7. e - イージー・ミス
「ただいま」
「あ、おかえりなさい」
裕之輔がリビングに入ると、か細い声が彼を迎えてくれた。
ソファに座っていた彩矢音が立ち上がり、とたとたと駆け寄ってくる。学校では控えめで大人しい妹も、家ではわりと明るく元気だ。
「お兄ちゃん、お弁当箱出してね」
ただ、その聞く者の庇護欲をかきたてるような華奢な声だけはどこにいても変わらない。裕之輔は笑顔で頷くと、学生鞄から取りだした弁当の包みを彩矢音に渡した。今朝方に彩矢音が教室に届けてくれて、昼休みになっても食べるまで小一時間以上待たされてしまった弁当である。
麟華が屋上から立ち去った後も、しばらくの間ベット・レイヤーは解除されなかった。サティが言うには、何故かキューリアスがなかなか解除同意要求に応えてくれなかったらしい。いっそ麟華達を探しに行って、直接お願いしてみようかとも思った。自動的にベット・レイヤーが解除されないということは、そんなに距離も離れていないはずだから。とはいえ、こんなナイスタイミングで固まった美里菜の間抜け顔をじっくり鑑賞できる機会もそうはない。またも麟華と額を突き合わせて何やかんやと言い合いもしたくなかったので、裕之輔はサティと談笑しながらベット・レイヤーが解除される瞬間までの時間を潰した。
あれはもしかすると麟華の新しい戦術だったのだろうか。所謂、兵糧攻めというやつである。
もしそうだとしたら、少し困ったことになる。今日みたいなことを毎日繰り返されては叶わない。もう一度刃を突き付けて脅す――となると、今度こそ本気で麟華が望んでいた戦闘状態に突入してしまいそうだからやめておいた方が良いだろう。他に何らかの対策を立てなくてはなるまい。
「今日のはどうだった?」
これから結婚披露宴にでも出席するのかと思うぐらい凝った髪型の妹が、本日の弁当の味について批評を求めた。
裕之輔は、あは、と笑って答える。
「美味しかったよ」
毎朝、彩矢音の髪をセットしているのは母親だ。都心部で美容院を経営しているせいもあるのだろうが、大半は趣味の産物である。あるいは母なりの愛情表現なのかもしれない。息子である裕之輔には縁のない愛情ではあるが。
白のブラウスと淡いピンクのワンピース、その上にミントグリーンのカーディガンという楽な服装の彩矢音は、裕之輔の評価に顔をほころばせた。
「よかった。今日のは自信があったの」
裕之輔の手は自然と彩矢音の頭を撫でる。
「彩矢音のお料理はいつも美味しいよ。今日は父さん母さんは?」
「お父さんは今日も夜勤で、お母さんは残業になるかもってメールで言ってたよ」
頭を撫でられてくすぐったそうに目を細めながら、彩矢音は質問に答える。父と母は都心でそれなりに大型の美容院を経営しているのだが、その最大の特徴が『二十四時間営業』なのだ。おかげで父と母が共に家にいる日は一年を通してもあまりなく、家事もほとんど裕之輔と彩矢音がこなしている。もっとも、彩矢音が登下校する際だけは父か母かのどちらかが必ず車で送迎してくれるのだが。
裕之輔としてはいくら彩矢音の身体が弱いとはいえ、毎日車で送迎するのは過保護だと思うのだが、それも可愛くない長男に注ぎ損ねた愛情の分も長女に集中させているのかもと思うと、強くは言えないのだった。
実際、兄から見ても、そして兄としても、彩矢音は可愛いと思う。控えめで大人しく、優しい。かといって暗いわけではなく、こう見えて心の強い所もあり、時には家族に向かって厳しいことを言うことだってある。自慢の妹だ、と裕之輔は思っていた。
ふと、涼風麟華のきつい顔が頭によぎる。
うん、あれに比べたら身内の贔屓目を抜きにしても彩矢音の方が可愛い。確かに涼風さんは美人だけど、あんな剃刀みたいな美貌には触れようって気にはならないや。
改めて彩矢音を見つめる。裕之輔は父親似だが、彩矢音は母親似だ。若い頃、大学のミスコンで入賞したことのある母の容貌は、確かに彩矢音に引き継がれていた。
「うん、うちの妹は可愛いなぁ。彼氏がまだいないのが不思議でならないよ」
「――ええっ!? いきなり何を言い出すのお兄ちゃんっ?」
しみじみと一種変態じみたことを呟いた裕之輔に、顔を紅潮させて驚く彩矢音。
