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第36章 束の間の団欒 前篇

日が沈む。

一日の終わりを告げて、日が沈む。

赤い太陽が、西の彼方の海へ、静かに、そして赤々と、沈む。

「・・・私は・・・何かを為せたのだろうか?」

アルトリウスは、静かにその様子を眺めながら、そっと息を漏らすようにそうつぶやいた。


「アル、いくら休みだといっても、もうお昼です、そろそろ起きないと。」

 深い眠りの中にあったアルトリウスは、アウレリアに毛布ごと優しく揺すられて、ようやく薄目を開けた。

「・・・ああ、もうそんな刻限か・・・」

 日の高さを瞼の狭間から見て、つぶやくアルトリウス。

「全く、部下の方たちはもう林の方へ馬で早駆けに出かけました、いいんですか?」

 アルトリウスの何時に無くだらしの無い風情に、アウレリアが呆れたように言う。

「・・・う~ん・・・」

 上半身を起こしながらも、未だ眠そうに唸るアルトリウス。

 夜間の街道巡察を終え、アルトリウスは一泊の宿として自分の館を兵士達に提供する事にしたのだが、翌日からは交代の部隊が近くの駐屯地から巡察を行う事になっており、アルトリウスと50騎の騎兵達は今日から3日間の休みを取る事になっていた。

 アルトリウスは、近隣に親族や家族のいる者達には帰省を許可し、それ以外の者達は引き続いて自分の屋敷で面倒を見る事にしていた。

 護衛騎兵隊長のトゥルピリウス以下、12名の騎兵達が、3日間アルトリウスの屋敷で過ごす事になったのである。

 その部下の騎兵達は、真面目なトゥルピリウスに率いられ、日課の早駆けへと既に出かけてしまっている様子で、屋敷内は何時に無く静かである。

「おとうさん~起きて~」

 可愛らしさよりも可憐さが目立つ5歳くらいの女の子がアウレリアの横から飛び出してきてアルトリウスの上半身へと飛びついた。

「・・・おっと、お早う、マリア。」

少し驚きながらもその子をしっかりと抱き止めたアルトリウスは、にっこりと微笑んでから頭を右手で撫でる。

その女の子は、マリアと呼ばれ、花が咲いたような笑顔を浮べた。

「おはよう!おとうさん!!」 

 元気良く朝の挨拶を返したマリアは、目を細めてアルトリウスの手を感じ取りながら嬉しそうに頬をアルトリウスの胸にこすりつける。

 マリア・アルトリウス・ロングスはもう7歳。

 法的には、カイウス・ロングス議長の幼女であるが、アルトリウスの下で養育されてすくすくと育ち、そしてその可憐さは早くも近隣で噂となっている。

「さあ、マリア、ねぼすけなお父さんの食事を準備して、食堂でトゥリアが待っています。」

 しばらく父親に抱きつき、じゃれていたマリアは、アウレリアの言葉に何かを思い出したのか、アルトリウスから慌てたように離れ、寝台からぴょんと飛び降り、再びぱっと華やかな笑顔をアルトリウスに向ける。

「おとうさん、マリアきょうはトゥリアとおかあさんのおてつだいをいっぱいしたの、はやくきてね!」

「ああ、直ぐに行くよ。」

アルトリウスの言葉に、より一層笑顔を深くし、マリアは来た時と同じように跳ねる様な足取りで寝室を後にした。

「・・・」

「・・・」

 にこにことマリアの後姿を眺めるアルトリウスが、ふと気配を感じて見上げると、何故か少し拗ねた様な表情のアウレリアと目が合った。

「・・・ずるいです。」

「・・・えっ?」


 未だ眠気が取れない様子でそう聞き返すアルトリウスをじと目で見つめると、アウレリアはアルトリウスの手からすらりと毛布を抜き取る。

「・・・あっ・・・?」

 名残惜しげに手を彷徨わせ、上半身ごと身体を横に傾けたアルトリウスの視界一杯に目を閉じたアウレリアの顔が入ってきた。

アルトリウスから取り上げた毛布を後ろに回した両手で持ったまま、アウレリアは腰を傾け、寝台に座るアルトリウスとの静かで密接な逢瀬をしばし堪能する。

「目は覚めましたね?では、行きましょう。」

「・・・・・・」

 先程までの拗ねた表情はすっかり鳴りを潜め、満面の笑みを浮かべながらアルトリウスの眼前からすっと離れるアウレリアにそう耳元で囁かれ、アルトリウスは頭を掻き、照れ笑いを浮かべながら寝台から起き上がった。

