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3. t - とんでもない戦闘の結果






 静謐なる空間、ベット・レイヤー。


 世界中の時が止まったこの空間で動けるのは、選ばれたヴェトレイヤーのみ。時空の間隙にあるここでは、ヴェトレイヤーとそのデーヴァ以外は色彩を失う。


「補足ルールその一、俺たちデーヴァを召喚している間、ヴェトレイヤーはその身体能力を強化される」


 キューリアスの、そこだけは黄色の嘴からダルそうな声が漏れ出ている。どうやら麟華は喋る気を無くしたらしい。腕を組んで裕之輔を厳しい目つきで見据えたまま、残りの説明を相棒に丸投げしていた。


「補足ルールその二、俺たちデーヴァには各々独自の特殊能力がある。坊主のドゥルティだかルガティだかの能力については個別で聞きな。俺たちまで聞いたらフェアじゃねえからよ」


「妾はドゥルガサティーといいます。どうぞサティとお呼びください」


「そうかいサティ。俺はキューリアスだ。好きに呼んでくれて構わないが、キューちゃんだけは勘弁な」


 時間ごと大気も停止しているせいか、ベット・レイヤーは耳が痛くなるほど静かで、声がよく徹った。その割には普段通りに呼吸できているのが不思議だったが、仕組みはよくわからない。


「補足ルールその三、制限時間は特になし。ただし対戦しているヴェトレイヤー同士がある一定以上の距離を離れると、戦闘中断と判断されて、ベット・レイヤーが解除される。また互いのデーヴァ同士が戦闘中断に同意した場合もこれに倣う」


 麟華の頭上に翼を広げて滞空しているキューリアスは、やはりホバリングをせずに浮いている。まるで空間に張り付いたかのようだ。これがもしかするとキューリアスの特殊能力なのだろうか。


「補足ルールその四、時間の止まっているベット・レイヤーでは、ヴェトレイヤーとデーヴァ以外への干渉は原則的に不可能だ。例えば閉まっているドアを開け閉めしたりなんかはできない。自分たち以外は完全に凍結しているものと思った方が良いな。つうか硬すぎてなんにも出来ねえっていうのが正直なところなんだが」


 裕之輔はちらりと校庭の人々を見やる。鋼鉄の像のように完全に固まっている。つまり、あれにも手出しは出来ないと言うことだ。これから起こる戦闘がどのようなものになるかはわからないが、とりあえず現実世界への影響は出ないのだろう。


「補足ルールその五、ベット・レイヤー内で負った怪我は、ベット・レイヤーが解除されると自動的に回復する。だから、やばくなったら逃げて仕切り直しってことも出来る。ただし、死んだ場合はまた別だ。死んだ奴もベット・レイヤーが解除されれば【一応は蘇るが】、その後、間を置かずに病気か事故、あるいは地震や津波といった自然災害で死亡する。こいつは絶対だ。必ずそうなる。どう足掻いても逃げられねえ」


 気分の悪い話だ、と裕之輔は心中で断ずる。ベット・レイヤー内で殺されてしまったヴェトレイヤーは、現実世界へ戻れば生き返ることができるのに、その後も結局は迫り来る死の恐怖を味わいながら死んでいくというのだ。


 しかもこうやってキューリアスが自信満々に説明している所を見ると、追い詰められても降参せずに死んでいくヴェトレイヤーは決して少なくないようだ。


 麟華が言う所の『魔法の儀式』を編み出した者は随分と意地が悪い性格をしているらしい。何でも願いを叶えるという誰もが垂涎ものの報酬を条件に、百人もしくはそれ以上の人々を殺し合いの渦へと巻き込み、哀れにも欲をかきすぎて死にゆく者達ですら最後までいたぶり尽くす。


 儀式は儀式でも、これは決して神聖なものではない。黒ミサと呼ぶべき代物だ。


 ゲームとしても、悪魔が考えついたものとしか思えない。これほどまでに残虐なゲームが実在し、日常の裏側で繰り広げられていたとは。にわかには信じがたいことだが、突然渦中へ放り込まれてしまった裕之輔には、残念ながら〝信じない〟という選択肢が最初から用意されていなかった。


「以上が俺からの補足ルール説明だ。あーダルい。何か質問はあるか?」


 黙って耳を傾けていた裕之輔は、すぐに問いかけた。


「このベトベトはどのくらいの期間、プレイされているのかな?」


 純白の鷲は翼を広げて宙にありながら、器用に首を横に振った。実に人間くさい動きである。


「さあな。詳しくはわからねえが、大昔からのようだぜ」


 この答えを受けて、裕之輔は視線をあらぬ方向へ逸らす。つかの間、沈思黙考する。


「……じゃあ、一度でもこれをクリアした人はいるのかな?」


「いることはいるぜ。それなりにな。まぁ決して多くはないようだが」


「その人達がどんな願いを叶えてもらったのか、は?」


「それは流石にわからないな。しかしまぁ、もしかしたら、そいつらは坊主が知ってる連中の中にもいるかもしれないぜ? なんだかんだで奇跡ってやつは世の中のそこかしこに転がっているからな。世界中の大金持ちや権力者の中には、このクソッタレなゲームの勝利者がいるかもしれねえ。もちろん、不老不死や死者蘇生を願って社会の片隅でひっそり生きている奴もいるかもしれねえが。つうかハニィが黙っているせいで俺が喋りすぎだな。あーダルダルだ」


「そろそろ、いいかしら? もう説明は十分でしょう?」


 キューリアスの台詞を『ダルダル』あたりでぶった切って、麟華が硬い声で言った。


「最初は色々と話もあるでしょうから、あなたに十分間の猶予をあげるわ。もう最低限のルールは説明したのだから、これ以上疑問があるのならそれはあなたのデーヴァから聞きなさい。そうね、今の内に出来るだけたくさん聞いておくことをお勧めするわ。どうせすぐに会えなくなるのだから」


