雨の日
【雨の日】
雨でも風でも雪でも関係ない。
月月火水木金金なんて古い言葉ほどではないけれど、僕は平日毎日会社へ通っている。
雀の涙ほどの給料で働きづめと言えたら少しは格好もついただろうし愚痴のひとつでも言えたのだろうが、あいにく通勤時間が長く退屈であることをのぞけば仕事にも給料にも人間関係にも大いに満足していた。
僕は電車で通勤していて、駅は家から歩いて十分もかからない場所にある。電車に乗ってからが長いのだ。
しかしすし詰めの電車の中では文庫本を読むのも一苦労だし、かといって音楽を聴くことも好きではない。だから僕にとって一番の苦痛というか悩みの種というかは、電車に揺られる時間をいかに過ごすかで、もっぱら僕はその時間を今日待ちかまえている仕事の具体的な進め方だとか、昼食になにを食べるかだとか、そういうことを考えてどうにか日々の退屈を紛らわせていた。
雨が降っているある日のことだった。
いつものように欠伸をかみ殺しながら駅へ向かうと、一人の女性が傘を差してぼんやりと空を眺めていた。
顔が特別美しいわけでも、体型が好みだったわけでもない、ごく普通の女性だった。
それなのに僕が彼女を見てふと立ち止まってしまったのは、彼女が駅にいる目的がまったく分からなかったからだ。
誰かを待っているようにも見えるが、腕時計を付けているのに時間を気にする様子もなく、人間観察をしているようにも見えるが、よく見ると彼女が眺めているのは空ばかりだし、宗教かなにかの勧誘にも見えるが、道行く人に声をかけるわけでも、なにかそれらしいものを持っているわけでもない。
一体彼女は、なんのためにここで空を眺め、なにを求めているのだろうか。
胸の中にもやもやとした気持ちを抱えながら、僕はその日の電車の中では彼女のことばかり考えて、それでもいまひとつ納得のいく結論が出せないままに一日を終えた。
その日以来、僕は駅で彼女を時折見かけるようになった。
彼女は決まって雨の日にやってきた。晴れの日はいない。
朝、僕が出勤するくらいの時間にはいて、帰ってくる頃にはもう姿が消えている。
僕の退屈で仕方なかった通勤時間は彼女についての考察で埋まるようになっていき、もともと一つのことを突き詰めることが好きな方の性格の僕は、雨の日が来るたびに喜び、晴れの日はがっくりとうなだれるという少々変わった人になった。もっとも、雨でも晴れでも、電車の中では彼女のことばかり考えていたのだが。
普通、そんなに毎日一人の女性のことを考え、日常の一部になるほど思っているなら、そのうち恋愛感情の一つでも芽生えるはずだと、あるいはそれはすでに恋をしているのだと思われても仕方がないことだ。
だが、僕の中で彼女とは、信仰の対象でも恋慕の対象でもなく、言い方は悪いが、観察対象という言葉が一番しっくりくるものだった。
たとえるならアサガオの観察日記をつけるようなものだ。毎日決まった場所、決まった時間に訪れ、変化を記していく。そういう、温もりのない、純粋な好奇心が動力になっている類のもの。
手帳の隅っこがメモ帳代わりで、電車の中で彼女の様子を思いだし、会社に着くとその日起きたわずかな変化を書き留めていく。晴れの日は様々に考えてみて、その日決めた結論を書き留めていく。そうして手帳を真っ黒に汚していく。
手帳と同じくらい空が真っ黒で、とても気持ちのよい雨の日だった。僕は彼女の少し物憂げな表情を思い描きつつ、今日はどんな変化があるだろうとわくわくしながら駅へ向かった。
その日は、顕著な変化があった。
僕はぽかんと間抜けに口を開け、そんなばかな、とつぶやいた。他の通行人のいぶかしげな目線さえ気にならない。
彼女が、いないのだ。
いつも、雨の日には必ず傘を差して立っていた彼女の姿が、ない。
どういうことだろう、と思って僕は彼女のいた場所に立ってしばらく待ってみたが、彼女はやって来ない。
とりあえず諦めて会社へ向かい、その日はどんよりと一日、彼女の身に訪れたかもしれない事態を様々に想像し、結局いつもの通りぴったりとした結論が出ないままに終業時刻となり、家に帰り、就寝時刻を迎え、はじめて彼女を見つけたときと同じようなもやもやとした気持ちを胸に残したまま眠った。
それから雨の日が来るたびに僕は彼女のいた場所に立って、彼女を待つようになった。
それでも彼女はやってこない。
傘を差して、ぼんやりと空を眺めながら彼女を待つ。
彼のその様子を、彼のことを知らないまったくの赤の他人が見つけ興味を持ち、こっそりと観察日記をつけていることを、彼は知らない。