟華のすぐ脇を通り抜けた。と思った時には、少女の右腕は肩から先が消えていた。


「――え?」


 あまりにも速すぎて痛みもなかった。ただ、ぶつん、という感触と、身体の右半分が急に軽くなった感じがしただけだった。


 混じりっ気なしの純粋な喪失感。それは生半可な痛みよりも一層、恐怖を呼び起こすものだった。


 一拍遅れて、焼けた鉄を押し付けられているような灼熱感を覚える。


「あ……!」


 と悲鳴を上げかけて、麟華はそれを無理矢理ぐっと呑み込んだ。歯を食いしばり、衝動に耐える。


 ――泣くな! 喚くな! 今はそんなときじゃないのよ!


 代わりに叫ぶべきは相棒の名前だった。


「キューリアス!」


「おうさハニィ!」


 黒の竜巻にはじき飛ばされたキューリアスが空中で翼を広げて姿勢制御。そこから大きく嘴を開き、癒しの輝きを吐き出した。それはキューリアスの息吹に乗って瞬く間に麟華の元へ届く。


 右腕の感覚が戻ってくるのを感じながら、麟華は左手に投げナイフを構える。視線は真っ直ぐ、男だけを見据えている。


「――ぁあ!? んだそりゃ!? 何で吹っ飛ばした腕が元に戻んだコラァ!」


 サディスティックな表情から一転、男の顔が不機嫌に歪んだ。


 ――説明する義理なんてないわよ!


 心中でそう叫び、隙だらけになった男に再度ナイフを投げつける。すぐさまそれに反応した男が、蛇型デーヴァを鞭のように振るって叩き落とすが、そんなものは予想済みだ。


 もう大分目が慣れてきた。最初の一撃には反応できなかったが、今からはあの蛇型デーヴァを鞭だと思えばいい。そうすれば、あれぐらいの速度なら何とか躱せるはず。麟華はそう判断し、もう一度地を蹴って駆け出した。我が身を以て相手の攻撃を分析できるのが治癒能力を持つ自分とキューリアスの長所であることを、麟華は確かに知悉していたのだ。


「オルァ!」


 男が汚い声と共に唾を飛ばす。空恐ろしい風切り音を伴って太すぎる鞭の攻撃が放たれた。強化された動体視力と、素早い足捌きと、少しの勘を以て麟華はその場を飛び退く。ほんの一瞬前まで麟華がいた場所に炸裂した鞭の一撃は、ベット・レイヤー内だというのにアスファルトに僅かな亀裂を生じさせた。


 ――なんて威力!? 人の腕があっさり千切れるわけだわ……!


 頭や首に喰らったら即死かもしれない。そう思って背筋がぞっとする。


 悪い想像を振り切るように首を振って、麟華は冷静に次の攻撃の軌跡を読む。避ける。近付く。軌跡を読む。避ける。近付く――同じ事を何度も繰り返して彼我の距離を縮めていく。


「オラ! オラッ! ちくしょうオラァッ!」


 馬鹿の一つ覚えのように男は自らのデーヴァを武器とした攻撃を何度も繰り出していた。その表情には微かな焦燥があった。必殺の威力を秘めた攻撃がなかなか命中しないからだろう。