「わ、私にはまだ彼氏とか、そういうのは早いよ……」
彩矢音は両手で自分の頬を挟んで恥じ入る。彩矢音は純朴な性格だった。裕之輔は思わずからかってしまう。
「そんなことないと思うけど。そうだなぁ……例えば、多加弥とかどうかな?」
「ふえっ!? た、タカヤお兄ちゃんっ!?」
彩矢音の声がひっくり返る。妹も年頃になってきたのか、たまに遊びに来る多加弥に向ける彩矢音の視線が、昔とはちょっと違うことに裕之輔は気付いていた。それが恋愛対象として意識してのものなのか、それともただの憧れなのかは、裕之輔には判別できないのだが。
それでカマをかけてみたのだが、どうやら大当たりだったらしい。彩矢音は明らかに慌てて、ぶんぶんと首と両手を振る。
「そ、そんな、タカヤお兄ちゃんはちっちゃい時からの知り合いだしそれにタカヤお兄ちゃんにはもう恋人がいるかもしれないしってああん違くてっ恋人がいなかったら私が彼女になれるってわけじゃなくてっそうじゃなくてそうじゃなくてっ」
「はいはい」
わたわたと何事か弁解しているようだったが、裕之輔はその大半を聞き流していた。くすくすと笑いながら、ぽんぽん、と彩矢音の頭を軽く叩いて落ち着かせる。
からかわれた、と理解したらしい、彩矢音は頭の上に載せられた裕之輔の手を両手で掴み、上目遣いで、
「あう……お兄ちゃんのいじわる……」
「うん、ありがとう」
「ほめてないもん……」
「今日の夕食の献立は?」
小さな抗議の声をさらりと流して、裕之輔は学生鞄を担ぎなおした。
「とんかつにしようと思っているけど……お兄ちゃん、なにかリクエストある?」
「ないよ。期待してる」
笑ってリビングを出て行こうとすると、背中にこんな声が届いた。
「あ、お兄ちゃん、夕食前に飴とお菓子は食べちゃダメだよ……?」
「……うん」
返事するまでにいささか間が空いてしまった。彩矢音の疑わしげな視線を背中に感じながら、ほんの少し後ろめたい気分で裕之輔は自室に向かった。
二階に上がって部屋に入ると、鞄を置いてすぐに制服から楽な私服へ着替える。脱いだ制服はしわにならないようにハンガーに掛けた。
「さて、と」
言った瞬間だった。制服の内ポケットから取りだして机の上に置いてあったカードが、独りでにその形を崩した。最初は幾千の糸になり、次いで幾万の粒となり――
しずしずと紅色の長着姿のサティが顕現した。彼女の身に纏っている長着は地の色はいつも同じなのだが、模様だけは毎度微妙に違っていた。今回は豪華絢爛な花々が柄となって彼女の全身を飾っている。
サティはにっこりと微笑む。
「【おくたぶれさん】どす、ヨア・マジェスティ」
「うん、ありがとう」
ねぎらいの言葉をかけてくれるサティに返事をしながら、黒のシャツとブルージーンズという簡単な格好になった裕之輔はベッドに腰を下ろした。
サティは人目を憚る必要がない時は、よくこうやって裕之輔が召喚しなくても勝手に姿を現したりする。なにも彼女が特別なわけではなく、ヴェトレイヤーと正式にシンパシィを結んだデーヴァなら皆可能なことらしい。
裕之輔は天井を見上げて吐息。
「今日はお腹と背中がくっつきそうで大変だったよ」
「いけずなお人どすなぁ、涼風はんは」
「それだけ僕とカードを賭けて戦いたいんだろうね」
裕之輔の手がベッド脇の瓶に伸びる。瓶の中に所狭しと詰まっているのは色取り取りのキャンディだ。裕之輔の部屋には同じような瓶が五つある。
「あきまへんえ、ヨア・マジェスティ」
「あたっ」
すすっと音もなく近付いてきたサティが、蓋にかかった裕之輔の手をぴしゃりとはたいた。
サティは唇を尖らせて、
「彩矢音はんが言うてはったやおまへんか。この瓶いろたらあきまへん」
裕之輔は、あは、と笑って、
「なんだかお母さんみたいだね、サティって」
「へえ、そりゃもう妾はヨア・マジェスティのデーヴァどすから。一心同体も同然どす。世話焼きにもなってますわ」
涼しい顔でサティは言う。彼女には痛覚同様、飢餓感というものを持ち合わせていないのだろう。我慢して当然、という顔である。
サティはそのまま裕之輔の隣に腰を下ろし、突然、真剣な面持ちで唇を開いた。
