2. e - エキセントリックなカード・デス・ゲーム
アルビノの大鷲が人間の言葉を理解して喋るだけでも充分に不思議なことだったが、それがカードに変化する光景というのは不可思議を通り越してもはや滑稽ですらあった。
キューリアスと呼ばれていた大鷲は、それ自体が高精度な投影映像だったかのようにグニャリと歪んで変形し、通常ではあり得ない過程を経て、先日裕之輔が拾ったものと似たようなデザインのカードへと変身した。
黒地に金色の線が、奇妙な規則性を持ちながらも縦横無尽に走っている、何とも言えないデザインの紋様。面妖なことに時折、黒地の部分に黄緑色の光の線が走っては消える。電子ディスプレイを彷彿とさせるカードだった。ただよく見ると、麟華の手に収まったそれは裕之輔の持つカードとは少しデザインが異なるようだ。
「これが〈デーヴァ〉よ」
キューリアスが変化したカードをこちらに掲げて見せて、麟華は言った。
「〈デーヴァ〉はカードが変化する、プレイヤーの相棒であり、武器よ。使い魔と言った方がわかりやすいかしら?」
「プレイヤーの使い魔かぁ……確かにゲームっぽい話だけど」
コンピューターゲームの中ならいざ知らず、現実に大鷲に変化するカードというのはただの超常現象でしかない。聞いた話なら笑って捨てる所だが、肉眼で見てしまったからには勿論信じるしかなかった。
「ゲームの名前は〈Betrayer's on The Bet Layer〉」
「ヴェトレイヤーズ・オン・ザ・ベット・レイヤー」
裕之輔はその名称をキャンディと一緒に舌の上で転がした。
「どういう意味なんだろ? 裏切り者が? 寝台の、上で?」
「違うわよ」
麟華に一刀両断される。裕之輔はあまり英語が得意ではない。
「〝Betrayer's〟は確かに〝裏切り者達〟という意味だわ。でも、〝Bet〟は〝賭け〟で〝Layer〟は〝階層〟よ。多分、具体的な意味よりもほとんど韻を踏んだだけの名前だから、直訳するより意訳して――」
「――賭博場の裏切り者達、かな? それとも、鉄火場の背徳者集団、とか?」
勝手に語を継いで思い付く意訳文を並べると、台詞を遮られたのが癪に障ったのか麟華はじろりと裕之輔を睨め付け、
「……というか、あなたね、寝台はベットじゃなくてベッドよ。それにそれだとまだ意訳し切れてないわ。私が思うに」
「思うに?」
麟華はそこで一息を置く。小首を傾げる裕之輔の瞳をじっと見据え、
「〝戦場の無神論者達〟よ」
と言い放った。途端、その唇の端が片方だけ吊り上がり、なんとも挑戦的な笑みとなる。
それがさも恐ろしい響きであるかのように。
しかしそんなハッタリは裕之輔には通用しない。彼は慄然ともせず、明るく聞く。
「どんなゲームなのかな?」
「……それはこれから説明するわよ」
麟華は憮然と、んん、と咳払いを一つ。
「〈Betrayer's on The Bet Layer〉――大体の通称は〈ヴェトレイヤーズ〉か〈ベット・レイヤー〉、または〈BOBL〉。知っている人にはどれかを言えば通じるはずよ。中には〈ベトベト〉なんていう汚い略称で呼ぶ人もいるけれど」
「ベトベト? あは、いいね。可愛い」
「……あなた、センスも悪いのね。本当に信じられない……」
「ええ? そうかな?」
はぁ、と諦めと諦観と諦念が入り交じった溜息を吐かれる。
「まぁいいわ。話を続けるけれど、このヴェトレイヤーズはゲームであって、ゲームじゃないわ」
「ゲームじゃない? ……ゲームなのに?」
「だから、それはわかりやすく説明するための方便よ。もちろんそれもコンピューターゲーム的な意味でも、盤上遊技的な意味でもないけれど。ヴェトレイヤーズは本当はゲームではなくて――」
「なくて?」
少し、言葉を選んでいるような間が空く。バキン、と麟華の口元からキャンディを噛み砕く音が生まれた。
「――魔法の儀式よ」