 毛布をきっちりと畳み込み、寝台の上に置くアウレリアを待って、アルトリウスは寝室からマリアとトゥリアの待つ食堂へと向かった。

 すかさずアルトリウスの腕に自分の腕を絡めるアウレリアに苦笑をこぼし、アルトリウスは緩やかな時間の流れを、心の底から噛み締める。

 未だ味方は劣勢にあるとは言え、ブリタニアとサクソンの勢力は均衡を保っており、ブリタニア各地にささやかながらも平和が訪れていたのである。

 いつも、何時まで続くか分からない平和が断続的に訪れるブリタニアで人々は、その貴重な時間を大切に、そして丁寧に使う。

 そうした仮初めの時間は、気が付くと過ぎ去ってしまうため、半ば習慣付いてしまったのか、アウレリアもアルトリウスが屋敷で過ごす時は片時も側を離れようとしない。

 昨夜は流石に部下達もいる手前もあり、少しは慎んでいたようであるが、今朝はそのほんの少しだけ見せていた慎みも完全に鳴りを潜めていた。

 あるいは、トゥルピリウスはアウレリアのそういった気配を察して部下達を早駆けに連れ出したのかもしれない、そう邪推しながらアルトリウスはアウレリアと一緒に食堂へと歩みを進める。

 アルトリウスとアウレリアが食堂に到着すると、俄かに館の周囲が賑やかになった。

 どうやら、早駆けに出ていたトゥルピリウスらが戻ってきたようで、馬の嘶きや人馬の装具が鳴る音とともに、朗らかな笑い声や話し声が聞こえてくる。

「・・・みんなもう戻って来たようですね、折角ですから、一緒に食事を摂れるように準備しますね。」

 少し残念そうな雰囲気を含みながらも、アウレリアは微笑を残し、アルトリウスから離れ、先に食堂と厨房へと入って行った。

 アルトリウスは後ろを振り返りながら歩み去るアウレリアに微笑み返し、アウレリアが嬉しそうに厨房へと消えると、食堂を通り過ぎて中庭の方へと歩みを進める。

 アルトリウスが館から顔を覗かせると、部下の騎兵達が馬の手入れと装具の整理をしている光景が目に入って来た。

「・・・総司令官、お早うございます・・・」

 馬の汗を騎兵達と共に拭き取っていたトゥルピリウスは、アルトリウスに気付くと、額の汗を腕で拭いながら歩み寄る。

「朝から精が出るな、次は私も是非誘ってくれ。」

「・・・そうですか・・・」

 少し考えてから、トゥルピリウスはそう答えた。

「・・・ご子息は御連れしましたが・・・」

 トゥルピリウスがそう言いながら振り返った先を見ると、ルシウスが騎兵達に混じって装具の点検と整理を一生懸命に行っている様子が見えた。

「ああ、ルシウスを連れて行ってくれたのか・・・ありがとう、あいつも最近は生意気盛りでね、大人に混じりたい年頃らしい。」

 騎兵達から装具の整理方法を教えられ、その内容を熱心に聞いている姿を見て、アルトリウスは微苦笑を浮べてトゥルピリウスに礼を述べる。