 ふ、と麟華は嘲笑する。


 そんな安い挑発にのるほど裕之輔は短気ではない。彼は、あは、と笑って、


「自信満々だね。っていうか矛盾してないかな? たくさん聞いて良いなら、十分間の制限はちょっと少ないと思うんだけど」


「……黙りなさい。ただの皮肉よ。真面目にとらないで」


「怖いなぁ。こっちもただの冗談だよ。真面目にとらないで」


 挑発に挑発を返した。


 麟華の眉根のしわが一層深くなる。ベット・レイヤー内にいるおかげで、ぎり、という歯ぎしりの音が離れていても耳に届いた。


 それを聞かなかったふりをして裕之輔は背を向ける。


「じゃあ行こうか、サティ」


「はい。ヨア・マジェスティ」


 歩き出す前に、裕之輔は麟華とキューリアスに向かって軽く手を振った。


「また後で」


 勿論のこと返事はなかった。




 ●




 裕之輔が移動先に選んだのは体育館だった。


 麟華のデーヴァは鳥型だ。屋外よりも屋内が良いと判断した。とはいえ狭すぎても問題だろう。体育館がちょうど良いように思えた。


 裕之輔は階段を降り、廊下を歩きながら、確認できる点を確認した。


 まずはキューリアスの説明にあった補足ルールその一。デーヴァを召喚している間はヴェトレイヤーの身体能力は強化される。


 試しに廊下で幅跳びをしてみた。


 軽い踏み込みで、あっさり二十メートル以上を飛んでしまった。


 どう考えても人体の限界を超えている結果に、流石にぞくりときた。


「……強化って言うより、これはもう完全に別物じゃないかな。変身ヒーローみたいだ」


 テレビの特撮番組を思い出しながら、裕之輔はこの状態での肉体の扱いに慣れるため、様々な事を試した。廊下の端から端まで走ってみたり、階段で跳躍したり。まるで身体が羽毛になったかのように軽かった。


 次いで、補足ルールその二。裕之輔はサティにその特殊能力について質した。


「〝武器防具〟に変化することです。ヨア・マジェスティ」


 隣を歩く白銀の髪と紫紺の瞳を持つデーヴァの少女は、まるで晩ご飯の献立を紹介するような口調でそう言った。


「武器防具?」


 オウム返しにした裕之輔に、サティは廊下に草履で歩く音を立てながら優しく微笑む。


「はい。貴方様のお望みする武器防具へと変化します。剣でも、盾でも。残念ながら、一度に一種類のみですけど」


 カードから変化した上、さらに武器防具にまでなると彼女は言う。


「それが君特有の能力? あの白い鳥は武器防具になることは出来ないんだ?」


「はい、ヨア・マジェスティ。もちろん、あのおキュウリはんが妾と同じ能力の持ち主でなければ、の話ですが」


 思わず裕之輔はまじまじとサティを見つめてしまう。


 自分自身のデーヴァであることを差し引いても、美しい娘だと思う。人形のよう、と表現するのが一番しっくりくる美麗さだ。神ならざるものの造型故か、怖いくらい乱れがない。雪から作った絹糸のごとき髪も、名工が綿密なる計算と類い希なる感性でもって削りだしたような鼻梁と唇も、菫の精を結晶化させて磨き上げたかのごとき瞳も、何もかもが出来すぎている。むしろ美しすぎるせいかどこか作り物めいていて、同じデーヴァのキューリアスと比べても彼女の方が無機物に近い感じがした。


 多分、女神というものが実在するのなら、こんな姿をしているのだろう。裕之輔はそう思う。


 補足ルールその三。ヴェトレイヤー同士が一定の距離を離れるか、あるいは互いのデーヴァ同士が戦闘中断に同意した場合、ベット・レイヤーが解除される。これは今は確認できないので後に回す。


 補足ルールその四。ベット・レイヤー内ではヴェトレイヤーとデーヴァ以外には干渉できない。


 裕之輔は渡り廊下の途中で立ち止まり、近くの窓へ手を伸ばした。クレセント錠に手をかけ、はずそうとし、


「……硬いね、やっぱり」


「時空が停止していますから。今ここで窓を開けますと、現実世界では鍵をはずすのと窓を開くのとが【まったく同時に】起こることになります。矛盾が生じますので、専用の特殊能力でもなければ動かすことはできません」


「あ、そういう特殊能力のデーヴァもいるんだ。なるほどね。えーと……ところで、サティはどうして関西人?」


「はい?」


「いや、イントネーションが」


 先程から微妙に気になっていたのだが、やはりおかしいと判断して裕之輔は聞いてみた。サティのそれは、明らかに裕之輔や麟華とは違っていた。裕之輔は彼女の言葉を聞いていると、不思議と京都を連想してしまう。


「それに何か無理して喋ってないかな? 遠慮しなくてもいいんだよ?」


 サティはアメジストの瞳をぱちくりとさせた。少し驚いたらしい。しかしそれもすぐに笑顔に変わり、


「おおきに。そうさせていただきますわ、ヨア・マジェスティ」


 これまでどこか痼りがあるようだった声が、途端に固さがとれて明るくなった。


「そのヨア・マジェスティっていうのは変わらないんだね」


 それにしても、と裕之輔は思う。サティは自分がカードから呼び出したデーヴァだというのに、何故にこのような口調になっているのだろうか。あのキューリアスもそうだが、名前も最初から持っていたようである。そこはゲームよろしく、全てランダムで決定しているものなのだろうか。よくわからない。


 ――まぁどうでもいいか。


「それじゃ試しに何かに変化してもらえる?」


「はい。何にしはりますか? ヨア・マジェスティ」


「そうだねぇ……」


 裕之輔はサティの身につけている和服から連想して、直感で決めた。


「じゃ、刀で」


「はいな」


 サティがにっこり笑った瞬間だった。


 その両目に宿る紫水晶から淡い光が生まれ、広がり、彼女の全身を包み込んだ。サティの姿が、輪郭が、その中で溶けていく。完全に見えなくなったと思うと、出し抜けに光が強くなり、ぱっと弾けた。


