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変なカードを拾ったらデスゲームに巻き込まれた~Betrayer's on The Bet Layer~  作者: 国広 仙戯


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6. y - 優しさと誠実さと人を殺す覚悟







 山草誠司のここ最近の趣味は殺人である。


 名は体を表す、などと言うが、そんなものは嘘だ。


 少なくとも誠司はそう信じている。


 何故ならば、自分こそがそうだからだ。


 そう。全くもって本当に。自分の一体どこを探れば『誠』などという言葉が出てくるのか。


 自分にこのような名前をつけた奴は稀代の馬鹿である。一体何を期待していたのかは知らないが、そいつは確実に自分自身の資質や才覚を誤認していたに違いない。ゴミのような人間からは所詮、ゴミのような人間しか生まれないというのに。


 そうだ。生まれたての赤子を捨てるような人間が、その子供に『誠』の一文字を与えるなど、思い違いも甚だしいのだ。


「アラハバキ」


「イエス・サー」


 デーヴァの名を呼ぶと、女性的な響きを持つ声が恬淡に応答した。


 街の中心部。幹線道路のど真ん中。空も街も地面も、人も車もバイクも全てが無彩色の世界、ベット・レイヤー。


 時間と空間が凍り付いた場所で、着崩したネイビーのモードスーツ姿の誠司は、口元に酷薄な笑みを浮かべていた。


 彼の眼前には、傷つき倒れた五体不満足な女が一人。


 他ならぬ誠司自身が彼女の腕をもぎ、足を潰した。


「遊ぶぞぉ」


「ラジャー」


 彼の使役する黒い蛇型デーヴァは、主の短い声からその意図を正確にくみ取る。アラハバキと呼ばれたデーヴァは己が主の意思が示すとおり、倒れている若い女に近づき、その足の甲に鋭利な牙を突き立てた。


「あうっ!」


 両腕を根本から切り飛ばされ、足の骨を粉々にされてなお女は生きていて、その肉体はささいな苦痛を忘れることはなかった。


 彼女のすぐ傍には、赤黒い何かが転がっていた。元はデーヴァであったろう残骸である。原形が何であったのかすらわからないほど、ぐちゃぐちゃになっていた。女以外にあるのはそれだけで、彼女の両腕はどうやらここにはないようだった。


 ピンクのシャツとスキニージーンズという格好の大学生らしき女が、息も絶え絶えに懇願する。


「ゆ……る、して……もう、カー、ドを……渡す、からっ……」


 わずかに動くだけでも激痛が走る身体に鞭打った、涙ながらの訴えだった。


 不幸な彼女は知らない。それが全くの逆効果であることを。


 誠司の笑みがさらに深く、濃くなっていく。


 次の瞬間だ。女が突然、身体を激しく震わせたのは。


「……あっ……!? ああ、ああああああああっ!?」


 瘧のように全身を痙攣させる。その結果生まれる激痛が更なる震えを呼ぶ。


 先程アラハバキの牙から注入された特性の毒が、彼女の痛覚を数倍に引き上げたのだ。


 痛みの余りに悲鳴を上げ、それがまた身体をよじらせ、新たな激痛を呼ぶ。苦痛が連鎖する悪循環。


 泣き叫ぶ女を楽しそうに眺めながら、誠司はジャケットの懐から煙草を取りだし咥えると、胸ポケットから出したターボライターで火を点ける。勢いよく息を吸い込むと、ぷうっ、と煙を吐き出す。ご満悦の表情だ。


 煙草を咥えたまま女に近寄り、地面に両手と膝を突いて覆い被さる。そのわずかな震動だけでも痛みを感じるのか、女の悲鳴が一オクターブ上がった。誠司の唇の端も吊り上がる。


 苦痛に歪む女の顔を見つめながら、誠司はまだ点火したままのターボライターを無造作に押し付けた。向かって右の、腕をなくした付け根に。


 絶叫が迸る。


「んふっ、落ち着けよ、止血処理だぜ? おっと」


 傷口を炙られる苦しみに女の身体がどうしようもなく跳ねる。それ故に誠司の手元が狂い、火が女の服を焼き焦がした。肉を焦がす香ばしい匂いに、化学繊維が燃える不快な悪臭が混じった。


「うっぜぇな。おい、アラハバキ」


「イエス・サー」


 光を吸収するマットな質感の鱗が全身を覆う蛇は、全長が異様なほど長い。のたくっているために正確な長さは杳として知れないが、少なくとも十メートルは下らないだろう。太さは子供の腰ほどあるだろうか。アラハバキはその長大な身を、電気ショックを受けているかのごとく跳ね回る女の全身に絡みつかせ、動きを封じにかかった。その刺激でまた女は苦しみ、呻きが溢れる。


「んふっ、上出来だぁ」


 誠司は煙草を右手の指に挟み、ふーっ、と煙を女の顔に吹き付けた。すると女が咳き込み、さらなる苦痛を呼び起こす。


 誠司が顔を近づけ、女の頬に、それこそ蛇のように長い舌を這わせた。それによってさも女自身が楽器であるかのように、絶叫の音階が変化する。


 ますます誠司の喜色が強くなっていく。彼は生粋のサディストだった。


 またもターボライターの炎が閃き、女の傷口を焼いた。もう悲鳴も上がらない。動きを完全に封じられた女は目を見開き、歯を食いしばり、喉と身体を限界まで反らせて悶えた。


 ふと誠司の片膝に濡れそぼった感触が生まれた。見ると、女の足の間に置いた膝が水溜まりに浸っていた。女が失禁したのだ。


 誠司は慌てて飛び退く。


「あ、ちくしょう、何だよコルァっ! くそっぅざってぇなぁ!」


 女はもはや白目を剥いて小刻みな痙攣を繰り返すだけだった。アラハバキの毒の効果によって意識は飛んでいないはずだが、その心はもう壊れてしまっているのかもしれない。


 よく見ると、口元が微かに動いていた。


 どうやら声もなく、『たすけて』の四文字を繰り返し呟いているようだった。


 ぺっ、と誠司は唾を吐いた。


「馬鹿かよ、助かるわけねぇだろ! こいつぁゲームなんかじゃねぇ! 正真正銘の殺り合いだぞ! 死にたくなきゃ最初から参加してんじゃねえっつの!」


 腹立ち紛れに女の足を蹴っ飛ばす。足の骨がバラバラになっていた女の足は、薄い綿しか詰まっていない人形の足のように変な角度に曲がってしまった。ビクン、と女の身体が機械的に跳ねる。