 好機だ。そう見た麟華は頼れる相棒を呼んだ。


「今よキューリアス!」


「オーケィだハニィ!」


「――ぁあっ!?」


 ただでさえ麟華に攻撃が当てられなくてイライラしていたであろう男は、さらに上空を警戒しなくてはいけないことを思い出させられて、口汚く喚いた。


 空中から錐揉み旋回で突撃するキューリアスに向けて、男は鞭を構える。その隙を逃すまい、と麟華は投げナイフを抜く。


 不意に男は嘲笑を浮かべた。


「――ハッ! 無駄だっつってんだろ!」


 キューリアスと麟華の動きを同時に目の端でとらえた彼は、先程と同じく蛇型デーヴァを振り回して再び黒い竜巻と化した。


 だが、それでいい。麟華は投げナイフを持ち替え、逆手に握る。そして叫んだ。


「来てキューリアス!」


 返事する間すら惜しく、弾丸のごとく飛翔するキューリアスは突如としてその軌道を変えた。


 麟華の元へ飛ぶ。


 そしてその両足の鈎爪を開くと、麟華の両肩を掴んでその身体を引き上げる。麟華は一瞬で大空へ舞い上がった。


「なん……だとぉっ!?」


 男が驚愕の声を上げた。


 竜巻には台風と同じく、中央に『目』がある。キューリアスは麟華を、その『目』の直上に連れて上がったのだ。


 鈎爪が、麟華を手放す。切っ先を下に向けたナイフを両手で握った麟華が、男の真上へ落ちていく。


「はぁあああああああっ!」


「――ちぃっ!」


 竜巻を解除して頭上に攻撃を放つだけの余裕など、男には与えなかった。男は左腕一本で頭を覆い、防御の姿勢をとった。


 重力で加速を得た麟華の身体はすぐに凄まじい速度に達し、長い髪を尾のように引いて彗星のごとく落下する。その勢いのまま深々とナイフを男の腕に突き刺した。


「ぅぐぁ……っ!」


 苦痛にあえぐ声。刃先に当たる固い手応え。おそらくは腕の骨だ。それが砕け割れる音を、麟華は耳ではなく手に伝わる感触で聞いた。


 麟華はナイフに固執することなくすぐに手を離すと、背後に跳躍。再び距離を取った。


「よくやったなハニィ」


 空を旋回して麟華の傍へ舞い降りてきたキューリアスが労いの言葉をかけてくれる。


「まだよ、まだ終わりじゃないわ」


 何故なら男はまだ生きている。あちらはこっちを完全に殺すつもりだ。ならばこちらもあの男を殺すつもりでいかねば、返り討ちにあうだけだ。


 男は自分の腕に刺さったナイフを忌々しげに見つめていた。次いで、その憎悪に滾る瞳を麟華達に向ける。


「……やってくれんじゃねえか、このクソアマ……!」


 目がさっき以上に危険なものになっていた。骨が折れているのだ。相当の激痛があることだろう。男の顔はもはや鬼の形相だった。


「――ぶっ殺すぞコラァァァァ――――――ッッ!」


 男は咆哮を上げ、右腕をメチャクチャに振るった。狙いなどありはしない。ただ怒りに任せただけの行動だ。漆黒の長大な蛇身が近くの建物、ガードレール、車、通行人その他諸々を乱打する。そのたびに罅や亀裂が生まれるが、すぐにベット・レイヤーからの修正を受けて修復されていく。


 無茶苦茶な行動だが、それ故に攻撃の軌道が読めなくなってしまった。麟華は迂闊には動けなくなってしまう。


「きゃあっ!?」


 流れ弾よろしくこちらにも鞭が飛んできた。麟華は慌てて頭を下げてやり過ごした。


 と思った瞬間だった。


 男の口元が、にやり、と笑った。麟華の目は、確かにそれを見てしまった。


「――!?」


 男の真意を悟るより早く、それは起こった。頭上を凄まじい速度で通り過ぎたはずの蛇身が、麟華の身体に絡みついていた。


「なっ……!?」


 蛇はいつの間にか男の腕から離れていたのだ。そう気付いた時にはもう手遅れだった。蛇の長すぎる体が両手両足にまとわりつき、麟華の動きを封じていた。


「くぅっ!」


「ハニィ!」


「おらぁアラハバキィ! 綺麗な顔にどろりと濃いのぶっかけてやれよッ!」


 麟華の四肢を縛ってなお余りある長大な身を持つ蛇――アラハバキの蛇面が、麟華の頭上にあった。思わずその顔を見上げてしまった時、目が合ってしまった。感情をまるで感じさせないガラス玉のような赤い瞳が、麟華の目をただ見つめ返していた。どう見ても何も考えていないようにしか見えないその蛇面が、しゃあ、と赤い舌を覗かせ、顎を大きく開いた。


 溶解液をかけられる。


「――!」


 そう覚悟して麟華は反射的に顔を背け、目を固く閉じた。


 パン、という乾いた音を麟華は聞いた。


 数秒の間。不思議と麟華は何も感じなかった。皮膚が焼け爛れすぎて感覚が消失したのかもしれない、と頭の片隅で思う。


「……?」


 流石に奇妙に思い、恐る恐る目を開くと――


 アラハバキの頭が消えていた。


「え?」


 アラハバキが麟華の身体から離れたのではなかった。今もなお、黒い蛇身は麟華の自由を奪っている。しかし、その先端にあったはずの頭部分が、綺麗さっぱり消え去っていたのだ。




 その一分前の話である。


 裕之輔は、麟華と誠司が戦っている場所から少し離れた所にある、三階建ての一戸建てのベランダに潜んでいた。


 手摺りにクロスボウに変化したドゥルガーを載せ、狙撃手のごとく構えている。右目をスコープに通し、戦況を観察していた。


「あ、意外と涼風さんが押してる? すごいなぁあの連携。いっぱい練習したんだろうなぁ」


「手助けされはるんどすか? ヨア・マジェスティ」


「危なくなったらね。って、言ってる傍から危なくなっちゃったかな?」


 白銀のフレームに純白の握り、つがえる矢はアメジスト。後部に取り付けられたスコープの外装が何故か起毛素材で、縁取りが紅色だった。そんなクロスボウの形態をとるサティから質問に、裕之輔はスコープを覗き込みながら答えた。