さぁなんだか妙な言葉が出てきたぞ、と裕之輔は内心で身構える。実際に鳥が喋ったり、それがカードになったりするのを見ているだけに冗談でないことはわかっているのだが、話があまりにもオカルティックな方向へいくと流石に若干引いてしまう。戦場がどうこう言われるよりも、神や魔法や悪魔がと宗教的なことを語られる方が心理的に距離をとりたくなってしまう裕之輔だった。
飴玉を舌先で何度もなぞりながら、目線を空へ移す。
「魔法……ですか」
思わず敬語になってしまった。それだけでもう裕之輔の心情を察したのか、きっ、と睨まれてしまう。そういえば、さっきから睨まれてばかりである。
「……まぁ確かにこれは私の個人的な見解ではあるけれど。なんにせよ内容は簡単よ。ヴェトレイヤーズのカードは全部で百枚。プレイヤーは互いのカードを賭けて戦い、勝者はカードを得て、敗者は失うわ。最終的に全てのカードを手中に収めれば、それがゲームで言うクリアよ」
これだけ聞けば実に単純なルールではある。しかし、そのゲームだか魔法の儀式だかよくわからないもののために、裕之輔は遙か天空から地上へと叩き付けられそうになったのだ。半ば自業自得ではあるが。
「ちなみにそれってクリアすると、どうなるのかな?」
おそらくはそこが肝要だ、と裕之輔は思う。きっと余程の報酬があるに違いないのだ。そうでもなければ、麟華とてあんな脅迫などしてくるまい。
裕之輔の質問に、麟華はすぐには答えなかった。
彼女は腕を組んだまま身体の向きを変え、南の空に視線を射込んだ。無表情な横顔が、裕之輔の前に晒される。しかし裕之輔にはその顔が、何も感じていないのではなく、持て余す感情を無理矢理に圧殺しているかのように見えた。
告げられた言葉は、平淡に響いた。
「何でも願い事が叶うわ」
「…………」
裕之輔は反応に困った。『へぇ』と相槌を打てば半開きの目で見られるだろうし、『それはすごいなぁ』と言えば睨まれるだろうし、『ははは、そんなまさか』と返せば怒鳴られるだろう。どれを選択してもろくな結果にはならない。
だから裕之輔はそれなりに頑張って言葉を探した。
「……本当に?」
「本当によ」
「何でも?」
「何でもよ」
「…………」
結果的に、ほんの数分前のやりとりを立場を入れ替えて再現することとなった。
今ならさっきの麟華の気持ちがわかるな、と裕之輔は思う。こんなやりとりをしてしまった時点で、疑念の溜飲は絶対に下がらないのだ。
「えーと……眉に唾をつけても良いかな?」
「なによ、汚いわね。癖なの? 別に止めはしないけれど」
あ、天然さんだ、と冗談を素で返されてしまった裕之輔は、ふぅ、と嘆息。
「まとめるけど、要するに、そのカードを百枚集めれば何でも願い事が叶う――ってことだよね?」
そう問うと、麟華は自嘲的な笑みを浮かべた。視線を校庭に落とし、低い声で、
「漫画やアニメの見過ぎだ、って思うわよね」
「うん」
「――っ!? こ、のっ……! あなたって本当にストレートな遠慮なしねっ!」
素直に頷いた裕之輔に、激高した麟華は腕組みをほどいて振り返る。
裕之輔は、あは、と笑って、
「よく言われる。それが僕の取り柄だって」
「だから褒めてないわよっ! 全然空気が読めてないだけじゃない! そんなの取り柄なんて言わないわよっ!」
「まぁまぁ落ち着いてよ。話は大体わかってきたから。あ、よかったらもう一個キャンディ食べる?」
「もういらないわよっ! まったくもう……!」
憤懣やる方ない様子で麟華はそっぽを向く。
――また怒られちゃったなぁ。
裕之輔は胸中でぼやく。地域差というものであろうか。転校生だけあって、やはり感性が美里菜や多加弥とは微妙に異なるらしい。あの二人なら、このぐらいのお惚けは笑って済ませてくれるのだが。
「――で、このカードがその一枚ってことかぁ」
裕之輔は懐から件のカードを取り出した。麟華が持つ、キューリアスが変化したものとほぼ同じデザインの一枚だ。
それを目にした途端、麟華の双眸が怜悧に細まった。紅潮していた顔が一転して冷気に包まれる。冷然とカードを見つめるその視線は、どこか獲物を狙う狼を連想させた。
「そう、それが【私の願い事の一部】よ」
