第40章 アルトリウス最後の決戦 中編
「・・・おかしい。」
ぼそりとつぶやくヘンギストに、ホルサは訝しげに振り返った。
「何がおかしいのだ、親父殿?」
そう尋ねるホルサを蔑みの目で見ると、ヘンギストは黙ってゆく手にある村を指差した。
ヘンギストの視線に怯みを覚えたホルサは、ヘンギストを警戒しつつ、指差されたブリタニア人の村落を見るが、特に変わった様子も無く、ホルサは首を傾げる。
「分からんか、人が居らん。」
要領を得ないホルサの様子に苛立たしさを隠さず、ヘンギストが兜を取りながらそう言うと、配下の戦士たちに停止を命じた。
「おい、ちょっと様子を見て来い、静か過ぎる。」
近くにいた戦士たちはヘンギストが命じると、黙って一つ頷き、3名を選び出して小さな小川の先にある村へと向かった。
「・・・ヘンギスト様、確かに人がいませんぜ、綺麗さっぱり何も無い。」
「倉や馬屋もそうだが、家もです、豚や鶏どころか麦粒一つ落ちてない。」
「ここも俺達が来たのに気付いて、兆散しちまったってとこですかね。」
野営の準備を整えたヘンギストの幕舎へ、村の偵察から戻った戦士達が疲れた様子で口々にそう報告する。
「・・・そうか。」
ヘンギストはそう言うと、戦士たちを下がらせた。
「王よ、これは困った事になったぞ。」
族長の一人が苦りきった表情で言うと、ヘンギストは不機嫌そうに答える。
「・・・言わずとも分かっておるわ、いちいち騒ぐな、まずはここで周囲の村々に下級戦士を出して食糧をかき集める。」
サクソン軍は10万の大軍、糧食はそれぞれ自前で用意させてはいるものの、サクソン人は元来計画性とは無縁の蛮族である。
用意するよう下達した食糧は5日分だったが、貧しい下級戦士たちはそれすら満足に用意できていないものも多く、また用意できたとしても5日分の食糧を3日もすれば食い尽くしてしまう者がほとんどであった。
すでに軍を発してから7日が過ぎており、早くも腹を減らした戦士達が勝手に軍を離れて周囲のブリタニア人の村を襲い始めている。
ヘンギストは度々配下の戦士達に、上級の族長を通じて軍を離れないよう命令し、戦士たちの規律を引き締めようと試みていたが、効果は上がっていない。
それというのも、周囲の村々からブリタニア人が既に家財道具一式を持って避難してしまっており、満足に食糧の略奪が出来なかったからである。
最初の村から始まって、今に至るまで、既に両手両足の指で足りない数の村を襲撃したが、何処も同じで村には人っ子一人いない。
焦るように行軍を急がせていたヘンギストだったが、一番長い者で既に5日もまともな食べものを口にしていない状態では、いざ戦いの時になって十分な力を発揮できるわけが無いことは、十分承知していた。
そこで、ヘンギストは一旦西ブリタニアへの進軍の歩みを止め、野営陣を敷いて周囲の村落からの食糧調達と、後方からの食糧輸送を待つことにしたのである。
「忌々しい、ブリタニアのローマ人どもめ、こういった小知恵だけはよく回りやがる。」
若い族長の一人が履き捨てるように言ったが、それはヘンギストの幕舎に集う族長達全員の思いを代弁していた。
「・・・しかし、その奸智にしてやられている事実はどうしようもない、既に3日もここで足止めを喰っている、どうするのだヘンギスト王よ。」
「軍を帰しては如何か?」
穏健派の族長、ラールシウスが息子ランスシウスと共に退却をそれとなく勧めるが、ヘンギストは、肩を怒らせて2人を怒鳴りつけた。
「うるさい!軍は帰さん!!アルトリウスのヤロウがいない今が好機なのだ!ここで軍を帰すわけにはいかん!」
「・・・しかし、何れにせよここで足踏みしていては、我等の動きを察知したアルトリウスが戻って来よう、さすれば面倒な事になるのではないか?」