「ところで、ヨア・マジェスティ」
「――なに? 改まって」
「へえ、改めて確認しときたいんどすけど、ほんにこのまま戦われへんつもりどすか?」
「え?」
いきなりの話に裕之輔は面食らう。
サティと目を合わせると、彼女は心の底から心配そうな瞳で裕之輔を見ていた。
じっ、と見つめられる。
「そのつもり、だけど」
少し驚きつつも、裕之輔は素直にそう答える。
降り懸かる火の粉ならば払うのに躊躇はないが、やはり自ら戦いに臨むというのは裕之輔の流儀ではない。それに麟華にも言ったとおり、裕之輔には〈Betrayer's on The Bet Layer〉に託すべき願いなど何一つない。願いそのものがないのではなく、あのような方法で叶えたい願いが一つもないという意味だ。
裕之輔は他人を傷つけ、犠牲にしてまで我欲を満たそうとする人間を軽蔑する。しかもあのような、世界の摂理を曲げるような力に頼ってまでとなると、どうしても嫌悪感が抑えきれない。
そういう意味では、今でも裕之輔は麟華を軽蔑している。あの時、本人に宣告した時から裕之輔の気持ちはこれっぽっちも変わっていない。とはいえ、彼女の全てを否定するつもりもない。麟華には麟華の良い所があると、裕之輔は知ってるし分かっている。だから極力態度に出さないように努めているのだ。
「それが戦略なら、妾も理解できますえ。そやけども、ほんに戦われへんのは……困りおす」
「そう言われてもなぁ……」
ぶっちゃけた話をすれば、裕之輔は今からでもカードを手放してもいいぐらい戦う気がない。出来ることなら、面倒な麟華の襲撃を避けるためにも学校にカードを持って行くのをやめようかと考えているところだ。
だというのに、裕之輔が今でもカードを携帯し続けるのには理由がある。
その理由とは、即ち――〈Betrayer's on The Bet Layer〉終了の阻止、である。
これは以前にも、サティに確認を含めて話しておいたことだ。
このゲームは百枚のカードを集めた者が最終勝利者になるというルールがある。そして、最終勝利者がその願いを叶えると、カードは再び世界中に四散し、また新しいゲームが始まるのだという。
ならば、終わらせなければいい。裕之輔はそう思ったのだ。どこかの誰かが九十九枚集めた所で、裕之輔の持つ一枚が手に入らなければ永遠にゲームをクリアすることは出来ない。そうなればゲームは終わらないし、こんなふざけたものの新しい犠牲者が出ることもない。
とはいえカードを常日頃から携帯していなければ、いずれカード本体が裕之輔を『戦う意思なし』と見て、別の誰かのところへ飛んで行ってしまう。それでは意味がない。
だから裕之輔はカードを常に持ち歩くが、決して戦おうとしないのである。
幸いサティの能力である『ドゥルガー』は、武具という概念を持つものならば何にでも変化することが出来る。以前、試しに一体どれほどのものまでが『武具』として認識され、実体化させることが出来るのかを試したことがある。流石に戦車や核爆弾と言った『兵器』に類するものには変化できなかった。しかし、それとは逆に、例えば騎士が跨るような馬――乗り心地は良くなかった――や、弓矢やクロスボウといった人の手で使う飛び道具などには『武具』としての概念があるため、変化することが可能だった。残念ながら銃器類は火薬が必要なためか、不可能だったが。とはいえ、サティの能力は裕之輔が求める『負けないための能力』としては限りなくベストに近いものだった。この能力さえあれば、それこそ相手が核爆弾でも持ち出さない限り『負けない』自信が裕之輔にはあった。
「前にも言ったと思うけど、戦った所で僕にメリットはないし、そもそも目的はこのゲームを終わらせないことだから」
「そやから、それはえらい困るんどすっ」
切羽詰まったような顔で、サティは裕之輔に詰め寄る。彼女がこんなにも裕之輔のやり方に口を出してくるのはこれが初めてだった。
――どうしたんだろう? なんだか、らしくないな。
というか、いくら相手が人間ではないとはいえ、ベッドの上で女の子に迫られているという状況はあんまりよろしくないのではななかろうか?
