1. B - ぶっとんだネジ
■ 1・ぶっとんだネジ~プロローグ~
宇宙まで透き通るような青空の中で、裕之輔は予鈴を聞いた。
私立高校神無学園に入学して一年と少し。もう大分聞き慣れた感のある予鈴ではあったが、今耳にしているものは実に新鮮な響きをしていた。
それも当然か、と裕之輔は蒼穹に視線を吸い込まれながら思う。
はるか足下から聞こえてくる予鈴など、前代未聞だ。
神楽御坂裕之輔は、制服姿で空に浮いていた。
胸ぐらを掴まれて。
しかも女の子に。
「…………」
何なんだろうねこの状況は――と全く整理のつかない頭で裕之輔は他人事のように胸中でぼやき、口の中のキャンディを舌の上で軽く転がした。甘ったるいイチゴ味が味蕾を刺激する。
見慣れない顔の女の子に、なんだか訳のわからない理由で胸ぐらを掴まれて、気がついたら空に浮いていた――こうして言葉にすると夢でも見ているかのようだが、それでも高空の空気は薄く冷たく、視線を足元に向けると神無学園の敷地が米粒ぐらいの大きさにしか見えず、周囲を見渡せば広がる街並みや山の稜線は3Dゲームのテクスチャのようで、その遠近感の全く掴めない光景が逆にリアルだった。しかも生身で空を飛んでいる理由というか原因というか、それがまた現実的なのか非現実的なのか、よくわからなくて困る。
大きな大きな、しかし真っ白な鷲である。純白の翼と薄い血色の瞳を持つその大鷲が、裕之輔の胸ぐらを掴む少女の両肩を、子供の頭なら簡単に握り潰してしまいそうなほど剛健な両足で掴んでいるのだ。
不思議なことに、大鷲は翼を広げているだけで少しも羽ばたかせていなかった。本来ならホバリングしなければこの空間にはとどまれないはずなのに。裕之輔の体が揺れるときは、決まって強い風に吹かれたときだけだった。
黒い影となって覆い被さるアルビノの大鷲、その向こうに広がる天空を、裕之輔は呆然と見つめる。舌で転がしていたキャンディを頬の方へやると、ぽつりと呟いた。
「良い天気だなぁ……あ、授業どうしよう」
「……あなたね、人の話を聞いてなかったの?」
胸ぐらを掴んで生身の人間が到底たどり着けるはずもない場所へ裕之輔を連れてきた張本人が、苛立ちまみれの声を発した。
ころり、と再びキャンディを舌に乗せつつ裕之輔は彼女を見る。
ふくらはぎにまで届く、長すぎる黒髪。それをまとめるいくつかの赤いリボン。吊り目がちで生真面目そうな、大人っぽい切れ長の目。美人かどうかと尋ねれば、そいつがブサイク専門でもない限り素直に美人だと返答するだろう美貌。
涼風麟華。
裕之輔の記憶力が悪くなければ、彼女は今日転校してきたばかりのクラスメイトで、少なくともいきなりこんな事をされるいわれなどない人物であった。
「……へ? え、あ、ごめん。ちょっとぼけっとしてたよ」
「…………」
裕之輔が素で答えると、流石に彼女――麟華は眉をひそめた。信じられない奴だ、という目である。確かに彼女にしてみれば、今の裕之輔の態度は不愉快かもしれなかった。突然呼び出して、無理矢理空の上へと連れ出したというのに、驚いて叫ぶわけでもなく、パニックに陥るわけでもなく、平然としているのだから。
「えーと……ごめんね? ちょっと整理させてもらって良いかな?」
何となく麟華が怒り出しそうな雰囲気を察して、裕之輔はそれに待ったをかけた。
「君は涼風さん……だよね? 転校生の」
「それが何か?」
まるで裕之輔が意味不明なことを言っているかのような態度。裕之輔はそれを見て、きっと自分の希望する言葉以外は聞きたくないんだろうなぁ、と分析する。
「その涼風さんが……なんだっけ? ゲーム? それのカードが欲しいって?」
「そうよ」
冷たい表情と声で短く、はっきりと断言する少女。
「で、そのカードっていうのは、この間僕と美里菜ちゃんが拾った奴……なんだよね?」
裕之輔は制服の内ポケットを意識する。そこには件のカードが収まっているのだ。
「そう」
ブリザードを孕んでいるような瞳が、じっと裕之輔を見据えている。