あくまで穏やかな口調でありながら、ラールシウスはヘンギストに翻意を促そうとするが、ヘンギストの脇に控えていたホルサが、ヘンギストに代わり、肩を怒らせて前へと進み出る。
そしてその甲高い声を張り上げると、ラールシウスを詰った。
「臆したか!」
「・・・わしが臆病者だと?」
自分の言葉に色を為したラールシウスを指し示し、ホルサは更に言い募る。
「そうではないのか?かつては我が故郷で勇猛を誇ったラールシウスも老いたものだ!」
「・・・勇猛と無謀は違う。」
憮然とした面持ちで、ラールシウスが反論するが、ホルサは意に介した様子を見せず、言葉を継いだ。
「それが臆病だというのだ、今やアルトリウスは遥か彼方、北の辺境へと赴き、この地のローマ人どもは財を抱えて裸になった都市に篭り震えているだけ、何を怖れる事があるのか!?」
「攻めようにも戦士たちには既に覇気も元気も失せつつある、食い物が無いでは戦にならん。」
「臆病者の腰抜けめ!」
嘲るような口調でラールシウスを他の族長やヘンギストの前で面罵するホルサ。
ラールシウス父子は顔を屈辱で赤く染めると、さっと剣に手を掛けた。
その様子に他の族長や護衛戦士達が色めき発ち、幕舎の緊張が一気に高まる。
「・・・撤回していただこう、我が一族は敵を前にして臆した事など無い・・・!」
唸るような声で言葉を搾り出すラールシウスを、ヘンギストは手で制し、さらにヘンギストとホルサを守ろうと駆け込んできた戦士たちを下がらせた。
「・・・ラールシウス、お前の意見は分かったが、ここまで来ては退けぬわ、第1、動こうにもお主が言うように既に食糧が底をついている、略奪が一段落するまでは退く事もできん、しばらく待て。」
その言葉に、ラールシウスは剣から手を離し、自分の場所へと戻り、幾分落ち着いた様子でヘンギストに質問する。
「・・・退く事も考慮に入れてくださるのか?」
ヘンギストは、再び肩を怒らせてラールシウスを罵倒しようとしたホルサを押し留め、少し考える素振りを見せた後、徐に口を開いた。
「・・・退かん、さっきも言ったが今が好機なのだ、ここは無理をしてでも雪崩れ込む、2日もすれば我が地からの食料も届く。」
ヘンギストが、穏やかではあったがそう語気鋭く断言すると、ラールシウスは頭を垂れる。「・・・それが王の方針と言うなれば、我等は従いましょうぞ・・・」
ラールシウスの言葉に、他の族長達も一様に頭を垂れ、ヘンギストの方針に従う事を表明した。
その様子を満足げに眺めるホルサの姿を視界の端に捉えながら、ランスシウスは悔しそうに口の端を噛み締めた。
「まともに食い物が無いのに戦えるか!何故だ父よ、もう少し王を説得しても良かったではないか!」
「・・・無理を言うな、これ以上逆らえば近々排斥されてしまうわ、ヘンギストめは今や権勢並ぶ者の無い王である、かつての族長同盟の頃のような、同格の族長風は今や吹かせられん。」
「うぬう・・・」
自分たちの幕舎に戻るなり、ランスシウスは不満を爆発させ、父のラールシウスに食って掛かったが、穏やかに諭される。
故郷であるサクソン族領であれば、ヘンギストとラールシウスは同格の族長であるが、この島においては先んじて勢力を扶植したヘンギストが、他の族長達を利を持って呼び集めた。
族長たちはヘンギストの案内によって地理不案内なままこの島に上陸し、ヘンギストから新たな土地を分け与えられている為、ヘンギストを上級者と認めざるを得ない。
故郷のような富貴のしがらみも無く、下級族長の一人に過ぎなかったヘンギストは新天地においてその豊かな土地の配分権を握り、他の族長やサクソン貴族を従え、王を名乗れる事となったのである。
「・・・くそっ、故郷で然程の者じゃなかったヘンギストごときに命令されるとはっ!」