冷ややかな声で、早くも裕之輔のカードが自分のものであるかのように麟華は言う。
「それを出したって事は、私に渡してくれる気になったの?」
「ううん」
「……でしょうね」
率直に首を振る裕之輔を、さも当然のように麟華は頷く。
「私もここまで話したからには、あなたが素直に渡してくれるとは思っていないわ。何でも願い事が叶うんだもの。誰だって他人に渡したくないわよね」
別段そういうつもりで首を振った訳ではないのだが、裕之輔が弁解するよりも早く、剣のような視線が彼を突き刺した。
「それじゃ、それを持っている限りあなたは私と同じヴェトレイヤーズのプレイヤーで、戦う意思があるということになるわ。覚悟してもらうわよ?」
――いきなりそんな一方的に言われてもなぁ。
などと考えていると、出し抜けに麟華が右手に持ったカードを頭上へ振りかぶった。
刹那。キン、と空間全体に響き渡るような、澄み切った金属音を裕之輔は聞いた。
そして、空気が、光が、音が、匂いが、世界が変わった。
「?」
これまで五感で得ていたものが、一瞬にして激変していた。
眼前に立つ麟華はそのままに、それ以外のものが全て変移している。突然、太陽が雲に覆われたように、光が陰っていた。見回すと、何故か空と街並みから一切の色彩が抜け落ち、灰色に染まっていた。息を吸うと、どこか乾いた匂いと味がした。耳に届いていた校庭からの喧噪が、街で生まれる雑多な音が、消えていた。
耳鳴りを覚えるような静寂。
どきりとする、世界の変化。
「……あれ?」
呟き、校庭を振り返って見下ろす。裕之輔はそこにいるはずの体育教師と生徒達の姿を求める。しかし、見つけたのは街並みと同じく色を無くした人型の彫像群だった。
皆、時が止まったかのように静止していた。
「これが〈ベット・レイヤー〉よ」
変貌してしまった世界の中で唯一の色彩が言った。
裕之輔が振り向くと、彼女は不機嫌そうな顔でこちらを見据えたまま、滔々と告げた。
「ようこそ。クソッタレな神を見限った連中が足掻き回る戦場へ」
●
「元々このゲームには――説明の便宜上、ゲームと呼びならわすだけよ――新規参入者を見つけた場合、既存のヴェトレイヤー――つまりプレイヤーのことだけれど――がルールその他をレクチャーするという暗黙の決まりがあるのよ」
「へぇ。その割には何かいきなりカードを渡せって脅迫されたような気がするけど?」
時間が停止してしまったとしか思えない空間では、互いの声が良く響いた。雑音が全くないせいだろう。
麟華はつまらなさそうに裕之輔の顔を見る。そのまま少年の軽口を無視して、
「……案の定、あんまり驚いていないわね、あなた」
「そう見えるかな? これでもかなり驚いているんだけど」
「ふん、まぁそういうことにしておいてあげるわ。それより、安易な勘違いはよしなさいよ? あくまで暗黙のルールであって、絶対ではないわ。実際、気に食わない相手の場合はさっきのように問答無用でカードを奪うことだって出来るのだから」
麟華の瞳に剣呑な光が宿る。空の上でも見た、研ぎ澄まされた氷の刃のような眼差しである。が、裕之輔は気にしない。
「すると、そうしようとしても結局は助けてくれた涼風さんは優しい人ってことだよね?」
麟華は堪らず、片手で顔を覆って、はー、と肩を落とした。
「……もういい加減、あなたのそのピントのずれたコメントにも愛想が尽きてきたわ。いいからもう黙っていてくれないかしら」
「うん」
裕之輔はあっさり頷き、実際に唇を完全に閉じた。すると麟華がびっくりしたように顔を上げる。おそらく、ここまで素直に言うことを聞いてもらえるとは思ってなかったのだろう。先程までとは別の意味で、腹を立てたような顔をする。上目遣いでこちらを見て、小さく唇が動いているので読唇してみると、どうも『こ・い・つ・は~』と言っているようだった。
裕之輔は心の中で舌を出すと、実際には新しい飴を出して舐め始めた。今度はグレープ味である。
