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変なカードを拾ったらデスゲームに巻き込まれた~Betrayer's on The Bet Layer~  作者: 国広 仙戯


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4/10

4. r - リピート・メモリ






 私に足りないのは覚悟だ。


 涼風麟華は心の底からそう思う。


 あの時、自分は確かに怯えてしまっていた。あれだけわかっていたはずなのに。自分にはこの方法しかないと理解していたはずなのに。そのための覚悟は決めていたはずなのに。


 彼の掌からしぶく赤い血を見た瞬間、どうしようもなく肌が泡立ち、まともな思考が頭から吹き飛んでしまった。


 これは弱さだ。麟華はそう断ずる。


 甘さも、優しさも、慈しみも、今はいらない。


 自分に必要なのは、強さだ。厳しさだ。冷酷さだ。


 機械になればいい。人の心など理解しない、冷たい機械になればいい。


 怪物になればいい。人の痛みなど理解しようとしない、容赦ない怪物になればいい。


 そうすれば、何の迷いも躊躇いもなく突き進むことが出来る。自らの手を血で汚すことを、恐れることも慄くこともない。


 この胸に抱く、たった一つの悲願のために。


 真に覚悟を決めろ。麟華は自らに言い聞かせる。


 次こそ、対峙したヴェトレイヤーを殺せ。生かしたままカードを奪い取るなどという生温いことは考えるな。


 戦って、殺せ。


 ただそれだけ出来れば、願いは叶うのだから。




 などと言った所で、現実を生きる上で必要なのは〈Betrayer's on The Bet Layer〉だけではない。


 その他をおろそかにして平穏に生きていけるほど、世の中は甘くも優しくも慈悲深くもない。


「おはよう」


 挨拶も出来ない人間はろくな大人にならない。そう両親に躾けられた麟華は、清々楚々と完璧な笑顔をクラスメイトに振りまいた。


 顔を合わせるクラスメイト一人一人と目を合わせ、明るく朝の挨拶を交わしながら、麟華は机の隙間を律動的な歩調で進む。何事も最初の頃が肝心なのだ。第一印象がそのままその人の最終的な印象になりえる、という説がある。最初の内に良いイメージを植え付けておきさえすれば、その後で不都合なことがあってもいくらでも誤魔化しがきくのである。


 人生を上手く生きるコツは〝イキイキ・キビキビ〟そして〝ニコニコ・ハキハキ〟だと母は言っていた。現実はまさにその通りで、そのように振る舞っているだけで周囲の人間はみな麟華に好意を持ち、味方になってくれた。おかげで麟華はこれまで順風満帆の人生を歩んできたといえよう。


 そう。ここ最近までは。


 昨日転校してきた麟華のために用意されたのは、窓際最後尾の席である。その一つ手前の席に〝麟華に好意を持ち味方になってくれ〟ない人物が、一人いた。


 神楽御坂裕之輔。


 長ったらしい名前である。麟華もよく人から珍しい名前だと評されることが多いが、この漢字七文字に比べれば大したものではないと思える。


 とはいえ、別段彼が特別というわけではなく、字数の多い名字はこの地域の特徴らしい。他にも瑠璃室、藤久良、奈美河、天神原田、東中川村といった珍妙な名字の持ち主がこの二年B組にはいた。大昔の地方豪族時代の名残だという。


 長い髪を揺らしながら自席へ歩みを進めると、手前の席について窓の外を眺めていた裕之輔が麟華の接近に気付いた。彼の左手の怪我はベット・レイヤー内でのものだったので、今は完治している。というより、怪我そのものがなかったことになっている。そんな彼がこちらへ――なんと笑顔を見せた。


「おはよう、涼風さん」


 昨日の今日だというのに、いけしゃあしゃあと挨拶してくる。内心カチンときた、というより一気に沸騰しかけたのだが、まさかこんなところで大声を出すわけにもいかない。今の麟華のクラス内におけるポジションは『転校してきたばかりの美少女転校生』である。その立ち位置を自ら崩すわけにはいかない。胸骨を内側から焦がすマグマをおくびにも出さず、麟華は表情筋を総動員して微笑みを見せた。