「ったくよー」


 すっかり興が冷めてしまった。誠司はジャケットのポケットから取りだしたハンカチで膝を拭きながら、煙草を吹かす。


「おい、アラハバキ。もうこいつぶっ殺すぞ」


「ラジャー」


 女に絡みついていたアラハバキがその身をほどき、俊敏な動きで今度は誠司の身体に巻き付いた。この漆黒の蛇の特殊能力は、体内で様々な毒や薬といった化学物質を合成し吐瀉することだが、それだけが全てではない。


 〈Betrayer's on The Bet Layer〉のルールには〈シンパシィ〉というものがある。同情、共感を意味するこの言葉が示すのは、即ちヴェトレイヤーとデーヴァとの親和性だ。ヴェトレイヤーはもちろん、デーヴァにも性格というものがある。その互いの相性が悪いと当然シンパシィも低く、その結果、デーヴァは能力を十全に発揮できなくなってしまうのだ。


 逆に言えばシンパシィが高い場合、デーヴァは本来以上の性能を発揮し、時には新しい能力を開花させることがある。


 山草誠司とアラハバキがまさにそれだった。


 アラハバキは口数が少なく、ヴェトレイヤーの命令にも従順だが、それが単に不器用なだけであることを誠司は知っている。


 それこそ口には出さないが、アラハバキも相当に残酷な性根を持っているのだ。何故なら、アラハバキは決して誠司のすることに文句をつけない。その上、『アラハバキ』と名前を呼んだだけで、時に誠司が思っていた以上のことを行う場合がままある。つまりこの蛇の中には、誠司よりもどす黒い何かが詰まっているのだ。


 今だってそうだ。女を殺すと言った瞬間、すぐに誠司の元へ来た。見たか、あの素早さ。これからの行為に心躍らせているようにしか見えないだろう。


 嗜好が一致するという点で、誠司とアラハバキのシンパシィは非常に高い水準を維持していた。


 その結果、アラハバキに備わった新しい力。それが超振動発生能力である。


 アラハバキが誠司の身体をするすると這いずり、最終的に尻尾を先端として右腕全体にロープのように巻き付いた。


 ふーっ、と煙草を咥えた誠司の口元から、盛大に煙が吐き出された。


 瞬間、誠司の右腕が振り上げられ、振り下ろされた。


 アラハバキの蛇身がその太さにも関わらず、まるで鞭のようにしなった。重量を全く感じさせない速度で。


 長大すぎる鞭が風を切る。膨らませた紙袋を破裂させたような音が響いた。


 刹那、鞭笞の一撃を受けた女の身体が、縦に真っ二つに切り裂かれて宙に浮いた。本来なら足元のアスファルトも砕け散り、土煙が立ったのだろうが、ベット・レイヤーではそのような現象は起こり得ない――はずだった。


 超振動発生能力による絶大なる威力は、絶対的だと思われていたベット・レイヤーに亀裂を入れた。砕け散ることはなかったが、アスファルトにほんの僅かな罅が生じた。だが次の瞬間、ベット・レイヤーそのものから修正が入り、瞬時に罅は消えてなくなる。


 原則的に――この原則を覆す能力を持つデーヴァがいない限り――ベット・レイヤーは時間が止まる前の状態を必ず維持しようとする。元からして非常に頑丈な空間ではあるが、それにも限界がある。今のように高威力の攻撃を受けると、傷つくこともあるのだ。そのためかベット・レイヤーでは、ヴェトレイヤーとデーヴァ以外の存在が傷つき破損した場合は、瞬時に修復の手が入り、元に戻るようになっている。そうすることによって現実空間への影響を限りなくゼロにしているのだ。


 誠司の右腕が、超振動の力が宿った鞭が、連続で振るわれる。


 複雑な軌道をもって暴れ回る蛇身が、女の身体のみならず周囲の建物、車、バイクなどをしたたかに打ち回す。弾け飛び、切り裂かれ、血肉が飛び散るのは女の身だけだった。その他は罅や亀裂が入る都度、すぐさまベット・レイヤーの修復力によって元に戻った。


 まるで全方位から射撃を受けているかのように飛び跳ねていた女――否、肉塊は、ほんの数秒でピンクと赤と白の挽肉に変わっていた。


 もはや元が人であったのか豚であったのかも判別できない姿に変わった頃、鞭撃の嵐が止んだ。


 誠司は女の尿で湿ったスラックスの膝部分をつまみ上げ、


「あーくそっ、いくらベット・レイヤーが解けたら元に戻るつっても本気で苛つくぜ。せっかく良い気分だったのによぉ」


 煙を吐きながらそう毒づく。その視線の先で、鮮血に彩られていた骨の欠片を孕む挽肉が、不意に色を失った。そのすぐ傍で赤黒い塊と化していた女のデーヴァがぐにゃりと歪んで見えたかと思うと、そのまま黒地に金模様のカードへ変化した。ヴェトレイヤーとデーヴァの間を結んでいたシンパシィが、女の死によって消失したのだ。


 肉や骨、衣服など女を構成していたものが色を失った後、大気に溶けるようにして消滅していく。ここではないどこかで肉体と命が再生され、ベット・レイヤーが解けた後、再び何らかの理由で死ぬのだ。いつ襲ってくるかわからない死の恐怖に怯えながら。


 誠司は出来ればその姿を見てやりたいと思うが、それはできない。これまで何度かヴェトレイヤーを殺して、その後の姿を見てやろうとしたが、どうしても相手が見つからないのだ。どうやらこの近くではなく、やけに遠い場所に送られてしまっているらしい。