 裕之輔の方針は『戦わないこと』ではあるが、その大元には『このゲームの犠牲者を減らす』という目的がある。流石に目の前で知り合いが殺されるのを黙って見過ごすわけにはいかなかった。


 もちろんこれが偽善以外の何物でもないことを裕之輔自身は充分に理解している。少年はこれまで積極的に〈Betrayer's on The Bet Layer〉に関わろうとはしてこなかった。実質、彼は既に九十人以上の人間を見捨てていると言っても過言ではないのだ。


 その事を知悉した上で、それでも、目の前の命を見捨てるほど非情に徹しきれないのが裕之輔だった。


「サティ、あの蛇さんを潰して、その後であのお兄さんの動きを封じたいんだけど、出来ると思う?」


「勿論どす。ヨア・マジェスティと妾が揃えば、そんなん朝飯前おす」


 何気なくした問いに、えらく自信満々な答えが返ってきた。裕之輔は口の中のキャンディを転がして、あは、と笑う。


 そうしている内に、スコープの中、こちらに背を向けている麟華が黒い蛇に体の自由を奪われて危機に陥った。


 裕之輔は慌てない。冷静に、沈着に、ゆっくり息を吸う。


 そして言った。


「いくよ、サティ」


「へえ、ヨア・マジェスティ」


 狙いをつけて、勿体ぶらずに引き金を引いた。勢いよく撃ち出される銛のようなアメジストの矢。膨大な反動を力ずくで押さえ込む。スコープの中で狙い過たずアメジストの矢が漆黒の蛇型デーヴァの頭を打ち抜いた。ぱっ、と黒い花火が咲いたような光景。


「続けていくよ」


「へえ」


 ドゥルガーが紫の光を放つと、どこからともなく現れた新しいアメジストの矢が、クロスボウに装填される。裕之輔はそれを横目で確認すると、狙いをずらし、再び引き金を引いた。


 命中する。狙ったのは男の、麟華がナイフを突き刺したのとは逆の方の腕だった。男の右肘から先が、ぱんっ、と弾けて消えてなくなる。


 裕之輔は躊躇しない。突然の悲劇に悲鳴を上げている男の両足に続けて照準。


「次は弱めで」


「へえ、ヨア・マジェスティ」


 再装填されたアメジストの矢が、細く鋭い形に変化した。足は第二の心臓と呼ばれている。腕のように吹き飛ばしては死ぬ恐れがあるため、手加減を要したのだ。


 二回連続で発射する。ほとんど針のような矢が吸い込まれるように男の両膝を貫いた。


 スコープの中で、男がどっと前のめりに倒れる。


 裕之輔はスコープから顔を離し、


「――自分で言うのも何だけど、すごい補正かかってるよねコレ。百発百中。すごいなぁ、サティは」


「おおきに。せやけど前にも言うたとおり、妾の『ドゥルガー』は全てヨア・マジェスティのためのもん。完全に貴方様の身体の一部になりますさかい、狙った所に当たるんは当たり前の話どす」


 サティの謙遜はさておき。ともかくこれで男は満身創痍だ。デーヴァも失ったとあっては勝ち目もないだろうし、大人しく麟華にカードを譲るしかないだろう。


 この時裕之輔の頭の中では、麟華が男を殺すかもしれない、という可能性が全く考慮されていなかった。裕之輔は信じていたのだ。彼女が抵抗できなくなった者にとどめを刺すほど、冷酷非情な人間ではないことを。


 そしてそれは事実ではあったが、真実ではなかった。実はこの時、麟華は男の命を奪う覚悟を決めていたのだ。他者の命を奪ってこそ価値のある勝利である、と。それが結局のところ成されることがなかったのは、ただの結果論でしかない。


 そう。麟華が男にとどめを刺すことはなかった。また、男のカードを手に入れることもなかったのだ。


「――!? ヨア・マジェスティ! あれを!」


 突然、サティが息を呑んで困惑の声を上げた。裕之輔は何事かと問う愚を避け、頭突きをくれるような勢いでスコープを覗き込んだ。次の瞬間には驚きのあまり、口の中のキャンディを噛み潰していた。


