5. a - アベレント・プロフィール
――思えば色々あったものだわ……
つらつらと思い出すのは、初めてキューリアスを召喚したときのことだ。
ハルナが召喚したあの巨大な狼が出てくるものと思いきや、カードが変化したのはアルビノの大鷲だった。
カードが変化するデーヴァの姿形および特性は、持ち主の資質によって千差万別に変わるそうなのだ。そのため、例え違うカードを使用しても、麟華の前に現れるのは必ずキューリアスになるという。そういえば、いつだったかキューリアスが、
「つまり俺達は魂が似通っているのさ、ハニィ」
などと嘯いていた記憶がある。冗談ではない、というのが麟華の感想だ。何が哀しくて人をハニィと呼ぶような軽薄な魂と似通ってなくてはいけないのか。更に、自分のことはダーリンと呼んでくれ、という希望を出してきたときは流石に少し絶望してしまった。こんな鳥が相棒で、自分は本当にこのゲームを勝ち抜けるのか――と。なお〝ハニィ〟という呼称はいくらやめてくれと言っても変わらなかったので、今はもう諦めてしまっている。
それから麟華はキューリアスから〈Betrayer's on The Bet Layer〉の説明を受けた後、自分なりに戦闘訓練を行った。残念ながら当時の麟華の周囲にはヴェトレイヤーは全くおらず、実戦経験を積むことは出来なかったが、キューリアスの助言もあったおかげでかなりの実力を身につけたと自負している。自信もついて、さあそろそろ本格的にカードを集め始めるか、と思った矢先に件の『決着の刻』のことを知ったのだ。祖父母に頭を下げ、この街に一人暮らしで引っ越すことを願い出ると、二人は快く了承してくれた。実の娘に不自由させた分、孫には自由にやって欲しいと、二人はそう言ってくれた。
だから今、麟華はここにいる。
意識が記憶の中から浮上すると、まだ教師の祝詞は続いていて、クラスメイトの三分の一ほどが自らの意識を供物として神に捧げてしまっていた。
眼前の背中はその中に含まれておらず、とはいえ、どこか退屈そうな雰囲気で五十四才の現代国語教師の読経に耳を傾けているようだった。
あの時のハルナとの約束を守るならば、自分はこの少年のことを出来るだけ理解し、可能な限り記憶し――その上で、殺さねばならない。
そう考えた瞬間、身体の芯が氷柱になったかのようにゾクリとした。
麟華はまだその手を血で汚したことがない。ハルナが赴き、そして心を折ってしまったあの【領域】に、まだ足を踏み入れていないのだ。
だが、今ならハルナの言っていたことが少しはわかる気がする。
あの時――そう、裕之輔が麟華の手を振りほどいて地上へ落ちていった、あの時。あの刹那に感じた、得も言えぬ恐怖感。
あれがハルナの言っていた、〝重さ〟の一片ではないだろうか。
『それでもあなたがその重さに耐えきれるなら、きっとその願いはそれだけの価値があるものだから』
背負う前から怖気を抱かせるその〝重さ〟とは、一体どれほどのものなのか。一つの一片でもあれだけの恐怖だったというのに、〈Betrayer's on The Bet Layer〉のカードが百枚ならば、最終的に麟華は百人の命を背負うことになる。
自分は果たして、その重さに耐えきられるのだろうか?
『ねえ、あなた。あなたは自分の願いのために、誰かを殺してしまうことは厭わないの?』
あの時は躊躇なく頷くことが出来た質問。しかし、今は簡単に首を縦に振ることは出来そうにない。
思えば、あの時ハルナが浮かべた哀しそうな微笑みは、いつか折れる麟華の心を予見してのものだったかもしれない。
――それでも……
迷いも、躊躇も、戸惑いも。それら全てを圧して余りある想いが、麟華にはある。
――それでも私は負けないのよ……!
