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回想――起点

「はい」

 と助手席から差し出されたものを、視線を前に向けたまま受け取った。

 目を合わせず、手だけを伸ばして。

 それは、今私が運転中だから、ということもあるけれど、しかし、それだけというわけでもない。

 それは、私が勝手に決めた――この子との距離感だ。

 虹見曲理と弓引貫伊の。

 距離感。

 正面から、真っ直ぐには見ない。

 始めて会ったあの時、まだ子供だったこの子に、しゃがんで目線を合わせて、安心を伝えようと正面から見つめたら、尋常じゃないくらいに怯えたから。

 ――壊れてしまいそうなくらいに。

 壊れて、目の前の私を殺してしまいそうなくらいに怯えていたから。

 出来るだけ正面からこの子の目を覗き込まないようにするのが、私のルール。

「それ、大事なものなんでしょう? 僕が持ってこなかったらどうするつもりだったんですか」

「大丈夫よ、拾った誰かがきっと届けてくれるわ」

「流石ベテラン、もうこの街は手中に収めたと。それを使って悪さをしようものなら、何十倍もの拷問が待っていることを街の全員が知っているというわけですね」

「あほたれ」

 言って、左手で受け取った警察手帳で助手席に座る曲理の頭を適当にはたいてから、内ポケットにしまった。

「まあそれだけの嫌味が言えるようになったのなら、それで良いわ。また、あんな所には戻りたくないでしょう?」

「それだけは勘弁ですね。あそこに行くくらいなら、僕は貫伊さんの拷問を受けますよ」

「だからしないっつうの、そんなこと」

「この前街の不良十人くらいをしめたって聞きましたけど」

「あー、ああ、ああ」

 何でそのことをこの子が知っているんだ。

 なんだよなんだよ、なんだかんだ私の事を毛嫌いしているような素振りを見せても、しっかり弓引貫伊という存在を気にかけてくれているじゃないか――とは思わない。

 全く…………これだから田舎は。いらん情報が色んなところで飛び交っているから困る。田舎特有の横の繋がりとでもいうのか、噂話意外に何か楽しいこととかないものなのかしら。

 まあでも――

「あれは隣街の不良よ」

「しめたことは否定しないんですね」

「悪いことをしていたら、取り締まる。これが警察ってものよ。街の治安維持と平和への貢献として、ね」

 あー。はは。

 悪いこととか、平和とか――自分で言っておきながら、その白々しさに辟易する。

 心の中で乾いた笑いが反響する。

 いや、これが小学校とか幼稚園とかで、生徒や園児の前での語りだとしたらそれはそれで、体裁は整っているから良いのかもしれないし、私もそんなには気にしないだろう。

 むしろ、わざわざそこまで足を運んで、しかし、目の前の生徒や園児のやる気の無い顔に何でそんなことをしないといけないのか、なんてそっちに疑問を持ってしまうことだろうと思う。

 つまり、話す相手が――虹見曲理だから、私はこんなにも心がささくれ立つような感情に襲われているのだ。

「そういえば君はもう高校生だったっけ……」

「この春で高校二年生になりましたよ。なんとか道を踏み外して貫伊さんにしめられるようなこともなく、ここまで来ました。ことある事に、ストレス発散とかいって街の不良を片っ端から締め上げている貫伊さんの目に止まらないようにこそこそ生きてきたおかげですかね」

「君ねえ…………そのネタどこまで引っ張る気なのよ」

 それでも。

 そうでなくても。

 よくここまで生きてくれた、と感慨深くもなる。

 ちゃんと約束を守ってくれている。まあ結構危なっかしいっちゃ危なっかしい人生を歩んでいるように見えはするけれど。

 小二の頃、あんなことがあってから約九年間。

 今こうして、生きていてくれることが嬉しいと素直にそう思える。

 幼かった虹見曲理が、実の母親に殺されそうになったあの日から――約九年。


                              ●


 虹見曲理は、女手一つで育てられた。

 あの日のことや、それまでのことは曲理本人から聞いた内容と、私が警察になってちょいちょいと上司の目を盗んで調べた情報でしかないから、どこまでが事実で、どこまでが曖昧なのかはわからない。もしかしたら虚偽が含まれているかも知れない。

とは言え私の持っている情報が果たしてどこまで真実なのか、いちいち曲理に聞く気にもなれず、なんとなく大きく外れているような気もしないから、そのままにしてある。

 父親は幼い頃に事故死。

 多分曲理の中に父親の記憶は一切無い。

 そしてあの事件のきっかけとして、何かがあったかは、誰も知らない。

 ただそれが起こった、という事実のみが残っている。

 九年前、曲理が小学二年生で、私が二十歳で大学二年生だったあの頃。

 夏休みに入る手前だった、七月の下旬。

 曲理は実の母親に、殺されかけた。

 たった一人の親に、殺されかけた。

 ――殺人未遂。

 それは曲理が寝ているところだったのか、朝食を待っている時だったのか、それとも二人で朝食を取り終えてからのことなのか、はたまたどこかに出かけようとしていたところなのか……どんな状況だったのかはわからない。