 トゥルピリウスはアルトリウスの言葉に頷きながら近寄ってきた騎兵から水の入った木杯を受け取り、一口水を口にし

てから、ぽつりと言う。

「・・・ご子息は筋が良い、我々の早駆けにも後れず付いて来れます。」

「そうか、貴官にそう言って貰えるとは、父親冥利に尽きる。」

 アルトリウスが面映そうな面持ちでトゥルピリウスに答えた。

 アルトリウスは、アルモリカ出征から帰還した後、ルシウスにみっちりと馬術を仕込んでいた。

 元々素養があったのか、ルシウスは幼子であるとは思えない速度で馬術を吸収してゆき、今や大人顔負けの腕前となっていたのである。

「流石は総司令官仕込みです、馬を自在に操る後姿がそっくりでした。」

 普段めったに笑わない、謹厳を絵に描いたような軍人のトゥルピリウスが、早駆けの時の事を思い出したのか、小さく笑顔を浮かべてそう言った。

「・・・ああ、妻にも言われた事があるよ。」

 アウレリアにかつて言われた台詞を思い出し、今度は苦笑しながらアルトリウスが答えると、トゥルピリウスはそうでしょうと頷き、木杯の水をのどを鳴らしながら一気に飲み干してから、顔をアルトリウスの見るルシウスの方向ヘ向ける。

 真剣な様子でベテラン騎兵たちの言葉に聞き入るルシウスの姿がそこにはあった。

 2人はしばしの間、騎兵たちから教えを受けながら、馬の手入れをしたり、装具の収納を手伝うルシウスの姿を眺める。

「・・・そして謙虚です、先輩たちの意見や教えを疎かにしていない、まだまだ御子息の馬術は伸びるでしょう。」

 やがて一連の後片付けが終了し、ようやくルシウスはふうっと大きく息をつき、泥と汗に汚れた顔を腕で拭いつつ周囲を見渡し、アルトリウスの姿を見つけた。

「父さん!いらしていたのですか。」

 衣服のほこりをぱんぱんと払い落としながら、にっこりと少年らしい衒いの無い笑顔をアルトリウスに向けるルシウスに、アルトリウスも笑顔で応える。

 ルシウスは近くに置いてあった水桶と柄杓を拾い上げ、騎兵達から空になった木杯を笑顔で受け取りながらアルトリウスとトゥルピリウスの居る館の庇まで歩み寄る。

 騎兵たちも、ぽんと空になった木杯を水桶に投げ込んだり、手渡したりと、アルトリウスの嫡子と言うよりも、若い少年騎兵見習いを扱うように気安くルシウスに接している。

 しかしルシウスは騎兵達から決して侮られている訳ではなく、あくまでも仲間の後輩としての扱いを騎兵達から受けていた。

「・・・総司令官は本当に良い御子息をお持ちだ。」

 騎兵たちの中でも特に誇り高い、アルトリウスの親衛隊とでも言うべき、総司令官護衛騎兵隊の騎兵達から、たった1日の早駆けを共にしただけのルシウスが、仲間同然の扱いを受けている光景に、感じ入ったトゥルピリウスは、感嘆したようにぽつりと言う。