「おはよう、神楽御坂君」


 静電気が体中を這い回るような不快な感覚。我ながらこの少年相手にこんな甘い声を出してしまったことが、気持ち悪くてしょうがない。


 座席の側面に鞄を引っかけ、髪をまとめながら椅子に腰を下ろす。すると、目の前にある裕之輔の後頭部に拳を叩き込んでしまいたくなるので、麟華も窓の外に視線を逸らした。


 瞬間だった。


「ねぇ涼風さん、ベトベトについてちょっと聞きたいんだけど」


「!?」


 いきなり裕之輔が振り返って話しかけてきたのだ。しかも、とんでもない内容で。


 精神的な死角からの奇襲だった。


 一瞬、発狂しそうなぐらいに焦った。ぎゃあ、という叫びが危うく喉から飛び出すかと思った。反射的にバカの顔を殴り飛ばそうとする右腕を慌てて左手で抑えた。


 ――なんて非常識な! 貴重なものは秘匿するという概念を持っていないの!? 空気が読めてないにも程があるわよ!?


 一見して何事もないように見えつつ、その実、内側ではとんでもない激動を生じさせていた麟華がとった行動は、物理現象的には左手で右腕を掴んで目を白黒させただけだった。


 全力の自制の結果であった。


「か、神楽御坂、くん? えと、あの、その……」


 声は裏返って震えるわ、何も言うべき言葉が浮かんでこないわで、麟華は明らかに混乱状態に陥っていた。


「君はどういう経緯であのゲームに参加することになったのかな?」


 ――それを聞いてどうする気よ!?


 心ではそう思うが、今はそれをそのまま口に出すことは出来ない。真面目に回答するべきか、無視するべきか、それとも話を逸らすべきか。咄嗟には判断がつかなかった。


 腹立たしいことに、この少年が実践しているものこそが麟華の母が言っていた〝ニコニコ・ハキハキ〟だった。客観的には〝転校してきたばかりでクラスの空気に馴染めていない女生徒と、そんな彼女に下心無く親切に話しかけている男子生徒〟といった風にしか見えないだろう。そんな相手に対して間違った対応をとれば、それが即、麟華への評価へと直結してしまう。


 ――もしかして計算ずく!? それとも天然なのっ!?


 頭の中は高速で回転しつつも、現実ではまるで憧れの男性教師を前にした女性徒のごとく硬直して、あわわと口を開閉させるだけの麟華。そんな彼女に邪気のない笑顔で接する裕之輔が、更なる言及のために口を開こうとして、


「オ――――――――ッスゥッ!」


 出し抜けに素っ頓狂としか言いようのない絶妙な声が教室中に響き渡った。


 教室内にいた全員の視線が、声の発生源、前方出入り口の方へ集中する。


 そこにいたのは麟華にも見覚えのある顔だった。


 というより、色々な意味で印象的すぎてすぐに覚えてしまった顔だ。


 瑠璃室美里菜。


 麟華の見たところでは、この少女こそがこのクラスの実質的なリーダーである。昨日の一日だけでそれがわかった。


 無論、クラス委員という意味ではなく、ガキ大将的な意味での話だが。


 まず特徴的なのが、十七才にしてはあまりに小さすぎる身長と、幼稚園から飛び級してきたのかと疑いたくなるような声音である。どこからどう見ても高校生には見えない。どこをどう高く見積もっても小学生にしか見えない。異常とも言えるその容姿が、瑠璃室美里菜の最大の特徴と言っても過言ではないだろう。それに比べれば、室内であろうと授業中であろうと決して外そうとしない首元の赤いストールや、ポニーテールに結った金髪などは、取るに足らない瑣末事にしか思えない。


「はよー、ボス」


「おっすー、ボスー」


「おっはよぉ。ボスは今日も元気だねぇ」


 上機嫌な顔で教室内に入ってきた美里菜に、クラスメイト達が口々に挨拶を返す。〝ボス〟という珍妙な名称で呼ばれた小柄な少女は金のポニーテールを揺らして、にかっ、と快活な笑みをクラスメイトに見せた。


「野郎ども! 今日もめいっぱい勉強すんぞ! 気合い入れてけぇー!」


 壇上から片手を振り上げ、教室内へ妙な檄を飛ばす美里菜。


 驚くべき事だが、実はこの自称高校生はこう見えて学年首位の成績を誇る優等生なのである。見た目も言動もややもすると不良ぶった子供か何かと間違えそうになるが、意外と真面目な性格をしているらしい。更に言うと実家が実践空手だか拳法だかの道場を経営しているそうで、小柄な身体に似合わずなかなかの腕っ節だという。文武両道というあたりが、クラスメイト達から〝ボス〟と呼ばれる由縁なのかもしれない。