 しかし。

 それは突然起こった。

 曲理の母親は、曲理の正面から、恐らく目を正面から見て、その首に手を掛けた。

 両手で、まだまだ小さかった頃の曲理の、簡単に折れてしまいそうな首にその両手を掛けて、締めたのだ。

 そんな状態でどうやって曲理がその手から逃げ出してきたのかはわからないけれど、それでもどうにかして曲理はその締め付けから、母親の元から、住んでいた部屋から――逃げ出した。

 そして、本当に偶々。

 ただの偶然としか言いようのないタイミングで私に出会ったのだ。

 当時、私と曲理は同じマンションに住んでいた。

 今、こうして思い返してみるに、一人暮らし用のマンションに、どうやって親子で住んでいたのかわからないが、やっぱり金銭面は苦しかったのだろう。

 とにかく、その四階建てのマンションの、一階で、飛び出してきた曲理と部屋から出た私はぶつかった。

 うっすらと赤くなった首下に、全身での震え――飛び出してきた勢いが嘘のように、私にぶつかった曲理はそこから一歩も、否、一ミリだって動けなくなっていた。

 異常なその挙動に私の目は引きつけられ。

「どうしたの?」

 と、しゃがんで目線を合わせて聞いてしまった。

 それが間違いだと気付いたのは瞬後。

 曲理は、身体全身の震えを、痙攣の様な震えを一層強くして、歯はがちがちと噛み合わなくて、瞳孔は拡大と収縮を繰り返していた。視線はどこを見ているのか定まらず、しかし怯えの色だけははっきり見えて。

「はぐっ……あ……が……ぁ……ぁぁ…………がう゛…………ぅぅあ」

 吐き出すように、絞り出すように、嗚咽のような何かを洩らしながら、ぼたぼた涙をこぼしていた。

 どうしようも無いその状況に、とにかく、曲理を安心させたい一心で私は曲理の頭を抱きかかえて、「大丈夫」と繰り返し呟いていた。

 周りで鳴き出していた蝉の声も耳に入らないくらい。

 大丈夫、とそれは自分に言い聞かせているのか、曲理に語りかけているのか――はたまたそのどちらもなのか。自分でも判然としないまま、しかし、それだけを夢中になって呟き続けた。

 明らかにおかしい目の前の少年の様子が伝染したように私の心臓も早鐘を打っていて、頭に血が上って、くらくらするのをこらえるように、目を瞑って呟き続けた。

 どれだけそうしていたのかもわからない。

 時間の間隔が完全に狂っていた。

 気付けば小さな曲理の小さな腕が私の背中に回されていることが、拙い感触ながら伝わってきて、それだけで自分の行いが、少なくとも間違ってなかったと少しだけ安心した。

「ねえ、どうしたの?」

 もしかしたらもう大分落ち着いてくれて、何かしらの事情を聞くことは出来るかも知れない、なんなら私に出来る範囲で、できる限りの事はしてあげようと、そう思って聞いてみたのだが、なんの反応も返ってこない。

 あるのは、拙い背中に回された感触だけ。

 訝しく思って、曲理の身体を私から少しだけ離してみると――頭ががくんと下がって、小さな身体が崩れそうになった。

 慌てて引き戻して、抱きしめ直す。

 もしかして――死……。

 なんて最悪の予想が脳裏を一瞬だけ横切った。

 そんな最悪の予想をさせるほどに曲理の様子は異常だったのだ――しかし、私の首筋にかぶりつくようになだれかかった曲理の頭部、もっと厳密にいうなら、鼻や口から吐き出される息が私をくすぐったくしていたので、ああ良かった、と安堵した。

 曲理は、だた気を失っているだけ。

 さてどうするか――考えようとしてみても私の視線が捉えるのは、たった一カ所のみ。

 ――曲理の飛び出してきた部屋だ。

 飛び出してきたっきり、ドアは開けっ放しで、中から誰かが曲理を追って出てくるようなこともない。

 でも曲理が怯えている理由は明らかに、あの中にある。

 どうするべきか。

「…………」

 考えながらも私は曲理を両手でしっかり抱きかかえて、立ちあがって、その部屋の前までやってきていた。

 外からでも見えたのは――一女性だった。

 一人の、女性だったもの。

 その女性だったものが、自分の首に縄を巻き付けたまま、横向きに倒れていた。

 ――死んでいた。

 そう、見えたのは、死体が一つ。

 死ぬ前は女性で、そして、曲理の母親だったもの。

 曲理の母親は、一人息子との無理心中を図り、しかし息子にそれを拒絶されて、一人で自殺した。


                               ●


「ほれ、着いたよ」

 商店街からそこまで遠くはない、駅前。

 その少し外れに位置する総合病院の駐車場に車を停めて、助手席の曲理に声を掛けて、振り向く。

 曲理は、血で真っ赤になった布を巻き付けた左手をグーパーしていた。

 

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