 やがて、全員の木杯を回収し終えたルシウスがアルトリウスたちの元にやってきた。

「トゥルピリウス隊長、今日はありがとうございました、大変勉強になりました。」

 ルシウスはまず丁寧にトゥルピリウスにそう挨拶すると、自然な動作でその手にある木杯を受け取り、水桶の中に入れる。

「・・・差支えありません、また何時でもお連れしましょう。」

 トゥルピリウスは口元をほころばせてルシウスに応じた。

 トゥルピリウスがこの様に頻繁に笑顔を見せる事を珍しく感じながら、アルトリウスは息子を改めてしげしげと眺める。

 背丈は大分伸びたとはいえ、未だアルトリウスの肩に届くか届かないかぐらいのルシウスは、にこにこと満面の笑顔でアルトリウスを見上げていた。

「父さん、しばらくぶりです。」

「・・・昨日同じ挨拶を聞いたような気がするぞ?」

 父親の自分に対しても、慇懃な挨拶をするルシウスに、アルトリウスは少し憮然とした様子で言葉を返す。

 ルシウスは、明後日の方向を向いてぺろりと舌を出した。

 その様子は、脇に居るトゥルピリウスからははっきり見える。

思わず噴出すトゥルピリウスに、腕を組んで片眉を上げたアルトリウスは、おおよその事を理解し、こつりとルシウスの頭に軽い拳骨を落とした。

「いたっ・・・すいません、父さん、冗談です。」

「・・・当たり前だ・・・本当に性格は母さんにそっくりだな。」

 朗らかに頭を片手で押さえながら、悪びれた様子も無く、笑うルシウスに、アルトリウスは少し呆れたように言ってから、笑う。


 食堂は戦場と化していた。

 朝駆けを終えたばかりで空腹な騎兵たちの前に、トゥリアやアウレリアが用意したパンや惣菜が瞬く間に消えてゆく。

 幼いマリアは突然の襲撃とその勢いに完全に気圧されてしまい、ぽかんと口を開いたまま壮年の男たちが次々と食料を口に運ぶ様を見つめている。

 アルトリウスは、朝から山と積まれた食料に呆れつつも、未だ呆けているマリアを抱き上げると、自分の膝に載せた。

 兄のルシウスは当然の様に騎兵たちに混じって一心に食事を取っている。

「マリア、何が欲しい?」

 アルトリウスの呼びかけにようやく我に返ったマリアは、少し引きつった笑みを浮かべながらも、手にしていたパンの切れ端をアルトリウスに掲げてみせる。

「だいじょうぶ、マリアももらった。」

 トゥリアが新たなパン篭をテーブルに置くが、置いた端から中身が消えてゆく。

「ふむ、かなりの量を用意しておいたが、正解だったようだな?」

 前掛けを付けたまま席に就いたトゥリアが真面目に言うと、傍らに座っているアウレリアも頷く。

「ええ、こうなると思いましたから。」

 アルトリウスがマリアの持つパン切れを更に小さく千切りとり、スープに浸してからマリアに手渡している様子を眺め、アウレリアは笑顔を向けた。

「あら、いいわね、マリア、お父さんにお世話してもらって~」

「うん!」

 もぐもぐと口を動かしながら、元気いっぱいに頷くマリアの様子は、心底嬉しそうであった。

 

 嵐のような食事が終了し、後片付けに追われるアウレリアやトゥリア、そして家政婦たちに混じってマリアもちょろちょろと空になった皿や、食器類を流し場へ運んでいる。

 この時代の領主階級の人間としては珍しく、アルトリウスは館で奴隷を使っていない。

 下働きをしている馬丁や農夫、そして家政婦たちに至るまで、全員ブリタニアの人間を給料で雇い入れている。

 それ故に、館に割合に比べてそうした下働きをする人間が少ない。

 奴隷を使うのは、この時代のローマの人間としてはごく普通のことであり、一般的な家庭においても奴隷は普通であるが、アルトリウスは、第1には敵の間諜の侵入を防ぐため、そして第2には自分の蛮族に対する嫌悪感から、アンブロシウスの元から独立して以来奴隷を使っていなかった。

 その分、家族で食事や掃除等の家内作業を行っており、当然、アルトリウス自身戦いの無いときは鍬や鋤を振るい、鎌を持って農作業に加わる。

 特に養蜂には力を入れており、アルトリウスの館の裏手にある養蜂場では、家で消費する以上の蜂蜜が取れる。

 今も、蜂の毒針を防げる厚手の衣服に皮の帽子と手袋を身に付け、アルトリウスは、同じ格好をしたルシウスを連れて熱心に蜂の巣箱を調査していた。

「・・・今年もよく蜜を集めている、少し頂いておくか。」

 アルトリウスは、皮手袋を着けた手でそっと働き蜂達を除けると、蜜のたっぷり詰まった蜂の巣を一つ取り出し、ルシウスへと手渡した。

 おっかなびっくり蜂の巣を手にしたルシウスに、アルトリウスは笑いを少し含みながら注意を促す。

「そっと扱うんだ、それからあまり急な動きをするな、蜂を刺激してはいけない、刺されてしまうからな。」

 無言で刻々と頷くルシウスに持たせた蜂の巣とは別の巣を巣箱から引き出したアルトリウスは、蜜がぎっしりと詰まっている事を確かめ、蜂が張った蜜蝋の封を養蜂用の短刀で削ぎ落とし、きらきらと黄金色に輝く蜜を湛えた蜂の巣を蜜壺の上に逆さまに置く。

     とろろろ・・・・・・・・・

 細い筋となって、蜜壺の中に落ちてゆく黄金色の蜂蜜の様子を、満足そうに眺めるアルトリウス。

 その後ろから、もの欲しそうな目で蜂蜜をに視線を注ぐルシウス。

 やがてほとんどの蜂蜜が蜜壺に収まると、アルトリウスは蜂の巣を壊れないようにそっと持ち上げ、巣箱へと戻し、更にルシウスの持っていた巣を受け取り、それも併せて巣箱へと戻した。