「――さっきも言ったけれど、ヴェトレイヤーズはカードを巡り、〈ヴェトレイヤー〉がこの〈ベット・レイヤー〉で自らの〈デーヴァ〉を駆使して戦う【ゲーム】よ」
気を取り直して説明を始めた麟華は周囲を見回し、何かを薙ぐように腕を振るう。
「見ての通り、ベット・レイヤーは時間が停止した空間。ここにいる限り、現実の時間は凍り付いたまま。だから、これから起こる戦いは誰にも気付かれないという寸法よ」
これから起こる戦い。その一言で、裕之輔は胸骨に鉛がこびりついたような感覚を得る。所謂、嫌な予感というやつだ。
「ゲームの勝敗はこの空間内でしかつかないわ。つまり、現実世界でヴェトレイヤー同士が争っても、カードの移譲は行われない。それどころか、ベット・レイヤー以外の場所でヴェトレイヤーが死亡した場合、カードは誰の物にもならずに消えて、自動的に次の新しい持ち主の元へとワープするそうよ。あなたが拾ったのもおそらくはそうなのでしょうね」
――なるほどなぁ。
今の説明で裕之輔はいくつかの疑問に納得を得た。
一つは、今手に持つカードを手に入れたときのこと。下校途中で拾得したものなのだが、実は路上に落ちていたわけではない。突然、風に乗って裕之輔の元へ飛んできたのだ。思わず反射的に掴んでしまったのが、このカードである。おかしいとは感じていたのだが、まさか瞬間移動してきたものだとは思わなかった。
――っていうことは、どこかで誰かがベット・レイヤー以外で死んじゃったんだなぁ……
もう一つは、自ら手を離して落下した裕之輔を麟華が助けた理由である。説明通りなら、あのまま裕之輔を見捨てていればカードはまた別の誰かの元へ飛んで行ってしまっていた。彼女はそれを避けるために裕之輔を救ったのだ。どうやら良心の呵責や善意の優しさだけが理由ではないらしい。
――道理で優しい人よばわりしたら、ピントがずれてるなんて言われるわけだ。
「……当然だけど、このゲームには降参もありよ。ヴェトレイヤーズはランダムにカードの持ち主を選ぶようだから、必然、大した願いのない人でもヴェトレイヤーになることもあるわ。カードがいらない場合は、デーヴァを呼ばずに対戦相手にカードを手渡せば、それでゲームオーバー。無益な血は流れないわ」
この説明で麟華が言わんとしていることがなんとなく分かったので、裕之輔は黙っていろと言われたのを良いことに、無反応を貫いた。
麟華の表情が舌打ちでもしそうなぐらいに顰められる。
「あと、デーヴァを呼べるようになればヴェトレイヤーは別のヴェトレイヤーを識別できるようになるわ。実際に感知するのはデーヴァの方なのだけれど。それ以外には……」
麟華は宙に視線を泳がせる。どうも記憶の抽斗をあさって、他に伝えるべき事はないかと捜しているらしい。その様子を見ていて、裕之輔はこの瞬間だけ麟華の顔から険が抜けていることに気付く。そういえば先程から睨まれたり呆れられたり無表情だったりで、こんな普通の表情を見たことがなかった。
「――面倒くさいわ。後はもう実践あるのみね」
「え?」
突如きっぱりと言われた台詞に、思わず声が出た。
「これからあなたのデーヴァを呼ぶのよ」
言われて、裕之輔は反射的に自らの手にあるカードを見た。遅れて、ああ、と納得する。
「そっか、これ、デーヴァになるんだ」
「……あなたは私の説明の何を聞いていたのよ?」
「あ、ごめん。なんだか現実味がなくてさ。そうだね、考えてみればそうだ。僕のデーヴァか。なんだかワクワクするね?」
裕之輔は同意を求めたが、それは冷ややかな一瞥をもって遇された。本当はこんなことをさせずに早くカードをもらいたい――そういう思いが露骨な麟華の態度だった。
まぁ無視されてしまったのならしょうがない、と裕之輔は割り切り、再度カードへ目を移す。
「これを相手に渡せばそれで負けってことは、つまりベトベトは相手のカードを奪うのが目的ってことだよね?」
〈ヴェトレイヤーズ〉でも〈ベット・レイヤー〉でも〈BOBL〉でもなく〈ベトベト〉の略称を使用した裕之輔に、麟華は無言のまま非難の視線を浴びせた。とはいえ、質問の内容はどうやら正解だったらしく、ふぅ、という溜息が桃色の唇から漏れる。