「!」


 眩しくて顔を顰めた裕之輔の前に、果たして一振りの刀が現れていた。


 切っ先を下に向けた状態で宙に浮いている。刀身は鏡のような白銀。鍔は紅、柄の拵えは純白だが中央に紫の宝石が埋め込まれている。柄頭からはそのままサティの頭髪を連想させる短い毛が一房だけ伸びていた。


 サティと同じく、美しい刀だった。


 我知らず、自然と裕之輔はその刀を握る。すると、刀が微かに震え、サティの声が響いた。


「これが妾、ドゥルガサティーの特殊能力『万能武具ドゥルガー』どす。貴方様がお望みならば、それが武器防具の概念を持つものである限り、どんなものにだって変化してみせますえ」


「……すごいね」


 なんの捻りもない感想しか出てこない。というより、どんな修辞を凝らそうとも、目の前にあるこの刀の圧倒的な存在感には到底叶いそうにないと思ったのだ。


 さっきまで目の前にいた女の子が、一本の刀になった。だというのに、その存在感は全く変わっておらず、まるで今でも女の子が傍にいるように裕之輔には感じられる。


 それは、頼もしさ、と呼んでもいい感覚だった。


「試しに振ってみてもいいかな?」


「そらもちろん。妾は貴方様のデーヴァどす。どうそ遠慮なしに。ヨア・マジェスティ」


「ありがとう」


 裕之輔は礼を言うとサティの変化した刀――ドゥルガーを両手で軽く構えた。


 不思議な感覚だった。まるで身体が最初からこの刀の使い方を知っているかのように、しっくりときた。そのため、裕之輔は敢えて意識することなく、身体が動くままにドゥルガーを振った。


 我ながら凄まじい速度で窓を斬りつけた。


 落雷にも似た激しい音が生じる。しかし、振り抜いた後に窓を確認すると、やはりと言うか何というか、傷一つ無かった。このベット・レイヤーの頑強さは、もはや絶対的と言っても良さそうだった。


「サティ、痛くない?」


「妾の身は〝武器防具〟という概念で出来ております。元より痛覚なんていうもんは持ち合わせておりまへん」


「そっか」


 それなら安心だ、と片手でドゥルガーを右へ左へ振る。切っ先まで自分の神経が通っているかのような一体感を感じる。


「扱いやすいってレベルじゃないなぁ、これ」


 くす、とサティが笑う気配。


「それが妾の真骨頂どす。妾が変化した武器防具は全てヨア・マジェスティのためのもん。完全に貴方様の身体の一部になりますさかい、その分、あんじょう使いこなしていただくことが可能おす。お加減はいかがどすか?」


 道理で、と裕之輔は納得する。真剣を握ったことなどこれが生まれて初めてだったのだが、あれだけ全力で打ち込んだというのに、手首もどこも痛めていない。身体能力が強化されているとはいえ、それだけではああまで見事に身体を動かすことは出来なかっただろう。


「最高だね。今なら何でも斬れる気がするよ」


「そらよろしゅおす」


 サティの喜ぶ雰囲気がドゥルガーを通して伝わってくる。


「戻っていいよ」


 と裕之輔が手を離すと、ドゥルガーを紫の輝きが包み込み、再び見事な紅色のグラデーションのかかった長着姿のサティが現れた。


「味もしゃしゃりもない能力で恥ずかしいですわ」


 袖を口元に持ってきて鈴を転がすような声音の謙遜に、裕之輔は、あは、と笑う。


「そんなことないよ。行こうか」


 改めて足を体育館へ向ける。


 裕之輔が通う神無学園の体育館は地下にある。ここを選んだ理由は先述の通りだが、他にもある。もし麟華がキューリアスに空から索敵させても見つからないように、という計算だ。とはいえあの様子では仕掛けてくるのは十分後でも、もう既に索敵、あるいはこちらの追跡ぐらいはしているかもしれない。


 渡り廊下を抜けて、学生食堂と部室長屋の入っている棟へ身を移す。階段を下り、ちょうど開け放たれていた扉をくぐって足を踏み入れる。


 ちょうど実技前の説明をしていた所らしい。体育館で授業を行っていた集団は、隅の方で整然と【固まっていた】。


 見上げると、思っていた以上に天井が高い。これはチョイスをまずったかも、という考えが裕之輔の脳裏をよぎったが、すぐに思い直す。まぁ致命的な問題にはならないだろう、と。


「ちょっと薄暗いかな?」


 色彩が抜けた所で、光が無くなっているわけではない。しかし周囲の色調が全てモノトーンで統一されているため、どうしても曇り空のような暗い雰囲気を感じてしまう。


「ベット・レイヤーはいつもこんなもんどす」


「だろうねぇ」


 話しながら二人は最奥のステージに歩み寄ると、下手側の階段から上へあがった。


「さて、それじゃ、ここで涼風さんを」


 待とうか、と言おうとした時だった。


 体育館の出入り口付近に人の気配を感じた。


 唇を閉ざして目を向けると、果たして涼風麟華がそこにいた。


 まず髪型が変わっていることに気付いた。長い、長すぎる髪を後頭部で一本にまとめ、三つ編みにしている。先程までの髪型では戦いの邪魔になるからだろう。それでも持て余す黒髪を、腰に巻き付けて縛っていた。もうそこまでするのならば切ってしまえばいいのに、と裕之輔は思ってしまう。


「思ったより早かったね」


 裕之輔の声は思った以上に体育館内で反響した。すこし場違いな気分になる。


「ちゃんと六百秒を数えたわよ」


 同じく反響しながらの麟華の返事。


 言われてから裕之輔は気付いた。制服の左袖に隠れていた腕時計を見ると、確かに秒針の動きが止まっていた。このベット・レイヤーでは間違いなく時間が停止している――その事実を裕之輔は再確認する。