 すぐに払い除けられた働き蜂たちが戻された巣へ群がり集まり、巣を修復し蜜を貯め始める。

「まだ手を出すんじゃないぞ、母さんに見せてからだ。」


 手渡された、蜂蜜のたっぷりと詰まった蜜壺へそっと指を差し入れようとしたルシウスを言葉でけん制しながら、アルトリウスは皮の帽子を取り、振り返って密壷をルシウスから受け取った。

「・・・どうして分かったの?」

 次の養蜂場へ向かう途中、不思議そうな様子で後ろからそう尋ねるルシウスに、アルトリウスはにやりと口の端を吊り上げて答えた。

「・・・昔同じ事をしようとしたからだ。」

「・・・」

 口を丸くあけて絶句するルシウス。

「だからお前のイタズラは全てお見通しだ。」

 止めとばかりに、得意げな声色で言葉を重ねるアルトリウス。

しかし、自分の言葉への反応が薄い事に不審感を抱いたアルトリウスが後ろを振り返ると、頭の後ろで両手を組み合わせたルシウスが顔全体に笑みを貼り付けていた。

「・・・?」

 首を捻るアルトリウスに、ルシウスは心底嬉しそうに言う。

「何だ、僕はお母さん似じゃ無くて、お父さん似だ!」

「うん?そうだな・・・そういう所は確かに良く似ているな。」

 前に顔を戻し、イタズラが見つかった子供のような決まりの悪さで答えるアルトリウスにルシウスは、再び独り言めいた呟きを嬉しそうに漏らす。

「そっか~やっぱり僕はお父さん似か~」


 アルトリウスは途中で麦畑に立ち寄り、小麦の生育具合を確認しながら、ルシウスを連れて館の周囲を歩いて回った。

 今年は穏やかな気候に恵まれているせいか、小麦や大麦は順調に育っており、アルトリウスはルシウスに麦の青い穂を見せ、生育の様子や病気の有無を確かめながらその判別方法を教える。

 ルシウスは実際にアルトリウスに教わったとおり、青い穂の中の麦の実を触り、その実の太り具合を確かめたり、葉や茎の色合いや様相を観察し、病気の有無を確認すると共にアルトリウスが話す注意するべき作物の病気について熱心に聴いていた。

 畑を一通り回り終え、館へと向かう途中、その小道の脇に生えるセージや野草を摘み、野苺を取りながら、父子がゆっくり戻って来ると、時間はもう午後。

アルトリウスとルシウスが館に戻り、中庭へ回ると、そこでは騎兵達が汗を飛ばしながら真剣を使って剣術の稽古をしていた。

刃が激しく打ち合わされ、鋭い音と共に火花と欠けた刃が飛び散る。

アルトリウスの護衛に抜擢された、文字通り選り選り(えりすぐり)の騎兵達の撃剣は凄まじく、またその洗練された剣捌きにルシウスが目を奪われる。

周囲で剣を杖代わりにして休憩を取っていた騎兵達が、アルトリウスらに気付いて軽く会釈した。

その手に密壷を見つけた騎兵の1人が声をかけてくる。

「御疲れ様でした、どうでしたか?」

「ああ、順調そうだ、ちょっと早いかとも思ったが、少し分けてもらってきた、風呂上りに飲み物を出そう。」

「それは有り難いですね、楽しみにしています。」

 たっぷりと蜂蜜の詰まった密壷を掲げてアルトリウスが笑顔でそう答えると、その騎兵は満面の笑顔で言葉を返す。

 アルトリウスはもの欲しそうな目で騎兵達の撃剣を見つめるルシウスを促し、台所へ回ると、そこでマリアの相手をしながら早くも夕食の準備をしているアウレリアに、蜂蜜のたっぷり詰まった蜜壷を手渡した。

