第34章 英雄帰還
「アルトリウス司令官!港が見えました!もう間もなくの到着です!!」
甲板に出ていたアルトリウスにもはっきりとイスカ・ドムノニウムの港と町並みを望む事が出来ていたが、嬉しそうな兵士の伝言に、彼はしっかりと頷いた。
アルトリウス率いるアルモリカ派遣軍6000は、早朝にブレストヌム港をコルウス提督率いるブリタニア海軍の戦艦に分乗し、丸2日の航海を経てブリタニアへと帰還してきたのである。
乗船の際には整然と隊列を組み、厳かな雰囲気での出港となったが、流石に故郷が近くなると兵士たちは一様にそわそわとし始めた。
足掛け五年に渡ってアルモリカや西ガリアを転戦し続けてきたブリタニアの兵士たちにしてみれば無理からぬところであったが、アルトリウスは海上での戦闘や事故に対処する訓練を行い、綱紀の引き締め図っている。
特に今回はコンスタンティヌスに率いられてブリタニアから出征した兵士たちも含まれていることから、その兵士たちとアルモリカ派遣軍兵士の間に無駄な軋轢が生じないようにアルトリウスは気を配っていた。
厳しい訓練もその融和策の一環で、アルトリウスは帰還準備中の3ヶ月を含め、猛烈な訓練を課し、分け隔てなく兵士たちに接する事で信頼と忠誠を得ることに成功している。
かつてはブリタニアを見限る形でコンスタンティヌスに従い、ガリア出征を果たしたブリタニア駐留ローマ軍兵士たちも、コンスタンティヌスが帝位簒奪者とされるに至って疑問を抱き始めた。
・・・俺たちはコンスタンティヌス様に騙されていたのではないだろうか?・・・
それ以前から政策が二転三転した事や、給料の遅配無配が重なった事も不信感を抱く理由としては十分であったのであるが、ヒスパニアへの進出策が公表されるに至って、それは決定的になったのである。
しかもそのヒスパニア進出は無残な結果で失敗し、果てには軍団の同僚兵士達は、西ローマ帝国に寝返り、またある者はそれに反抗して同僚に討ち果たされた。
悲惨な同士討ちが繰り広げられた事を生き残り、命からがらガリアへ戻った兵士達から聞かされたブリタニア出身のローマ兵たちは、ブリタニア帰還を直訴することを決意し、コンスタンティヌスに面談の要求をしたところで、高級幕僚たちがコンスタンティヌスを惨殺し、ガリア各地の領地へと散ってしまった事を知った。
ある者はそれらに従い地方へと向かい、またある者は所属を離れることなく都市や地域の防備を引き続き継続し、文字通りブリタニア軍団2万は散り散りばらばらになってしまったのである。
かろうじて年の行政官や良識ある指揮官たちがガリアを維持すべくそれらの兵士達を纏め上げたものの、目的も将来も失い、ただひたすら押し寄せる蛮族との戦いにブリタニアの兵士達は一人、また一人と倒れていった。
スティリコの後任となった西ローマ帝国総司令官のコンスタンティウスがガリアに乗り込んできたときには、ブリタニアからの兵士は1万人前後まで数を打ち減らし、まさにジリ貧の状態だったのである。
ガリア情勢が落ち着きを取り戻し、更にはブリタニアからアルトリウスが5000もの兵士を率いてアルモリカやガリア西部で活躍し始めると、ブリタニアの兵士達の一部がコンスタンティウスにブリタニアへの帰還を直訴した。
コンスタンティウスは西ゴート戦役後、希望者にブリタニア軍への編入を認め、帰還についてはアルトリウスの裁量で行って良いが、アルモリカに5000の駐留兵士を置く事を要求する。
アルトリウスは、定期便船での交代制を導入して、全員の帰還とアルモリカの駐留兵士の員数確保を両立させ、こうして3000名余のブリタニア軍団兵士の帰還がなったのである。
今回は第一陣として2000名がアルモリカ派遣軍4000名と併せてブリタニアへの帰還となった。
アルトリウスは近づくブリタニアの島影を見ながら、懐に忍ばせた手紙を取り出した。