「アラハバキ、喰え」


「ラジャー」


 漆黒の蛇が疾風のごとく動いた。滑るようにカードの元へ移動すると、しゃかっと口を開いて赤い舌をチロチロさせる。そして、そのまま一息にカードを飲み込んだ。


「よし、戻れ」


「ラジャー」


 カードを体内に取り込んだアラハバキの蛇身が立体映像よろしく歪んだ。うねり、変形しながら、誠司の手元でカードの姿に収束していく。


 誠司のカードの表面には、黄緑色の蛍光色で『25』という文字が、独特のフォントで刻まれている。


「これで二十五枚目か。ようやく四分の一ってところだな」


 この街に来てから十人ほど狩ったが、どいつもこいつも一枚か二枚しか持っていない雑魚共ばかりだった。


「十枚とか二十枚とか、もっとデカブツはいねぇのかよ? ったく、面倒くせぇ」


 誠司は煙草を口元からはずし、空に向かって勢いよく紫煙を吐く。実際に忌々しげに歪められていた口元が、不意に緩んだ。


 考えが変わったのだ。


「いや、面倒くせぇが……まだまだ楽しめるって考えりゃ、お得だよな。なぁ、アラハバキ?」


(イエス・サー)


 頭の中に無表情なアラハバキの声が響く。しかし誠司には、心なしかその声が弾んでいるように聞こえた。


「決着の刻だかなんだか知んねぇが、いいタイミングで来てくれるぜ、全く」


 ずっと殺したいと思っていた。誰かを、ではない。自分を産み落とした両親を、だ。


 他人なんか十六の時にとっくに殺している。思い出してみれば、あのどうしようもない殺人衝動は、本当なら実の両親に向けるべきものだったのでは、と思えないでもない。


 カードを百枚集めれば、どこにいるのかわからない両親を殺すことが出来る。もう既にこの世にいないのだとしたら、生き返らせてでもこの手で殺してやる。


 誠司にとって〈Betrayer's on The Bet Layer〉は最高のゲームだった。警察に逮捕される恐れもなく、他人を傷つけ殺すことが出来る。自分ではない誰かが傷つき、苦しみ、悲しみ、そして死んでいく過程は彼にとって大いなる悦楽だった。しかもその果てには、どんな願いをも叶えてくれるという豪華特典付きだ。これほど誠司の本性にあったゲームがかつて存在しただろうか。


 これは天啓だ、と誠司は思う。


 この不幸と不運と不満しかなかった二十三年間の人生において、初めて天が自分に味方したのだ。


「よお、見てるか? 天にまします我らが父ちゃんよ」


 右腕を頭上に伸ばし、煙草の先端を灰色の空に向け、誠司は呟く。


「感謝するぜ。こいつぁ最高のゲームだ。あんたもたまには粋なことするじゃねぇか」


 腕を下ろし、しかし空を見上げたまま、誠司は煙草を吸う。


 んふっ、と彼は笑いと煙と言葉をまとめて空へ解き放った。


「アラハバキ」


(イエス・サー)


「殺すぞ。殺して殺して殺し尽くすぞ。そんで願いを叶えてまた殺す。そうすりゃお前も嬉しいだろ?」


(イエス・サー)


 珍しく力の入ったアラハバキの返事に、誠司はまた、んふっ、と笑った。


 空から視線をはずし、誠司は左手に握ったカードを眼前に持ってくる。唇を近づけ、ちゅっ、とついばむようなキスをした。


「どうか神のご加護があらんことを、ってか」




 ●




 ある深夜のことだった。


 片桐市の南部に鎮座する聖富山。その中腹よりやや下の位置。


 木々しかないはずのそこから、突如として強い光が生じた。


 ほんの一瞬のことだった。


 眩い輝きが闇を切り裂き、天へと飛翔した。


 その瞬間、宵闇のベールが剥ぎ取られ、その周辺だけがまるで昼になったかのように明るく浮かび上がった。


 が、それもつかの間のこと。


 光の余韻があっさり消え、再び夜の帳が地上を包み込んだ、その時。


 鳴動。


 山の影が形を変えた。


 光が発生した箇所を始点として、そこから山裾までに生えていた木々が一斉に倒れ始めたのだ。


 空から見下ろせば、倒れていく木々の範囲は扇形。


 まるで長大な刃によって薙ぎ払われたかのごとく。


 地鳴りを響かせて、ドミノ倒しのように大量の樹木が倒れていく。


 圧倒的な質量の倒壊によって地震が生じ、一時、麓に住む人々が目を覚まして大きな騒ぎとなった。後日判明することだが、幸いなことにこの大量の倒木に巻き込まれた者は一人もいなかったという。




 ここに、雪崩のような木々の倒壊を見下ろす一対の瞳がある。


 その者は、片手に一振りの剣を握っていた。


 立つ位置は、まさに眩い輝きが生まれたその場所。


 その者が持つ剣には奇妙なところがあった。それは全長一メートルほどの両刃の長剣であったが、刀身の中ほどが大きく欠けているのだ。刃こぼれとは最早呼べまい。両刃であるため片刃を使えば切るのに支障はないだろうが、強度のことを考えれば放置していてはいけない欠落だった。


 欠けた剣は淡く燐光をまとっていた。先程、山の中腹から飛翔した光と同質のものである。


 そう。かの剣こそが夜を照らし、木々を扇状に切り払ったのだ。


 光の刃をもって。


 超常の力を用いて異常事態を引き起こした剣の主は、不意に辺りを見回すと、まずいな、と一言呟いた。


 おもむろに足を上げ、移動を始める。


 速い。


 剣の放つ燐光が彗星の尾のような残像を残し、素晴らしい速度で森の奥へと消えていく。


 やがて朧気な光すら闇の中に溶けていった。


 残ったのは、辺り一面、一斉に切り倒された木々のみ。


 後の調査にて、この事象の原因は『不明』とされる。


 それもそのはず。


 この時の目撃者は、青白く輝く天空の月だけだったのだから。




 ●




 麟華が転校してきて一週間が経過した。


 正直、裕之輔は少々うんざりしていた。


 彼女はあれから、一日に一度は昼休みに〈Betrayer's on The Bet Layer〉を仕掛けてくるのだ。


「さあ、今日こそ戦ってもらうわよ!」


 時空が完全停止し、一切の色彩が失われた世界の中、キビキビとした動作と口調で彼女は裕之輔に宣戦布告する。


「嫌だよ」


「しつこい女は嫌われますえ」


「あーダルい」


 溜息混じりに拒否する裕之輔と、しれっと辛口コメントを呟くサティに続き、キューリアスまでぼやく始末である。麟華は顔を真っ赤にして相棒を怒鳴りつける。


「キューリアスッッ!」


「あー……ハニィ? 今日でこれ何度目だ?」


 六度目である。日曜日にたまたま街中でばったり出会ってしまった時にも襲いかかられたのだ。


「僕は戦わないよ、って最初に言ったはずだけど、もしかして覚えてないのかな?」


 裕之輔はストロベリーキャンディを口の中に放り込む。ちょうど校舎の屋上で昼食をとろうと、彩矢音が届けてくれた弁当の包みを開けようとした瞬間だったのだ。麟華がベット・レイヤーを展開させたのは。裕之輔は腹が減っていた。