「お帰りなさい、今年もミツバチ達は頑張ってくれているようですね?」

 密壷を手にした途端、ずっしりと重みを感じたアウレリアがにこやかに言うと、アルトリウスも笑顔で言葉を返す。

「うん、気候もよかったし、もうかなり蜜を貯めていたから、少し貰って来たよ、部下達の風呂上りに蜂蜜生姜ジュースでも出してやって貰えるかな。」

土間の物入れに皮の手袋と前掛け、帽子をルシウスの分と併せて仕舞い込み、途中で摘み取った野草や木の実を台所へ置くと、アルトリウスは近くにいた使用人に声を掛け、風呂の準備をするよう言いつけた。

「お風呂、2人はどうしますか?」

 アウレリアの問いに、ルシウスと一瞬顔を見合わせたアルトリウスは、にかりと意味深な笑みをお互い浮かべてから2人同時に答えた。

「「もちろん、入るよ。」」


 館の中庭に面した浴場で、アルトリウスとルシウスは先程まで激しい稽古を積んでいた騎兵達と一緒に入浴を堪能する。

 アルトリウスの館には、ローマ風の温浴漕と冷水漕を備えたなかなかに本格的なテルマエ(浴場)があり、近隣の市民達にも開放されていた。

 今日は時間が遅いこともあって、市民達の姿は無く、今は騎兵達とアルトリウス親子だけが入浴している。

 顔を真っ赤に火照らせたルシウスが楽しそうに騎兵達と談笑している様子を、アルトリウスは温浴漕に浸かりながらぼんやりと眺める。

「総司令官も跡継ぎには不安がありませんな。」

 隣で同じように温浴漕に浸かっているトゥルピリウスの言葉に、アルトリウスは微笑を返しながら答えた。

「・・・ああ、心配ないな。」

 そのまま目を閉じ、湯に身体と心を委ね、温浴漕に浸かり続ける2人。

しばらくしてアルトリウスは、目を開けると静かに立ち上がり、温浴漕から出ると、ルシウスを手招いて洗い場へと連れ出した。

「今日は特別だ、頭を洗ってやろう。」

 アルトリウスの言葉に一瞬怯むルシウス。

 しかし、ぎこちなくではあったが微笑むと、大人しくアルトリウスに背を向けると、目の前に置かれた小さな椅子に腰掛けた。

 その心の動きを瞬時に理解し、小さく鋭い針を胸に差し込まれたような痛みを感じたが、アルトリウスはわっしわっしとルシウスの頭をもみくちゃにして笑った。

「・・・どうした、まだ頭を洗うのが怖いのか?」

「・・・怖くないよ。」

 顔を下に向けたまま、それまでの朗らかさとは打って変わってほの暗い雰囲気を漂わせて答えるルシウス。

アルトリウスはその頭を今度は優しく撫でた。

「・・・湯をかけるぞ。」

    ざあああああ・・・

 手桶からルシウスの頭へ湯が注がれ、その見事な金髪が湯と共に床に向かって流れる。

「・・・」

 アルトリウスに石鹸を撫で付けられ、がしがしと頭を揉み込まれるが、ルシウスは黙ったまま少し下を向いている。

 しばらく無言でアルトリウスのされるがままになっていたルシウスは、最後に湯で髪を濯がれてようやく顔を上げた。

「よし、終わったぞ、綺麗になったな。」

 ぽんと頭へ手を載せられたルシウスは、不意に目を潤ませる。

「・・・ごめんなさい・・・」

「・・・」

 小さく涙目で誤る息子を無言で裸の胸に抱くアルトリウス。

 その謝罪は、ルシウスが口にする言葉ではない。

 その意味はルシウスが負うべき負債ではない。

 しかし、アルトリウスは、自分の息子が誰に、何を思って誤っているのか、理解できてしまっていた。

 本来は理解してはいけない事実。

 しかし、その行動が理解している事を示してしまう。

 騎兵達の喧騒がどこか別の場所から聞こえてくるように、洗い場へと響いてきていた。

 静かに自分の胸で泣く息子を、アルトリウスはただ黙って抱きしめている事しか出来なかった。


「・・・殺す他無いでしょう。」

産婆に抱かれてすやすやと寝息を立てて眠っている、薄いながらも金髪の生え始めた赤ん坊を遠目に、アンブロシウスが恐ろしいほど冷淡にそう言い放った。

アウレリアは、その近くの寝台で横になって産婆のあやす我が子の様子をにこやかな笑顔で見つめている。

その屈託の無さが、アンブロシウスの怒りを掻き立てるのだが、そうとは知らないアウレリアは、時折自分の前に赤ん坊を傾けてみせる産婆と何事かを談笑しながら、産着に包まれたルシウスを構っていた。