 目に見えたのは、炎。


 真っ赤な火焔だった。




 意味がわからなかった。


 勝ったと思った。狩ったと思ったのだ。


 なのに、アラハバキの頭が消し飛んでいた。


 そして次の瞬間には、自分の右手が弾け飛んでいた。


「――ウォオオオオオオオオオッ!?」


 絶叫した。訳がわからなかった。痛みによる悲鳴ではなく、それは理不尽な現実に対する抗議の叫びだった。


 それから右足の、続けて左足の膝がカクンと抜けた。力が入らず、気がついた時には目の前に壁があった。否、壁ではない。地面だ。誠司は無様に倒れてしまっていたのだ。


「……っ、ぁんだちくしょぉぉぉっ!? 一体何が起こってやがるっ!?」


 彼には知る由もなかった。まさか最初に逃げていった男のガキが遠隔から精密射撃をしてくることなど、まるで予想していなかったのだ。ベット・レイヤーは彼の狩り場。誠司以外の全てはただの獲物。そう思い込んでいたが故の、意識の陥穽だった。


 事態は彼の理解を待たぬまま、次の段階へ進む。


 誠司は何か強い気配を足元に感じた。何かと思えば、頭上に影が差していた。馬鹿な、時間の止まったこのベット・レイヤーで天気が曇るなど有り得ない。何だ、何が後ろにいる? 誠司は俯せに倒れていた体を、痛む左腕で無理矢理にひっくり返し、背後を顧みた。


 影の正体を、見てしまった。


 こんな状況でなければ、良く出来た立体映像だと思ったかもしれない。あるいは、一体どこの馬鹿がこんな街中にこんなSFXの置物を作ったのかと吐き捨てていただろう。


 それは、炎の鱗を持つドラゴンだった。


「――――」


 思考回路が完全に止まっていた。デーヴァであろうことは、なんとなくわかった。そうでなくてはこんな生物が実在するはずがない、と誠司の中の理性が言う。


 誠司は気配を感じたのではなかった。炎の竜が放つ熱気を感じたのだった。


 全長六メートル以上はあるだろう巨大な伝説上の生物が、ルビーのごとき双眸で、眼下に横たわる誠司を睥睨していた。


 次の瞬間、誠司は竜に噛み付かれて高い位置に持ち上げられている自分を発見した。胸と背中、太股に竜の牙が深く食い込んでいる。


「ガッ――グァアアアアアッッ!」


 まるで自分のものではないような悲鳴が、喉から迸った。次いで、胃液のように臓腑から這い上がってきた血を吐き出す。口から自分でも驚くぐらいの量が飛び出した。ジョッキ一杯分はあったと思う。血は六メートル下の地面に落ち、びちゃびちゃと飛び散って汚い模様を描いた。


 まるで猫に咥えられている鼠の死体のような格好で、誠司は竜の顎に挟まれていた。はーっ、はーっ、と息も絶え絶えな誠司に、奇妙な声がかかった。


「命が惜しかったらカードを諦めな。嫌なら死ね。好きな方を選びな」


「――ぁあ……?」


 おかしなことにそれは、子供の声にしか聞こえなかった。それも幼稚園児ぐらいの、舌足らずな感じの。


 激痛に引き攣る体に鞭を打って頭を巡らすと、近くの背の低いビルの屋上に小さな人影を見つけた。


 血を失いすぎたのかもしれない。視界がぼやけている。だがそれでも判別できたのは、そいつが金髪のポニーテールで、首元に赤いストールを巻いているということだった。


「早くしろよ。出血多量で死んじまうぞ? いいのかよ?」


 そいつは子供の声で空恐ろしいことを言っていた。確かにその子供の言うとおりだった。誠司とて、これまで多くの人間を殺してきたのだ。人間がどの程度で死ぬかなど大体予想がつく。アラハバキもいない、自分は傷だらけ、逆転の余地など微塵もない。そしてこれだけの出血量だ。放っておけば、遠からず本当に死ぬだろう。


 ――大体、こんな怪獣じみた奴に勝てっかよ……


 はっ、という自嘲の笑みが青白くなった誠司の顔を斜めに滑り落ちた。


 自分の身に一体何が起こり、このような状況になったのか未だにさっぱりわからなかった。だが、このままでは自分が死んでしまうことだけは理解していた。


 誠司は項垂れた。望みは、願いは、捨てるしかなかった。


「……くそっ……降参だ……カードは好きにしやがれ……」




 麟華は男が敗北を宣言し、無彩色の物体になるのを何も出来ずに眺めていた。


 同時に、麟華の身体に巻き付いていた蛇の体が塵のように崩れ、幾万もの粒子となって炎の化け物の方へ吸い寄せられていくのを見た。そして化け物がその塵を吸い込むところも、その傍のビルの屋上に佇む小さな人影も。


「――瑠璃室さん……!?」


 金槌で頭を殴られたような衝撃があった。何故、彼女がこんなところにいるのか? あの炎の竜は一体何なのか? そんな疑問が一斉に溢れ出し、しかしすぐに答えは出た。


「……あなたも、ヴェトレイヤーだったのね……!」


 それしか考えられなかった。他の答えなど有り得なかった。裕之輔から聞いていた話とは矛盾するが、瑠璃室美里菜は何らかの経緯で〈Betrayer's on The Bet Layer〉のことを知り、ヴェトレイヤーとして参加していたのだ。