もはや麟華の表情は冷たさを通り越し、無表情になりつつあった。つまらなさそうに、死にかけの虫でも見るかのような、そんな顔で、少女はこう告げた。
「さもなければ、あなたをここから落とすわ」
――それは死んじゃうなぁ。
冷然と放たれた言葉に対して、裕之輔は素直にそう思った。
「まいったなぁ」
思わずこぼした一言に、ぴくん、と眼前の柳眉が逆立った。ぐい、と掴んだ裕之輔の胸ぐらをさらに引き寄せる。
「……もう一度聞くけれど、あなた、本当にわかってるの? 言うまでもないと思ったけれど、落ちたら死ぬのよ?」
裕之輔は、あは、と笑った。
「いやぁ、それは流石にわかってるよ。ちなみに、ここって地上何メートルぐらいなんだろ? これぐらいの高さから地面に叩き付けられたら、多分もうその死体が僕だってこともわかんないんじゃないかな?」
支えるものが何もなく、プラプラと揺れる自分の脚を見下ろしながら言う。
少年はまるきり平静だった。今まさしく生命をもって脅迫されているというのに、彼は少しも動じた様子がなかった。むしろ興味深そうに、どこかこの状況を楽しんでいるようにしか見えなかった。
その姿が気に障ったのだろう。見る見るうちに麟華の顔に表情が戻ってきた。そこに宿る感情とは、もちろん怒りしかない。凍り付いていたようだった頬にやや赤みが差し、少女は大きく口を開いた。
「あなたね! 少しはキビキビしなさいよ! 私はカードを渡せって言ってるのよ!? 命が惜しかったらさっさと――」
「おいおい大きな声出すなよハニィ。ただでさえダルいっていうのに、さらにダルダルになるぜ」
麟華の怒鳴り声を遮断するかのごとく、いきなり頭上から降ってきたシニカルな声に、裕之輔は素直に吃驚した。
「キューリアスは黙ってて!」
誰何する必要はなかった。声は頭上から降ってきたし、麟華も視線を上げて返事をしたのだから。その方向には太陽を除けば一人――否、一匹しかいなかった。
「ハニィよ、そこの坊主はどうもおつむがゆるいようだぜ? ダルいな。ああすげえダルい。本気でどうでもよくなってきた。なあ、もういいだろ? そろそろ降りようぜ」
純白の大鷲が嘴で喋っていた。しかも、ひどくやる気のない台詞を。
「うわ……喋るんだこの鳥。あ、ねぇ涼風さん、もしかしてこの鳥と君の言っているカードって何か関係があるのかな?」
「あなたもうるさい!」
一喝された。
「っていうか少しは驚きなさいよ! 脅されてるのよ!? 死ぬかもしれないのよ!? 鳥が喋ってるのよ!? なのにどうしてそんなに平然としていられるのよッ!?」
「あうあうあうあう」
喉元を締め上げられてがくがくと揺さぶられては声もまともに出せない。思わず口腔内のキャンディを外に吐き出しかけて、慌てて我慢する。
「ごめ、ちょっ、落ち着いて?」
胸ぐらを掴む麟華の手を軽く叩いて、苦しさを訴える。途端、麟華は我に返ったようで、激しい揺さぶりが急停止した。
ガクン、と最後に裕之輔の脚が大きく揺れる。
「…………」
彼女は歯を食いしばり、無言のまま一際強く裕之輔の顔を睨み付けると、不意に視線を逸らして、ふー、と怒りに震える深い溜息を吐いた。再び目線が裕之輔に戻ってきたとき、彼女は表情を冷たく改めて、
「……もう四の五の言わせないわ。死にたくなければ、さっさとカードを出しなさい」
「うーん……」
裕之輔は考えた。この状況はかなりマズイよな、と。
場所は何もない空中。我が身を支えているのは麟華の細い腕のみ。彼女が手を離せば、裕之輔の体はニュートンの法則に従って落下し、時速二百キロ超の速度で地上に激突する。そうなれば木っ端微塵だ。助かる術など何もない。
逆らえば落ちる。暴れても落ちる。言うことを聞いても彼女の機嫌が悪ければ落とされる。
生殺与奪はあちらの思うがまま。詰まる所、死にたくなければ下手に出て従うしかない、というわけだ。なんと効果的な脅迫なのだろうか。裕之輔はいっそ感心してしまう。