その様子をいたたまれない目で見ていたマヨリアヌスが、堪りかねてアンブロシウスの後ろから声を掛ける。

「しかし・・・アウレリアはそれを許すまい・・・遠征に出ているアルトリウスの事も気にせねばならん。」

「姉は関係ありません、これは最早家族の問題では無いのです。今後のブリタニアの行く末が掛かっています。」

 躊躇するマヨリアヌスを制し、アンブロシウスはそう言葉を続返した。

 既にアルトリウスがアルモリカへ出征してから1年が経ち、ルシウスはすくすくと育っていたが、それと同時に明らかになってきた事がある。

「かつてのブリタニア人はケルトの流れを汲み、金髪の者も多かったと聞きます、我らはローマの騎士階級者でありますが、歴代当主はブリタニア人を妻として家に迎え入れたりと、ブリタニアの人々と深く交わって来た経緯が有りますから、金髪の者が生まれてもおかしくは無い。」

 アンブロシウスは苦々しい表情を隠そうともせずにそう言うと、一旦言葉を切った。

 そしてマヨリアヌスに向けていた視線を、再び金髪の赤ん坊へと向ける。

「しかしブリタニア・カストゥス家15代100年に渡って、一門衆から1人たりともあのような髪を持つ者が生まれた事はありません、あの子はアルトリウスの子ではない、即刻殺すべきです。」

 ぎりりと口を喰いしばり、拳をきつく握り締めたアンブロシウスが言った。

「・・・しかし、アウレリアの・・・おぬしの姉の子じゃろう、アルトリウスもお主もルシウスの誕生をあれほど喜んでおったじゃろうが。」

「それはあくまでもアルトリウス自身の子であると思っていたからです、どこの者とも知れぬ蛮族に穢された結果の子の誕生を喜んだのではありません。」

諭すように言うマヨリアヌスへ眉間にしわを寄せ、厳しい憎悪のこもった目を向けると、アンブロシウスは口から言葉を吐き捨てるように再び言った。

「我がカストゥス家の者に金髪の者が生まれようはずも無いのです。」

 マヨリアヌスはアンブロシウスの肩に手を置き、首を左右に振ると、徐に口を開く。

「良く考えるのじゃアンブロシウス、聡明なお主がそう瞳を曇らせてはいかん、ここであの子を亡き者にしたところでアルトリウスにどう告げる?蛮族の子だというのか?それとも真実を覆い隠して病死とでも偽るのか?」

 マヨリアヌスにそう諭されたアンブロシウスは、きつい視線をルシウスに据えたまま、己の唇を噛み破らんばかりの勢いで噛み締め、天を仰いだ。

「どちらにせよアルトリウスには辛い結果にしかならんじゃろうし、そもそも己の選択を度外視されたことについて不信を抱かんとも限らん。」

 続くマヨリアヌスの言葉に、アンブロシウスは視線をようやく背後のマヨリアヌスへと向け、ため息を付くように言葉を吐いた。

「・・・アルトリウスに決めさせるしかありません・・・」

「・・・それが良かろう、何れにせよ、ルシウスはアルトリウスの子じゃ、父親の手に委ねるしかあるまい。」


 ルシウスが成長するにつれ、その容姿は隠しようも無く、非ローマ的な風貌が目立ち始めた。

 当然、周囲からは疑惑の目を向けられ、ましてや父代わりとも言うべき叔父に当たるアンブロシウスからも余り相手にされず、ルシウスは幼いながらも辛い毎日を送ることになった。

 ルシウスの家庭教師となったマヨリアヌスだけは、母親のアウレリア以外では大人の中で唯一普通に接してくれる為、ルシウスはマヨリアヌスと常に一緒に行動した。

「ローマは出自に拘らない民族じゃ、蛮族や異民族をローマに同化させ、ローマ人は国を大きくしていったのじゃからな、ローマとは民族名であるとともに、国の名前であり、文明の名前であるのじゃ、故にローマに住まい、ローマの風を受け入れた者はすべからくローマの民と言えるのじゃな。」