それは決意か。それとも妄執か。
機械になれ。
怪物になれ。
たとえ行き着く先が地獄であろうと構わない。願いの先にあるのが底なし沼でも後悔しない。
――どんなもがき苦しもうとも、私は私の願いを叶えるのよ……!
少女は覚悟を決める。
価値があると信じているから。
たとえそれが不毛の荒野へ足を踏み入れるに等しい行為だったとしても。
自らの願いには、母の命には、他人の命を百と積んでも惜しくない価値があると、信じているのだから。
●
昼休み。裕之輔が美里菜に首根っこを掴まれて教室を出て行くのを見送ってから、麟華は行動を開始した。
既に自分を仲良し集団に取り込もうと画策してやってきた女子連中は、鄭重に完璧に追い返してある。
邪魔者はいない。
麟華は熟練の狩人のごとく、獲物に照準を定める。
藤久良多加弥。
前回、というよりも昨日、裕之輔を呼び出す際は手紙を使用した。あの時は彼がカードの持ち主であろうことはほぼ確信していたので、脅して口封じをすれば問題ないと判断したためだ。
しかし今回は違う。カードの持ち主ではないし、脅すわけにもいかない。出来るだけ協力的に情報を提供してもらうのが目的なのだが、かといって麟華を含めて周囲の人間はみな年頃の少年少女だ。妙な噂が立てばこれからの学園生活が悲惨なものになる可能性が非常に高い。
ではどうするべきか?
何のことはない。開き直ってしまえばいいのである。
麟華はすっくと席を立つと、キビキビした歩調で獲物の背後に立った。
後ろめたそうにするから妙な噂が立ってしまうのだ。いっそ堂々と行けばいい。自分がこの男を恋愛対象として狙っているなどという不愉快な噂が立とうものなら、真っ向から否定すればいいだけの話だ。それにおそらく、麟華の読みでは、そのような噂は立たないと予測している。何故なら、彼を取り巻く人間があまりにも特殊だからだ。
片や、学年トップの成績を持つ二年B組のボス。ついでに言えば非常に小柄で可愛らしいマスコット的人物。
片や、そのボスに忠実に付き従う学年二位の成績を持つ少年。可愛らしい幼馴染みと、病弱だが毎日弁当を作って届けてくれる妹がいるという、どこの漫画の主人公だと言いたくなるような人物。
この二人は昨日から何かと目立つ存在だった。どうやら学園全体における有名人らしい。去年の文化祭や体育祭でやらかした様々なエピソードがいくつか麟華の耳にも入っていた。
藤久良多加弥はそんな二人と幼稚園児の頃から幼馴染みだという。
一般的に興味を持ってしかるべき存在だと思うし、実際に興味がないわけではない。ハルナとの約束半分、興味本位が半分、麟華の行動原理を占めている。
もし万が一読みが外れて噂が立ったとしても、一言『ちょっとした好奇心で』とでも言えばあっさり沈静化するだろう。
「あの、藤久良君。ちょっといいかしら?」
「ん?」
昼食の用意もせずに黙々と文庫小説を読んでいた偉丈夫が、落ち着いた動作で振り返った。彼は眼鏡の奥の瞳で麟華を認識すると、ぱたんと両手で挟むように文庫本を閉じた。
「これは、涼風女史か。失礼、挨拶が遅れていたな」
口を開いたのっけから嫌な予感がした。何なのだろうか、この口調は。これが高校生の言動だろうか。
多加弥が席を立つ。すると、麟華の胸あたりにあった頭があっという間に頭上へ行ってしまった。かなりの上背だ。麟華より頭一つ分以上は余裕である。
「昨日は他の連中が挨拶に行くだろうから、その相手に忙しいと思ったのでな。無礼を承知で自分は後にさせてもらった。この通り、お詫びする」
多加弥は慇懃に頭を下げる。
「あ、いえ、そんな」
少し慌てた。こんな丁寧な対応をされるとは思いもよらなかった。
「藤久良多加弥だ。学友として、これからよろしく頼む」
「え、ええ、こちらこそ。喜んで」
背後からの奇襲は全くの無意味になっていた。むしろ結果だけを見れば、麟華だけが気圧されている始末だ。
何かスポーツか格闘技でもやっているのだろうか。服の上からでもよく鍛えられた感のある身体に、彫りの深い顔立ち。短い髪を小綺麗に逆立てて、目元には知性を感じさせるノンフレームの眼鏡。
何気にもてるのではないだろうか、などとくだらないことを思う。
「して、涼風女史、自分に何か用だろうか?」
「あ、ええ。実は少しお聞きしたいことがありまして」
不思議と多加弥と話していると、こちらまでかしこまった話し方になってしまう。女史、などと呼ばれているせいだろうか。
(どうしたハニィ。あっちにペースを握られてるぜ?)