そう考えたのでやおら裕之輔は立ち上がり、勉強机の椅子へと移動した。不安げなアメジストの瞳が、その動きを見守る。
勉強机の上には最近読み込んでいる本が無造作に積まれてある。原始時代の石器から近代兵器まで、あらゆる武器防具が掲載されている図鑑が十冊ほど。その中にはファンタジーなどに出てくる伝説や幻想の武器の事典まで混じっていた。
「なんだか随分とサティらしくないね?」
背もたれを前にして椅子に腰を下ろすと、裕之輔はそう指摘した。珍しいことに、目に見えてサティの顔に焦りが生じた。
「そ、そうどすか?」
「そうだよ。何か理由でもあるのかな?」
裕之輔がそう言うとサティは俯き、しばし無言になった。それに対して、裕之輔も敢えて急かすような真似はしなかった。ただじっと彼女がもう一度口を開くのを待った。
やがてサティはゆるゆると首を横に振ると、
「……申し上げます、ヨア・マジェスティ。〈Betrayer's on The Bet Layer〉の『決着の刻』はもうすぐ仕舞いを迎えおす。現在、残っているヴェトレイヤーは六人。ヨア・マジェスティと涼風はんを除いても、あと四人しかおりまへん。この意味、わかりおすやろ?」
「へぇ」
裕之輔は相槌を一つ。もうそんなに人数が減っていたのか、と思っただけだ。確かにサティの言っていることの意味はわかる。もう少しで誰かの手に百枚のカードが集まる。つまり、本当の意味での『決着の刻』が近いと言うことだ。
裕之輔は椅子の背もたれに腕を乗せて、さらにその上に顎を載せる。
「でも、それは君が困る理由じゃないんじゃない?」
彼女の言ったことは、裕之輔が戦わないから困る理由ではない。ただの現状報告で、それはデーヴァとしての役割でしかない。裕之輔の言及に、サティはきゅっと唇を噛みしめた。
裕之輔は、ふぅ、と吐息。
「……まぁ言いたくないんなら別にいいんだけどね。話終わっちゃうけど、いいかな?」
「……いいえ。申し上げます、ヨア・マジェスティ」
話を切り上げようとした途端、意を決したようにサティが石灰岩のように固く、表情のない声を発した。紫の綺麗な瞳がこちらをひたと見据えて、
「えらい単純なお話どす」
サティはそう前置きをしてから、次にこう言った。
「妾らデーヴァは、元は人間なんどす」
「…………」
驚いた、なんてものではなかった。もし彩矢音が『お兄ちゃん、私は明日タカヤさんと結婚します』と言ってもここまでは驚かなかっただろう。
「――どういうこと?」
努めて平静に、裕之輔はそう問い質した。どう考えても腑に落ちなかった。サティだけならともかく、あのアルビノの大鷲が元は人間だっただって? にわかには信じがたい話だった。
サティの目は真剣だった。
「妾らデーヴァは、元々は〈Betrayer's on The Bet Layer〉のヴェトレイヤーだったんどす」
サティは語った。
デーヴァとはヴェトレイヤーのなれの果ての姿であると。
サティやキューリアスといったデーヴァに宿る人格は、元々は〈Betrayer's on The Bet Layer〉の戦いにおいて散っていたヴェトレイヤーのものだと、彼女は言う。
最終勝利者、あるいはカードを自ら手放した脱落者――そのいずれでもなく、ベット・レイヤー内で死亡した者の魂。それこそがデーヴァの正体なのだと。
ベット・レイヤー内で死亡したヴェトレイヤーの肉体と魂は、そのまま〈Betrayer's on The Bet Layer〉【そのもの】に取り込まれてしまう。ゲームのシステムに組み込まれてしまうのだ。
その結果、彼ら彼女らは本来の記憶を根こそぎ奪われ、仮初めの肉体と名前、そして特殊な能力とデーヴァとしての役割を与えられる。そうして、待つのだ。自らに相応しい者が、ヴェトレイヤーになる日を。