諦めるしかないか、と裕之輔は判断した。いくら何でもこれは如何ともしがたい。もはや状況は裕之輔にどうこう出来る段階を過ぎてしまっているのだ。
「何を悩んでいるのよ? それとも体が竦んで動けないの?」
「いやぁ、そういうわけじゃないんだけど……うん、わかった。決めたよ」
そう言うと、麟華の瞳に微かだが喜色が浮かんだ。
「そう、ようやくわかったのね。さあ、早くカードをこっちに渡しなさい」
「嫌だ」
裕之輔は即答した。しかも軽い調子で。
ひくん、と麟華の口の端が引き攣った。
「……今、風の音でよく聞こえなかったわ。あなた何て言ったの?」
裕之輔は、あは、と笑う。
「嫌だ、って言ったよ?」
冷たい風が吹いて、麟華の長い髪が生物のごとくたなびき、裕之輔の体が蓑虫のように軽く揺れた。
数秒の間。
険しい顔で真剣に睨み付ける麟華の双眸と、それをにへら顔で受け止める裕之輔の飄々とした瞳が、互いの姿を鏡のように写し合った。
「……どうして?」
怒り狂うかと思われた少女だったが、意外と冷静な声で質問された。
「どうしてって? うーん……」
理由を聞かれて裕之輔は麟華から目を逸らして、口の中のキャンディを転がしつつ考え込んだ。
「嫌だから、かな?」
出てきた答えは簡潔に過ぎた。
ぎりっ、と目の前の麟華から歯ぎしりの音が聞こえた。
「死ぬわよ? いいの?」
「いいよ」
またも軽い調子で裕之輔は答えた。
「……!?」
麟華は流石に驚愕の色を隠せない。今度は眉をひそめるどころではない。完全に裕之輔の正気を疑う顔で、息を呑む。
裕之輔はそんな彼女を追い立てるように繰り返した。
「いいよ。もう諦めたから」
そう、裕之輔は諦めていた。カードを、ではない。
命を、だ。
怒りなのか、それとも得体の知れない存在に対する恐怖なのか。裕之輔の胸ぐらを掴んでいる麟華の両腕が、微かに震え始めた。
「……あなた、何を考えてるの? 非常識よ。たかがカード一枚のために命を捨てるというの? しかもそのカードの価値もわからないくせに?」
狼狽する麟華の質問攻めに、裕之輔は、あは、と口内のルビー色のキャンディを見せて笑う。
「それは君だってそうじゃないか。たかがカード一枚のために僕を殺すっていうんでしょ? それは非常識なんじゃないかな? それにカードの価値とかは別に関係ないよ」
弓なりに反って笑んでいた裕之輔の両目が、すっと細まった。舌で転がしていたキャンディを奥歯に挟み、ガリッ、と音を立てて噛み潰す。
「気に食わないんだよ」
低い声で断言した。
二人と一匹を取り囲む空気が一変した。裕之輔の変化に気付いた麟華が、思わずぎょっとする。
「転校してきて初日にいきなり人を屋上に呼び出して、何かと思えばゲームのカードがどうたらこうたら。近付いてきたと思ったら胸ぐらを掴んでお空の散歩に強制連行。挙げ句にはカードを渡さなければ落として殺すって? はは、実にラブ&ピースな展開じゃないか」
嘲弄の響きを込めて裕之輔は麟華の行為を皮肉った。ザリザリとキャンディの破片を磨り潰して口腔内を空にすると、あは、と笑う。
「おめでとう。僕はそういうのが大嫌いなんだ。涼風さんは知らないと思うけど、僕は今日まで自分が思うとおり、やりたいことはやって、やりたくないことは絶対にやらないで生きてきたんだ。誰かに何かを強制されるなんて以ての外なんだ。だから今こうやって命を盾に脅迫されている状態は耐え難い屈辱なんだよ。だから、君の要求に従うぐらいなら死んだ方がましだ」
迷いも躊躇いもない。麟華と真っ直ぐ目を合わせて、裕之輔は言い放った。
「……うん。死んだ方が全然ましだ」
もう一度胸の内を確かめ、繰り返す。この言葉は虚勢でもなんでもなく、裕之輔の奥底から生まれ出た紛れもない本音だった。
これまでの十七年間、短い人生だがそれでも裕之輔は自分を曲げずに生きてきたと自負している。ここで信念を曲げて麟華の要求に応えるのは簡単かもしれない。だが、その後に続く人生は? 一度だけとはいえ、自らの判断で自身の信念に泥を塗ってしまったその生に、自分は果たして納得がいくだろうか?