(うるさいわよキューリアス! あなたは黙っていて!)
(流石はあの坊主の昔馴染みだぜ。一筋縄じゃいきそうにねえな)
その意見にだけは麟華も同感だった。
「聞きたいこと、とは?」
麟華は周囲を気にするような素振りを見せつつ、
「ええ……もし良かったら、昼食を一緒にしながら聞いてもらえると嬉しいのだけれど……どうかしら?」
ほう、と多加弥の口が動くのを麟華は見ていた。何かに思い至ったらしい。彼は迷う素振りも見せずに、頷いた。
「わかった。では自分は購買で昼食を購入するつもりだが、涼風女史は?」
「私はもうコンビニで買ったものがあるから大丈夫よ」
「では行こうか。良い場所がある」
先導する彼について教室を出て、購買部を経由して連れてこられたのは、学生食堂と部室長屋、そして体育館を内包している棟の裏手だった。
何故かそこには瀟洒なテーブルセットが五つ並べられていた。
「ここは運動部の顧問教師や上級生が部活動中の休憩に使う場所でな。この時間は誰もいないことが多い。自分もたまにユウとミリを誘ってここにくる」
よく見ると壁際には飲料の自動販売機まである。なるほど、休憩場所というのは本当のようだ。
この場所はどうやら学園の敷地の隅に位置するようで、建物の反対側は背の高い壁になっているのだが、外部からの侵入防止のためか、上に有刺鉄線が張り巡らされている。そこだけは物騒な感じだが、それを除けば空から降り注ぐ陽光が気持ちいい、穴場的な空間だと麟華は思う。
「もったいないわね。こんなに気持ち良さそうな場所なのに」
「昼食時にまで部活のことを思い出したくないのだろう。それに、ここは時折だが教師達も来る。誰だって休憩時間にまで教師の顔を見たくないものだ。幸い、今日は誰もいないようだが」
言いながら多加弥は適当な椅子に腰を下ろし、テーブルに購買部での戦利品を並べた。
実を言うと麟華が以前いた学校には購買部がなかったので、あるとは知らず登校前にコンビニで調達してきたのだが、先程それが正解だったと思わざるを得ない光景を目にしてしまった。
あれはもはや戦争だった。
餓えた年頃の高校生の勢いはとどまる所を知らず、怒号、罵声、暴力が飛び交う阿鼻叫喚の地獄絵図だった。購買部のおばさん達の目が色々な意味で本気だった。あれは『素早く商品を提供しないと自分がこいつらに喰われてしまう』と信じて疑わない目つきだったように思える。しかし、そんな中を多加弥は平然と、むしろ堂々とした歩みで渡りきり、実に自然な雰囲気で複数のパンを購入していた。流石はあの裕之輔の幼馴染みだけある、と先程のキューリアスと同じように驚歎してしまった麟華であった。
「良かったら飲み物を奢るわ。何が良いかしら?」
「すまないな。では、ストレートティーを頼もう」
麟華は多加弥のストレートティーと自分のレモンティーを購入すると、対面の椅子に座った。持参したビニール袋にはサンドイッチが入っている。
「して、聞きたいこととはミリのことだろうか? それともユウのことだろうか?」
単刀直入に本題に入られた。どうやらこちらの思惑はお見通しだったらしい。少し驚いた視線を送ると、彼は眼鏡の位置を修正しつつ、
「いや、間違っていたのならすまない。よく聞かれるのだ。あの二人はよく目立つのでな。まぁ、主にミリの性格ゆえなのだが。それにくっついているユウも一緒に有名になってしまうので、自然と興味を持った者達が自分の所へやってきて、色々と聞きたがるのだよ。自分も、当人に直接聞けばよいものを、と思うのだが、そうもいかないことが多いのだろうな」