「……正確にはカード本体の譲渡と、持ち主の同意が必要よ。だから奪うだけじゃカードの所有権は移行しないわ」
「なるほどね。強奪するわけにはいかないんだ」
だから麟華は裕之輔を脅迫したのだろう。もし成功していれば、すぐにでもこのベット・レイヤーへ連れ込んでカードの受け取りをしていたに違いない。見た目のわりに結構せこいよなぁ、というのが裕之輔の感想だった。
――それにしても、良く出来てるなぁ。
裕之輔はしみじみと思う。このカードがデーヴァになるということは、要するに自分にもキューリアスのような存在が出来るということだ。そうなればきっと、このカードにも愛着が湧いてしまうことだろう。すると、おいそれとは他人に渡したくなくなるに違いない。つくづく、よく出来ているものだ、と感心してしまう。
「ヴェトレイヤーズの勝利条件は、相手を叩きのめしてカードを渡したい気分にさせるか、もしくは命を奪う事よ」
と、麟華がスポーツのルールを説明する調子で言い切ったので、一瞬、裕之輔はそのまま聞き流す所だった。
「……ごめん。ちょっと待って? 命を奪うって……え? これ一応ゲームなんだよね?」
裕之輔なりに慌てて聞き直すが、
「はっ」
麟華はそれを待ち構えていたかのごとく、間髪入れずに嘲笑った。
「言ったはずよ? ゲームであってゲームではないわ、と。少なくとも、私の見解ではこれは徹頭徹尾、魔法の儀式よ。どんな願いでも叶えてくれる、究極の魔法。それが私にとっての〈Betrayer's on The Bet Layer〉だわ」
笑みが、不敵なものへと変わっていく。目つきが、挑戦的なものへと変化していく。
「――――」
自分は甘かった、と裕之輔は痛感せざるを得ない。麟華が最初に『ゲーム』という単語を提示したことと、命を盾にとった脅迫がほとんどブラフだったことも合わせて、すっかり彼女のいう『魔法の儀式』をボードゲームと同様に見なしてしまっていたのだ。
しかし、実際にはそんな軽々しいものではなかった。
当然と言えば当然である。麟華の言葉を信じるならば〈Betrayer's on The Bet Layer〉の勝利者はどんな願いでも叶えることが出来るという。それこそ不老不死の肉体であったり、巨万の富であったり、途方のないことでも叶うのだろう。世の中には裕之輔の小遣い程度の金額で殺人を犯す者もいると聞く。なればこそ破格の報酬を前にして、他人の命など塵芥に等しいと考えることのどこがおかしいというのか。
裕之輔はようやく理解する。詰まる所〈Betrayer's on The Bet Layer〉というのは、ゲームの皮を被った、ただの殺し合いなのだと。
自分は確かにズレていた、と裕之輔は自覚を得る。これまでの麟華の言動を思い出せば、そこに血の薫りを感じることは十分可能だったはずだ。それに気付けなかったのは、ひとえに裕之輔自身の不覚であった。
「私は、後悔しても知らないわよ、とも言ったわよね?」
それが彼女なりの優しさだったのだと、今更ながらに裕之輔は気付く。事象の一面だけを見れば、確かに知らないということは幸せなことだった。何故なら、知ってしまえばカードを手放せなくなるから。特に現実的に叶えるのが難しい望みや願いを持つ者ならば、なおさらだろう。
一筋しかない光明を前にして、例え生命のリスクを並べられたとしても、それを諦めるのは容易ではないのだから。故にヴェトレイヤーに選ばれた者は、自らの願望と生命とを天秤に載せて葛藤し、後悔するのだ。知らなければよかった、と。
あくまで、常人であれば、の話ではあるが。
幸か不幸か、神楽御坂裕之輔という少年の感性は、常人のそれとは明らかに異なっていた。
「おもしろくないね」
と裕之輔は吐き捨て、口内のキャンディを音を立てて噛み潰した。
「え――?」