「覚えているわよっ! 人を馬鹿にするのもいい加減にしなさいっ!」


 すぐ傍では無彩色に固まってしまった美里菜もいる。今日も首元のストールがトレードマークの彼女は既に自分の弁当を広げていて、今まさに卵焼きを頬張ろうと大口を開いているところだった。非常に間抜けな一瞬である。狙い澄ましたかのようなタイミングに思わず吹き出してしまう。


 裕之輔は、あはは、と笑うと、麟華に向かって、


「涼風さん、グッジョブ」


 親指をぐっと立てた。


「グッジョブじゃないっ!」


「そんなに怒鳴ってはると血圧高うなりますえ」


 召喚されてすぐ裕之輔の隣に腰を下ろしていたサティが、あらぬ方向を見て涼しい声で呟く。どうやらこのデーヴァは、意地の悪さにかけては主人と五十歩百歩らしい。


 麟華が顔を茹で蛸のようにして、ぎゃあぎゃあと喚く。


「もういい加減にしなさいよっ! あなたどうして戦わないのっ!? ヴェトレイヤーなんでしょ!? 嫌なら嫌でカードを渡せばいいじゃないのっ!」




 襲撃開始一日目の事である。


 昼休み終了間際にベット・レイヤーを展開させて戦いを挑んできた麟華に、裕之輔はこう言い放ったのだ。


「嫌だ。僕は戦ったりなんかしないよ」


 と。


 逃げるつもりならばそうはさせない、と意気込んだ麟華だったが、裕之輔はそんな彼女の予想の遙か上をいく行動に出た。


 そもそも逃亡対策のつもりか、教室が閉め切られた状態でベット・レイヤーを展開されたのだ。逃げ場所など最初からあるはずもない。


 だから逃げなかった。


 ただ、壁を背にしてサティに盾になってもらったのだ。前方、上、左右を覆う、巨大な盾に。


 麟華の驚きの声はそれはもう耳に心地よかったものだ、と裕之輔は思い出す。壁と床とドゥルガーの盾でつくった即席の箱に引き籠もった裕之輔は、麟華の冷静さが瓦解していく様子を音声だけで聞いていた。


 キューリアスの特殊能力は治癒能力だった。他にも何かを隠しているのかもしれないが、麟華自身があれだけの武装をしているのだ。攻撃的な能力はないものと見ていいだろう。


 ならば防御を固めてしまえば、それだけで麟華はもう手も足も出なくなる。そして裕之輔の主義も貫ける。防御を完璧にして、こちらから攻撃しなければ、それはもう戦いにはならないのだから。


 裕之輔の方針は『戦わないこと』であって、逃げることでも隠れることでもない。麟華を傷つけることがなく、自分も傷つくことがなければ、方法は何だって構わないのだ。無論、逃げられるものなら逃げていただろうが。


 箱の外で麟華が色々と喚いていたが、裕之輔はそれらを全て無視した。


 悪あがきで麟華がドゥルガーの盾を殴ったり蹴ったりしている音がしばらく響いていたが、やがて諦めたのかキューリアスからベット・レイヤーの解除同意要求がサティに届き、その日の襲撃は終了した。




 その後も手を替え品を替え、麟華は裕之輔に戦うことを要求してきた。


 襲撃三日目など、何を思ったか菓子折を一つ持ってきて、


「これを受け取る代わりに私と戦いなさい」


 ときたものだ。勿論、鄭重にお返ししたのは言うまでもない。


 説得された日もあった。


「どうして? どうしてあなたは私と戦わないの? 良ければ理由を聞かせてもらえないかしら?」


 と言われたので、


「良くないから話さない」


 と答えたら全身全霊の込められた投げナイフが飛んできた。


 またもドゥルガーの箱に籠もって、


「良ければ、って言ったじゃないか」


 と抗議すると、


「言葉の綾よ! このバカ――――――――ッッ!」


 思いっきり怒られた。


 奇襲を受けた日もあった。


 裕之輔が廊下を歩いているとき、出し抜けにうなじのあたりに殺気を感じたので振り返ると、麟華が特殊警棒を振りかぶっていた。それと同時に、キン、というベット・レイヤーの展開するときの金属音が耳に入ったのである。


「うわ、吃驚した」


「~っ! どうして今のが避けられるのよ!?」


「うーん……こう見えてもそれなりに鍛えているから、かな?」


 美里菜の両親が経営している武術道場に週一で通っている裕之輔だった。




「そんなこんなで今日で六回目だよ、涼風さん。いい加減飽きてこないかな? 僕はもう飽きちゃったんだけど」


 よくもまぁへこたれないものだ、と当事者ながらに裕之輔は思う。その根性だけは見上げたものだが、付き合わされる身としては俯くしか他ない。


「飽きる飽きないの問題じゃないわよっ! 全くもう、あなたという人は本当にわからないわ……ね……」


 大声で怒鳴っていた麟華の語尾が、急に窄まった。


「? どうしたの?」


 あまりにも急激な変化だったため、裕之輔はつい小首を傾げて聞いてしまう。


 しかし麟華はそれには答えず、視線を逸らすと難しい顔をして黙り込んでしまった。仕方ないので裕之輔は座り込んだレジャーシートの上から宙空に視線を向け、キューリアスに話しかける。


「そういえばサティから聞いたんだけど、最近この街じゃヴェトレイヤーの戦いが活発らしいね?」


「ああ、坊主も聞いたのか。『決着の刻』のことだろう?」


 フェンスの上に舞い降りた純白の大鷲から、シニカルな声が降ってくる。


「どうにも勢いのある奴がいるらしくてな。次々とヴェトレイヤーが狩られていっているらしい。ダルいのによくやるぜ」


「そんなにすごいんだ?」


「一日に二人はカードを奪われているようどすえ、ヨア・マジェスティ」


 先程までの冷たさすら感じさせる涼しげな顔はどこへ行ったのか、にっこりと笑ったサティが裕之輔の質問に答えてくれた。


 裕之輔は、あは、と笑う。


「すごいね。それだったら遅くても二ヶ月はかからずにゲームクリアだ」


 別段、言葉ほどには驚歎していなかった。裕之輔自身が〈Betrayer's on The Bet Layer〉に対してさほどの価値を感じていないからだろう。本音を言えば、このようなものは消えてしまえばいいとさえ、裕之輔は思っていた。