ランスシウスは自分の兜を床へと叩きつける。
派手な音を立て、兜がひしゃげて床に転がった。
しかも、かつては下位にあったジュート族やアングル族の首長もヘンギストはサクソン貴族や族長と同格に扱う為、古いサクソン貴族の家系であるラールシウスの一族には屈辱感がいや増している。
「・・・今は耐えるしかない、好機はある。」
ラールシウスはそう言いながら、息子が投げつけてひしゃげた兜を拾い上げ、壁の甲冑架けに架けた。
「いずれにせよ、今はヘンギストに従い多大な戦功を上げ、この島の土地を多く獲得する事だ、奴とて功績に対し正当に報いなければ、各族長達の支持は得られん事は承知しているだろうからな。」
ラールシウスの言葉に息子のランスシウスは胡散臭げな目を向ける。
「まさか、それが本心とでも言うのか?」
「ふふふ・・・」
ランスシウスの様子に満足げな笑みを浮かべるラールシウス。
「・・・空きっ腹の戦士ほど当てにならんものは無いぞ、だから一時的な撤退を提案したのだろう?万が一でも負けたら何とするのだ?」
何かを悟ったランスシウスが空腹の蛮族戦士の粘りの無さを強調しつつ、重ねて問いかけると、ラールシウスは帯剣を外し、木の椅子へ腰掛けた。
そして、息子にも脇の椅子へと座るよう促し、ランスシウスが不承不承椅子にかけるのを待ってから口をゆっくりと開いた。
「・・・負けたときは、ブリタニアのアルトリウスに寝返るまでのことよ。」
「!!!?」
驚愕で腰を椅子から浮かせかけたランスシウスを目で留め、ラールシウスは言葉を続ける。
「我等が手にした土地はこの島のほんの南端だけだ、ヘンギストの得ている土地を分け取りする事にすれば、衰えきったローマの末裔共は話しに乗って来るであろう。」
ラールシウスの言葉に、ランスシウスはようやく合点がいったように頷いた。
「父はアルトリウスと組んでヘンギストの地位を襲うつもりか。」
「あくまでも、ヘンギストの率いる、我等サクソンが敗れた時だけの話だ、但し、構えて他言はしてくれるなよ、下手に勘繰られれば一族郎党皆殺しの目に遭うやもしれん、この考えを持っただけで我等は立派な裏切り者だからな。」
にかりとラールシウスが策謀を口にした後とは思えない、あけすけな笑みを浮かべて言うと、ランスシウスは苦笑を漏らした。
「喰えん父はこうも考えているのだろうな・・・折角思いついた良い考えを他の族長が真似をしては堪らぬ、とな。」
「・・・他言は無用だ。」
椅子に深く腰掛け直し、手を前で組んだラールシウスは、息子の鋭い指摘に笑みを満足そうなものに変え、それだけを再度口にした。
カイウス議長は、有力者とは思えない粗末な寝台に身体を横たえ、戦場で使い尽くしたような古びた毛布を身体に掛け、部屋に入ってきた息子のデキムスに顔を向けた。
「・・・流石にわしももうこれまでじゃわ、この危急存亡の時に役に立てんとは無念ではあるが、身体が言うことをきかんのでな・・・すまん。」
「・・・」
息子のデキムス行政長官が、言葉無くその傍らに立ち尽くす。
「・・・よもやこの歳まで生きるとは思わなんだが、長生きはしてみるもんじゃ、いろいろ面白いものも見れたしの・・・」
「・・・」
命尽きんとする父の姿と言葉に、普段はあまり表情を表す事のないデキムスが顔をゆがめる。
その表情を見てとり、息子が悲しんでいる事に気がついたカイウスは、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「・・・そう悲嘆するな息子よ・・・一緒にローマの辺境を守らんと戦い、命を散らしていった戦友を思えば、退役後の人生は味気ないもんだと、諦めておったが・・・アルトリウス将軍のおかげでわしは国の重鎮として、そして人として命を繋ぐ事ができた・・・わしが戦友を彼岸で待たせ、ここまで生きながらえたのも、意味有る事であった。」