「おう、涼風。お前もやっぱり〝参加者〟だったんだな」


 背の低いビルの屋上から、美里菜は麟華を見下ろしてそう言った。勝ち気な表情が常の少女だったが、こんな状況だからか、それはひどく傲慢なものに見えた。


「お前も……って」


 どういう意味なのか、と問うより早く、美里菜が次の言葉を放った。


「よう、ユウ。待ってたぜ」


「えっ?」


 振り返る。そこには、先程逃げたはずの裕之輔が立っていた。しかし、彼は麟華の方をまるで見ていなかった。顎をあげて、上空を呆然と見つめていた。


「美里菜、ちゃん……?」


 もう一度麟華は頭上の美里菜に視線を向ける。金髪ポニーテールで二年B組の〝ボス〟は、にやりと可愛らしい外見にそぐわない肉食獣じみた笑みを浮かべていた。


「【待ってたぜ、ユウ。こんな日が来るのをな】」




 最初見た時は、見間違いだと思った。彼女がこんな場所に、こんなふざけた空間にいるはずがないと思っていたから。それでも胸中に湧き上がる不安を抑えられなかったから、裕之輔はここまで戻ってきたのだ。


「美里菜ちゃん、どうして……?」


 まるで意味がわからなかった。否、理解したくなかったと言うべきだろう。裕之輔の脳は、目の前にある現実を呑み込むまいと拒否していた。


 何かの間違いだ。これはきっと夢だ。だってそうだ、美里菜ちゃんがこんなところにいるわけが――


「現実から目を逸らしてんじゃねえぞユウ!」


「!?」


 現実逃避しかけた柔な思考を、美里菜の怒声が吹き飛ばした。頭にかかっていた靄が晴れたように、意識がクリアになる。


 屋上に立っていた美里菜は、自らのデーヴァであろう炎の竜が差し出した手の上にその身を移した。彼女は、へへっ、と笑って、


「まずは謝っとくぜ。騙して悪かったな。カード無くしちまったってのはありゃ嘘だ。本当はまぁ、見ての通りだ」


 竜の掌に捧げ持たれるようにして立つ少女は、あっけらかんと話した。


「ユウも知ってるだろうけどさ、あたしの性格上、絶対に勝てるって自信がないときはあんまりこっちの状況を知られたくなくてさ。悪いと思ったけど、ついつい嘘ついちまったんだよな。本当にごめんな」


 トレードマークの赤いストールに、黒のタンクトップとショッキングピンクの肩出しセーター、デニムのホットパンツという姿の美里菜は、軽く片手を立ててあまり誠意の籠もっていない謝罪を口にした。


「でもまぁ、今の奴でちょうど四十人目だし、カードもこれで九十八枚になったからな。そろそろ大丈夫だろって思ってよ」


 にひっ、と笑って、美里菜は言った。


「ユウ、本気で勝負しようぜ」


「え……?」


 言っている意味がわからなかった。本気で勝負? なんだそれは。そんなお菓子の名前なんか聞いたこともない。


 裕之輔がとぼけたような返事をした途端、美里菜の顔から笑顔が弾き飛び、凶悪な表情が取って代わった。


「そのまんまだ。本気の勝負だ、ユウ。お前、あたしが気付いてないとでも思ってたのかよ?」


 炎の竜が、ゆっくりと手の位置をやや下にさげた。美里菜の体が地上に近付く。美里菜は真っ直ぐな視線を裕之輔に突き刺したまま、


「お前がいつも本気出して勝負してないのはわかってんだよ、ユウ。勉強でも、体育の授業でも、うちの道場でもそうだ。お前さ、いっつもあたしの二番手に甘んじてるよな? それが【わざと】だってこと、あたしが気付いてないと本気で思ってたのかよ」


 それは――。そう言おうとして、裕之輔は自分の喉と口が上手く動かないことに気付いた。意思に反して裕之輔の体は震えていた。それが全身を萎縮させてしまっていて、声を出すことすら重労働な状態だった。


 美里菜が裕之輔を睨んでいる。蛇に睨まれた蛙だって逃げることぐらい考えるだろう。しかし、裕之輔はこの場から逃げることすら考えられなかった。


 何故なら、美里菜の言うことは、全て本当の事だったから。




「――全部わかってんだぜ、ユウ。お前、【コレ】のことまだ根に持ってんだろ?」


 美里菜は首元を隠しているストールを、自ら外して見せた。彼女の幼馴染みは、それを見て明確に息を呑んだ。それもそのはずだ。ここにある傷痕は、彼のせいでついたものなのだから。