麟華の両眼が軽く見開かれる。どこか裕之輔を試すようだった余裕のある表情が瞬時に弾け飛んだ。よもや『おもしろくない』などという感想を述べられるとは、予想だにしていなかったのだろう。
「何だか腹が立ってきたよ。デマや冗談の類だったとしても、ちょっと笑えないね。誰が考えたんだろ、こんなもの。要するに何でも願い事を叶えてやるから、百人で殺し合えってことだろ? 意地が悪すぎる。本当か嘘かも分からないのに。第一、そんなやり方で願いを叶えようっていう人の根性もいやらしいじゃないか」
「…………」
不満をぶちまける裕之輔に、麟華は唖然としている。裕之輔はそんな彼女に構わず、不愉快な顔を隠そうともせず、キャンディの破片を磨り潰しながら、
「気に食わないよ」
と声を低くして断言した。
すると麟華が目に見えて狼狽した。それはそうだろう。先程と同じノリで、今度は屋上から飛び降りて死なれでもしたらたまったものではない。
「ちょ……ちょっと待ちなさいよっ! なによそれっ!? まさか気に食わないからやっぱり死ぬとか言わないわよねっ!?」
その慌てぶりが可笑しくて裕之輔は、あは、と笑う。
「まさか、そんなことはしないよ。けど」
「けど、何よ! それともこのまま対戦せずにカードを持って逃げるとか言わないでしょうね!?」
「あ、それいいね。名案かも」
「――!?」
麟華は今度こそ驚愕に目を剥いた。信じられないにも程がある、といった体だ。そして麟華にとってあり得ない選択を容易に肯定する裕之輔に、とうとう明確な敵意が湧いたらしい。
「そんなことさせないわ……!」
不穏な空気をたっぷり含んだ声で宣告すると、少女はその手に握るカードに力を込めた。
「キューリアス!」
戦いにおける自らの相棒、デーヴァの名前を叫ぶ。
その変化は戻る際のそれとは違っていた。不意にカードの形が崩れ、幾百、幾千本もの糸のようにほどけると、今度はそれら全てが米粒大に分割された。そのまま風に吹かれたようにさっと広がると、黒と金しかない色の中から突如としてひっくり返ったように白が現れる。幾万もの破片が寄り集まり、不思議なまとまりを以て大きな鷲の姿を形作っていく。
ほんの一瞬だった。黒地に金模様のカードが、魔法のように純白の大鷲へと変化した。
「なんだ……また出番かよハニィ。俺はダルダルなんだが」
「キビキビしなさい! 私のデーヴァでしょ!」
質量保存の法則を無視しながら、欠伸混じりで時間の止まった空間に登場した相棒を、ぴしゃりと叱りつける麟華。その声も、表情も、体勢も、全てが彼女の本気を示していた。
それでも少年は、あは、と笑う。
「そうそう、それってどうやるの?」
麟華の全身から吹き出る豪風のような威圧感をものともせず、あるいは気付かずに、裕之輔は自らのカードを軽く振りながら無邪気に尋ねた。
「――~っ! カードに意識を集中して〝デーヴァ召喚〟とでも言えばいいわっ! 慣れれば念じるだけで出来るはずよ!」
敵意を剥き出しにしながら、それでも暗黙の決まりは律儀に守ってくれるらしい。
「涼風さんは真面目な性格なんだね。えーと、デーヴァ召喚」
勿体ぶるという事を知らない裕之輔は、無造作にカードに気持ちを込めた。
反応は劇的だった。
見るのとやるのとでは大違いだった。
身体の内側から何かを吸収されていくような感覚。まるで血液をカードに奪われていくような錯覚。どくり、とカードが生物のように脈打つかのような触覚。
カードがほどけた。ふわりと天女の羽衣のように宙に広がったそれは、次いで微少な粒子へと分解される。
裕之輔は風を感じた。その風はカードの粒子をばらまき、うねり上げ、旋回させ、収束させる。
黒と金の砂塵の中から様々な色が生まれ、新しい姿を再構築していく。
刹那の変貌。現実と幻想の攻防。呼吸一つ分の瞬間を消費して、【それ】は裕之輔の前に生まれ出ずる。
さあ、現れるは鳥か、それとも獣か、あるいは――
「お初にお目にかかります。ヨア・マジェスティ」
裕之輔の十七年間の記憶のどこを探っても、今日ほど自分の想像力の貧弱さを思い知ったことはない。