その手紙はコンスタンティウスからブリタニアとアルモリカの属州総督任命状と共に託されたもので、開封は帰還の船上でと言付けられていたものである。
「さて、いったい何が記されているのか・・・。」
アルトリウスは潮風にほほを撫でられながら、甲板上でその潮風に持ち去られないよう慎重に手紙を開いた。
『同盟国たるブリタニアの軍総司令官ルキウス・アルトリウス・カストゥス殿
このような形でしか最後に見舞えない事を非常に残念に思っている。
同時に、どうかこの様な形でしか見送りが叶わない事を許して貰いたい。
ブリタニア軍のガリアでの活躍は誠に見事なものであった、ガリアの民と西ローマ帝国を代表して感謝と敬意を表す。
ブリタニア軍が居なければ今の平穏も無かったであろう。
また、厄介ごとを押し付ける形になってしまって申し訳ないが、くれぐれもやんごとなき方である故に、取り扱いには慎重を機して貰いたい。
しかしながら、この件については貴官に全幅の信頼を寄せている、宜しく頼む。
さて、今後についてであるが、わしの寿命はもう長くない、もって10年、と言うところであろうが、老衰ではないので、もちろん体の動く限りは皇帝陛下に忠節を尽くすつもりであるが、わしの死後、プラチディア皇妹殿下は恐らく東ローマ帝国へと亡命せねばならぬだろうが、その手配は既にもう済ませた。
子供の件もさる事ながら、悲しむべき事に蛮族と交わった妹を許して置けるほど皇帝陛下に度量が無いのは貴官も承知の通りである。
さりとて皇帝陛下には子供も親族もおられず、その後が心配である。
いずれは東ローマから皇妹殿下をお子と共にお迎えする事になろうと思うが、その際についてである。
わしの権限でボニファティウスをアフリカ総督代行へ、アエティウスをイリリア総督代行にしておいた、この手紙を書いた時点ではまだだが、アルトリウス殿が読まれる頃にはそうなっておろう。
これでいずれ2人は正式な総督にそのまま昇格するはずである。
ボニファティウスは鷹揚で、こだわりの少ない人柄であるし、貴官を交えた皇妹殿下との会合の場に招いてもいるから、おそらく皇妹殿下を迎えるにあたって重要で積極的な役割を果たしてくれるだろう。
アエティウスは活発で申し分ない能力を持っているが、ああ見えて野心家であるから、一抹の不安が付きまとうものの、よく言い含めてはおいたので、大丈夫だとは思う。
但し、わし以外の西ローマの有力者の中には皇帝陛下亡き後の皇位を狙っている不逞の輩も多く、皇位継承の際の混乱は火を見るより明らかであり、避け難い事であろう。
わしの寿命が限られていなければ、そんな輩は排除するのであるが、何分皇帝陛下よりわしの寿命が尽きるのが先になることは間違いない。
アルトリウス総司令官とブリタニアには、その際に隙有りと見て動くであろう北方のゲルマン人どもを牽制し、動きを阻んで貰いたいのである。
難事であり、国がサクソンに侵され大変である時にこのような願いをするのも心苦しいが、余人に変え難い事であるから、是非お願いしたい。
西ローマが不安定であろうとも存在し続ける事が、ブリタニアにとっても多事に渡って利益になる事かと思う。
後事を託す人間が西ローマ帝国内に居ないと言うのも、情けない話であるが、アエティウス、ボニファティウスの2人はまだ若く、内部の混乱に巻き込まれれば余裕がなくなるであろうから、外部への対処はアルトリウス殿にお任せする以外に無いのである。
うまく事が運び、2人が高位に昇れば、ブリタニアとアルトリウス殿に厚く報いる事も可能であろう。
この手紙とその内容はくれぐれも他に漏らさずに居てもらいたい、これはわしからアルトリウス殿に対する最後の頼みであり、遺言であり、そして希望である。
西ローマ帝国引退将官 コンスタンティウス』