平淡な口調だが、深みのある声のおかげか多加弥の話は聞き取りやすかった。
好都合だ、と麟華は思った。そんな事例がいくつもあったのなら、麟華にとってもいくつかの手順を飛ばすことが出来るし、なによりも〝裕之輔に惚れた〟などという不愉快極まりない誤解もされずに済みそうだった。
「話が早くて助かるわ」
そう言って微笑む。久々にまっとうな神経の持ち主と会話できそうだった。
「実は私も興味があるの。特に神楽御坂君に」
「なるほど、ユウのことか」
言いながら多加弥はメロンパンの包みを開けて、かぶりつく。
「けれど、別に恋愛対象として見ているわけではないのよ? 彼は何だか、腹黒い所があるようだから」
「ほう」
多加弥はどうやら感嘆したようだった。彼は口をもぐもぐと動かしながら、
「転校してきて間もないというのに、そこまでユウのことを理解しているとは。昨日の保健室で何かあったのだろうか?」
「ええ、まぁ」
まさか、時間の止まった空間で彼を殺そうとした、などとは言えない。麟華はそのあたりは曖昧に誤魔化した。
「けれど、私には今ひとつ理解できないのよ。どうして彼は、あんな風に扱われてまで瑠璃室さんと一緒にいるのかしら?」
その疑問は昨日から胸に抱いていたものだった。裕之輔は自分で言ったのだ。誰かに何かを強制されるなど以ての外、従うぐらいなら死を選ぶ、と。なのに彼は美里菜の理不尽とも思える言葉や行動には唯々諾々と従っている。それは何故なのか?
(それは本人が言っていたぜ、ハニィ。あの坊主、従わされてるんじゃなくて、自分から能動的に従っているんだってな。単純にあの美里菜とかいうおチビちゃんが坊主のハニィなだけだろ?)
(わかっているわよ。けれど、その理由が知りたいのよ、私は)
裕之輔が美里菜にぞっこん惚れているというのなら、それでもいいのだ。ただ、確たる証言が聞きたかったし、出来ることならその思考を理解したいと思ったのだ。
多加弥はしばし沈思した後、こう答えた。
「幼馴染みだから、という回答では不服だろうか?」
「不服よ」
麟華もサンドイッチの包みを開け、食事を始める。
「何故?」
シンプルな問いに、麟華はしばし言葉を探したが、結局いい言葉が見つからず、
「――彼は他人に何かを強制されるのが死ぬほど嫌いなのではないの?」
「…………」
メロンパンを素早く飲み下し、次のチーズデニッシュに伸びかけた多加弥の手が失速した。彼は眼鏡越しに無遠慮な視線を麟華に浴びせる。
「……こいつは驚いたな。涼風女史は一体ユウとどんな話をしたのだ? 奴がそのことを話すとは、余程の事ではない限りあり得ないと思うのだが」
多加弥の指摘は鋭い。しかし、麟華はその質問に正直に答えるほど愚かではなかった。一枚目のサンドイッチを飲み込み、
「やっぱり、神楽御坂君の性格はそうなのね?」
反駁は許さない、という意思を込めて少年の眼鏡に視線を射込む。
「……ふむ」
チーズデニッシュを手に取り、多加弥は何事かを考え込むように嘆息。包みを破り、手で千切った欠片――といっても麟華の口には到底入らないサイズだが――を口に放り込みながら、
「確かにユウはああ見えてかなりの頑固者でな。実は自分の中でも、奴は怒らせてはいけない人間リストの筆頭に置いてある。表面上は大人しく、人畜無害そうなのだがな。条件が揃うと、それはものすごいことになる。大昔のことだが、一度それであのミリの顔をぶったこともあるぐらいだ」
「ぶったの? 瑠璃室さんを? 神楽御坂君が?」
驚きの事実だった。多加弥はストレートティーを啜って頷く。