 ルシウスへの励ましとも取れる話を歴史の授業でするマヨリアヌスの眼差しは暖かく、そしてその言葉はルシウスの拠り所となった。

ただ、その言葉も裏を返せば、ルシウスの出自がローマ人に拠るものではないということを証明しており、ルシウスには大人たちの態度が自分の出自に関わる出来事が元になっているということが、皮肉にもマヨリアヌスの優しい言葉でおぼろげながらも理解できてしまう。

しかしながら、その聡明な頭脳は幼子であることから表現という術を持たず、不満や寂しさ、憤りや怒りといった負の感情は内に秘められ、積もり重なってゆく事となる。

学術知識を教わり、ローマ人としての教養や立ち居振る舞いを身に付けながらも、ルシウスは自分を認めないブリタニアの存在そのものを何処か冷めた目で見るようになった。

自分の抱いている感情が、憎しみであり、理不尽な大人たちに対する怒りである事を理解出来ないまま、ルシウスはそれでも外見上は活発で、朗らかな少年として育った。

それが一変したのは、父、アルトリウスとの出会い。

最初の出会いは手紙を通じてのものだった。

父からの暖かい手紙を受け取り、母が涙ながらに読むその言葉にルシウスは、記憶の中に無い父の自分に対する気持ちを知った。

『 息子へ

  まだ。文字が十分に読めないそうだね、マヨリアヌス先生についてよく勉強して早く父からの手紙を自分で読んで、返事を書けるようになりなさい。

  父はブリタニアの防御を強める為に海の向こうのアルモリカで反乱兵や蛮族と毎日のように戦っています。

  ブリタニアのために何故と思うかもしれませんが、これも勉強していればいずれ分かる事ですから、詳しい説明はしないでおくので、よく調べてみること。

  一日でも早く、平和なブリタニアで一緒に暮らせるよう父は頑張るので、お前も母さんや叔父さん、先生の言う事をよく聞いて、家を守るように。

                         ルシウスの父より 』

いたって普通の内容の手紙、父から息子へと送られる綴り。

手紙には自分の出自や容姿を気にかける様な気配は微塵も無く、アルトリウスがルシウスの近くにいれば、日常の会話で送られたであろう、何の変哲も無い内容。

ルシウスは背筋が震えるほどの感激を覚えた。

・・・父は・・・父さんはボクの事を息子として、一人の息子として見てくれている・・・

その日から、ルシウスの物事に対する態度や姿勢は、それまでの何処か無気力と怠惰を感じさせるものから、本来の快活で明敏なものへと一転する事となる。

それはただの勘違いだったかもしれない。

しかし、その勘違いを起こさせるだけの力が、アルトリウスの手紙にあったことは事実で、今となってはその時の気持ちを聞くことも出来ず、ルシウスはそっとその時の感動を胸にしまい込んだ。


そして、物心付いてから初めての対面。

アルモリカ遠征から帰還したアルトリウスは、岸壁で待つ金髪の息子に気付くと、手に持っていた兜を脇に立つ兵士に預け、両手を大きく開き、驚いて固まるルシウスを余所に何のためらいも無く満面の笑顔で抱きしめた。

「・・・すっかり大きくなったなルシウス、父の顔を覚えてはいないだろうが・・・私がお前の父さんだ。」

 戦塵と旅塵にまみれ、無精ひげも目立つアルトリウスの男臭い胸の中で、不思議と安らぎを感じるルシウス。

 硬い鎧の感触を確かめるように、手のひらをそっと這わすと、それが父の体温でほのかに暖められている事に気が付いた。

・・・これが、父さんの温もりかあ・・・

 自然と口に浮かぶ笑みを抑え切れず、ルシウスはによによと口を歪める。

「これからも忙しいが、なるべく一緒に居れる様にしよう。」

 一旦ルシウスの肩を抱き、自分の胸から離すと、アルトリウスはルシウスの目を真正面から見つめてそう言った。

「教えてやりたい事が山のようにあるぞ~」

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