 美里菜の飛ばした檄に対して「わかったー」「りょうかぁーいっ」「アイアイサー!」などと言った笑いが含まれた返答がある中、小動物のようなくりくりした瞳がいきなり麟華を見た。


 いきなり胸の真ん中を小突かれたように、吃驚してしまった。それぐらい唐突な視線変更だった。しかし、こちらを見た、というのは麟華の勘違いだったようだ。


「オッス、ユウ!」


 喜色満面の笑みを向けられたのは麟華ではなく、その前に座る裕之輔だった。金色の尻尾が生きているかのように翻って、こちらへ駆け寄ってくる。昨日も思ったことだが、短い手足を精一杯動かして走る彼女の姿はひどく愛らしい。このマスコットのような可愛らしさも、二年B組の〝ボス〟たる理由かもしれない。


「ああ、おはよう、美里菜ちゃ」


 ん、と挨拶しようとした裕之輔の首に、美里菜が「とぉー!」と駆けてきた勢いを全く殺さぬまま派手に飛びついた。そのまま美里菜は机の上に尻を載せて、裕之輔にヘッドロックをかける。


「てめぇユウ、昨日はよくもあたしの許可無く授業をサボりやがったな? 具合悪いと思ったから昨日は見逃してやったけど、今日は落とし前つけてもらうぞぉこのこのこのっ」


「あうあうあう。痛いし苦しいよ美里菜ちゃん。そうだね、このお詫びは『ちきり』のパフェなんかでどう?」


「ジャンボ。それにクリームたっぷりな」


「はいはい。わかってるよ」


 楽しそうに笑い合う二人の姿は端から見れば、互いの身長差が三十センチ以上あるせいだろうが、兄にじゃれつく妹にしか見えない。あるいは、父親に甘える娘、と言ってもいいだろうか。誰がどう見ても同い年の幼なじみには見えるまい。


 不意に昨日のことを思い出して、麟華は胸中でほぞを噛む。昨日は二人のこんな様子を目にして、神楽御坂与し易しと侮った結果、とんでもない目に遭ったのだ。全くとんでもない猫っかぶりである。


「……仲が良いのね、二人とも」


 行動と会話の内容とは裏腹に、実に楽しげな二人を見ていて、自然と麟華の口からそんな言葉が出ていた。


 きょとん、とした二人の視線がその結果だった。次いで、ああ、と裕之輔と美里菜は同時に納得したような吐息をこぼす。どうも麟華が転校生で、自分たちの事を全く知らないということを完全に失念していたらしい。


 美里菜が裕之輔の首から腕を外し、しかし机上に腰を載せたまま、にかっ、と笑って、


「そっか、おまえ転校生だもんな。あたしとこの下僕と、あっちの多加弥って下僕は幼稚園からの付き合いなんだ。腐れ主従関係って奴だな」


 そんなおかしな単語など聞いたことがない。そうは思っても口には出さず、麟華は美里菜の親指が示す方向へ目を向けた。


 ちょうど教室の中央の席についているのが、美里菜曰くところの『多加弥って下僕』である藤久良多加弥である。眼鏡をかけた偉丈夫、というのが麟華の第一印象だ。そういえば彼とだけはまだ一度も会話を交わしていない。転校初日の質問攻勢の中に多加弥はいなかったのだ。


 ――瑠璃室さんにしても藤久良君にしても、神楽御坂君の幼なじみということよね。色々と彼のひととなりについて聞きたい所だけれど……それよりも――


「あ、そうだ美里菜ちゃん。話は変わるけど、この間僕と一緒に拾ったカードはまだ持ってる?」


 麟華が思い出すと同時、裕之輔がそのことを口にしていた。


 そう。昨日、彼が言っていたのだ。『で、そのカードっていうのは、この間僕と美里菜ちゃんが拾った奴……なんだよね?』と。その時はまだ瑠璃室美里菜がカードの持ち主になっていたとは知らなかったので、とても有益な情報だった。デーヴァはカードを携帯していないヴェトレイヤーは感知出来ないのである。