ヴェトレイヤーには必ずつきもののデーヴァ。その外見、性格およびは特殊能力は、実はランダムで決まっているのではない。
デーヴァの性格は、元になった人間のものがそのまま適用されている。またその外見と特殊能力には、原料になった魂に最も相応しいものが用意されるのだという。
例えばキューリアスなら、彼は純白の大鷲という姿と治癒能力が相応しい魂を持っていたことになる。サティの場合で言えば、彼女は見目麗しい少女の姿と、武具変化能力に相応しい精神を有していたということだ。
そして、デーヴァは自らの魂と性質が似通ったヴェトレイヤーの元にしか召喚されない。つまり、傍目にはどれほど性格が似ていなくて相性の悪いヴェトレイヤーとデーヴァに見えても、その互いの魂は根っこの部分で必ず似通っているというのだ。
涼風麟華とキューリアス、神楽御坂裕之輔とドゥルガサティー。この二組とて例外ではない。表層的な人格ではなく、その魂の本質。それが近しくなければ、ヴェトレイヤーとデーヴァのシンパシィは生まれないのだ。
「そんな妾らの魂が解放される条件が、〈Betrayer's on The Bet Layer〉の最終勝利者のデーヴァになること――なんどす」
「…………」
裕之輔はサティの話を黙って聞いていた。
確かに、色々と合点のいく話だった。
言われてみればゲームのサブキャラクターにしてはサティもキューリアスもいやに人間くさかった。特にサティの京都弁なんかは最たるものだと思う。ベット・レイヤー内で死んだ者が一度は蘇って死ぬ、というあたりも仕組みがよくわかっていなかったが、そもそも肉体と魂がゲームそのものに取り込まれてしまったのだったら、その後はどうとでもやりたい放題に出来るのだろう、と納得が出来た。本当は魔法やら不思議な力やらがある時点で全てに納得がいっていないと言えばいないのだが。
そして、裕之輔に戦ってもらわなくては困るというサティの事情にも合点がいった。
彼女の魂は、裕之輔が〈Betrayer's on The Bet Layer〉の最終勝利者にならない限り、決して解放されることがないのだ。もしこのゲームが永遠に繰り返すものなら、彼女の魂もまた永遠に囚われたまま。それは一体どれほどの地獄なのか。裕之輔には想像もつかない。
しかし。
「それは自業自得っていうんじゃないかな」
冷たい声で裕之輔はそう切り捨てた。
ベット・レイヤーで死んだ。それは即ち、〈Betrayer's on The Bet Layer〉に参加していたということに他ならない。つまりデーヴァの元になった彼ら彼女らには叶えたい望みがあって、他人を犠牲にしてまでそれを叶えようとした挙げ句に死んでしまった――そういうわけだ。
「要するにみんな、欲をかきすぎたってことでしょ? ある意味、当然の報いだと思うんだけど」
最初からカードを手放すか、そうでなくても命の危険を察知した時に所有権を手放していれば死ぬこともなかっただろうに。
「――っていうか、それは本当の話なの?」
今更のように裕之輔はそう確認した。我ながら情けないことに、感情が先に立ってしまったらしい。まずするべきは話の信憑性を問うことだった。
にっこりとサティが微笑んだ。裕之輔はその笑顔をひどく久しぶりに見たような気がした。
「デーヴァは主人に隠し事はでけても嘘はつけまへん」
寂しげに見えた。というのはあくまで裕之輔の主観であって、事実ではないかもしれない。
その時、机の上に置いていた携帯電話が震えた。手に取って開いてみると、メールが届いていた。差出人は階下にいるはずの彩矢音で、用件は『夕食が出来たから降りてきて』という内容だった。
パチリ、と裕之輔は携帯電話を閉じて、話を切り上げにかかった。
「残念だけど、それじゃ僕が戦う理由にはならないよ、サティ。それにもし僕がカードを全部集めた所で、救えるのは君だけだしね。根本的解決にはならないよ」
