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ガラスの君

作者: くらげ

 とある昼下がり、お気に入りの喫茶店で読書をする。

それが私の趣味であり、生きがいであった。

薫り高い珈琲の匂いは、幼い私でも大人の気分に浸らせてくれる。

ここの喫茶店は最高だ。

珈琲が特別上手いのだ。チーズケーキによく合うし、値段も手頃、そして更には……

私好みのカッコイイ店員さんがいるのだから。


 背が高く、しかし決して細身というわけでなく、腕フェチの私には持ってこいの腕の逞しさ。

男の人であることが、嫌でも感じられてしまい私の胸を高鳴らせる。

あの腕に抱かれたら、触れられたら、どんなに素敵なのだろうか……。

 ツヤのある黒髪をいやらしくない程度にセットしてあり、黒の制服をパリッと着こなしている。

 安定した低い声に、私の鼓膜は人体の仕組みを無視して終始快感を覚え垂涎しているであろう。

 あの大きくぱっちりした目と、笑顔も忘れてはいけない。あの目と笑顔を一目見た瞬間、私は恋に落ちたのだから。

 きっとあの目に数秒射られたら、私の脳みそは沸騰して煮詰まり、濃度が濃くなってしまうだろう。

これは是非試したいことの一つだったりする。


 だがしかし、ここまで彼に対して語っておきながら、残念なことがある。

恋に億手な私は、大好きな彼を直視出来ない。

好きで好きで仕方がなくて、でも目を合わせることも難しくて。

声をかけるにもとっても勇気が必要なのだ。

 もちろん大好きな彼を見ないなんて選択は私の中にはない。

この目と感覚を駆使して、どうにかして彼を盗みみるのだ。

 そのせいで趣味である読書が一向に進んでいないのは悩み所であったりする。

注文の時のやりとりが、最高の幸せであったりするのはこれはもう常識レベルである。


 さて前置きはこの程度にして……

こんな臆病な私が見つけた手段。

それは、ガラスに反射した彼を盗み見ること。

これを発見した時は、自分はとんでもない天才なのかと思った。

なんとか賞をもらったっていいくらいだと思った。


 だって誰にも気付かれずに、大好きな彼を見ていられるのだから。


 それから私は毎日、ガラスの中の彼を見た。

こんなに目に焼き付けても、周りの人や本人には一切気付かれない。

私にはあのガラスがどんな宝石よりも高価で貴重な物に思えた。

ずっとずっと、彼を見ていたかった。珈琲のお代わりを進めてくるマスターが鬱陶しく思うほどであった。


 そんなある日、いつもと同じように喫茶店へ立ち寄ると……

私の味方であり、相棒であり、宝物のガラスが、シートで覆われていたのだ。

マスターに話を聞くと、どうやら深夜に酔っぱらいがガラスを叩き割ってしまったのだと言う。

その酔っぱらいはゴリラかなにかだったのだろうか。

こんな都会でゴリラが見られるのなら是非会ってみたい。

私の堅く堅くした拳をお見舞い出来るのに。


 ガラスの修理は時間がかかるという。

しかもマスターの話だと、次のガラスは磨ガラスにする予定らしい。

磨ガラスのように、私の明日が塗りつぶされていくのを感じた。

磨ガラスにするには色々と理由があって、外から見えるのが落ち着かないだとか。汚れが目立ちにくいとか。今回の原因である衝撃に強いだとか。

数々の理由によって、私の恋路……いや、楽しみは奪われてしまうらしい。


 しかし私も子供ではない、自分の欲望をマスターに押し付けるわけにもいかず、サービスですと出されたケーキをつまみながら大好きな彼のことを考えた。


 今日は来ないのだろうか。

出勤の日は固定されていないようで、最早ギャンブルのようだった。

しかしこの安定しないふわふわっとした状態も、なんだか気持ちが良く、楽しめていた。

ガラスの変更を期に、私も勇気を出してみようか。

彼に話しかけてみようか。アドレスまで聞けたら花丸だと思う。

……いかん、彼のことを考えていたら、ニヤけてしまった。

緩んだ頬を直そうと、持っていた小説を膝に置く。

と、小説はするりと膝から落ちていった。


「はい、どうぞ」


 私が拾う前に、小説は持ち主とは別の手の中に収まった。

「ありがとうございます」その言葉が出てこないのは、目の前にいるのがガラスの君でなく、その本人だからであろうか。

何を言おう、お礼を言いたい、しかし声が出ない。さっきニヤけていた顔は直っているだろうか。もしかしてニヤけていたのは見られていたのだろうか。

 頭の中が、一気に銀河系へと飛んでいってしまった。何億光年先まで行ってしまったのだろう。私の意識は。


「いつも、来てくれていますね」


 彼はそう言いながら小説をテーブルに置くと、私を惚れさせた笑顔をくれた。

その笑顔で現実に引き戻されたのだろう。

私は宇宙から帰ってきた勢いで声を出すことが出来た。


「好きです! 好きなんです……」


 言ったあとにはもう遅かった。

自分の頬が熱くなるのと、彼の頬が赤くなるのと、カウンターの向こうのマスターが笑っているのが分かった。


 夕暮れの喫茶店。

珈琲の匂いと熱い頬。冷めた珈琲が私の滞在時間を物語っている。

私と見つめ合う彼との物語は、これからゆっくり書くとしよう。


あのガラスのようには砕け散らないぞ。そう誓った。


珈琲の匂いはとてもいい。苦くて飲めないなら甘くすればいい。恋もまた然り。

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