第38章 裏切り者達
冗談ではない、自殺行為に巻き込まれるのは真っ平ごめんだ!
議事堂から足早に自分の執務室に向かいながら、マニウス・フラックス行政次官は混乱した頭の中を落ち着かせようとしながらも、そう憤りを感じずにはいられなかった。
狡猾で残忍なヘンギストに率いられたサクソン10万の大軍に、いくら戦巧者のアルトリウスが率いようとも、田舎軍隊のブリタニア軍が勝てる訳が無い、勝てる理由が無い。
そもそも、最初から今までが出来過ぎだったのだ。
寡兵でサクソンに何度も煮え湯を飲ませられたのも、一時だけの事、そうしてこちらが有利な内に講和でもしていれば、今の惨状は無かったはずである。
ローマ帝国は既に役目を終え、終焉へと向かっている。
時代の主導権は、かつて蛮族と呼ばれ、ローマからは一段下に見られていたゲルマンの諸部族の手に移っており、未だローマの遺風や勢威の残る内に手を打ち、生残る算段を付けなければならない。
丁度秩序が変わる、その変わり目にある時代、新しい秩序に上手く乗るには、自らに力があるうちに積極的に新しい主人のもとに就く事だ。
それなのに、アンブロシウスやアルトリウスらブリタニアの高官達は夢を見ている。
ローマの復権を目指し、自分たちだけの力でローマを継承できると、出来もしない絵空事を目的に、イタズラにブリタニアの国力を疲弊させているのだ。
完全に屈服させられてから、サクソンの支配化に組み込まれてしまえば、待つのは奴隷化か民族浄化、はたまた土地を追われての野垂れ死にしかない。
力を残しつつ、支配下に入れば、それ相応の待遇と権利を得る事ができるだろう。
マニウスらはそう考えて、密かにブリタニア総督府内のみならず、広くブリタニアの有力者らにも味方を得ようと活動を続け、ようやく近年その努力が実り始めた。
ブリタニア軍の不利を見て、マニウスたちの考えに対する賛同者や協力者が増え始めたのだ。
自分の命と財産を守るには、名誉ある降伏しかない。
そのためには、サクソンの頭上の蠅である、ブリタニア総督府の高官連中とブリタニア軍を排除する必要がある。
マニウスはサクソン王ヘンギストの第一王子である、ホルサに渡りをつけ、ブリタニア軍撃滅の証には、ブリタニアの西部、西南部及び西北部の一部を含む区域をブリタニア人の領域として認める旨の約束を取り付けた。
今のブリタニアの半分程度の領域になってしまうが、滅亡よりはましであろう。
滅亡してしまえば、おそらくこの地に於けるブリタニア人の記憶は完全に失われてしまう。
かつてローマの支配が及んだ土地である事は記録されるだろうが、そこにそれ以前からこの地に住み暮らし、日々を送った民族の記憶は抹消され、サクソン人の土地として歴史には残される。
せめて、ブリタニアの人々が生きた証は残したい。
それが屈辱的な支配下におけるものであろうとも、我々ブリタニア人が生残り、歴史を語り継ぐ事でしか、それは為しえないし、その歴史を語り継ぐ事によって何時の日かこの地を取り戻すことが出来るかもしれない。
それも生残ってこそ為し得ることであるから、滅びては意味が無い。
「かつての我等がそうだったように、融和でしか得られないものもある・・・サクソンに文明の温浴を与えるには、融和しかない。」
かつてローマに支配される以前のブリタニア人は、身体に青い染料を塗り、石灰で髪を固め、戦闘馬車に乗って戦う蛮族であったが、ローマと戦い、ローマの文明に触れ、次第に文明を受け入れていったのである。
系統的には、ガリアと同じくケルト系の民族であるブリタニア人は、支配者であるラテン系統のローマ人と融和し、そして見事にローマの文化と文明を取り込んで文明化した。
「今度は我々が、サクソンに教えれば良いのだ、文明と言うものの在り様を。」
マニウスは執務室に着くと、配下の官僚を呼び、仲間たちと連絡を取り合うべく動き出した。
今回のブリタニア元老院に出席している者も中には居たが、それ以外の仲間達にも事の次第を知らせ、ブリタニア軍の情報を収集し、ホルサの元に届けなければいけない。
これまでも、ブリタニア軍内部の同志や自分達が手に入れられた情報を積極的にホルサへ提供し、ブリタニア軍の裏をかいてきた。
おかげでブリタニア軍は負けが込み始め、情勢は坂から転げ落ちるように悪化の一途を辿る事となったのである。
マニウスの仲間は、ブリタニア軍不利の情勢が酷くなればなるほど増え、結果として勢力をもいや増す事となった。
この前のアルトリウス肝煎りの総反撃には危ういところもあったが、マニウスの情報を元に上手く立ち回ったサクソン軍が辛うじて勝ちをおさめている。
あと一息。
今度の反撃が失敗に終われば、ブリタニア軍は壊滅し、アルトリウスは声望を失う。
そうすれば、彼を幽閉か閉居に追いんだ上でマニウスがアンブロシウスを逮捕し、総督職を譲り受ける手筈になっていた。