裕之輔は机に携帯電話を置き直して、椅子から立ち上がる。
裕之輔は、あは、と笑う。
「――ありがとう、教えてくれて。それじゃ、ちょっとご飯食べてくるから。続きはまた後にしよう」
「へえ、おはようおかえりやす」
柔和な笑顔のサティに見送られて、裕之輔はリビングに向かった。
「そう言わはると思っとりましたわ」
裕之輔のいなくなった部屋で、サティは一人、そう呟いた。
そう、彼の反応は想定の範囲内だった。何故なら、
「妾とよく似た性格してはりますから、ヨア・マジェスティは」
先程までとは打って変わって、薄い笑みを口元に貼り付けただけのサティは、ガラス玉のような視線を勉強机へ流す。そこには、裕之輔が置いていった携帯電話があった。
「自業自得……」
その四文字熟語をサティは飴玉のように舌の上で転がした。
想い出も名前も、本来の姿形すら奪われた彼女にとって、これほど実感のない言葉もないだろう。かつてサティになる前の彼女は、確かに〈Betrayer's on The Bet Layer〉に何らかの奇跡を求めたのだろう。しかし今の彼女はそんなことすら覚えていない。今があるからそうだったのだろう、という予測しか持っていないのだ。
今、彼女の内にあるのは、解放されたい、という欲求だけだった。本来の記憶、名前、姿形を取り戻して、この永久地獄から解放されること。それだけが、それのみが彼女の希望。
そんな彼女の視線の先には、携帯電話がある。
携帯電話が、あったのだ。
電話が鳴った。
照明を落とした真っ暗な部屋に軽快な電子音が響き、チカチカと赤いランプが点滅する。
鬱陶しい。麟華はそう思う。
どうせ祖父母か、どこで電話番号を聞いたのか麟華をデートに誘おうとする男子生徒かのどちらかだろう。
嫌だな。今は誰とも話したくない気分なのに。
着信音が途切れない。
うるさい。ぱっと出てぱっと切ってしまえ。その後電源を落としてしまえば、それで静かになる。
そう思ってベッドから身を起こし、携帯電話を手に取った。
ディスプレイに『神楽御坂 裕之輔』という七文字が表示されていた。
一瞬、意味がわからなかった。
「――!?」
遅れて驚く。麟華は直刀を喉元に突き付けられた時よりメチャクチャに焦って混乱した。
いや、落ち着け。確かに番号とアドレスは交換してあった。転校してきてすぐ、何も知らない美里菜が『仲良くやろうぜ!』と申し出てきたのだ。裕之輔はそれに巻き込まれる形で麟華と個人情報をやりとりした。それだけだ。
しかし、まさか本当に電話をかけてくることがあるとは夢にも思わなかった。
電話に出たら爆発するんじゃないだろうか。半ば本気でそう思ってしまい、麟華はなかなか動けなかった。
だが着信音が途切れて留守録モードに入った瞬間、麟華は意を決した。ボタンを押して、電話を耳に当てる。
「も、もしもし……?」
『おばんどす』
女の声だった。しかも聞き覚えがあった。まさかそんな、と麟華は現実を否定しかけた。しかし否定しても意味がないため、無理矢理に事実は事実として呑む込む。
「……驚いたわね。デーヴァが電話するなんて」
『てんごいわはったらあきまへんえ。デーヴァでもこれぐらいできします』
ドゥルガサティーだった。麟華の脳裏に、白雪のような髪と葡萄のごとき瞳を持つ少女の顔が思い浮かぶ。
「一体何の用? というか、どういう悪戯? 神楽御坂君は何を考えているのかしら?」
『ヨア・マジェスティはこの事を知りまへん。妾の独断どす』
「……は?」
どういうつもりだ? 麟華の本能が警鐘を鳴らす。サティの、ひいては裕之輔の狙いが読めない。どこまでが本当でどこからが嘘なのか、さっぱりわからない。否、全て嘘かもしれない。それとも、全て本当なのだろうか?