「おお? アレか? アレなら……まぁ部屋に置いてるけど、それがどうかしたのか?」


「良かったら僕にくれない?」


 瞬間、本気で殴ってやろうかと思った。それを内なる麟華が全力で阻止した後、彼女はようやく理解した。


 なるほど。この少年は自分に嫌がらせをしているのだ、と。


 道理でおかしいと思ったのだ。


 昨日は自分を軽蔑すると言っておきながら、その後の保健室では完全に会話をシャットアウトしておきながら、今日のこの態度である。


 絶対にそうだ。間違いない。この神楽御坂裕之輔という少年は、自分の目の前できわどいことばかりをして、こちらに精神的ダメージを与えようとしているのだ。


 〈Betrayer's on The Bet Layer〉の質問だってそうだ。質問の内容など、麟華がどういった経緯でこのゲームに参加しているのかなど、どうだっていいのだ。なんであれ〈Betrayer's on The Bet Layer〉に触れる事であれば何でも良かったのだ。それでいて名称は〈ベトベト〉と曖昧なものして、麟華が文句をつければ「ゲームの話だよ。何を焦ってるのかな?」などといって逃げるつもりなのだ。しかもあちらは、こちらが手を出せないこともわかっているはずだ。わざわざ屋上へ呼び出して脅迫した麟華の性根を完全に理解しているのだ。


 火薬庫の前でする火遊びほどスリルのあるものはないだろう。


 ――上等じゃない……!


 ならば受けて立ってやるのみだ。


「カード? 何のお話かしら?」


 にこやかに、あくまでさりげなくを装って麟華は二人の会話に割り込んだ。彼ら二人、特に裕之輔が幼なじみ特有の空気を醸し出して、麟華が会話に参加する余地がないように努めているのはわかっていた。だが甘い。こちらは転校生なのだ。その気になれば『わからないから』を理由にいくらでも無遠慮に質問を繰り出すことが出来るのだ。


 しかし意外なことに、麟華の質問に顔を顰めたのは裕之輔ではなく、美里菜の方だった。彼女は取り繕うようにぎくしゃくと笑って、


「あー、なんつーか、そのあれだ。大したことじゃないから気にすんな。それよか涼風はちゃんと授業についてこれてんのか? 何だったらあたしが勉強みてやるぜ?」


「え、ええ。ありがたいわ」


 無理に話を逸らして、はぐらかされた。幼なじみ関係の閉鎖性という奴だろうか。彼らの中でしか通じない話は、他人には知られたくないのかもしれない。出来ればカードの件だけでも関わって、裕之輔より先に入手したい所なのだが。


「ユウ、その話は後にしようぜ」


「うん、わかった」


 美里菜の提案に、尻尾があれば振っていただろうぐらいな笑顔で頷く裕之輔。その態度が麟華に向けるものと段違いなため、それも腹が立った。


「おーいかぐらー! 妹ちゃんが来てるぞー!」


 またも出入り口付近からクラスメイトの声。『かぐら』と略称で呼ばれた裕之輔が返事もなしに席を立ち、出入り口へと向かう。その後ろ姿を見送りながら美里菜が、


「あいつの家、妹が弁当作って持ってきてくれてんだよ。彩矢音ちゃんって言うんだけどな。ここの一年生で、可愛い子なんだぜ」


 その話を聞いて麟華は素直に驚いた。


「お弁当を? わざわざ?」


 出来た妹が世の中にはいるものだ、と思う。


「ああ、彩矢音ちゃんは身体が弱くてな。毎日おじさんの車で送り迎えしてもらってんだ。だから家を出るのが遅くても良いし、荷物にならないからって毎日ユウのとこまで届けてるんだってよ」


「へぇ……そうなの」


 注視すると、教室の出入り扉の向こうに小さな人影が見えた。裕之輔よりは低いが、美里菜よりは高い身長の少女。裕之輔に弁当の包みを渡しながら、何事かを話している。確かにどことなく線の細い少女で、病弱というのもわかる気がした。


 なにより裕之輔の妹――彩矢音の頭を見たとき、麟華は、ああ、この娘は家族に愛されているな、とわかった。何故なら、とても手のかかる髪型をしていたからだ。あれは自分だけでは出来ない。誰か近しい人に結ってもらわなければ綺麗に整えられないのだ。麟華もそうだったからわかる。麟華の母もかつてはあのように手のかかる髪型を、娘の自分に施してくれた。麟華もそれが嬉しくて、髪を長く伸ばしたのだ。だが、その母も今は亡い。髪の手入れは自分でするようになったが、髪型はあまり凝らないようになってしまった。