「自分が思うに、ユウは本当に不満があるときは、例え相手がミリでも言うことは絶対に聞かないのだろう。それでも今、ミリの指示や行動に文句を言わず付き合っていると言うことは、それはつまり、ユウの中ではそれらが『嫌なことではない』ということなのだろうな。少なくとも、自分はそう見ているが」
多加弥の手は次のやきそばパンに伸びる。
「なに、奴の頑固さと甘党ぶりは昔からだからな。筋金が入っているに違いない」
「甘党?」
「うむ。休み時間になると必ず飴を舐めているだろう? アレはもう昔からの習慣だ」
そういえば屋上に呼び出したときも、ベット・レイヤーにいるときも、必ず懐からキャンディを取りだしては口に含んでいた。妙な奴だとは思っていたが、まさかあれが昔からの習慣だったとは。
――虫歯になったりしないのかしら?
「ちなみに歯磨きの習慣も、自分とミリとで小さい頃にしっかり躾けてあるから、虫歯の心配はない」
まるで麟華の心を見通したかのように、多加弥はそんなことを言った。
焼きそばパンの包みを破り、頬張ると、眼鏡の偉丈夫は軽く肩をすくめて、
「というわけで、どうしてユウがミリの無茶苦茶な言動に文句を言わず付き合っているのか? という問いには、嫌ではないからだろう、という返答しか自分には出来ないな」
そう言い切り、多加弥は笑いもしない。堅物、という単語が麟華の脳裏によぎる。
――それじゃダメなのよ。
その答えだけでは麟華が裕之輔を理解したことにはならない。
「ねえ、聞きたいのだけれど、神楽御坂君が瑠璃室さんをぶったときの理由はわかるのかしら?」
多加弥は神妙に頷く。目がどこか遠くを見るように、すっと細まった。
「先程も言ったが、大昔のことだ。アヤネ――ユウの妹なのだが、そのアヤネにミリがいじわるをして泣かせてしまったのだ。ユウはアヤネを大切にしているからな。許せなかったのだろう」
今朝、教室に弁当を届けに来ていた少女を思い出す。
「……妹想いなのね」
「そうだな」
短く答えて、焼きそばパンを食べきった多加弥は最後のコロッケロールに手を出した。
「……よく食べるのね」
麟華はまだサンドイッチを二枚食べたところだった。麟華にしてみれば高カロリーの菓子パンを四個も食べるなど、色々な意味であり得なかった。
「自分は成長期だからな。正直、いくら食べても食べ足りないものだ」
多加弥ほどの体格ともなればこれでも少ない方なのだろう。本人の顔を見るにまだ物足りなさそうだったので、麟華は自分の残りのサンドイッチを勧めた。
「飲み物といい、申し訳ないな」
そうは言っても、麟華の方は多加弥の喰いっぷりを見ているだけでもう腹が一杯になってしまったのだ。少女はレモンティーに口をつけ、
「いいのよ。情報提供料だと思ってもらえれば。それより、変なことを聞いても良いかしら?」
「一宿一飯の恩というほどではないが、一飯の恩はあるからな。答えられることならば」
レモンティーを三口ほど飲んで喉を湿らせてから、麟華はとっておきの質問を放った。
「あなたにとって、神楽御坂裕之輔という人物はどういった存在なの?」
「――ほう。本当におかしなことを聞くな、涼風女史」
流石に踏み込みすぎた問いだっただろうか。少し後悔するが、この少年の性格ならば別段、他の人間にこのことが漏れることもないだろう。訝しがられるぐらいなら、問題はない。
「自分にとって、神楽御坂裕之輔という人物は、どういった存在なのか」
多加弥は麟華の質問を、噛み砕くように繰り返した。元々厳めしい顔付きだったが、それが更に険しくなる。
自分でしておきながら、おかしな質問であることは麟華にもわかっていた。