「でも不思議だね。『決着の刻』って。どうしてそんな偶然が起こるのかな?」


「それは妾らデーヴァにもわかれへん事どす。ただまぁ」


「このクソッタレなゲームはそういう風に出来ている、としか言いようがねえな」


「おキュウリはん、妾の台詞を取らいでおくれやす」


 途中から語を継いだキューリアスに、サティは拗ねたように頬を膨らませた。


「……そういえば、神楽御坂君。あなた結局、瑠璃室さんからカードは譲ってもらえたのかしら?」


 ちょうど今思い出したかのように、麟華からそんな質問が飛んできた。忘れていたはずはないだろう、と裕之輔は思う。もし裕之輔がカードを譲ってもらっていたなら、麟華は二枚を同時に入手するチャンスを得る。それを意識していなかったはずがない。嘘をつくのが下手だなぁ、と微笑ましく思いながら裕之輔は首を振った。


 横に。


「――どうして? あなた、ヴェトレイヤーズの説明はしてないのよね?」


 どうやら麟華にとっても意外な答えだったらしい。彼女は軽く目を瞬かせた。それはそうだろう。正直、裕之輔にも予想外のことだったのだから。


「うん、説明はしていないんだけど、ね」


 裕之輔は口の中の飴玉を舌で転がしながら、珍しく言葉を濁した。


 裕之輔とて、美里菜が拾ったカードなんぞに拘泥するとはこれっぽっちも思っていなかったし、〈Betrayer's on The Bet Layer〉の存在を教えた所で、彼女があんなものに自らの願いを託すわけがないとそう考えていた。だからゲームの説明はしなかったし、麟華とのことも話さなかった。


 しかし、カードを譲って欲しいと願い出た翌日のことだ。


『わりぃ、なくしちまった』


 と、ばつが悪そうな笑みと共に両手を合わせて、美里菜が裕之輔に謝罪してきたのだ。


 言葉もなかった。まさかそうくるとは想像だにしていなかったのだ。


 しかも、ああやって素直に謝罪されてしまっては、裕之輔としても文句のつけようがない。


 それに裕之輔は、美里菜がこんなふざけたゲームに巻き込まれるのを黙って見ていられなかったからこそ、カードを譲って欲しいと願い出たのであって、無くしてしまったのであればそれはそれで問題はなかったのだ。何故なら、


「そうよね。ヴェトレイヤーズの事を知っていたら、カードを持たずに行動するわけがないもの」


 麟華の言うとおりだった。


 〈Betrayer's on The Bet Layer〉では、カードの所有権を有し、実際に所持している者のみがヴェトレイヤーとして認められる。そのため、カードを携帯していない者は例え所有権を有していても、ちょうど今の美里菜のようにベット・レイヤー内で動くことは叶わないのである。


 つまり現時点では美里菜は正式なヴェトレイヤーではない。その上、カードを無くしたのであれば、もはや彼女がヴェトレイヤーになることは有り得ない。


 この事はサティにその日の内に確認済みである。


『ねぇサティ、カードの持ち主がずっとそれを使わないでいたら、どうなるのかな?』


『厳密な期間は決まっておりまへんけど、持ち主はんに使用の意思があれへんと判断されたら、自動的に次の持ち主はんのところへ転送しゃはります』


 つまり然るべき期間が過ぎれば、自然と美里菜は〈Betrayer's on The Bet Layer〉とは完全に無関係になるのだ。


 ――けどこれ、涼風さんが知ったらメチャクチャ怒るんだろうなぁ……


 ぼんやりとそう思う。それが嫌だとか恐ろしいというわけではなく、単純に面倒くさいと裕之輔は感じたのだ。


 裕之輔が黙っていると、麟華はそれをどう受け取ったのか、


「……まさか、あなた説明する気じゃないでしょうね?」


 といって声に怒気を滲ませた。


 滅相もない、というのが裕之輔の本音である。


「それこそ、まさか、だよ。こんな馬鹿げたことに美里菜ちゃんを巻き込むわけにはいかないよ」


「…………」


 明確に否定したというのに、麟華の全身から迸る怒気が明らかに強くなった。それだけで人を射殺しそうな目で睨まれてしまう。


 裕之輔は、あは、と笑った。


「ま、今も交渉中、ってところかな。その内なんとかなるよ、うん」


 適当な嘘で誤魔化してしまえばいい。裕之輔はそう判断した。必要なのは麟華に真実を伝えることではなく、美里菜がカードの持ち主でなくなるまでの時間なのだから。


 それまでずっと腕を組んで立っていた麟華が、不意に動いた。足を進め、裕之輔とサティが腰を下ろしているレジャーシートに歩み寄る。


「いいよ、サティ」


 咄嗟にサティが腰を浮かせるのを、裕之輔は言葉だけで制した。近付いてくる麟華からは特に殺気を感じない。キューリアスも動く気配はなさそうだった。


 中途半端な距離で、麟華が足を止めた。特殊警棒を取りだして目一杯身体を伸ばしても、一撃が届くか否かという絶妙な距離だった。裕之輔は内心で計算する。この距離なら、麟華が動いてからでもドゥルガーの盾を手元に呼び寄せることが可能だ、と。