 麟華は膝に載せた自分の髪を、無意識に撫でた。


 弁当の受け渡しが終わったらしく、包みを手に裕之輔が席に戻ってくると、ちょうど予鈴が鳴った。


「おっし、授業だ!」


 拳を握り、気合いを入れる美里菜。どう見ても勉強好きには見えないが、彼女にとって授業とは全身全霊でもって受けるものらしい。


「今日も気合い入れろよユウ! お前いっつもあたしの下なんだからよ!」


「うん、頑張ろうね、美里菜ちゃん」


 弁当を鞄にしまいながら、美里菜の発破に穏やかに頷く裕之輔。これまた聞く所によると、彼はテストではいつも美里菜のすぐ下の順位についているのだという。つまり、学年二位。しかし実際は、そんな数字以上に小賢しい少年だということを麟華は知っていた。昨日のやりとりを思い出すと、まだ美里菜の方が扱いやすいように思える。


 まもなく一時限目の授業を担当する教師が入室してきた。クラスの皆が席に着き始める。


(おいハニィ。気付いたか?)


 授業の準備をする麟華の頭の中に、直接キューリアスの声が響いた。


(なによキューリアス。これから授業なのよ)


 デーヴァとヴェトレイヤーの間ではテレパスによる念話が可能だ。普段は必要ないが、このような人目のある場所でデーヴァと会話したい時には重宝できる。慣れない内は頭の中だけでなく、つい口に出して喋ってしまうのが難点ではあるが。


(あの坊主、ハニィと目も合わせない上、まともに会話しようともしていなかったぜ?)


(え?)


 それは気付かなかった。そう言われてみれば確かに、今日は一度も目を合わせていない。彼が登校してきた麟華に気付いたときはどうやら長い髪の方を見ていたようだし、座席で振り返ったときも肩や喉元あたりに視線を向けられていた気がする。会話においても、裕之輔の質問に対して麟華は反応を見せたが、そういえば彼が自分に対して何らかの返答をしてくれた記憶はない。


(……考え過ぎじゃないかしら。たまたま瑠璃室さんや妹さんが来たからでしょう?)


(ハニィがそう思うならそれでいいんだがな。昨日の軽蔑発言もあったんで、俺はてっきりこの態度がそれかと思っただけでよ)


 そう言われてしまうと、それを否定する材料は麟華の手元にはない。その上、キューリアスの言うことに心当たりがないでもないのだ。昨日のことを、麟華は思い出す。今、目の前で後頭部を晒している少年が、デーヴァを召喚してゲームの更なる説明を求めたときに浮かべた表情を。


 何とも形容し難い貌だった。笑っているのに、笑っていなかったというべきか。それとも、笑っていないのに、笑っていたというべきか。あの時、麟華の目には彼の顔があまりも悪魔的に見えた。何を言っても虚無のようにただ吸い込まれてしまうだけで、その内自分の存在すらも食われてしまうような、そんな根拠のない漠然とした不安を感じた。


 簡潔に言おう。彼が何を考えているのかが本気でわからず、その姿が化け物か何かに思えて、麟華は怯えてしまったのだ。


 あの時のことを思えば、彼がキューリアスの指摘したような微妙すぎる態度を取っていたとしても何ら不思議ではない気がする。しかし実はそうではなく、それがこちらの単なる勘違いだったとしても、それはそれでおかしくない気もする。


 矛盾した思考。


 要するに、わかることはただ一つだけだった。


 涼風麟華には神楽御坂裕之輔の考えることが、全然、これっぽっちも理解できていないという、どうしようもない事実。


 ――ダメね。【あの人】に言われたこと、全然実践できてないわ……


 授業が始まる。現代国語の教師が教科書の四十ページを開けと結婚式の神父のようにのたまう。授業の内容は退屈なものだった。自宅での予習と復習を欠かさない麟華にとっては聞き流すだけの価値しかない。