ふううううう
ゆっくり、大きな息を吐くと、デキムスの手を握り、カイウス議長は力の無い笑みを浮かべた。
「結構、話せたのう・・・おお、葬儀は不要じゃ、わしの事に構わずアルトリウス殿の元に一刻も早く馳せ参じればよい。」
「父上。」
「いよいよの最期じゃ・・・マリアを頼む・・・先にエリュシオンで待っておるぞ・・・」
ゆっくり瞼を閉じ、カイウスはデキムスから自分の手を離すと胸に両手を合わせた。
90余年の生をローマに、そしてその後衛たるブリタニアに奉げたカイウス・ロングスブリタニア属州元老院議長は、波乱に満ちた生涯とは裏腹に、静かに息を引き取った。
「じゃあ、行って来る。」
カストゥルムから程近い郊外の村。
村はずれの新しい家では、真新しい鎧兜に身を固めた若い夫が剣を妻から取る。
妻は夫が取った剣を最後まで離さない。
縋る様に、そして名残惜しむように、夫に手渡す剣の鞘の先端を、めい一杯伸ばした右手の指先で触れる。
夫の顔が、申し訳無さそうにうな垂れる。
こんな事を言っても、夫を困らせるだけ、そう思って口にしないでおこうと誓ったこの言葉。
縁あって結ばれる事になったが、ローマが去った時、お互い物を知らない少年少女だった2人が、今や立派な大人と成り、ささやかながら農場を経営している。
蛮族の猛攻やそれに抗するブリタニア軍の事を常に身近に感じながら生活してきた2人にとって、この決戦に対するアルトリウスの呼びかけを無視する事は出来なかった。
剣を取れる者は剣を取れ、そして集まれ、我が元へ!
アルトリウスの檄文は、その忠実な騎兵たちによってブリタニアの隅々まで届けられた。
一昨日の夜、夫から決意を聞かされた妻は、夫の決意を静かに受け入れた。
アルトリウス率いるブリタニア軍の奮闘が無ければ、とっくにこのあたりも蛮族に蹂躙され、このような時を、生活を過す事は出来なかっただろう。
妻としても、当然受け入れるべき事柄だった。
しかし、それでも・・・
「・・・本当に行くの?」
言うまいとしていた、言葉がとうとう口から漏れ出でた。
「・・・すまん・・・」
ああ、やっぱり
想像したのと同じ、それしかないという表情で、声で、夫は妻に謝罪を求める。
「・・・私・・・ううん、言わない・・・でも、きっと還ってきて欲しいの、お願い、死なないで・・・待っているわ、だから、還ってきてね!」
妻のしっかりした声色は、還って夫の心をざわつかせるが、しかし、夫はぐっと唇を噛み締め、搾り出すように、そしてざわついた心を押し殺すように言葉少なく返事を返す。
「・・・ああ、還ってくるよ、大丈夫だ。」
剣を剣帯に吊り、夫はもう一度しっかりと妻の顔を正面から見つめると、すっきりとした笑顔を浮かべる。
妻の毅然とした表情が、泣くのを堪えようとしている顔である事を夫は知っていた。
だから、敢えて笑顔を。
白くなるまでに強く握り締めた妻の手をそっと取り、夫はその手を指を、一つずつ、優しく解いて行く。
「必ず帰ってくる、だから、笑顔で見送ってくれないか。」
解き終えた妻の手を力強く、そして優しく自分の両手で包み込む。
妻は、泣き笑いのような顔で、夫の胸に飛び込み、優しく受け入れてもらったことをしばしじっくりと確かめた後に、ゆっくりと身を離す。
そこには、少女の頃から変わらない、花のような笑顔があった。
「・・・うん、じゃあ、行ってくるよ。」
「・・・行ってらっしゃい。」
グナイウスは、自分が率いる砦がすっかりサクソン軍に取り巻かれていることを見て取って薄く笑みを浮かべる。
「流石にこうも十重二十重に取り囲まれると良い気分はしませんね。」