 美里菜の首元には、見るだけでも痛々しい割創があった。


 まだ小さい頃のことだった。その時、自分が何を考えて行動していたのか思い出せないほど昔のことだ。美里菜は、何らかの理由で彩矢音をいじめて泣かせてしまった。多分、ほんの悪戯心か、単なる思いつきだったのだと思う。しかし結果は軽い気持ちとは裏腹なものだった。


 初めて、美里菜は裕之輔に殴られた。小さい子供ながら、あれは本気の一撃だったのだと思う。美里菜の体はたまらず、後方に転がった。


 場所が悪かったのだ。


 その時はたまたま美里菜の家にある道場で、子供達だけで遊んでいた。そして、美里菜達が遊んでいたすぐ傍に、日本刀が飾られてあったのだ。裕之輔に殴られた美里菜の体は、そこに突っ込んだ。


 首の割創はその時についたものだった。美里菜としてはもう遠い昔のことなので、今では大して気にしていないつもりだ。しかし問題は、裕之輔がこのことを気にしている、ということだった。思い返せば彼はあの日以来、美里菜の一歩後ろを歩くようになった。登下校でもそう。試験でもそう。道場でもそう。裕之輔は何があっても美里菜の前へ行くことをしなくなってしまった。


 最初の頃は気付かなかった。だが、ある日、ふと気付いてしまったのだ。もしかしてこいつは本気を出していないんじゃないか――と。心に生まれた小さな疑念は、否定する材料がないせいか、少しずつ少しずつ美里菜の中で大きくなっていった。


 これまで美里菜は、裕之輔に勝つことでささやかな優越感を得てきた。それは少なからず彼女にとって自信の源であった。


 しかし、それが嘘だったなら?


 全ては裕之輔の演出で、自分はただ、目の前に用意された勝利の旗を掴まされて喜んでいただけだったとしたら?


 これほど滑稽な話はそうもないだろう。もしそうだったのなら、美里菜はおだてられて木に登る豚と同じということになる。自分が道化だと認識していない道化は、ただの愚か者だ。


 馬鹿にされている、と思った。自分は裕之輔に馬鹿にされている、と美里菜は思ったのだ。


 どうして本気を出さないのか。どうして自分を立てるのか。そんな譲られただけの勝利に、一体どれだけの価値があるというのか。互いに本気でぶつかり合い、その果てに掴んだ勝利こそが〝本物〟ではないのか。


 だから、〈Betrayer's on The Bet Layer〉に出会った時、美里菜は願ったのだ。


 裕之輔と本気の勝負がしたい、と。


 本当は全てのカードを集めて願うつもりだった。しかし、どうやら裕之輔も、転校生の涼風も〈Betrayer's on The Bet Layer〉のことを知っているようだったから、美里菜は一計を案じたのだ。


 学校にはカードを持って行かず、影で他のヴェトレイヤーを狩るという計画を。カードをあらかた集め終えてから、正体をばらし、勝負をしようと。


 卑怯だとは思わなかった。自分に実力がなければ、裕之輔と戦う前に負けるのだから。それに裕之輔も美里菜に〈Betrayer's on The Bet Layer〉のことを秘密にしていた。お互い様だ、と美里菜は思っている。


 そして、時は満ちた。先程の男のカードを奪ったことで、残りのカードは裕之輔と涼風が持っているものだけになった。


 今こそ、自分と裕之輔が本気の勝負をするべき時なのだ。


 動揺に揺れる幼馴染みの瞳を見つめて、美里菜は抑えきれない歓喜に顔を緩ませながら、言い放つ。


「そんなこったろうと思ってたんだよ。あたしの首に傷をつけたから、遠慮してたんだろ? だけどな、ふざけんなよ。あたしがそんな遠慮されて喜ぶタマだとでも思ってんのかよ? 違うぞ! 全然違うぞユウ! あたしは気にいらねえ! あたしはそういうのは大嫌いだぞ! 死ぬほど大っ嫌いだッ! わかったら、今すぐ本気であたしと戦え!」