 ――律儀に数えてたんだねぇ。


 別にそのあたりには細かく拘るつもりは無かったので、素で感心してしまう裕之輔だった。


 神無学園の生徒二人は数十メートルの距離を置いて言葉を交わす。


「いや、別に疑ってるわけじゃないよ。単なる感想だから。それにしても、よくここがわかったね?」


「キューリアスに空から捜させたわ。見つからなかったらここに来たのよ。そしたら、あなた達がここにいた。それだけだわ」


「……まいったな」


 自らの考えが浅かったことを裕之輔は思い知る。逆転の発想だ。空から見て見つからないのならば、相手は空から見つかりそうにない場所に潜んでいる――麟華がとったのはそういう思考法だ。


 麟華が声を張り上げた。


「さあ、覚悟はいいわね? もう待たないわ。今度こそあなたのカードを渡してもらうわよ!」


 漲る戦意が目に見えるようだった。麟華はローファーのまま体育館に足を踏み入れ、こちらへ向かって歩き出す。ずんずんとぎらつく光沢のフローリングを踏みならしながら、右手を猛然と振りかぶり、音が聞こえてきそうな勢いで裕之輔を指差した。


「キューリアス!」


 その瞬間、体育館に一陣の風が吹き込んだ。


 麟華の背後、出入り口から白の疾風が滑り込み、稲妻のごとく飛んだ。


「!?」


 身体能力が強化されて視力も良くなっていなければ、何も分からないまま顔を貫かれていただろう。


「盾っ!」


 裕之輔は望むものを一言で叫んだ。


「はい!」


 それに対する返事も最低限だ。


 紫光が弾け、中央にアメジストを埋め込んだ赤い縁取りの白銀の盾が、裕之輔の前に現れる。


 裕之輔はそれを構えて白い砲弾を受け止めた。


「――~っ!」


 衝撃、そして震動。盾で受け止めたというのに、全身が電流でも流されたかのように痺れた。


 ドゥルガーの盾に弾き返された白の迅雷は、天井近くで翼を広げて体勢を整える。


 それは言うまでもなく、純白の大鷲。現れたと同時に麟華の頭上を越え、その鋭利な嘴を以て突撃してきたのだ。


「うわ……吃驚した」


 言葉ほどには動揺していない声で裕之輔が言うと、遠くから舌打ちの音が聞こえた。


「何をしているのキューリアス! もっとキビキビしなさい!」


「これでもダルいながらも頑張ったんだぜハニィ? やっぱりこの坊主、大人しそうに見えてなかなかの曲者だ。腕の一本はもらおうと思ったんだが」


 容赦のないキューリアスの台詞に、裕之輔は思わず抗議の声をこぼした。


「二本までしかないのをそんな簡単に持って行かれたら困っちゃうよ」


 この軽口に麟華が怒鳴る。


「困らせないでどうやって戦うというのよ! あなたも真剣に……」


 不意に麟華が絶句する。その目が見るのは、片手で盾を構えたまま新しいキャンディを口に放り込む裕之輔の姿だった。レモン味の飴が溶けてなくなってしまったので、今度はハッカ味を補給している。


 麟華の目が、完全に据わった。


「……もう我慢できない……!」


 その右手が懐に滑り込むと、出てきたのは二十センチほどの棒だった。麟華はそれをしっかと握って、上から下へ振り下ろす。しゃきんと音が響いて、棒はその身を三倍に伸長した。


 特殊警棒である。


 どうやら今度こそ本気でキレたらしい。


「え? あれ? っていうか、ここって武器持ち込み可なの?」


「きますえ、ヨア・マジェスティ」


 緊迫した状況下では自分のデーヴァすら質問に答えてくれなかった。


 サティが質問に答えず注意を促したのも無理もない話だった。ベット・レイヤー内における身体能力強化は、なにも裕之輔だけの特権ではないのだ。


 ズドン、と凄まじい音が震動波として響いた。麟華の踏み込みの音である。彼女はその音と共に、文字通り【飛んだ】。


「!」


 打ち出された一本の矢のごとく大気を貫き、一瞬で間合いをゼロにすると、麟華は壇上の裕之輔に電光石火の一撃を振り下ろす。


「ぃよっ、と」


 もちろん黙ってやられるわけにはいかない。裕之輔はドゥルガーの盾をかざして防御の態勢をとった。


 激突。


 先のキューリアスの突進に負けず劣らずの衝撃が裕之輔の全身に走った。じん、と走る痺れに歯を食いしばる。歯の外に逃がした飴で頬がぽっこりと膨らんだ。


 麟華の攻撃は連続だった。裕之輔の頭など一撃で木っ端微塵にしてしまうだろう威力が、何度もドゥルガーの盾に襲いかかる。


 猛攻撃を受ける最中、盾の陰から麟華の様子をうかがうと、言葉に出来ないほど怖い顔をしている夜叉がそこにはいた。


 これだけ激しい動きながらも無言なのが、余計に恐ろしかった。


 間違いない、と裕之輔は確信する。麟華は本気だ。


 冗談抜きで殺される。


 今更ながら裕之輔は心胆を寒からしめる。


 そうだ。自分は今、〈Betrayer's on The Bet Layer〉という名の殺し合いに身を投じているのだ。


 この瞬間、この世界には、デーヴァを除けば命ある者は裕之輔と麟華しか存在していない。つまり目撃者は誰もいないということだ。そして、ここで殺されれば現実世界で一度は蘇れど、その後も確実に何らかの方法で再度死ぬことが決まっている。


 これはリアルなゲームではない。


 【ゲームなリアル】なのだ。


「相手はハニィだけじゃないぜ、坊主」


「!?」


 耳孔に入ってきたシニカルな声に背筋がぞくりとする。刹那、裕之輔はほとんど本能的にその場から飛び退いた。


 今の裕之輔の跳躍力は常人を遙かに凌駕する。壇上から飛び上がって天井に触れる位置まで身を移した裕之輔は、一瞬前まで自分がいた空間を純白の弾丸が貫いていく光景を見た。