 腕を組んだまま、少女は冷然とこちらを見下ろし、こう告げた。


「なんなら私が瑠璃室さんと交渉しましょうか? すぐにカードを譲ってもらえる自信があるのだけど」


 瞬間的に裕之輔の脳裏によぎったのは、高空で脅迫された時のことだった。


「ダメだよ」


 故に間髪入れずにそう答えていた。あのような脅しを美里菜に対してさせるわけにはいかない。そんな思いが、我知らず声の硬さに出ていた。


 裕之輔の反対は想定の範囲内だったのだろう。麟華は当然のように頷き、小さく吐息すると、さらにこう言った。


「神楽御坂君、一つ聞きたいのだけれど。もし私が瑠璃室さんにヴェトレイヤーズのことを説明した後、殺してカードを奪うつもりだとしたら、あなた――」


 どうするかしら? などと最後まで言わせなかった。


 紫の輝きが一瞬で弾け、それが消えたときには裕之輔は立ち上がって剣の切っ先を麟華の喉元に突き付けていた。


「……っ!?」


「させないよ」


 一瞬遅れてから状況を把握して顔を引き攣らせた麟華に、裕之輔ははっきり言い放った。


 裕之輔の手に握られているのは、念話で命令したサティが変化した直刀だった。鏡のごとく磨き上げられた刀身に、紫水晶が埋め込まれた純白の柄、紅色の下げ緒と銀髪の飾り髪。八十センチの刃金は真っ直ぐ麟華の喉元へ伸びて、鋭い先端を数ミリ柔肌に食い込ませている。


「――おいおい坊主、冗談にしちゃあ出来が悪すぎるぜ? なぁハニィ?」


「僕は本気だよ」


 まぜっかえそうとしたキューリアスには目もくれず、裕之輔は低い声で言い切った。


「そんなことをするなら、僕は絶対に君たちを許さない」


 睨むわけでもなく、裕之輔は麟華を真っ直ぐ見据える。その言葉を真っ正面から受け止めざるを得なかった少女は、しばし表情を固くして息を呑んでいたが、やがて、


「……やってくれるわね。盾だけのふりして、本当は武器にも変化することが出来たという訳ね」


 ドゥルガーの事を目で指して麟華は言った。裕之輔にとっては今はそんなことはどうでもいい。


「涼風さん、約束して欲しい。美里菜ちゃんには手を出さない、って」


 その要求に対して返ってきたのは沈黙だった。麟華は数秒間、無言でドゥルガーを見つめると、今度は視線をまっすぐ裕之輔に合わせた。


「――脅迫するつもり?」


「そうだよ」


 麟華の揶揄に、裕之輔は率直に頷く。


 互いの声が底冷えしていく。


「あなたが脅迫に屈さなかったのに、私にはそうしろと?」


「うん」


 裕之輔は飾りもしない。ストロベリーキャンディを奥歯で音を立てて噛み潰し、


「何ならあの時の君と同じような台詞を言おうか? ――さもなければ君をこのまま刺し殺す、って」


 飴の欠片を歯で磨り潰す裕之輔を、麟華はドライアイスのような瞳で見つめていた。


 空気がゆっくり、しかし確実に張り詰めていく。


 頭上から圧迫感。キューリアスが己が主人の窮地を救おうと、虎視眈々と裕之輔に隙が出来るのを待っている気配がある。


 火花が散りそうな勢いで裕之輔と麟華の視線がぶつかり合い――やがて、麟華が大きく、はぁ、と息を吐いた。


 組んでいた両腕をほどき、両手を肩より上にあげる。


「降参よ。残念だけど、私はあなたほど馬鹿にはなれないわ」


 掌をひらひらさせて、麟華は心底呆れたような声で言った。


「じゃあ」


「約束するわ。瑠璃室さんには手を出さないと」


 さばさばと、少しやけっぱちな感じで言い捨てる麟華。


「ただし」


 裕之輔がドゥルガーを引こうとした瞬間、麟華は強い声で付け加えた。彼女は再び腕を組み、口元に笑みすら浮かべて、


「あくまで口約束よ。それでも良いと言うなら」


 試すような視線が、裕之輔の顔を突き刺した。


 だが。


「いいよ」


 と裕之輔はあっさり言って、すんなりドゥルガーを引いた。


「……は?」


 呆気にとられたのは麟華の方だった。信じられない、とその瞳が語っている。


 裕之輔は、あは、と笑って、


「信じるよ。涼風さんは真面目で誠実な人だから。でも、今みたいな意地悪はもう言わないでね? 僕は見ての通り小心者だから、つい過剰反応しちゃうんだ」


 ドゥルガーを右から左にさっと振ると、無彩色の世界に紫の輝きが一瞬だけ煌めいて、再び美しい銀髪の少女が現れる。


「さぁ、今日はもういいかな? そろそろお腹が限界なんだけど」


「……ちょっと待ちなさい。話はまだ終わってないわ」


 腹をさする振りをする裕之輔に、麟華が不機嫌な声をかける。少女は度し難い馬鹿を見るような目で裕之輔を睨め付けた。


「どうして簡単に私を信用するの? ただの口約束なのよ? 簡単に破ることだってできるのよ? それに」


 一拍の間。その短い時間に、麟華は頭の中で言葉を組み立てているようだった。


「それに私は、一度あなたを背後から襲ったことだってあるのよ? それなのに……どうして? 意味がわからないわ」


 うーん、と裕之輔は唸る。どう言えばいいものだろうか、と。


「おいおいハニィ。意味がわからないのはお前の方だぜ? 一体全体、何をどうしたいってんだ?」


「キューリアスは黙っていて」


 キューリアスの指摘通り、麟華の言動は矛盾している。それはどうやら、本人も承知しているようだ。脅迫されて美里菜には手を出さないと誓わされ、しかしそれを自ら口約束にしか過ぎないと指摘し、挙げ句にはそれをよしとした裕之輔に抗議じみた言葉を投げかけているのだ。通常ならば、正気を疑われても仕方がない所行である。


 そのため裕之輔は、自らが彼女を信用すると決めた理由をきっちり説明することにした。


「じゃあまず、後ろから襲ってきたって話だけど、涼風さんは僕がトイレで用を足しているときに襲ってきたりはしなかったでしょ?」


「……は?」


「奇襲っていうのは相手が心の底から油断しきっているときを狙うものだよ。ただ後ろから殴りかかっただけじゃ、それは甘過ぎると僕は思う。トイレやお風呂で襲ってこなかっただけ、涼風さんは誠実な人だと思うよ?」


 呆気にとられる麟華に、裕之輔はさらに語を次ぐ。


「それに、それ以外だといつも最初に宣言してから襲ってくるし、出来るだけ話し合いで片がつくならそうしようと努力していることも僕は知ってるよ」


 少しずつだが、裕之輔が言葉を重ねる毎に麟華の顔が青ざめていく。


 裕之輔は自分の左手を掲げて見せて、


「あと、初めてベット・レイヤーで僕にナイフを投げたとき、この手に刺さったのを見て、心配してくれたよね? もっと言うと、僕が空から落ちたときも何だかんだ言いながらも助けてくれた。そうそう、初めてサティを召喚したときも優しかったと僕は思うなぁ。あの時、十分間の余裕をもらえなかったら、サティの能力のこともわからないままあっさり殺されていたかもしれないし」