アルトリウスは良くも悪くも武人であり、政治的な駆け引きや策謀には弱い面がある事は周知の事実。
力の背景である軍から切り離してしまえばそれほど怖い存在ではない。
マニウスが真に警戒しているのは、冷徹な政治家である、ブリタニア総督のアンブロシウスであり、更にはその参謀であるマヨリアヌスとデキムス・カイウス行政長官である。
目立たぬように立ち回ってきたつもりではあるが、マニウスらの動きや組織は決して小さくはない。
既にマヨリアヌスはマニウスらの動きを察知して動き始めた気配がある。
また、政治家ではなくとも超一流の軍略家であるアルトリウスが、最近のサクソン軍の動きの良さに不審を抱いている可能性も否定できない。
それまで翻弄していた相手に、今は翻弄され続けている事実を思えば当然である。
「何としても次で決めなければ・・・」
ブリタニア軍や今のブリタニア総督府の高官達が主導権を握る今、間違っても事が露見してはならない。
しかし、あまり時間をかけ過ぎてはその危険性が増大する。
ブリタニアが負け過ぎても、サクソンとの交渉が不利になるため、匙加減を考えながら情報を与えていた事もあるが、作戦が筒抜けになっているにも関わらず、ブリタニア軍はマニウスの予想以上に健闘し、大負けする事無く引き分けに持ち込んで粘り続けた。
思ったよりも頑張るブリタニア軍に、もしかして、自分がサクソンに手を貸さなければ・・・勝てるのか?という幻想とも言うべき思いを抱き、それまでの信念がぐらついた事もあったが、マニウスは大局の為と私情を切り捨てた。
わずか1年や2年粘ったところで大勢は決しており、ローマは滅びる。
生残るには蛮族の支配を受け入れるほか無く、その為に今回の決戦でブリタニア軍が大敗し、その衝撃が覚めない内に一気に政権を奪取する計画を練り上げた。
地方の仲間となった諸侯達に手を回し、私兵を密かにカストゥルムへ移動させる他、そのカストゥルムの各所にも個人的に指揮下へ入れた警備兵を配置して、武力制圧の準備を整える手筈を整えなければならない。
アルトリウスの直接指揮とあって、ブリタニア軍は将官を含めて根こそぎ動員されており、アンブロシウスらブリタニア総督府の高官はこの期間わずかな警備兵を除けば丸裸となる。
決戦が開始されると同時に、クーデターは決行される。
それこそ無駄に時間をかけ過ぎてサクソン側の損害と手間を増やしてしまうと、それを口実に講和した所で約束を反故にされる可能性もある。
マニウスらにも時間は十分にないのだ。
幸いにも今回の決戦に対するアルトリウスからの総動員の要請については、半分以上の諸侯達が応じていない。
これはマニウスらの動きに同調する諸侯が増えた証拠であると同時に、ブリタニア軍が全滅しても、サクソンに一泡噴かせられるだけの兵力がブリタニアに残る計算になる。
マニウスが目指す、ある程度の実力を備えたままのサクソンへの降伏、つまりは名誉ある降伏が現実味を帯び始めたのである。
ブリタニア軍の策は、マニウスがサクソンに伝えることで瓦解するが、それでも今までの戦いぶりを見ていれば、いかな10万の大軍であろうともサクソン側にもかなりの損害が出ることは織り込み済みであった。
如何にサクソン人が蛮勇で疲れ知らずとは言っても、大激戦の直後、自らの損害も馬鹿に出来ない状態で、余力を残しているブリタニアを一気呵成に攻め滅ぼす事は不可能であろう。
ここになっていきなり決戦を挑むとは予想外ではあったが、いつか来るべくこの期を待って準備を進めてきたマニウスらにも抜かりは無い。
「なに、若干計画が早まっただけだ、心配するには及ばない。」
「しかし・・・乾坤一擲の大決戦だ、何が起こるか分からん、本当に決行するのか?」
内々の内に集合した同志達の一人が不安そうに漏らす。
「今までどおり、サクソンへ情報を伝えるだけで良いのでは?」
また、別の一人は、日和見するべきだとの意見を述べた。
「しばらく様子を見てはどうだ?戦局が動いてからでも遅くはあるまい。」
更に、地方有力者と思しき一人が、いずれかの勝利が確定してから動くべきとの意見を出す。
しかし、それらの意見を一通り聞いたところでマニウスは首を左右に振って否定の意を示し、徐に口を開いた。
「・・・それでは間に合わない、アンブロシウスらをアルトリウスの腰巾着と侮ってはならない・・・真に恐るべきは冷徹な政治家たるアンブロシウスだ、政治的には甘さのあるアルトリウスが総督であれば、もっと早くにブリタニアは瓦解していただろう。」
そうしてから、マニウスは同志達が集まる、執務室の大机の側から少し離れ、自分の執務机に近寄ると、2通の書状を取り出した。
「・・・西ローマ帝国総司令官の、コンスタンティウスが亡くなった・・・後任は未だ決まっていない。」
『!!!?』