だが、麟華にとっては、何よりも重要なことだった。
あの神楽御坂裕之輔という少年は、何事においても麟華の逆を行く。そんなイメージがある。
正直、空中でカードを渡せと迫ったとき、麟華は彼ならすぐに差し出すだろうと信じて疑わなかったのだ。だが、そうではなかった。それは麟華の思い込みでしかなかった。麟華は、自分ならば間違いなくカードを渡すだろうという状況に追い込んだのに、裕之輔はそうせず、敢えて死ぬことを選んだ。
〈Betrayer's on The Bet Layer〉がどんな願いをも叶える魔法の儀式だと説明したときもそうだった。彼はこのゲームの存在そのものに腹を立てたのだ。麟華がこの世最後の希望としてすがりついたものを、おもしろくない、気に食わないと吐き捨てたのだ。
何故なのか?
麟華には彼の全てに理解が追いつかなかった。
今、麟華を突き動かしている行動原理は、徐々に変化しつつある。
最初は、ハルナとの約束だった。出来るだけ相手を理解し、可能な限り相手のことを記憶するという、試練にも似た約束。
しかし今となっては、それはきっかけにしか過ぎない。麟華は心底から裕之輔に興味を持ってしまっていた。
心を揺さぶられてしまったのだ。
自らの思想、信念のアンチテーゼ的存在。それによって麟華は自己の正当性に疑問を持ってしまった。
どうして彼は、誰も殺していないのに、ハルナと同じ【領域】にいるような事を言うのか?
もしかすると、自分はおかしいのだろうか?
自覚がないだけで、どうしようもないほど間違えてしまっているのではなかろうか?
もし彼やハルナの方が正しくて、自分が間違っているのならば、どうすればいいのか?
母を取り戻したいという想いは今も強くある。それが消えることはあり得ない。だからといって、それだけで全てに納得ができるほど、人間の心とは単純明快なものではない。その一つの想いだけで全てを圧殺できるのならば、揺さぶられたりはしないのだ。
詰まる所、麟華は裕之輔の考えを理解した上でなお、それを間違っていると断定し、自らの決断こそが正しいと確信したいのだ。揺らぎ始めた地盤をもう一度固めなおしたいと願っているのだ。
「……そうだな。まず一言で言えば、ユウは自分にとって一番敵に回したくない人物、ということになるな」
長い黙考の末、多加弥は唸るようにそう言った。思わず麟華はどきりとする。今まさに彼女こそが、その裕之輔の〝敵〟なのだから。
「どういう意味かしら?」
声が震えないように気をつけた。
「先程も言ったが、自分はユウを怒らせたくない人間の筆頭に置いている。何故なら、【何をするかわからないからだ】。涼風女史ももう知っているだろうが、ユウはああ見えて、良い意味でも悪い意味でも容赦のない性格をしている。それは会話の端々、あるいは態度の端々に出ているだろう。遠慮がないとも言えるし、最近の言い方では、空気を読まない、とでも言えばいいだろうか」
麟華は頷く。心当たりは存分にあった。
「奴の中には独自の世界観というか、価値観というものがあるらしい。しかもそれが、場合によっては他者とは著しく異なっている」
我知らず、麟華は力強く何度も頷いていた。今、生まれて初めて〝同志〟と呼べる人物と出会ったのかもしれない――そう思えるぐらい、同感だった。
「だから、怒らせたら何をしでかすかわからない。何もしないのかもしれないし、しかし、もしかするととんでもない行動に出るのかもしれない。最悪、自分が殺されてしまう可能性まで考えついたりもする。それが自分には正直、怖い。例えるならば起爆条件がわからない爆弾のようなものだ。どう扱えば爆発するのかがわからないから、どう接すればいいのかがわからないような」