答えは否だ。短絡的なのはわかっているが、それでも負け犬として生きていくのは裕之輔には我慢ならなかった。
しばし無言のまま、そんな裕之輔を見つめていた麟華だったが、やおら、はー、と息を吐いた。
「……意外だったわ。あなた、瑠璃室さんにくっついてるだけの金魚のフンかと思ったけれど、こんなにも頑固だったのね。人は見かけによらないわ」
瑠璃室という名前を聞いて、裕之輔の脳裏に幼なじみの少女の姿が思い浮かぶ。彼は我知らず苦笑して、
「ああ、よく誤解されるんだけど、僕は別に美里菜ちゃんに無理矢理従わされてるわけじゃないんだ。僕がそうしたいから、そうしているだけ。楽しんでいるときのあの娘は輝いているから。僕はそんなあの娘が好きだから」
言いながら裕之輔は、両手でそっと麟華のそれを握った。
「っ!? あなた、何を――」
「だからね」
胸ぐらを掴む麟華の指に自分のそれをかけ、ゆっくりと解いていく。
「こんな不本意な状態はさっさと終わらせたいんだよ」
一本、二本と丁寧に麟華の指を剥がしていく。
狼狽えたのは麟華の方だった。彼女には裕之輔の行動が一切理解できない。
「まって! やめ――!」
抵抗されそうだったので、裕之輔はあと少しというところで麟華の両手首を掴み、残り全ての指を一気に引き剥がした。
「!」
驚愕の表情で硬直する麟華に、彼女の両腕をぱっと手放した裕之輔は、にへ、と笑ってこう言った。
「じゃあね」
後はもう真っ逆さまだった。
●
重力に引かれて加速しながら落ちていくさなか、裕之輔は観念して目を閉じた。
ごうごうと耳の奥で鳴る音を聞きながら、裕之輔は全身で風を感じる。世界を感じる。今、生きていることを感じている。
――ああ、気持ちいいなぁ。
あと数秒もすれば裕之輔は地上のどこかに激突して、ただのシミになる。
そう考えると、裕之輔の中にいる幾人もの大切な人たちの顔が瞼の裏に浮かんだ。生み育ててくれた両親。甘えん坊な妹。幼なじみの瑠璃室美里菜と藤久良多加弥。その他にも、これまで関わったことのある人々の顔が走馬燈のように浮かび上がっては消えていく。
――こんな風にみんなが見えるって事は本当に死ぬんだなぁ。みんな、ごめん。バカで短絡的な終わり方でごめん。あと、僕の残り滓を掃除してくれる人も、ごめんなさい。
などとくだらないことを考えていた刹那、腰のベルトがいきなり腹に食い込んできた。
「うぐっ」
勝手にうめき声が喉から飛び出した。急激な制動を受けた身体に重力が滝のごとくのし掛かる。瞬間的に、もう訳がわからなくなった。
無理矢理な力に振り回されて、気が付くと固い場所でごろごろと転がっていた。
「?」
落下が止まっている。そして、生きている。
身体にかかっていた慣性をようやく消費して、回転が止まった。仰向けになる。目を開くと、眩しい太陽の光が差した。裕之輔は目をぱちくりさせて上体を起こす。
「あれ?」
固いと思ったら、そこはコンクリートの上だった。麟華に呼び出された、校舎の屋上である。
頭上を見上げれば、空。瞼の裏に焼き付いた色ではなく、本物の蒼だった。
「ヴァカ――――――――ッッ!!」
「うわぁ吃驚した!?」
後頭部すぐそばで突然弾けた叫び声に、裕之輔は痙攣のごとく身を竦ませて振り返った。
そこには腰に両手を当て、切れ長の瞳を剃刀みたいに尖らせて、綺麗な歯を剥き出しにした憤怒の表情の麟華がいた。が、よく見れば目尻に小さな水滴がついている。
かぱ、とその【ピンクの薔薇】のつぼみのような唇が開いた瞬間。裕之輔は、あ、くる――と思った。
案の定、ヒステリックな怒声がマシンガンのごとく飛んできた。
「あなた本気で心底なに考えてるのよッ!? 急にキビキビしだしたと思ったらいきなり飛び降りるなんて信じられないっ信じられないっ信じられないったら信じられないッ! 間に合ったから良かったもののそうじゃなかったらどうなっていたと思ってるのッ!? メチャクチャのグチャグチャよッ!? ほんとにバカっ! バカバカバカバカバカバカッ! この非常識ッ! 減らず口ッ! 今度やったら絶対に許さないから今度こそ絶対地面に叩き付けてやるから絶対に絶対に殺してやるからッ! 覚えておきなさいッッ!」