 空中に身を置きながら、裕之輔はハッカ飴を舌に乗せて思考をクリア。状況を冷静に分析する。あの様子では、少なくともキューリアスの能力はサティのように何かに変化するものではなさそうだ。あの攻撃力と機動力は脅威的だとは思うが、まさかあれが彼の売りではないだろう。もっと他にあるはずだ。


 それよりも、ヴェトレイヤーとデーヴァに同時に攻められるのがこんなにも厄介だとは思わなかった。こちらはサティが武具に変化しているせいで、ほとんど一人で戦っているようなものなのだ。実質、二対一での戦い。考えなしのままではどうやら生き残れそうにもない。何かしら打開策を考えなければならなかった。


 麟華が無駄のない動作で空中の裕之輔に向き直った。その両手が、何故かスカートにかかっている。


 何をする気だろうか? そう裕之輔が疑問に思うのとほぼ同時に、彼女はなんとスカートを大きくまくり上げた。


「へ?」


 裕之輔は思わず頓狂な声をこぼしてしまった。彼女が真っ正面からの行動によって裕之輔を驚かせたのは、これが初めてかもしれない。


 しかしその行為は剣呑極まるものだった。露わになる眩しい太股には赤いリボンが巻かれており、そこには――


「サティ、もっと大きい盾になって。僕を隠すぐらいの」


「はい、ヨア・マジェスティ」


 理解した瞬間にはもう裕之輔は指示を出していた。ドゥルガーの盾が盾に横に伸長し、裕之輔を覆い隠す。麟華の突き刺すような視線を遮断する。


 その直前に裕之輔が確認したもの。それは、太股とリボンの間に挟まった幾本もの投げナイフだった。


 一呼吸遅れて、空中で身動きのとれない裕之輔に向けて白銀の牙が空を裂いて殺到する。豪雨のごとき音響がドゥルガーの盾に弾けた。


 有効打にならないと分かっていながらも、投げずにはいられなかったのだろう。


 危なげなく床に着地した裕之輔はサティに元にサイズに戻ってもらいながら、油断無く壇上の麟華を見据えた。


 ちょうど立ち位置が先程とは逆になった形になる。


「……痛くない?」


 つい聞いてしまったのは、麟華の指の先と、スカートの下からのぞく足に赤い血が滴っていたからだ。投げナイフを取り出す際に切ってしまったのだろう。


 ――そこまで急いで投げなくても。


 よほどフラストレーションを溜め込んでいたのだろう。その大半は裕之輔が原因なのだろうが。


 少し息を乱していた麟華は、もはや敵と会話など不必要、と言わんばかりに裕之輔を無視。


 代わりに指を鳴らして、自身のデーヴァの名を呼ぶ。


「キューリアス」


「オーケィ、ハニィ。そろそろダルくなってきたから帰るのか?」


「違うわよっ! いいからキビキビと治しなさいっ!」


「あーダルいダルい……」


 息が合っているのかいないのか。夫婦漫才のようなノリでせっかくの緊迫感を台無しにした片方が、ぶつぶつとぼやきながらもその嘴を大きく開いた。


 菱形に開いた口から、ダイヤモンドダストのごとき光輝の粒子がするすると流れ出た。妖精の粉かと見紛うそれは、風にのって麟華の周囲を取り巻く。


 妙な既視感があった。裕之輔はこの光景を、かつて見たことがある。あれはいつ、どこでのことだっただろうか。何度も、そう何度も見たはずなのだ。喉元のすぐそこまで出かかっているのに、どうしても思い出せない。


 しかし、この感覚と直前の麟華の台詞を結びつけると、あっさりその正体は判明した。


「……ああ、うん。なるほど。回復魔法ってやつかぁ」


 裕之輔の見ている前で、麟華の指先と足を滴り落ちていた血液が逆流を始めた。巻き戻しフィルムを見ているかのようだった。赤い糸がするりと体内に戻り、文字通り傷口が塞がったのである。幸か不幸か、流石に太股の様子までは確認できなかったが。


 道理で見覚えがあるはずだった。ステロタイプのコンピューターゲームでよくある演出だったのだ。


 威嚇のつもりか、麟華は特殊警棒を横薙ぎに払って風切り音を立てる。


「攻撃向きの能力ではないからバカにしているの? 言っておくけれど、あなたのソレに比べれば幾分もマシだと思うわよ?」


 顎でドゥルガーの盾を示す。その発言を聞いて、裕之輔は咄嗟に一芝居打つことを決めた。


「まぁそれはそうなんだけど。なんせこっちは【盾しかないからね】。涼風さんみたいに武器があれば良かったんだけれど」


「同情なんてしないわよ。勝負は時の運。死ぬのが嫌なら降参しなさい。カードを渡すと言うのなら許してあげるわ」


 裕之輔は、あは、と笑う。


「バカだなぁ。覚えてないの? 嫌だ、って言ったはずだよ?」


「…………」


 予想の範囲内だったらしい。麟華は怒り出すこともなく、ただ黙然と裕之輔を見下ろすだけだった。


 逆に裕之輔にとっては、想定の範囲外のことが多すぎる状況だった。


 このような荒れ事はほとんど経験したことがない上、〈Betrayer's on The Bet Layer〉は本物の殺し合いだ。今日まで平凡な高校生だった裕之輔には勝手の分からないことだらけだった。


 それに、麟華とキューリアスの特殊能力も予想外のものだった。正直、裕之輔の想定していた中では最悪の部類に入る。


 治癒能力――それは、いくら傷つこうとも即座に再生し、戦い続けることが可能な力だ。特に麟華のカードへの執着ぶりを考えれば、彼女がその力によって飽くなき闘争を望むことは容易に想像できる。