マニウスの言葉に、同志達が息を呑む。
「・・・アルモリカ総督代クアルトゥス・アヴェリクスからの通信文と、西ローマ帝国副司令官からの書状だ、両方とも1週間ほど前に届いたが、秘密情報であるゆえに、密かに届けられた物をこちらで押えた、この情報は間違いない。」
政務次官であるマニウスであればそれも可能であろう。
つまり、未だ他のブリタニアの高官たちはこの情報を得ていないという事になる。
アンブロシウスの後ろ盾とも言うべき、西ローマ帝国随一の実力者が、亡くなった。
彼の手で一旦は抑えられていた蛮族たちも、再び動き出す事は必至であり、ガリアはまた暗黒の淵に立たされてしまう事となろう。
今の所ガリア南部に留まる西ローマ帝国軍に動きは無いものの、総司令官不在のまま積極的な軍事行動を取る事は考え難い。
万が一、アンブロシウスが応援要請をしていたとしても、遠く海を越えてブリタニアまで遠征してくるような余裕も能力も、果てては意義や義理も今の西ローマ帝国軍は失っていると見て間違いない。
ましてや、アンブロシウスにブリタニアの総督を与え、その正当性を保障していた当の本人が亡くなったのである。
ブリタニア総督という肩書きそのものに変化も影響も無いだろうが、その意味合いは大きく減退した。
「・・・そうだな、決行するとすれば、今この時をおいてしかない、拙速の感は否めないが、事ここに至ってはやむを得まい、何れにせよ、ブリタニア軍の作戦を知りうる立場にい居る我々がサクソンの手助けをするのだ、サクソンが敗れる事はないだろうからな。」
更に別の一人がそうポツリとつぶやき、大勢は決した。
「では、各人が手に入れた情報を開示しよう。」
「うむ、それではまず・・・」
まさに同志達の一人が自分の得た情報を披露しようとした時、執務室の出入り口に一人の官僚が現われる。
「マニウス政務次官、お邪魔しても宜しいでしょうか?」
一瞬、凍りついたように動きを止めるマニウス達だったが、すぐにそれが何の変哲も無い一官僚である事が分かると、胸を撫で下ろした。
年配の官僚は、マニウスの部屋に大勢の人間が集まっている事に怪訝そうな表情を浮べるが、集まっているのが見知った官僚や有力者たちであるので特に何も言わず、部屋の全員に目礼をすると、マニウスが自分の言葉に頷いたのを確かめてから伝言を述べる。
「ブリタニア総督のアンブロシウスからの依頼です、軍の糧秣及び馬糧の追加手配をお願いしたいとの事です、搬送場所については、北ブリタニアのマンクニウムです。」
「承知した、軍はそこに派遣されるのか?」
最高機密が向こうからやって来たことに、マニウスは自分の幸運を感謝し、狂喜したが、それを顔に表す事無く極めて冷静に尋ね返した。
「はい、アルトリウス総司令官率いる1万2千の軍が進発の後マンクニウムに滞在する予定です、その後南下し、サクソン軍の本拠地となっている東ブリタニアに乱入し、焼き討ちをかけてサクソン軍を誘き寄せる作戦と聞いております。」
伝達係が長いのか、記憶が良いのか、もう老齢と言っても差し支えないその官僚はよどみなくマニウスの質問に答える。
「軍の進路は?」
逸る心を押さえ、更にゆっくりと尋ねるマニウスに、官僚は何ら躊躇無く回答する。
「重兵器と歩兵はイスカ・ドゥムノニウムから船でデーヴァに上陸しそこから陸路でマンクニウムまで向かい、騎兵はカストゥルムから直接陸路でマンクニウムへ向かうそうです。」
アンブロシウスからの命令書を官僚より受け取ったマニウスは、時間をかけてその命令書の詳細を読みとる。
そこには軍の総数と不足分の糧秣の総量と共に、アルトリウスと旗下の騎兵隊が辿る道筋が記されていた。
どうやら、主な補給物資はコルウス提督率いるブリタニア海軍によって歩兵や重兵器対と共に運ばれる手筈になっているようで、それと分かれて進撃する騎兵部隊の糧秣と馬糧(馬の餌)の手配がマニウスに課された仕事となるようである。
「・・・承知した、それでは直ぐに輸送の手配をすることにしよう。」
鷹揚に頷きながら命令書から顔を上げて答えるマニウスに、官僚は目礼を残し踵を返したが、直後にあっと驚きの声を出した。
一瞬ぎくりとするマニウスたち。
その官僚は振り返ると、少しばつが悪そうな表情で言葉を付け加える。
「・・・申し遅れましたがこれは機密情報という事ですので。」
「言われるまでもないっ!ここに居る者達も口外などするかっ!腐ってもブリタニアの官僚だぞ!!?」
内心の情を悟られまいとするマニウスが官僚のもったいぶった言葉に、思わず上ずった声でそう強く返答すると、今度はその大声に官僚がぎくりと身体を強張らせた。
「・・・せ、僭越でした、それでは私はこれで失礼致します。」
驚いた表情のまま、何とかそれだけを言うと官僚はもう一度目礼し、そそくさとマニウスの執務室から立ち去る。
・・・これで勝った!