それこそメチャクチャのグチャグチャだった。
「…………」
疾風怒濤のごとき罵詈を浴びせられた裕之輔はそれら全てを黙って聞き流して、懐からキャンディの袋を取り出した。包みを破り、出てきた桃色の飴を、ぜーはー、と荒い息を繰り返す麟華の口にぽいっと放り込む。
「んむっ!?」
口にものを入れられると閉じてしまうのが人間の性だ。
裕之輔はもう一つキャンディ――ちなみにメロン味――を取り出すとそれを口に含みながら、あは、と笑う。
「おもしろいね、涼風さんって」
「――~っ!?」
麟華は何事か抗議の声を挙げようとしたようだが、キャンディが邪魔で上手く舌が動かせなかったらしい。意味不明の吐息だけがこぼれた。
裕之輔は視線を、彼女の両肩に脚を置いている純白の大鷲に向ける。
「助けてくれたんだね」
「そうだぜ坊主。おかげでダルダルだ。あとうちのハニィは色々と情緒不安定な所があるんでな。あまりからかわないでやってくれよ?」
鳥の表情というものはよくわからないが、裕之輔には大鷲がニヒルに笑っているように見えた。
裕之輔は大鷲と麟華、両方を見つつ、
「まさか助けてもらえるなんて思ってなかったよ。ありがとう。でも涼風さん、結局のところ僕を殺したいの? 殺したくないの? どっちなのかな?」
「……私が欲しいのはあなたの命ではなくて、あなたの持っているカードよバカッ!」
ようやっとキャンディを頬に寄せて喋れるようになった麟華の台詞に、裕之輔はポンと手を打つ。
「ああ、なるほど」
地球の重力に引かれて落ちていく裕之輔を追いかけ、腰のベルトを掴んで減速させ、この屋上に不時着させた理由がようやくわかった。
「そうだね。僕がバラバラになったらカード捜しにくいもんね?」
自信満々で指摘すると、麟華はもう我慢ならないという風に頭を抱えて叫んだ。
「あぁぁぁぁもぉぉぉぉっ! 調子が狂うッ!」
「落ち着けよハニィ。いつもキビキビしているお前らしくないぜ」
麟華はびしっと人差し指で裕之輔を差す。
「何なのよコイツ! ほんとに訳がわからないわ! 殺すと脅したら自分で落ちるし! 助けたら助けたで全然嬉しそうじゃないし! ねぇキューリアス私なんかおかしい!? なんか間違えたっ!?」
半狂乱で長い髪を振り乱し、頭上の白鷲にまで抗議めいた文句を叩き付ける麟華を、裕之輔は楽しく眺めた。
純白の鷲、キューリアスは大きな翼をバサリと羽ばたかせて、麟華の頭の中を洗うように風を起こす。
「だから落ち着けってハニィ。綺麗な顔が台無しだ。お前はおかしくないし間違えてもない。そこの坊主がちょっくら俺たちの想像よりネジが足りなくてぶっ飛んでただけの話さ」
「そ……そう、そうよね? コイツがおかしいだけよね? 異常なだけよね? 気が狂っているのよね? 私の反応は充分に正常よね?」
裕之輔は思わずはにかんだ。
「そんなに褒められると照れちゃうよ」
「……すまねぇなハニィ。言い間違いだ。この坊主はネジが足りないんじゃなくて、どうもネジがないらしいぜ」
「…………」
一人と一匹は肩を落としてげんなりする。
「ぃよっ、と」
そんな麟華とキューリアスに構わず、裕之輔はとにかく立ち上がった。尻の汚れを手で払い、そのまま屋上の縁に向かって足を進め、フェンス越しに校庭を見下ろす。茶褐色のグラウンドではどこかのクラスが体育の授業を受けていた。いつの間にか本鈴が鳴っていたらしい。
「もう完全に授業始まっちゃってるね。涼風さんはどうする? 僕はもうサボっちゃうけど」
後で美里菜ちゃんが怒るだろうなぁ、と頭の隅で思う。彼女は自称『裕之輔のご主人様』だから、その下僕が無許可で授業をサボタージュしたとなれば怒髪冠を衝き、その激情は通学路の途中にあるスイーツカフェ『ちきり』のジャンボクリームパフェを与えなければ鎮められないだろう。裕之輔は財布から千八百円が飛んでいく未来に少々落胆したが、まぁ美里菜の満面の笑みが見られるならそれも悪くないか、と思い直した。