 何故だろう。自分は彼女のことを褒めているはずだ、と裕之輔は内心で首を傾げる。だというのに何故か彼女の表情からどんどん血の気が失せていき、もはや顔全体が蒼白になっていた。


 流石に見ていられなくなったのか、キューリアスが宙を滑って麟華に顔を寄せる。


「おいハニィ、大丈夫か? 顔色悪いぜ。ダルいなら休んだ方がいい」


「……わかっているわよ」


 気分が悪そうに口元を手でおさえた麟華は、心配するキューリアスにはつっけんどんな態度で答えて、なおも目線で裕之輔に先を促した。


 どうしてこんなにも急に、彼女の具合が悪そうになったのかが裕之輔にはわからない。自分の発言の何が彼女に悪影響を及ぼしているのかが判別できない。とはいえ、黙っていてはまた文句をつけられるかもしれないので、言えることは全て言おうと、裕之輔は口を開いた。


「……美里菜ちゃんを人質にとるって方法もあったよね? 今みたいに前もって宣言するんじゃなくて、あらかじめ人質にとってから僕にカードをよこせって迫ることも出来たと思うんだ。でも、涼風さんはそうしなかった」


 一息。涼風麟華という人間の誠実さを信頼する理由としては、もう充分だろう。裕之輔は話をまとめる。


「――以上が、僕が涼風さんを信用する理由かな? そんな涼風さんが美里菜ちゃんには手を出さないって約束してくれた。だから、僕はそれを信じるよ」


 あは、と笑う。


 途端、くるりと麟華が背を向けた。ふわり、と長い髪がマントのように翻る。


「そう、わかったわ」


 かすれた声で、それだけ。


 そんな短い言葉だけを残して、麟華は歩き出した。


 一瞬、裕之輔はその背中を呼び止めようと思った。しかし、彼女の常であるキビキビした歩調が、この時はヤマアラシのごとく他者を寄せ付けない雰囲気を発していた。


 キューリアスが滑空して麟華の後を追う。彼はチラリとこちらに一瞥を寄越したが、結局何も言わずに麟華と共に屋上から姿を消した。


「ほんに【いらち】なお人どすなぁ。どないしはったんどすやろ?」


 一人と一匹の後ろ姿を見送った後、サティが小首を傾げた。先程のやりとりの中で何が麟華の気に障ったのか、それは裕之輔にもわからない。


 ただ一つわかることは。


「とりあえず、今日の襲撃はこれでおしまい、ってことかな?」




 ●




 以前、藤久良多加弥に連れて行かれた、運動部の休憩場所。


 無彩色の中を歩いてここまでやって来た麟華は、立ち止まると、いきなり傍の自動販売機に猛然と拳を叩き付けた。


 キューリアスを召喚している今、麟華の身体能力は格段に強化されているが、時が停止している自販機の硬度も並ではない。案の定、拳が砕け、ぱっくり割れた傷口から鮮血が飛び散った。


 これにはキューリアスも目を見張った。


「ハニィ!? おい、何を」


「私はッ!」


 あらん限りの絶叫がキューリアスの声を叩きつぶす。


 ぎり、と歯ぎしりの音。


「どれだけ甘いっていうのよッ!」


 ――甘過ぎる。


 あの少年はそう言った。奇襲とは背後や盲点といった物理的な死角をつくのではなく、心の隙を突くものなのだ、と。


 全くその通りだ。


 衝動のままもう一度自販機を殴りつける。ぐしゃり、と更に拳がつぶれる。缶コーヒーのサンプルの姿が飛び散った血でよく見えなくなる。激痛が、今は不思議と気にならない。それほどはらわたが煮えくりかえっていた。


「情けないッ!」


 制御できずに膨張を続ける感情が、涙となって目から溢れ出た。


 暴走する感情のまま、何度も何度も拳を叩き付ける。


「何が優しいだッ! 何が誠実だッ! そんなものクソ喰らえだッ!」


 クソ喰らえだった、のに。


 自分はそうしていたのだ。敵である裕之輔から、優しいと。誠実だと。信頼に値すると。そう言われるような行動を、ずっととり続けてきたのだ。


 自覚もなしに。


 何もかもが裕之輔の言うとおりだった。


「私は一体何を覚悟していたのッ!? 何を決意していたのッ!? これじゃ全然ッ! 何もッ! 何も出来ていやしないじゃないッ!」


 拳を叩き付ける。拳を叩き付ける。拳を叩き付ける。


「リンカッッッ!! もうやめろっ!!」


「――っ!?」


 いつにないキューリアスの怒号に、びく、と麟華の身体が反応した。驚きに全身が硬直する。


「…………」


 流れる涙も拭いもせず、麟華はキューリアスに顔を向ける。


 キューリアスが、麟華を睨んでいた。


 怒っていた。


 このアルビノの大鷲が、麟華のデーヴァとして現れて以来、初めて怒っていた。


 キューリアスは鋭い視線を麟華の拳に移し、そっと嘴を開いた。輝く粒子が溢れ、風に乗って粉砕骨折しているだろう拳を包み込む。痛みがすっと引いて、明らかに本来の形から崩れていた右手が元の形に戻っていく。


「……馬鹿野郎が。こんなことして何の意味がある。もっと自分を大事にしろってんだ」


 ぶっきらぼうなその優しさが、逆につらかった。


「――だって……!」


 鼻声で言った瞬間、麟華の中で、何かが崩壊した。


 ずっとずっと、心の一番深い場所に流し込んでいた涙。ずっとずっと、そこに溜め込んでいた心の涙が、溢れ出ようとしていた。


 もうダメだった。我慢が出来なかった。


 麟華はくしゃりと顔を歪めた。嗚咽が、喉から勝手に這い出てきた。


「ぁあ……!」


 こぼれた。堤防が、決壊した。


 両手で顔を覆い、麟華は崩れ落ちた。


 唇から勝手に飛び出ていく言葉は、自分でも何を言っているのかわからないほど濁って、ぐちゃぐちゃだった。


「だって、わたし、おかあさんのこと、たすけたいって、おもってるのにっ、なのに、だからっ、ころさないと、みんな、ころさないとって、ずっとおもってるのにっ、なのに、ぜんぜん、できてなくて、ぜんぜんっ、できていなくてっ、あんなに、あんなにかくご、してたのにっ、していたはずなのにっ、やさしいとかっ、せいじつとか、いわれてっ、そんなんじゃだめ、なのにっ、そんなんじゃだめなのにっ、わたし、わたしっ、わたしぃ……!」