官僚が十分執務室から離れた事を確認し、飛び上がらんばかりの思いで喜びと勝利の確信を得たマニウスは、ほころぶ口角を必至の思いで抑え込み、首を捻りながら立ち去る官僚の背中を見送る。
「・・・やりましたな、マニウス殿、あとはこの機密情報を、伝えるだけですな・・・!」
同志の一人が、マニウスと同じような笑顔で言葉をかけてきた。
「ああ、早速早馬を仕立てよう。」
「それでは私を遣わしてください。」
マニウスの言に、一人の武人然とした口ひげの男が名乗りを上げた。
「そうか、ノニウス、君ならホルサとも面識があるしな、それでは君に頼もう。」
名乗り出たノニウスの顔を見て、マニウスは直ぐに承諾を与える。
「はっ、では直ぐにホルサ殿の下に向かいましょう・・・伝える情報の中身はどうしますか?」
「・・・アルトリウスが騎兵のみを率いて北上した事とその道筋を詳細に、ブリタニア軍主力は船舶で北上した事を伝えてくれれば良い、おそらく途中でアルトリウスの隊を捕捉してくれるだろう。」
ノニウスの問いに少し考えてから、マニウスはアルトリウスを亡き者にすべく、今回得た情報のほとんどをサクソン側へ伝えることにした。
「承知いたしました、それでは早速・・・」
「うむ、頼んだぞ。」
マニウスの言葉に力強く答え、マントを翻してノニウスが部屋から去る。
今度は先程とは違い落ち着いて信頼を寄せる、頼もしい部下の背中を見送るマニウス。
軍が分割され、目的地へ向かう途中、満足に兵が揃い切らないうちにサクソンの奇襲が成功すれば、足の速いブリタニア騎兵でも容易ならざる事態に追い込まれる事は必至。
目立つ総司令官旗を掲げるアルトリウスは、格好の餌食となるだろう。
サクソン側にとっても、何度も苦杯を舐めさせられているアルトリウスに対して一矢報いる好機である。
あわよくばその命を取れれば、サクソンの部族長達も溜飲を下げるどころの話ではないだろう。
いかな軍神アルトリウスといえども、自分息が掛かっていると信じきっているブリタニアの勢力圏内を進む間は油断もあるに違いない。
アルトリウスがサクソン戦士の大群に押し包まれ、その体をずたずたに切り裂かれて事切れる様子が目に浮かび、マニウスは早くも勝利を確信した。
「ふむ、久々の出番であるが・・・何とも冴えぬ任務よ。」
廊下に建つ列柱の影からマニウスの執務室を見張っていた老齢の官僚は、そうつぶやくと懐から木簡を取り出し、隅の切れ端で何かを書き付けると、素早く走り寄って来た部下と思しき黒フードの男にそれを渡した。
さきほどマニウスの部屋で見せた、長年勤め上げた末の官僚らしい雰囲気は全く無い。
鋭い視線の先には周囲を窺いながら執務室より出てきたノニウスの姿があった。
「その木簡を我が主殿に届けよ・・・行く先はおそらくホルサの構えるサクソンの本陣、我はノニウスとやらが伝達を終えるのを見届ける。」
そう密やかに言いながら付け髭を取ると、不敵な笑みを浮かべるアトラティヌスの顔が現われた。
「・・・・・」
黒フードの男は黙ったまま頷くと、木簡を携えてその場から現れた時と同じように、音も無く立ち去る。
「ふふふ、さあて、我が主殿、最後の戦いは刻一刻と迫りつつあるぞ。」
アトラティヌスは官僚然とした綺麗なトーガを整え、何食わぬ顔で畜舎へと向かうノニウスの後を付け始めた。