傍らにいた老兵と言って良いような50絡みの兵士が肩を揺すり、笑いながら言うと、グナイウスは頷いた。
「ああ、まあ、我々の役目は十分以上に果たせたという訳だな。」
「今ごろヘンギストのヤロウは、この砦を何としても落とそうと躍起になっているでしょうからね。」
グナイウスの言葉に、さもありなんと言った様子で周囲を見回す兵士の視線の先には、サクソン軍10万が粗末で簡素なグナイウスの立て篭もる砦を、文字通り蟻の這い出る隙間も無いくらいの濃密さで包囲している様子がある。
対するグナイウス率いる砦の守備兵は僅か200名で、しかも古参兵と言えば聞こえは良いが、その実態は老兵ばかり。
グナイウスももう70近い年齢であり、戦場を自由に馬で駆け巡るアルトリウスの用兵に付いて行くのは、正直辛くなってきていた。
「要は適材適所ということだな、我々のような老兵でも、砦にこもって矢を打ち、投石器の弦を引く事はできる、石もあらかじめ運び込んでおけば、落とすのは簡単だ。」
グナイウスはそう老兵達を励まし、今までサクソン軍の猛攻に耐えてきた。
しかし、備え付けの石弓や、中型のバリスタ(大弩)があるとはいえ、多勢に無勢、サクソン軍はその気になれば、押し包んで一気に陥落させる事も出来るし、500程も戦士を備えに残してゆけば、この砦を無視して進軍する事も可能であった。
「・・・ふむ、流石のサクソン戦士も食料が無ければただの烏合の衆だという事だ。」
しかし、サクソン王ヘンギストはこの砦に拘りを見せ、その結果グナイウスの用兵に翻弄されてこの砦を落とせず、徒に時を重ねることとなった。
「まあ、兵糧不足のときに、この砦には周辺から食糧が集められているなんて情報を掴んでしまっては、慎重に攻めざるを得ませんね。」
兵士の言葉に人の悪そうな笑みを浮かべて頷くグナイウス。
「そうだとも、この砦には周囲の村々から集められた食糧がたっぷりとある、という事だ。」
「・・・まだ陥とせねえのかっ!あんなチンケな砦一つにいつまで時間をかけるつもりだ!!さっさと前線へ行って、はらぺこのポンコツ戦士どもを動かして来い!今直ぐだっ!!」
ヘンギストの幾度目とも分からないカミナリが族長達の上に落ちるが、族長達はあきらめた表情で首を少しすくめるだけで、何も答えないまま、天幕を出て自分たちの受け持つ戦線へと戻る。
既に砦を包囲して丸3日が過ぎているが、グナイウスの手堅く臨機応変な防御に手を焼いたサクソン軍は、砦攻略の糸口を未だに見出せず徒に時を重ねていた。
大型の攻城兵器や簡単な縄や梯子に至る物まで、およそ攻城戦に必要とされる機材は全く用意していなかった事も、響いている。
当初から速攻で西ブリタニアへの乱入を考えていたヘンギストが、重い攻城兵器を帯同する事で戦士たちの進軍速度が鈍ることを嫌い、敢えて用意させなかったのである。
途中のブリタニアの諸侯や守備隊の抵抗を予想していなかった訳ではないが、それでも10万の戦士で一揉みに潰せると思っていた。
そもそも圧倒的に不利な状態でも頑強に抵抗出来るような気骨のあるブリタニア兵は全てアルトリウスが率いていくだろうと予想していたからでもある。
残るのはブリタニアの惰弱な諸侯の私兵や農民兵に過ぎないと高を括っていた事は否定できない。
「くそっ、最初の作戦が台無しだ、これではアルトリウスのヤロウが気付いて戻ってきちまうぞ・・・」
族長達に気合を入れて攻略戦を進めるよう檄を飛ばしたヘンギストだったが、そろそろ時間との競争に陥りつつあることに気が付き始めていた。
既に根拠地であるブリタニア東部を発ってから10日余りが過ぎている。
今更ながら、ヘンギストに一杯食わされたと知ったアルトリウスが軍を率いて戻って来る事を心配しなければならないぐらいの時間が過ぎている。