『警戒される気持ちはわかりますえ? せやけど、ちょっと話を聞いておくれやす』
麟華が決断しかねて黙っていると、サティはそのまま勝手に喋り出した。
麟華は無言で耳を澄ます。
やがて、最初は訝しげに細められていた麟華の瞳が、徐々に見開かれていく。サティの話と提案は、驚愕に値した。
「……ちょっと待って」
あらかた話を聞き終える段になって、思わず麟華はそう遮ってしまった。何と言えばいい? 何を言えばいい?
「……それは、あなた――……本気、なの……?」
独創性の欠片もない言葉しか出てこなかった。思考が動揺して落ち着きを無くしていた。すぐには信じられないという気持ちと、出来れば信用したいという気持ちが麟華の中で複雑に絡み合っていた。
『本気も本気。そうでもなかったら、こんな電話しやしまへん』
最初からこれまで、まるでトーンの変わらないサティの声。聞きようによっては、覚悟を決めた声に聞こえないこともない。
(――キューリアス、彼女の言ったことは……本当なの? 例えば、あなたが元は人間で、ヴェトレイヤーだった、なんて……)
(……残念ながら本当だぜ、ハニィ。出来ればこんなダサいことは言いたくなかったんだがな……)
頭の中に響く自嘲めいたキューリアスの声が、何よりも雄弁にそれが真実であることを示していた。
『どないされます?』
返事を催促するサティの声。それが麟華の心を揺さぶる。
麟華は考える。もうヴェトレイヤーの数は残り少ない。このバトルロワイヤルも終わりの時がすぐそこまで近寄ってきている。そのことに関しては麟華もキューリアスも異存はない。
だからこそサティの提案が罠である可能性は否定できない。充分に考えられることだ。しかし、【この提案】をどう罠に使うというのか? それが麟華には読めない。
いや、もう考えるのはよそう。余計なことを考えるから自分の甘い部分が表に出てくるのだ。むしろ、望む所ではないか。ようやく願いが叶う一歩手前まできているのだ。のってしまえばいい。もし罠だったとしても、それごと食い破ればいい。それぐらい出来なくては、自分はいつまで経っても甘ちゃんのままだ。
「――のるわ」
悪魔の契約書にサインする瞬間とは、まさに今のような時を指すのだろう。麟華は言った瞬間、背筋に悪寒が走るのを感じた。
電話の向こうで、相手が笑う気配。
『おおきに。あんじょうおきばりやす』
その一言を残して、電話は切れた。ツー、ツーという無機質な音が耳朶をつつく。
携帯電話の画面を見つめて、麟華は早鐘を打つ心臓をなだめすかしながら、やけくそな笑みを浮かべた。
賽は投げられた。もう取り返しはつかない。今より事態は動き出す。もうどんな言い訳だって出来はしない。自分はこれから、人としてやってはならないことをする。そう、ハルナが足を踏み入れた、あの【領域】に踏み込むのだ。
今度こそ覚悟を決めろ――麟華は自らにそう言い聞かせた。
そうとなればふて寝などしている場合ではない。麟華もまた、やるべきことをやらなければ。思い立ち、麟華は携帯電話のボタンを操作する。
最近登録されたばかりの新しい番号の一つに、彼女は電話をかける。
こうして状況は動き出した。
一気呵成に。
疾風怒濤のごとく。