第42章 激突(その三)
驚くグラティアヌスを余所に、アルマリックは件の軍勢を遠望し、安堵のため息を漏らした。
「・・・どうにか説得は成功したようですな、アンブロシウス総督。」
「遅くなって申し訳ない、いささか準備に手間取りましてね・・・」
呆気に取られているグラティアヌスと信頼の笑みを浮かべたアルマリックに出迎えられ、アンブロシウスは開口一番、そう言った。
「・・・行政副長官、マニウス・フラックス?」
「・・・」
グラティアヌスが呆気に取られたまま口に言葉を上らせると、マニウスは無言で会釈を返した。
お世辞にも愛想が良いとはいえ無いその態度は、元々気位の高い所のあるグラティアヌスが怒りの念を抱くのに十分過ぎた。
びきりと額に青筋を浮かべ、グラティアヌスが今度は皮肉たっぷりにマニウスへ声を掛ける。
「その態度、以前からマヨリアヌス殿の言っていた裏切り者か・・・」
「・・・・・・」
アルマリックの裏切り者と言う言葉に僅かな反応を見せつつも、マニウスは黙ったまま頭を下げ、アンブロシウスの後ろへと下がった。
「ブリタニアの危急存亡の時に、内輪揉めをしている場合では無いという事にようやく気付いてくれましてね。」
苦笑しながらその様子を見ていたアンブロシウスは、後ろに下がったマニウスにちらりと目をやりながら、その身を庇うように言った。
「・・・」
「・・・ふん、納得はしていない様だがな。」
不満そうな表情を隠そうともせず、アンブロシウスの背中を睨み付けるマニウスへ、グラティアヌスがさらに嫌みたっぷりに言葉を投げると、アルマリックはグラティアヌスの肩を押さえ、マニウスに目を向けると取りなすように言った。
「まあ、戦場で罪を贖うというのなら、それで良いのではないかな、やっと総督府内での内輪揉めが収まったのだから、何もこの戦いの直前にそれを再燃させる事も無いだろう。」
アルマリックの言葉に、グラティアヌスはふん、と鼻を一つ鳴らして引き下がる。
「貴卿がそう言うのならば、裏切りは棚上げしても良かろう。」
マニウスはグラティアヌスが再度放った、裏切りと言う言葉に対し、下を見て拳を握りしめ、ぐっと唇をかみしめてから、絞り出すように答えた。
「・・・納得したわけでは無い、裏切ったわけでも無い、ただ私は私の信じる最善を尽くしただけだ・・・間違いであったとは思いたくないが、サクソンに謀られていたのは事実であったから、こうして私たちはここにいる・・・」
マニウスの言葉が終わり、一瞬場を沈黙が占める。
怪訝に思い顔を上げるマニウスの肩をグラティアヌスはがっちりと抱えた。
「うむ、その意気であれば善!」
グラティアヌスの言葉に驚き目を見張るマニウス。
その目には今までとは打って変わって、満面に友好的な笑みを浮かべたアンブロシウスとアルマリック、そしてグラティアヌスの顔が映った。
「これからか世にも過酷な戦場へ共に向かおうという者同士、互いにわだかまりが有っては良い働きは出来ん、吐き出すものは互いに吐きだした、これで背中を気にせず思う存分暴れられるというわけだ!」
グラティアヌスは厳つい笑みを浮かべ、ばん、ばん、ばんっ、と3回もマニウスがその威力で咳き込むほど力一杯背中をどやしつけると、ぐあっと笑いながら自分の兵が待つ陣へ、赤いマントを翻して去って行った。
呆気に取られ、その背中を見送ったマニウスの肩へ、今度は優しくアルマリックの手が置かれた。
「あのグラティアヌスという御仁は、何時も皮肉しか言わないような感を受けるが、決してそうでは無い、かつては真っ先に一兵卒としてブリタニア軍に加わっていたぐらいの熱血漢だ、ただ、こういう時代で些か周囲に慣れない気配りや警戒をせざるを得なかったが為に、あの印象が形作られてしまった。」
「・・・。」
マニウスが無言でアルマリックを肩越しに見る。
「要らぬ言葉だったかな?」
そう言い置いて、アルマリックも笑みを浮かべたままグラティアヌスの後に続き、こちらは緑色のマントを翻して自分の陣へと向かう。
「・・・・」
剛と優の違いはあれど颯爽たるローマ人将官ぶりを見せつけて去る2人に、色々と含む所の有るマニウスですら憧憬を抱かざるを得ない。
黙ったままグラティアヌスとアルマリックの去った方角を見るマニウスの瞳には今までと違う光が現れ始めていた。
「元来我らは敵では無い、ブリタニアをより良き方向へ率いるべく勤めてきた同輩であったはずだ、意見の相違はあったにせよ、だ・・・あの2人は貴官を戦友として遇そうとしているのだ。」