 鼻水で汚れた濁音だらけの声で、胸の内で暴れ回る言葉をただただ吐き出していく。


 考えが浅かった。冷酷に徹することが出来なかった。


 機械になれていなかった。


 怪物にもなれていなかった。


 世の中には今の自分が思っているよりも、もっともっと非道で残虐で無慈悲な発想があるのに。自分にはまるでそれが思い付かなかった。いや、そもそも考えようともしていなかったことに気付かされた。


 裕之輔に指摘されて初めて、自分の甘さを思い知った。


 それがいかにも、自分の母に賭ける想いそのものが軽かったように思えて、つらかった。哀しかった。


 こんなはずじゃなかったのに。全部わかっていたはずなのに。心のどこかで自分は母を優先していなかった。誰かを殺す覚悟なんか全然出来ていなかった――と。




 キューリアスは思う。


 無理もない、と。


 ――何がヴェトレイヤーだ。何が神への反逆者だ。


 こいつをよく見ろ。誰だと思う? まだ十七才の小娘だ。ママのおっぱいが恋しい年頃だ。


 そんなガキが、どうしてこんな風に泣かないといけない? 誰かを殺すだの、その覚悟が出来ていないだの、どうしてそんな理由で本気で悩んで、こんなにも自分を責めて泣かなきゃいけないのだ。


 優しいと言われて、誠実だと言われて、信頼できると言われて、なのに、どうしてこんなみっともなく泣き喚かなきゃいけないのだ。普通なら喜ぶところじゃないか。人間として素晴らしいところじゃないか。


 こいつは本当なら勉強だったり恋愛だったり部活だったりで、青春の日々を過ごしているはずだろ? そういうのが理由で悩んだりする年頃だろ? ただでさえ生まれた時から父親がいなくて、その上母親まで亡くしちまったんだぞ。そんな可哀想な子供が、どうしてこの上『人を殺せない。残酷になれない』って自分を責めて泣き叫ばなきゃいけないのだ。


 何も悪くない。この子は何も悪くないのだ。なのにその本人が、自分の甘さを許していない。度し難いと。最低だと。なんて愚劣なのかと。お前の想いはその程度なのかと。自分で自分を苦しめている。こんなにも涙を流して、こんなにも唇を震わせて、こんなにも声を嗄らして。


 涼風麟華はただの十七才の女の子なのだ。特殊な訓練を受けたわけでもないし、生まれつき異常な感性を持っているわけでもない。それどころか、誰よりも真面目で、清廉潔白で、心優しい女の子なのだ。本当は人間どころか犬っころ一匹、いや虫けら一匹殺すことすら出来ない奴なのだ。


 本人だけが知らないのだ。殺せない、殺す覚悟が決められないというのは、殺したくないという気持ちの発露であることを。本当は自分が、心の底では誰も何も殺したくないと思っていることに、当の本人だけが気付いていないのだ。


 そして、この子にはわからないのだ。殺さなければならない、と考えることが異常で、殺したくないと思うことこそが正常であることが。何故なら、そうしなければ母親が戻ってこないから。『良い子にしていればいつか母親は帰ってくる』と教え込まれた小さな子供のように、健気に一途に、百人殺せば母親が生き返ると信じてしまっているから。


 だから麟華は現状がおかしいのではなく、自分が悪いのだと思い込んでしまっている。自らの弱さこそが、罪であると。お母さんが帰ってこないのは、自分が悪い子だからだと――


 キューリアスもまた、自らの罪悪感と戦わなければならなかった。優しすぎる彼女をこの悪辣無比の戦場に繋ぎ止めているのは、他ならぬキューリアス自身だった。しかしそれ故に、彼には何も言うことが出来ない。それはデーヴァである彼には許されていないのだ。


 もうやめてしまえ。考え直せ。お前には無理だ。諦めろ。


 そう言えるならどれだけ楽だったことか。しかしそれらはキューリアスには言えない、言ってはならない言葉だった。


 出来るのはただ彼女に付き従い、力を振るうこと。願わくば、彼女の望みが叶うことを祈りながら――


 それにしても、と思わざるを得ないのは、あの神楽御坂裕之輔という少年である。


 キューリアスの見る限りでは、あの少年が麟華に直刀を突き付けた時の目つき――あれは本気の目だった。


 確信がある。


 もし麟華が瑠璃室美里菜に手を出すという言葉を撤回しなければ、あの少年は間違いなく、少女の喉に直刀を突き刺していただろう。


 キューリアスは彼の瞳から殺意を感じたわけではなかった。


 その逆である。


 迷いや躊躇、葛藤といったものの類を一切感じなかったのだ。


 涼風麟華と比べて、あの率直さ意志の強さときたら、全く正反対としか言いようがない。しかも彼の場合、麟華と違って〈Betrayer's on The Bet Layer〉にかける願いはないと嘯いていた。もう何から何まで真逆なのである。


 本来ならば、あの少年のような人間こそがこのクソッタレなゲームに積極的に参加するべきなのだ。天使には天使の、悪魔には悪魔の、それぞれの領分というものがあるはずではないか。


 そういった点においては、ある意味、あの少年は確かに【ヴェトレイヤー】だった。


 少なくとも麟華の期待だけは裏切り続ける、ヴェトレイヤーだった。




 静かすぎる空間に、麟華の嗚咽だけが響いていた。


 傍らに浮かぶ純白の大鷲はいつもは軽い嘴を重く閉ざし、相棒にかける言葉を持たなかった。彼に出来るのは肉体の傷を癒すことで、心の傷はその能力の埒外だった。


 結局、サティからのベット・レイヤー解除同意要求にキューリアスが応えたのは、それから小一時間ほど経ってからのことだった。






 

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