 断固たる思いを視線と声にのせて、美里菜は裕之輔に叩き付ける。鋭い動作で裕之輔を指差す。


「いいか! あたしは本気だ! お前も本気でやらなきゃ死ぬぞ! わかったか!? 死にたくなけりゃ――」


 すうっ、と息を吸って、美里菜は勢いよく次の言葉を吐き出した。


「――お前の本気をあたしに見せてみろッッ!」




 ――無理だよ、そんなの。


 裕之輔の心はすぐに結論を出した。


 ――だって、ダメだよ。そんなこと考えたこともなかった。僕と美里菜ちゃんが本気で勝負するなんて。


 僕が悪いんだ。僕が悪かったんだ。女の子の体に、二度と消えない傷痕をつけるなんて。


 だから僕はもう美里菜ちゃんから奪っちゃいけないんだ。何も奪っちゃいけなかったんだ。


 僕は美里菜ちゃんを輝かせなきゃいけないんだ。僕自身は一生影のままでいいんだ。美里菜ちゃんさえ輝いてさえいれば、僕はそれだけで幸せで、満足なんだから。


 だから、ダメだよ。本気で戦うなんて。


 僕が勝っちゃったら、美里菜ちゃんが輝かない。


 そんなのは、嫌だ。


 ――そうだ、負ければいい。


 負けて死ねばいい。そうすれば、美里菜ちゃんは輝いたままだし、僕は幸せに人生を終えられる。


 そうだ、そうしよう――




 ちょっと待て、と麟華は言いたい。


 色々と訳のわからないことが多すぎて混乱気味の頭を、麟華は必死に整理しようと心がける。


 まずアラハバキという蛇型デーヴァの頭を吹き飛ばし、さらにはそのヴェトレイヤーの右手を消滅させ、両足を射貫いたあの攻撃。あれは十中八九、そこにいる裕之輔の仕業と見て間違いないだろう。何故なら、彼の手にはクロスボウに変化したサティが握られているのだから。どこか遠方から狙撃したに違いなかった。


 そんな彼に、美里菜が首元の傷を見せつけて、お前の本気を見せてみろ、と焚き付けている。


 何となくではあるが、大体の事情は把握できたと思う。要するに、麟華自身も疑問に思っていたことだ。何故、神楽御坂裕之輔はああも理不尽なまでに瑠璃室美里菜に従っているのか――という。その理由が、あの見るからに痛々しい傷痕なのだろう。彼らの幼馴染みである藤久良多加弥が言っていたではないか。『ユウは恩を忘れない。受けた恩は必ず返す』と。それは即ち、罪悪にも適用されているのだ。


 裕之輔は自ら犯した罪を忘れない。犯した罪は必ず償う――と。


 だから彼は、美里菜の言うとおりこれまでずっと彼女の二番手に甘んじてきたのだ。あくまで何となくだが、確かに裕之輔のやりそうなことだと麟華も思う。彼は独特で、一般的な常識からはかなりズレたところがある。そんな裕之輔だからこそ『一生、美里菜の顔を立て続ける』というふざけた選択をしてしまったに違いない。