『君はどういう経緯であのゲームに参加することになったのかな?』


 そのせいか、ふと声が耳に蘇った。裕之輔のこの一言が呼び水となって、ゆっくりと麟華の記憶を掘り起こす。


 何故、自分はこのゲームに参加することになったのか。


 どうして、どんな願いも叶えてくれるという魔法の儀式の存在を知ることが出来たのか。


 呪文のような教師の声を所々耳に引っかけながら、麟華の意識は静かに想い出へと沈んでいった。




 ●




 【あの人】は、ホンダハルナという名前だった。


 いや、もしかすると偽名かもしれない。彼女がそう名乗っただけで、それを実証するものはなにもなかったのだから。


 出会いは偶然だった。しかし、その後のことは運命だったように麟華には思える。


 あれは麟華の母が突然、交通事故で亡くなったときのことだった。


 父は麟華が生まれる前からこの世におらず、母は実家から勘当を切られていたため、少女はあっけなく天涯孤独の身となった。


 母の葬式をすることも出来ない状態で、麟華が病院の屋上で途方に暮れていると、話しかけてきたのがホンダハルナと名乗る女性だった。


 看護士にも見えなければ医者にも見えない。ライトグレイのパンツスーツに身を固めていたが、社会人とは思えないほど若い容貌をしていた。カジュアルな格好をしていれば、自分と同い年と勘違いしていたかもしれない。あの時、年齢を聞きそびれたせいで、今でも彼女は麟華の中では年齢不詳のままだ。


 彼女は言った。


「つまんない顔をしているわね」


 そう言われたとき、ひどく腹が立ったことをよく覚えている。


 母が死んだのだ。しかも轢き逃げにあって。だというのに、つまらなくない顔なんてものがどうして出来るというのか。


 麟華は屋上のフェンスに身を寄せて、眼下を見下ろして、ハルナを無視した。


 その程度の反応は見越されていたらしい。彼女はそのままの調子でホンダハルナと名乗り、麟華にこんな質問を飛ばした。


「ねえ、魔法って信じる?」


 そんなものがあればとっくに頼っている、と麟華は答えた。


「そうだよね。あったら頼るよね。ねえ、もしかしなくても誰か大切な人が死んじゃった?」


 麟華は沈黙を返した。それはこの場合、肯定を意味した。


 ハルナは麟華と同じようにフェンスに手をかけ、空に視線を向けた。炎のように揺らめく夕日が綺麗な日だった。


「大変だよね」


 たった一言だった。


 父を知らない麟華にとって、母とは生きる世界そのものだった。母の傍こそが麟華の安息の場所であり、それ以外はほとんど意味のないものだった。


 その母が死んだ。


 つまり、世界が死んだ。


 もうこれ以上はない、世界の終わりだった。


 もう何も考えたくはないし、何も感じたくはないのに。それでも母以外の世界は存続していて、麟華はこれからの人生のことを考え、悲しみと苦しみを感じていた。そんな自分が殺したいほど憎かった。


 ちょうど屋上から飛び降りるか、トイレで首を吊るかで悩んでいるときに現れたのがハルナだった。


 邪魔だから用がないならどこかへ行け。言葉に出来ない感情の奔流で体中がむしゃくしゃしていた麟華は、ハルナにそう言った。


「まぁそう言わないで。私はあなたに幸運を運んできたんだから」


 笑って言われたその台詞を真に受けるほど、麟華は子供でも愚かでもなかった。


 しかし、突如として現れた巨大な狼を前にしては、どんな正論も理屈も通用しなかった。


「私は魔法使いです。そう言ったら信じてくれる?」


 こくこく、と麟華は頷いた。


「あなたに魔法を授ける、と言ったら信じる?」


 こくこく、と麟華は頷いた。


「ムー大陸は実在する、って言ったら信じちゃう?」


 こくこく、と麟華は頷いた。


「流石にそれはないけどね」


 とハルナは笑って、ヴァナルガンドという名前のデーヴァを黒地に金の模様が入ったカードにすると、麟華に差し出した。


「あげるわ。私にはもう、必要のないものだから」


 麟華はおずおずとカードを受け取った。


「それがあなたにあげる魔法。条件を満たせば何でも願い事を叶えてくれる、不思議で、残酷なカードなの」


 疑問があった。どうしてこんなものを譲ってくれるのか。あなたには叶えたい願いはないのか、と。麟華はそう問うた。


「もういいの」


 夕日を見つめて、さっぱりした口調でハルナは笑った。


 ということは、あなたの願いは叶ったのか? そう麟華が聞くと、ハルナは首を横に振った。


「ううん。でも、もういいの。私にはもうそれを叶える資格がないのよ。私は弱い人間だから」


 小首を傾げる麟華に、ハルナは空から目を逸らさずに言った。


「私はね、自分の願いを叶えるために他人を殺したの」


 さばさばした言い方だったので、言っている意味がすぐには理解できなかった。理解した後も、麟華には何も言えなかった。


「でも、そこで気付いちゃったのよ。自分の願いは、そこまでして叶えたいものじゃなかった、って。それに、同じ事を繰り返しながら自分を貫けるほど、私は強くないもの。もう取り返しはつかないし、何をしても償いきれないことだけど、辞めることだけは出来る。私よりも強い誰かに、この不思議なカードをあげることぐらいなら出来るって、そう思ったのよ」