 つまり、傷つけることによって麟華の心を折り、カードを諦めさせることはほとんど不可能。


 殺すしかない、という結論になる。


 ――そういうのが一番厄介だよ。


 どんなに傷つこうとも死ぬまでカードを求める、そんなゾンビ的なイメージ。


 面倒なことに、裕之輔には彼女を殺すという選択肢がない。針の先端ほどもそんなことは考えたくない。だから困るのだ。


「……なのよ」


「え?」


 小さな声で麟華が何か呟いた。裕之輔は咄嗟に耳を澄ます。


「……なんなのよ、あなたは!」


 うねるように跳ね上がった怒声が裕之輔の耳を劈いた。


 烈火に燃える瞳が熱線のごとき視線で裕之輔を刺す。


「どうして私の邪魔をするのッ!? 一体何がしたいのよッ!? 何が望みだって言うのよッ!?」


 怒りに震える声が迸った。体育館という広い空間にわんわんと反響する。


 その間隙を縫って突き刺すように、裕之輔は言葉を放った。


「そういう涼風さんの願いは?」


 空気を切り裂いたかのような問いだった。麟華の顔が、はっとなる。


 裕之輔はいっそ酷薄なほど冷静な声で、質問を繰り返す。


「僕にそれを聞く涼風さんが、この〈Betrayer's on The Bet Layer〉にかける望みってなに? 僕に聞く前に、自分のことを話すのが筋ってものじゃないのかな」


 麟華の放つ火傷しそうなほど強い視線を、裕之輔は真っ正面から受け止めた。彼も目線に意思を込める。お前が話さなければこちらも話す義理はない、と。


 その意図は確かに通じた。一度、麟華の唇が真一文字に固く結ばれた。その左手がすっと持ち上がり、首の後ろに垂れ下がるおさげに触れる。そのまま慈しむように髪を撫でると、何かを決意するような一拍の間を置いて、彼女は唇を開いた。


「……死者の蘇生よ」


 多くは語りたくない。そんな口調だった。


「――誰を?」


 それでも裕之輔は質問を重ねた。静かに、淡々と。


 ほんの数瞬、麟華は目を伏せた。辛い記憶を瞼の裏に見ているかのように、睫毛が微かに震えた。


 それでも裕之輔の語調に引き摺られるように、麟華は最低限の単語だけをぽつりと告げた。


「……母を」


 もうこれ以上は何も言うまい。そんな意思を麟華の視線、声、動作などから感じ取る。


 だがもう充分だった。


 収穫は得た、と裕之輔は判断した。麟華の言葉に浅く頷き、ハッカ飴でスースーしてきた鼻に大きく息を吸い込む。


「そっか。なるほどね」


 気の利いた事を言うことは出来なかったし、そのつもりもなかった。所詮他人である裕之輔に、母親を亡くした麟華の気持ちはわからない。そしてこの場における下手な同情は、かえって彼女の機嫌を損なう気がした。


「――さあ、次はあなたの番よ」


 麟華が裕之輔に言葉を促した。裕之輔はそれを受けて、間違いなく怒るだろうなぁ、と予想しつつ、用意しておいた答えを言った。


「ないよ」


「な……? ……ッ!」


 刹那の虚脱の後、目に見えて獰猛なしわが少女の綺麗な顔に刻まれる。射込まれる視線はもはや剣そのものだ。敵意を超えた殺意が、裕之輔の全身に突き刺さった。


 だから裕之輔は続けて言葉を紡いだ。


「ないね。全然無い。少なくとも【こんなふざけたもの】に託す願いや望みなんて、僕は持ち合わせていないよ」


「――!」


 望みを明かすどころか、裕之輔は真っ向から〈Betrayer's on The Bet Layer〉を否定した。


 それを麟華はどう受け取っただろうか。


 裕之輔をただ自分をからかっているだけの愉快犯だと思うだろうか。


 それとも『こんなふざけたもの』と称されたものに母の蘇生という、大それた願いを懸けている自分を嘲笑っているのかと思うだろうか。


 前者なら怒りはまだ軽い方だろう。しかし、後者ならば深刻な憎悪を呼ぶかもしれない。


 それでも構わない、と裕之輔は思う。


 少年は他人に強制されることが死ぬほど嫌いだったが、誰かを犠牲にしてまで己が欲望を満たそうとする人間も大嫌いだった。


 咄嗟に二の句が継げないでいる麟華に、裕之輔は、あは、と笑う。


「ありがとう。おかげで踏ん切りがついたよ」


 口内の飴玉を奥歯で噛み潰し、初めて、少年は少女を睨み付けた。


「僕は君を軽蔑する」


 麟華が息を呑む気配を、裕之輔は確かに感じた。もはやドゥルガーの盾を下ろし、無防備な姿で裕之輔は麟華と対峙する。


「お母さんを生き返らせるためなら他人の命はどうでもいいのかい? 他にも肉親を失って悲しんでいる人達はみんな無視かい? 自分だけこんなふざけたものに頼ってズルして、それでお母さんが戻ってきて君だけ幸せになろうってつもりなら、本当に最低だ。卑しすぎる」


 裕之輔は本気で吐き捨てる。不快感を噛み潰すように、飴玉の破片を歯で磨り潰す。


「本当におめでとう。涼風さん、君は僕の大嫌いなものの内、二つもの条件を満たしたよ。これでもう僕が君に好意的になる理由はないし、従って君にカードをあげることは出来ない」


 立ち尽くす麟華に、裕之輔は声に嫌悪感に滲ませ、更に言い募る。


「君の願いそのものを否定するつもりはないよ。大切な人を亡くすことは悲しいことだと、僕も思う。けどだからって、安易にこんなものに頼った挙げ句、他人を殺す覚悟を決めるっていうのは間違っていると僕は思う。それに」