聞き覚えの有る声にマニウスが振り返ると、果たして、アンブロシウスが少し困ったような顔でマニウスを見ていた。
「・・・今の様子を見れば、それも分かりますが・・・それでも、グラティアヌス卿やアルマリック卿だけでは無い、あなた方は分かり難い、私たちや諸侯が疑問を持ったように・・・いや、それ以上に民草は日々サクソンの陰に怯え、暮らしに困り、そしてそれをもたらした総督府の施策を疑問視しています。」
一旦は爽やかな2人の将官の風に当てられ、アンブロシウスらの目指すものが分かったような気になりかけたマニウスは、慌ててその気持ちに流されまいと、顔を引き締めて苦言めいた言葉をアンブロシウスへぶつける。
「・・・それは、私の不徳の致す所で有ろうとは思う、しかし、我々がもたらしたものは本当にマニウス、君の言う不幸だけだろうか?」
アンブロシウスの自信ありげな口調に、何となく苛立ちを感じたマニウスが、憮然とする。
「・・・それは、なんでしょうか?」
マニウスの促しに対してアンブロシウスは言葉を継いだ。
「誇り、伝統、文明、そして自由、曲がりなりにも今挙げたものはサクソンの下では実現出来はしなかっただろう。」
「・・・それは・・・恐らくそうでしょうが・・・」
歯切れの悪くなったマニウスから視線を外し、アンブロシウスは周囲で重兵器を盛んに操作しているブリタニア重兵器兵の精鋭の有志を頼もしげに見遣ると、徐に切り出した。
「サクソンの下では、確かに命長らえるかも知れない、しかし我らの自由は奪われ、伝統と文明は消され、誇りなど塵程も残らないだろう、市民は尊厳有る生活を奪われ、2級市民とすればまだしも、奴隷として売られる羽目になるのは自明だ、それは今までのサクソンのやり方を見ていれば分かる、我々が放棄したロンディニウムはどうなった?それ以前のヴェネト・イケには?その他の都市はどうなった?奴らは利用も占拠もしなかった、するどころか残った住民諸共火を掛けて廃墟にしてしまった・・・それでも生き延びた市民は大陸へ売られた・・・マニウス、そうしたサクソンの所行に何を見いだせる?」
マニウスはアンブロシウスの言わんとする所を探ろうとその言葉に聞き入る。
そして、マニウスは少しづつその目指すものを理解し始めている自分が要る事に気がついた。
いや、とうの昔に気がついていたが、自分の頭がそれを認めたくないが故に、気がついている事を否定していただけなのかも知れない。
先程から感じている苛立ちは・・・分かっている事を説明され直している事に対する苛立ち、煩わしさだ。
「我々は自らの力で自らの領土と自由を維持し、そしてそれに拠って立つ誇りと伝統を守らなければいけない、それはローマでも、サクソンでもその他の誰でも無い、我々ブリタニア人がしなければならない・・・と言う事でしょう・・・その話はあなたから耳が腐る程聞かされた!そんな事は私にもとっくに分かっている!問題はそれが可能かどうかと言うことだ!!」
火の出るかのような激しいマニウスの質問にアンブロシウスは周囲を見回していた視線をマニウスの顔へと戻し、ぴたりと据えた。
「可能だ。」
アンブロシウスの明瞭な回答にマニウスは不覚にも涙がこみ上げてくるのを抑えられず落涙した。
それが不可能な絵空事だと見切りを付けたからこそ、マニウスらはサクソンに降る道を選ぼうとした。
しかし、それが可能だと、かの政敵たるアンブロシウスが言う。
「本当か!それは本当なのか、ただの甘言、妄想の類いでは無いのか!なぜそう言い切れるのだ!!本当にあなたの言葉を信じて良いのか!!」
半ば怒りと悔しさが綯い交ぜになった感情を爆発させ、マニウスがアンブロシウスに詰め寄り、鎧の上から付けられたトーガの胸ぐらを掴む。
「我々はその為に戦う、勝ち負けは問題では無いと言いたい所だが、それでは駄目なのだ、この戦いには必ず勝たねばならない、そしてその勝利はアルトリウスによってこそ成し遂げられる。」
アンブロシウスの言葉に、無責任さを感じたマニウスは再び詰問口調で切り返す。
「戦の王と讃えられようとも一介の司令官に過ぎないアルトリウス将軍に全てを委ねると言うのか?いくら年若かったとは雖も、ローマの一騎兵司令官に過ぎなかった彼に何ほどの事が出来るというのだ?このブリタニアから皇帝に選出されたあのコンスタンティヌスでさえ、大陸で武運に頼る事すら許されずに散ったのだぞ。」