 ハルナは、あは、と笑った。


「ここであなたを見つけたのはただの偶然。ここに私の知り合いが入院していたことがあって、今日は踏ん切りをつけるためにきたの」


 入院していた。その過去形でもって、ハルナはその知り合いとやらが故人であることを示した。そして、その故人こそが、彼女の願いの対象だったのでは、と今の麟華は思う。あの『大変だよね』という一言は、もしかすると彼女の経験から出てきた言葉だったのかもしれない、と。


「ねえ、あなた。あなたは自分の願いのために、誰かを殺してしまうことは厭わないの?」


 自分の願い。その言葉を聞いて、真っ先に思い浮かんだのは母の顔だった。


 だから、麟華は毅然たる態度で頷いた。母が生き返ってくれるのなら、その他の凡百などどうでもいい。例え世界中を敵に回しても、母に生き返って欲しいと麟華は願う。


 そんな麟華を見て、ハルナは哀しげに微笑んだ。


「そう。なら、一つだけ私からのアドバイス。あなたがもし誰かを殺すなら、その時は……その人のことをたくさん理解して、たくさん覚えてあげて。それでもあなたがその重さに耐えきれるなら、きっとその願いはそれだけの価値があるものだから」


 正直、ハルナの言っていることの意味はほとんどわからなかった。だが、そこに込められた、有無を言わさぬ意思だけは明確に感じ取れた。


 故に、麟華はハルナの言葉に頷きを返した。


「よかった」


 ハルナはそう呟き、刹那、瞳を伏せた。顎をあげ、空の彼方を見上げる。


「本当ならこのカードも渡さずに、あなたを止めるべきなんだろうけど、私にはその資格がないから。分不相応で身勝手な願いのために、他人の人生を強制的に中断させた私なんかには、ね」


 この突如として麟華の前に現れ、不思議なカードを譲ってくれた女性は、空を見て一体何を想うのか。


 それはきっと、今の麟華にはわからないものなのだろう。少なくとも、今でも麟華はそう思っている。ハルナが感じていたものは、きっと、【あちら側】へ行かなければわからない類のものなのだ、と。


「じゃあ、詳しいことはそのカードに聞いて」


 そう告げて、ハルナは麟華に背を向けて歩き出した。


 数歩進み、不意に立ち止まり、彼女は振り返った。


「じゃあね。あなたの願いが叶うことを、草葉の陰からささやかに祈っているわ」


 寂しげな微笑みを残して、彼女は去った。




 その直後、どこで母の訃報を聞いたのか、ハルナと入れ替わるように麟華の祖父母を名乗る二人組が現れた。


 この時になって初めて知ったことだったが、母は名門と呼ばれる家の出身だったのだ。母は使用人と通じ、麟華を胎内に宿したため、祖父によって勘当されたのだという。また麟華の父であるその使用人は、折しもあれ、伝染病にかかって亡くなってしまったという。


 祖父母はその当時のことを強く悔いていた。麟華の前で涙を流し、もっと早く行方が掴めていればこんな事にはならなかったのに、とひどく自分たちを責めていた。


 罪滅ぼしのつもりか、祖父母は麟華を引き取りたいと言ってくれた。母の葬式も、祖父母が執り行ってくれるという。


 運命が拓いた。麟華はそう思った。


 母以外の世界全体が、麟華に母を取り戻せと、そう言っているような気がした。


 母の死によって無彩色の地獄と化していた世界に、再び光が差して色彩が戻ってきたかのようだった。


 まだ何とかなる。


 もう一度、母を取り戻すことが出来る。


 自分の世界はまだ終わってなどいないのだ。


 いつかまた、必ず、母に髪を結ってもらうのだ。


 手にしたカードは、そのための力なのだから。




 こうして、少女は出会った。


 【神に背を向けた者達が、それでもなお請い願う戦場】(ヴェトレイヤーズ・オン・ザ・ベット・レイヤー)に。






 

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