 君のお母さんだってそんなことは望んでいないと思う、などという月並みなことを言うつもりは裕之輔にはない。


 あくまでも個人的な主観をもって、彼は言う。


「僕も君と同じ子供だけど、それでも世の中にはたくさんの人達がいて、そのみんながたくさんの理不尽の中で生きていることは知っているつもりだよ。誰だって、色々な気持ちを持ったまま生きているんだと思う。それでもこの世界には絶対的なルールがあるから、みんなは我慢しながらそれを守っているんだ。でも、このゲームは違う。〈ベトベト〉は世界の絶対的なルールを破る方法だ。みんながどれだけ泣き叫んでも変えられない現実を変えるやり方だ。現実そのものが変わるならみんな幸せだけど、誰か一人だけが幸せなら、それは〝反則〟って言うんだよ」


 ――我ながら饒舌に過ぎるなぁ。


 言い過ぎかもしれない。裕之輔は心の片隅でそう思う。元来、自分はここまで喋るような人間ではない。他人事のようだが、どうやら自分は余程、この転校生に対して腹に据えかねているらしい。


 卑怯だと、そう思ったのだ。彼女の願いが叶うこと、それが即ち、彼女以外の人々の我慢や努力を全て否定することに思えた。また、生まれたからには必ず死ぬという運命をねじ曲げることも、人間の尊厳を踏みにじる行為のように思えた。だから、そんな願いが叶うことこそが理不尽だと思った。


 許せない、と。


 しかし。


「――それがどうしたと言うのよ」


 霜が降りるような冷え切った声が、全てを遮断した。


 半ば予想済みの返答だった。


「そんなものは関係ないわ」


 完全な拒絶。見えていないのではない。わかっていないのではない。裕之輔の言ったことなど全て理解した上で、それでも麟華は今の道を選択したのだろう。


「反則? 上等よ。間違っている? 最高だわ。それぐらいでなければ困るのよ。それぐらい私の望みは破格なものなのだから」


 良心の呵責と罪悪感などとうの昔に踏み潰して、彼女は今、そこに立っているのだろう。


「何と言われようとも、何と思われようとも、誰に嫌われても、誰に憎まれてもいい。私は私の願いを叶えるだけ。誰にも邪魔なんかさせないわ。文句をつけてくる連中は全員、全力で潰してやるだけよ」


 今更、揺るぎなどしない。他人を殺す覚悟も、自分が殺される覚悟も決まっている。そんな力強い意思の光が、その瞳には宿っていた。


 予測していたことではあった。生半可な気持ちでこのデス・ゲームに参加する者などそうはいるまい、と。話し合いも説得も、この〈Betrayer's on The Bet Layer〉の参加者には無用のもの。そのようなものが通じる段階はゲームに参加する前に通り過ぎている。道徳や倫理などといったものは、とっくに飲み下しているのだ。


 だからこそ救いがたい、と裕之輔は思うのだが。


「そっか。なるほどね」


 裕之輔は先程と同じ台詞を繰り返した。元より言葉だけで全てが解決できるなどとは思っていない。言うべきことは言った。それが通じないというのなら、それまでだ。


 あとは実力だけがものを言う。


 だから、裕之輔は笑ってこう言った。


「それじゃ、僕は帰るよ」


 麟華の表情に変化はなかった。真剣な面持ちのまま、しかし完全に凝固していた。耳から受け取った情報を脳が拒否しているかのようだった。


「じゃあまたね」


 裕之輔は返事を待たず、壇上の麟華に背を向けて歩き出した。


「……おい、ハニィ?」


「……はっ!?」


 キューリアスの声で、麟華はようやく我に返ったようだった。


「ちょっと、こら――待ちなさいッ!」


 背中を見せて歩み去っていく裕之輔に叫ぶと同時、衣擦れの音が立った。スカートをまくり上げ、中から投げナイフを取りだす音である。


 ナイフが投擲されるのと、裕之輔が振り返るのとはほぼ同時だった。


 ドゥルガーの盾を持つのとは逆の手で、裕之輔は飛来したナイフを受け止めた。さくっ、とあっさりした音と共に銀の刃が掌を貫通した。赤い血が、ぱっと弾ける。血飛沫が少年の制服の袖と顔を汚した。


「あっ……」


 それを見て、微かな、本当に微かな呼気のようなものが麟華の喉からこぼれた。裕之輔の耳はその小さな声を聞き取り、内心でほくそ笑む。


「あいたた」


 小声で痛がりながら、裕之輔は左掌に突き刺さったナイフをまじまじと見た。薄く湾曲した刃が手の甲を貫いて先端を覗かせている。突きだした刃の脇から赤い液体が流れ出て、皮膚の上を滑って滴っていく。


「大丈夫どすか、ヨア・マジェスティ?」


「うん、大丈夫。平気だよ」


 心配そうなサティの声に受け答えながら、裕之輔は改めて麟華を見やった。彼女はナイフを投げた体勢のまま、やや潤んだ瞳でこちらを見ていた。あれだけ大口を叩いておきながら、どうやら裕之輔の怪我に少なからずショックを受けている様子だった。それもそうだろう、と裕之輔は思う。人を殺す覚悟なんて、そんな簡単に決められるものでもなかろうに。


 裕之輔は、あは、と笑ってみせた。


「いきなり死のうとしたから勘違いされていると思うんだけどね。悪いけど僕はそんなに無謀じゃないんだ。初心者が勝手のわからないゲームでいきなりベテラン相手に勝てるわけがないし、今回は様子見さ。それに涼風さんとそっちの鳥さんとは違って、僕とサティは会って間もないしね。ほら、連携とか色々攻略法を考えないと。聞きたいことも聞けたし。だから、今日はもう逃げさせてもらうよ」


 掌に刺さった投げナイフを歯で噛むと、痛みに顔を顰めながら引き抜く。ぺっと吐き出すと、ナイフは乾いた音を立ててフローリングに転がった。


 裕之輔はにっこりと笑顔を作って、


「じゃあね」


 と血塗れの手を振って踵を返し、今度こそ裕之輔はその場を立ち去る。


 正々堂々かつ悠々と、彼は逃亡したのだった。




 ●




 結局、キューリアスが全てのスローナイフを嘴と鈎爪で回収して戻ってくるまで、麟華はその場に立ち尽くしていた。


「まぁダルいよな。気持ちはよくわかるぜ、ハニィ」


 そんな相棒の声に、麟華の意識は急速に覚醒した。いけない。彼を逃がしてはダメだ、ここで仕留めないと――!