奇襲でアルトリウスの根拠地を壊滅させようとするヘンギストの作戦と思惑は外れようとしていた。
「・・・ちくしょう、ここまで抵抗らしい抵抗が無かったせいで、油断しちまった、これは、もしかすると一杯食わされたのは俺たちかもしれねえな・・・ましてやあいつがこんなちっぽけな砦を守っていやがるしな。」
今日も既に何度目かになる、砦に対する力攻めが始まったのだろう。
サクソン戦士の喊声と武具の音が響く。
しかし、冷静な様子で砦の守備司令官と思しき赤い鬣の付いた兜を被ったブリタニアの将官の指揮で、砦の壁や土塁に取り付いたサクソン戦士達は難なくあしらわれ、短時間の攻撃はまたもや失敗に終わる。
「けっ、またやられたか・・・」
砦の守備司令官の忌々しくも落ち着き払った顔を遠望し、ヘンギストは忌々しそうに地面に唾を吐く。
「今回も何とかしのげましたね。」
ふうと大きく息をついた老兵から話し掛けられ、グナイウスも頷きながら息をついた。
「敵には焦りがある、上手くやれば我々もまだまだここで粘れるだろう。」
兜の緒をきつく締め付けながら、グナイウスはこの砦の守備を要請された時の事を思い出していた。
「よろしく頼む、他に頼める人間がいない。」
苦しそうに言うアルトリウスに、グナイウスは随分と薄くなった頭をかきながら、笑みを浮かべて答えた。
「あの時の少年のような指揮官が、今や老いた部下に死に場所を用意できるまでに成長していただけるとは夢にも思っていませんでした、最後の任務、確かに御引き受けいたしましょう。」
グナイウスが引き受けたのは、サクソン軍の足を遅らせ、アルトリウスが戦場に到着するまでの時間を稼ぐこと。
その為にサクソン軍の道筋となる場所に砦を築き、そして最後まで抵抗し続けることがその指揮官に求められていたが、それは即ち砦が陥落するまで死力を尽くして防備に当たらねばならないことを意味していた。
行き着く先は兵諸共の全滅。
「場合によっては退却も許可する、随時その場の情勢に合わせて考え欲しい。」
アルトリウスがそう付け足したように言うが、グナイウスはそれがあくまでも建前上の言葉であることを十分理解し、微笑を絶やさないまま首を左右に振る。
「逃げる事を前提にこのような役目を与えられては兵士の士気も振いませんし、何より十分な時間稼ぎとはならないでしょう、やはりサクソン軍に砦を包囲させる必要がありますから。」
そしてグナイウスもアルトリウスの求めんとする所を理解し、建前で答える。
「・・・すまない。」
ようやく、アルトリウスの真情が発露された言葉がグナイウスに向けられる。
そしてグナイウスはその真情を受け留めて頷いた。
「いいえ、総司令官、これで私も晴れてブリタニアの礎となれます、それから、率いる兵の人選は私に一任して頂いて宜しいでしょうか?」
「ああ、選任は任せよう、兵は500名でどうだろう?」
「いえ、捨石の兵です、200名程度で大丈夫でしょう、砦もそれに合わせてこじんまりとしたものにするつもりですので。」
「そうか・・・分かった、よろしく頼む。」
がっちりとローマ式の堅い握手と抱擁を交わすかつての若き騎兵指揮官と副官。
グナイウスは自分の衰えと向き合い、そしてかつて騎兵指揮のイロハを教えたアルトリウスの成長を、その力強い抱擁と眼差しに確認する。
・・・これが今生の別れとなるだろう・・・
兵士たちが古の時代から幾度となく交わしてきた戦友との無言の別れを済ませ、グナイウスは胸に腕を当てるローマ式の敬礼を老いを感じさせない完璧さでアルトリウスに贈り、さっと踵を返してアルトリウスの執務室から去る。
グナイウス・タルギニウス、沈着冷静を体現するブリタニア軍最高の副司令官にして守備司令官、最期の防衛戦がこのときから始まったのである。