「……わかるわ」
吐息をこぼすような、心の奥底からの同意だった。流石は幼馴染みだけあってよく理解している。
ふっ、と多加弥が笑ったような気配を感じた。あまりに微妙すぎて麟華にはよくわからなかったが、そんな気がした。
多加弥は眼鏡の位置を直しつつ、
「それ故に自分は昔から、出来るだけユウを怒らせないよう、色々と観察を続けてきた。おかげで今ではすっかり心得たものだ。何をすればユウが怒り、何をすれば喜ぶのかは手に取るようにわかる。知りたいだろう、涼風女史?」
ふと探るような視線を感じた。気がつくと眼鏡の奥の眼光が、値踏みするように麟華を見ていた。彼は何かに気付いたのかもしれない。だが麟華にはそれが何なのかがわからないし、ここまで来たからには、なりふり構っている余裕など微塵もなかった。
「知りたいわ」
率直に告げた。それを聞くことが出来れば、裕之輔という人間が少しは理解できるような気がした。
多加弥はストレートティーをぐいっと飲み、口内を潤すと、麟華の希望に応えた。
「実を言うと、意外と単純なのだがな」
苦笑もせずに言って、多加弥は右手の人差し指をぴんと立てる。
「一つ。ユウに強制してはいけない。奴は他人から思想や行動を強制させられることを大いに嫌う。例外はミリとアヤネと両親だけだ」
続けて多加弥は中指を立てる。
「一つ。ユウはズルを嫌う。自らの努力や能力に基づくことならともかく、虎の威を借る狐であったり、明らかな反則やルール違反をとにかく嫌悪する。これは誰であろうと例外はない。正義感が強いとも言えるが、時折独特な判断を下すことがあるので、単なる正義漢でないことは確かだ」
さらに薬指を立てる。
「一つ。これは誰でもそうだろうが、ユウは自分の大切な人を傷つける者、傷つけようとする者を憎む。しかしユウの場合、これは時に矛盾する。つまり先程の話のように、大切なアヤネを泣かせたら、こちらも大切な人であるはずのミリを殴るという奴だ。発作的なのか、それとも暴力も一つの愛情表現なのかはわからないが、とにかくユウは誰であろうと大切な人を傷つけた者を絶対に許さない」
小指が立った。
「一つ。ユウには悪意が通用しない。理解できないのかもしれないが、とにかく奴には悪意や敵意の類を向けても全くの無駄だ。これは同時に、ユウ自身が誰に対しても悪意や敵意を持たないことを示しているのだが」
とうとう親指が立ち、多加弥の右手は開かれた。
「一つ。ユウは恩を忘れない。受けた恩は必ず返す。とは言っても、あくまで『ユウ自身が恩を受けた』と思った場合のみだが。おそらくユウがアヤネやミリ、両親の言うことに素直に従うのは、彼らに対して恩を感じているからではないか、と自分は推測している。もっと簡単に言えば、奴はもし涼風女史に飲み物を奢られたら、後日必ず別のものを奢り返してくれるだろうということだ」
そこまで言い終えると、多加弥は再度ストレートティーを口に含んだ。
「以上が自分の把握している神楽御坂裕之輔という男だ。まだ他にもあるのだが、残念ながら自分の中で検証中であったり、確立していないことばかりだ。だが、言えることが一つだけある」
ここで多加弥は咳払いを一つ。統括するように次の言葉を述べた。
それは短いが故に、非常にわかりやすい真理だった。
「奴は少し不思議で、それなりに独特で、ちょっと一般人からはズレている、ということだ」
そのまんまじゃない、とは麟華は言わなかった。