「戻れるわけないでしょう? 私はまだあなたからカードをもらっていないわ」
気が落ち着いてきたらしい。硬質な声だが、麟華から割としっかりした返事があった。ただ少し籠もり気味なのは、舐めているキャンディのせいだろう。
裕之輔が振り返ると、ちょうどキューリアスが麟華の肩から離れて、すぐそばの給水塔の上へと移動しているところだった。裕之輔はその光景に軽く顔を顰める。先程までは影になっていたのでわからなかったが、純白の大鷲というのは太陽光線を反射しているので、昼休み直後のこの時間ではそれなりに眩しいものだったのだ。
しかし麟華はそんな裕之輔の表情を、全く別の意味にとったらしい。
「そんなに嫌そうな顔をしなくてもいいじゃない。心配しなくても、もういきなり空へ連れ出したりなんかしないわよ」
拗ねたように言いながら、こちらへ歩み寄ってくる。裕之輔はそんな麟華の姿を目で追う。
「へ? あ、別にそういうわけじゃないんだけど、まぁいいや。涼風さんはそんなにカードが欲しいんだ?」
改めて思うが、麟華の髪はかなり長い。初めて教室に入ってきたときはクラス中がどよめいたものだ。座席に座ると毛先が床に触れてしまうのと、髪の量が多いからという理由で複数のリボンでまとめているのだが、それでも余る部分は膝の上にのせて授業を受けていた。鬱陶しくなって切りたくならないのだろうか、などとこざっぱりした頭の裕之輔は思ってしまう。
「当然よ。そうでもなければこんな事しないわよ。常識的に考えて」
そんな重そうな髪を揺らして近付いてきた麟華の身長は、ちょうど裕之輔の頭半個分下だ。先程は胸ぐらを掴み上げられて空中にあったため見上げていたが、地上に降りれば見下ろすのは裕之輔の方である。
「説得力無いなぁ。君の口から常識とか言われても」
いきなり脅迫するという行動と、長すぎる髪型も含めて裕之輔は言う。
「うるさいわねっ」
しかし希有なことに、麟華はそんな非常識な髪型が不自然に見えない容姿だった。むしろ、似合っていると言ってもいいだろう。
「まぁ美人はどんな格好してても絵になるから別にいいんだろうけど」
「はぁ?」
裕之輔のすぐ傍まで来た麟華は、少年の発言の意味がわからず、きょとんとする。だがこれ以上、裕之輔の突飛な言動に付き合っていられないと判断したのだろう。彼女は、ふぅ、と息を吐くと腕を組み、話題を変える。
「改めて確認するけれど、あなた、カードのことはどれだけ知っているの?」
裕之輔は肩をすくめて、首を横に振った。
「全然。これっぽちも。たまたま拾っただけだよ?」
その返答に対して、麟華は裕之輔を上目遣いに睨む。
「……本当に?」
「本当に」
「絶対に?」
「絶対に」
「…………」
いまいち信用できない、と言いたげにしながら、麟華は人差し指を唇にあてて考え込んだ。その右頬が、キャンディのせいで小さく膨らんでいる。
「……じゃあ本当に、カードのことは何も知らなくて、単純に私の脅迫が気に入らないから渡したくなかっただけ……なのね?」
「そうだよ。何か変かな?」
「へ、変かなって……」
何気なく聞いた裕之輔に、麟華は絶句する。再度、首を軽く振りながら深く息を吐くと、少女は呆れたように裕之輔に半開きの目を向けた。
「あなたの行動原理はなんとなくわかったわ。なら質問なんだけれど、私がちゃんとカードの事を説明して、あなたが納得してくれれば、それは渡してもらえるのかしら?」
「さあ? それはどうだろう。場合によると思うけど」
裕之輔は明言を避けたが、それは麟華も予想していたようだ。彼女は不意に表情を変え、ふん、と不敵に笑うと、
「後悔しても知らないわよ?」
挑戦的な声音でそう言った。
裕之輔は返事の代わりに、あは、と笑ってメロン味のキャンディを舌の上でころころと転がした。