麟華のキューリアスは鷲だったし、デーヴァは使い魔のようなものだと言っていた。だから何らかの動物の姿をもって現れるのだろう、と勝手に想像していた。
よもや魚介類はないだろうと思っていた。水棲生物が地上に出てきた所で窒息するだろうし、いくら質量保存の法則の軛から魔法のごとく解き放たれようとも、鯨のような大型のものでは結局自重に押しつぶされて死んでしまう。
だから、キューリアスと同じ鳥類か、あるいは他の四足動物の類が出てくるものだと、すっかり思い込んでいたのだ。
まさか人間の少女が出てくるとは、夢にも思わない。
「妾の名前はドゥルガサティーと申します」
見た目の年頃は裕之輔と同じぐらいの、白雪のごとき銀髪の少女だった。何故かその身を包んでいるのは、艶やかな紅の長着。言葉遣いと言い、名前と言い、出で立ちと言い、見事にあべこべな存在だった。
「以後よろしくお願いいたします」
艶美な紫紺の瞳が弓なりに反って、ドゥルガサティーと名乗ったそのデーヴァは穏やかに微笑んだ。そして、深々とお辞儀する。
「――嘘」
茫然自失の状態に陥った裕之輔に我を取り戻させたのは、ぽつりと呟かれた麟華のその一言だった。
振り向くと彼女も惚けた顔でドゥルガサティーを見つめていた。
「人型のデーヴァなんて、実在するの……?」
その台詞から、やはり珍しいものらしい、と裕之輔は察する。新規参入者の裕之輔から見ても意外なものだったのだ。慣れた感のある麟華にとっては、まさに青天の霹靂だったに違いない。そもそも、使い魔と言われて人間の姿を想起する者は少数派のはずだ。あってもせいぜいが小型の妖精型ぐらいで、等身大の人間の使い魔など、間違いなくセオリー外である。
――まぁ冷静に考えれば、だからどうしたって話なんだけど。
裕之輔は麟華を無視。
「よろしくね。サティ」
そのまま裕之輔は無遠慮な態度で自分のデーヴァに挨拶した。
「サティ? 妾のことでございますか?」
「うん。ドゥルガサティーって長いから。嫌かな?」
毛先が腰に触れるほどの長さの銀髪が、ふるふると横に振られた。ドゥルガサティー改め、サティは嬉しそうな笑顔を見せる。
「いいえ。どうぞ貴方様の思うがままに。ヨア・マジェスティ」
「そのヨア・マジェスティって僕のこと、でいいんだよね? なんだかくすぐったいけど、まぁいいや。念のために聞くけど、君が僕のデーヴァでいいのかな?」
「はい、ヨア・マジェスティ」
「そう」
裕之輔はにこやかに頷くと、麟華の方へ身体ごと振り返った。
「じゃあ涼風さん、教えてもらおうかな。もっと詳しく、この〈ベトベト〉のことを」
制服のポケットから新しいキャンディを取り出す。今度は気を引き締めるためにレモン味を選択した。
裕之輔の声で、はっ、と放心状態から回復した麟華は思い出したように敵意を放ち、こちらを睨み据える。
「……やる気はあるようね?」
「まぁね。ここまできたら中途半端じゃいられないし。せっかく教えてくれた涼風さんにも失礼だと思うから、教えてもらえるものは全部教えてもらおうと思ってるよ?」
裕之輔の口元には笑みがある。しかし双眸はまるで笑っていない。麟華の眼光に怯むことなく悠然と飴玉を舐め転がすその姿は、少女にとっては何から何まで予想の埒外にあったものだろう。そのせいか、次に発された声にはわずかに恐れの微粒子が混じっていた。
「本当に良い度胸をしているわ、あなた」
「ありがとう。よろしくね」
「だから褒めてないし、馴れ合うつもりもないわ。ルールの説明が終われば、あなたのカードは私のものよ」
裕之輔は乾いた声で、あは、と笑う。
「まぁまぁ、そう熱くならないで。もっと楽しむつもりでやろうよ。このベトベトは、ゲームであってゲームじゃないんでしょ? 逆に言えば、ゲームではないけどゲームでもある、ってことなんだから」
「……っ!?」
その瞬間、裕之輔の顔に一体何を見たのか。麟華の表情が明確に引き攣った。
紛れもない、恐怖によって。
「歓迎してよ、その【神様に見限られたクソッタレ達が足掻く地獄】って奴に」