 故に、美里菜は怒っている。それはそうだ。そんなことをされていたと気付けば、麟華とて怒る。裕之輔の行為は好意のように見えて、実のところ、侮辱以外の何物でもない。


 お前はどうせ本気を出した俺には勝てないんだから、俺は本気を出さないでいてやるよ――そう言っているようなものなのだから。


 その結果、彼女はヴェトレイヤーであることを隠して、四十人もの敵を打ち倒し、裕之輔の前に現れたのだ。最強のヴェトレイヤーである自負と共に。


 正直、麟華は先程の蛇男を見た時に『こいつが最近調子に乗って三十人以上のヴェトレイヤーを狩った奴か』と思ったものだが、どうやらそれは勘違いだったらしい。


 そういった諸々の事情を察した上で、それでも麟華は言いたい。


 ちょっと待て、と。


 お前達はそんな理由で私の願いの邪魔をするのか――ではなく。そんな思考は後回しだ。


 何よりも麟華がふざけるなと言いたいのは、今の裕之輔の浮かべている表情だった。


 なんて情けない顔をしているのか。


 捨てられた子犬のような、今にも泣き出しそうな顔。


 それは駄目だ。あなたはそんな顔をしてはいけないのだ。


 何故なら、あなたは私と正反対の人間なのだから。あなたは私なんかより、もっとずっと、強い人間でなければいけないのだ。なのに、なんなのだ、その顔は。


 たかだか幼馴染みに嘘をつかれた程度で、なんだその体たらくは。それでも私の願いを真っ向から否定した男なのか。私を馬鹿にし続けた男なのか。


 それでは――私がそんな男よりもさらに情けない生き物のようではないか。


 そんなのはいけない。認めない。許されないのだ。


 無性に腹が立っていた。そしてベット・レイヤーという空間において、それを我慢する理由は何一つなかった。


 麟華はツカツカと裕之輔に歩み寄り、その肩を掴むと、思いっきり彼の顔を張り飛ばした。


『!』


 柔らかい頬が平手打ちされる、ひどく小気味よい音が高らかに響いた。


 これが麟華が初めて裕之輔に入れた、まともな一撃だった。


「………………へっ?」


 殴られた裕之輔は明後日の方向を向いたまま目を白黒させ、鼻から血を垂らした顔で間抜けな声をこぼした。


 麟華はその胸ぐらを猛然と掴みあげる。


「なにをボケッとしているの! もっとちゃんとキビキビしなさいッ! あなた、それでも神楽御坂君なのッ!?」


 我ながらとても理不尽なことを言っていることはわかっていた。だが、言わなければ気が済まなかった。


 ゆっくりだが、驚いた表情の裕之輔が麟華の顔に焦点を合わせる。呆然として何も言えない少年に、麟華はなおも言い募る。


「いつもみたいに馬鹿にしなさいよ! あはって笑ってみせなさいよ! そんなことのためにこんなところまで来て馬鹿だなぁとか! あるでしょうが! もっと言えることが! それにあなた、私が瑠璃室さんと戦うならどうせ邪魔するんでしょ!? なら、あなたが責任とってちゃんと戦いなさい! あなた賢いんでしょう!? それなら『負け続ける』なんてふざけたやり方なんかより、もっと良い方法考えればいいのよ! そうでしょ!? だから!」


 すうっ、と麟華は大きく息を吸って、次の台詞を怒鳴りつけた。


「いい加減、本気で戦いなさいッッ!」


 ビリビリと大気が震えるほどの大音声だった。


「…………」


 鼻血を拭うこともせず唖然と麟華の顔を見つめ返していた裕之輔は、長い沈黙の果てに、


「……………………ありがとう」


 ぽつりと言った。


 裕之輔の手がすっと上がり、胸ぐらを掴んでいる麟華の手に重なった。


 少年はどこか遠い目をしていた。その唇が小刻みに動いているのを、麟華は見た。ぶつぶつと、何事かを呟いている。


「そうだよね。そうだ。僕が本気になればいい。本気になってやってしまえばいいんだ。全部、うん、そうだ。それがいい。それがいいんだ。だよね。間違っていたのは認めればいい。なおしていけばいい。大丈夫。取り返しはつく。今からつける。それで充分」


 何を言っているのか麟華にはわからなかったが、それはおそらく裕之輔自身にしかわからないことなのだろう。麟華はそう思う。


 ちらりと美里菜の方へ視線を向けると、彼女はデーヴァの掌の上で、目を丸くしてこちらを見つめていた。どうやら驚いているらしい。


 ――よく考えたら、ものすごいことしたわね……


(俺も流石に引いたぜハニィ。しかし、敢えて褒めよう。お前は実にいい女だぜ)


 念話でキューリアスがあまり嬉しくないことを言ってくれた。勿論、麟華はそれを完璧に無視した。




 おかげで迷いが晴れた。


 二人の少女から『本気を出せ』と言われてしまった裕之輔は、あっさり気持ちを切り替えることに成功した。我が事ながら、こういう割り切りの早さは自分の長所であると裕之輔は思う。


 考えてみれば、答えは簡単だった。今まで自分は固定観念にとらわれ過ぎていたのだ。自分らしくもなく。


 自分は美里菜の注文に応えればいい。ただそれだけだったのだ。そして麟華が言ってくれたように、美里菜が輝く手法は何も単一ではなかった。それは工夫を凝らせば、無限の方法があるのだ。


 それに、当の美里菜がこうも言った。


『あたしはそういうのは大嫌いだぞ! 死ぬほど大っ嫌いだッ! わかったら、今すぐ本気であたしと戦え!』


 あそこまで言われてしまったのなら致し方あるまい。これまでの手法は全部なしだ。潔く諦めてしまえばいい。


「わかったよ、美里菜ちゃん」


 胸倉を掴む麟華の手をゆっくりほどいて、裕之輔は美里菜に顔を向けた。


 裕之輔は鼻血を拭い、あは、と笑う。


「本気でやるよ。だから、僕と戦ってくれるかな?」


 言った途端、目を丸くしてこちらの様子を窺っていた美里菜の顔が、ぱぁっ、と輝いた。それこそ、裕之輔が大好きな表情だった。


「……ユウ! てめぇようやくやる気になったか!」


 本気で戦う。自分で言って、裕之輔は体の奥で燻っていた何かに火が点くのを感じた。そうか、今日は好きにやって良いんだ。本当に本気を出して良いんだ――と。


 我知らず、裕之輔の口元は緩んでいた。それは彼の常であるどこかわざとらしい笑みとは一線を画していた。


「だけど美里菜ちゃん、気をつけてね?」


「?」


 裕之輔の台詞に、美里菜が小首を傾げる。と、そんな美里菜の表情が不意に凍り付いた。


「……ッ!?」


 彼女の瞳には、裕之輔の顔が映っていた。本気になった裕之輔の、自然な笑みが。


「僕の本気は、ちょっと怖いと思うから」


 美里菜は後になってこう語る。


 目の前にいるはずのユウが、一瞬だけ悪魔か何かに見えた――と。






 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