 視線を上げて、誰もいない空間を視界におさめて、


「追うわよ、キューリアス!」


「まぁ待てハニィ」


 駆け出そうとした所を呆れた声で制止された。


「なにを……」


 言っているの、と怒鳴ろうとして、喉から出てきた裏声に自分で驚いた。


 自分が動揺しているのが、身体の状態としてわかった。走ったわけでもないのに心臓が早鐘を打っていて、呼吸が苦しかった。


 純白の大鷲は溜息混じりに少女を諭す。


「確かに今からでもハニィを連れて坊主らに追いつくことは可能だが、今日はもうやめとけ。今日のお前はおかしい。俺にキビキビしろと言うのは良いが、そういうハニィこそ全然キビキビできていねえだろ。これじゃ俺も本来の力なんざ発揮できねえぞ。理由はあの坊主がネジのぶっとんだ奴だからか? 違うよな」


「…………」


 麟華は何も言い返すことが出来ない。どうしようもないほど図星だった。今日の自分はどこかおかしいと、麟華自身もそう思っていた。相手がどう考えても変人だったというのもあるが、それだけではない理由で終始自分のペースが乱されてしまって、まるで本領が発揮できなかった。頭の中で何かが空回りしているような、そんな不快感があった。


「焦りすぎなんじゃねえのか? いくらダルくても、いきなりあの脅迫はねえしな」


「……だって……」


 言い訳を口にしようとして、思い止まる。それは無様だ、という判断が働いた。しかし、


「今が数十年に一度の機会だから、だよな?」


 キューリアスには全てお見通しだったらしい。いつもはダルいダルいと文句ばかりを言うくせに、こういう時にはやけに鋭い自分のデーヴァが麟華は苦手だった。


 全てはキューリアスからの情報が発端だった。


 この〈Betrayer's on The Bet Layer〉には時折、誰かが図ったかのようにヴェトレイヤー達が一つの土地に集まることがあるらしい。キューリアスはその時期を『決着の刻』と呼称し、その場所を『地脈が良い土地』などと呼んでいた。その発生条件は未だ明確ではなく、発生周期もランダムだという。つまりはほとんど偶然なのだろう、と麟華は考えている。


 大体は数十年から百年の間に一度あるかないか――というものだそうだが、運の良いことに〝今〟がまさにそのタイミングだと彼は言った。


 だから麟華はここ、片桐市へ越してきたのである。


 今この時、表面上そうは見えないが、片桐市はヴェトレイヤー達のひしめく魔窟なのだ。


「……だって、本当なのでしょう?」


 畢竟は言い訳めいた口調でそう確認してしまう麟華。はっ、とキューリアスが鼻で笑う。


「愚問だぜハニィ。俺達デーヴァはこのクソッタレなゲームのルールブックでもあるつう話はもうしたよな?」


 明文化されたルールのないこの〈Betrayer's on The Bet Layer〉では、唯一デーヴァのみがゲームの根幹と通じている。彼ら彼女らの役割は、ヴェトレイヤーの頼れる相棒であると同時に、ゲームの情報を送受信するための端末でもあるのだ。その上デーヴァには、ベット・レイヤーの展開、カードの譲渡の審判などといった〈Betrayer's on The Bet Layer〉に必要不可欠な機能が多く組み込まれている。そんなデーヴァからの情報を疑うのは、ゲームそのものの信憑性を疑うのと同義だった。


 麟華は自らを落ち着けるように、ふぅ、と吐息を一つ。腰に縛り付けたおさげをほどき、ゴムバンドもはずして長い髪を解放する。絡み合うことなく、しなやかな弾性をもってほぐれていく髪を背後に払いながら、少女は謝罪を口にした。


「……ごめんなさい、キューリアス。あなたの言うとおり、冷静さが欠けていたようだわ」


「わかってくれりゃそれでいいさ」


 アルビノの大鷲はそう言ってシニカルに笑う。普段は面倒くさがりだが時々こうやって妙に世話を焼いてくれるこの相棒を、麟華は改めて頼もしく思う。彼が共にいてくれれば必ずこのゲームを制することが出来るのではないかと、根拠もなくそう確信できた。


「さて、もうあちらのサティとかいうデーヴァからはベット・レイヤーの解除同意要求が来てるぜ。どうするんだハニィ?」


 すいっとキューリアスが宙を滑って麟華に近付き、足元のスローナイフを拾うよう促す。


「そうね。とりあえず五限はもう無理なのだから、適当な理由をつけて保健室に籠もればいいわ。それなら先生に言い訳も立つでしょう」


 言いながら麟華は屈んで丁寧にナイフを拾い集めると、その内の一本をじっと見つめた。赤い血と脂にぬるりと塗れた一本だった。


 飄々として捉え所のない少年の顔が、脳裏をよぎる。


「……次に会ったときこそは、必ず決着をつけてやるわ。覚えておきなさい――」


 と、何かを言い掛けて動きを止めた麟華に、キューリアスが訝しげな視線を送る。


「どうしたハニィ?」


「…………」


 麟華は返事をしない。ナイフを凝視したまま、硬直している。表情も、口を開いた状態で固まったままだった。


 数秒の沈黙を置いて、麟華は絶望的な声を漏らした。


「――あの子、なんていう名前だったかしら……」




 ●




 なお余談だが、涼風麟華はこの後すぐに神楽御坂裕之輔と再会することになる。


 無論、保健室で。


 所詮、こういう場合の高校生が考えることなど、みな同じであった。


 得も言われぬ気まずい空気が漂ったのは、言うまでもない。






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