コンスタンティウスの長い手紙を読み終えたアルトリウスはふと小さくため息をつくと、その手紙を再び懐へとしまいこんだ。
「・・・コンスタンティウス閣下は私のことを買い被り過ぎだな・・・自分の国すらまともに蛮族から守り通せていないと言うのに、この様な難事を託されようとは・・・」
しかし、情理を尽くして西ローマに起こるであろう政争を説明し、助力を求められている上に、頼める者は他に無いとまで言われては、アルトリウスに断るという選択肢は残されていない。
コンスタンティウスはアルトリウスの性格や信条を見抜いた上でこの手紙を託したに違いなく、船上で開示するようにと言うのも、恐らく直接断りを入れ難くさせる為であったのだろう。
アルトリウスはもう一度小さくため息をつくと、ブリタニアの島影を見ようと甲板へ続々と上がってきた兵士達を見た。
兵士達はブリタニア島の島影を指差し、また額に手をかざしてイスカ・ドムノニウムの港町を遠望してはしゃいでいる。
「・・・少なくとも、私を信じて付いてきてくれている者達を不幸に巻き込むような事だけにはならないように気をつけなければならないな。」
コンスタンティウスの望みを叶える為、アルトリウスの一存で軍を動かすような事は出来ないし、ましてやアルトリウスの個人的な思惑だけでブリタニアの兵士達の命を散らす事は出来ないのである。
しかし、コンスタンティウスの手紙に記されていた理論もあながち間違いともいえず、またその希望に答えたいと言う思いもアルトリウスの中にはあった。
「・・・閣下は手紙は内密にと言われたが、こんなのは1人で考えていても埒が明かないしなあ。」
「総司令官、まもなく接岸です、下船準備をお願いします。」
アルトリウスが潮風に吹かれながら腕組みをして悩みに悩んでいると、クイントゥスが現れてそう告げた。
「・・・ああ、分かった、すぐに行く。」
クイントゥスはお願いします、と言い残し、甲板から去っていく。
接岸と告げられて改めて甲板から陸地を望むと、もう間近に真新しい石造りの港湾都市イスカ・ドムノニウムが迫っていた。
町の背後の山は濃い緑に覆われ、街中の街路樹や庭木も同じ濃い緑色に染まっており、ブリタニアにもすっかり夏が居座っている様子が伺える。
難しい話はまた今度、とりあえずは無事の帰還を祝そう。
家族や仲間たちと苦労を語らおう。
「やっと帰ってきたな。」
アルトリウスはそう独り言を漏らしてから、踵を返し甲板から自分の船室へと下船準備のために下りて行った。
大型船舶の直接接岸できる石造りの岸壁に次々とブリタニアの戦艦が接岸してゆく。
岸壁から少し離れた場所には、アルモリカ派遣軍に参加した兵士達の家族や知人友人たちが鈴なりになって下船を今や遅しと待ち構えていた。
海兵達と岸壁の港湾作業員の手で、戦艦から渡し板が岸壁へとかけられて固定されてゆく。
しばらくして準備が整った戦艦から、続々と兵士達が隊列を組み整然とした靴音を響かせてブリタニアの大地に降り立ち始めた。
わああああああ!!!
その瞬間、静かにざわめいていた観衆が、完成を爆発させる。
家族を見つけ、小さく槍を持つ手を上げながらはにかむ兵士達。
自分の夫や息子、恋人を見つけ必死に手を振る女性たち。
建造されてから間の無いイスカ・ドムノニウムの岸壁はかつてない歓声に包まれた。
最後に完全軍装のアルトリウスが同じく完全軍装の副官のクイントゥス、護衛騎兵隊長のトゥルピリウスを伴って登場すると、歓声は最高潮に達した。
「・・・すごいな、これは。」
流石のアルトリウスも圧倒される思いで歓声を受け止める。
「よもや無事に帰って来られるとは思っていなかったのです、多くの市民たちは自分の息子や夫が異国の地で戦塵にまみれ、朽ち果てるものとばかり思っていたのですから。」
クイントゥスはそう言いながら観衆に向かって手を振る。
トゥルピリウスも無言のまま手を上げた。
「・・・それでも1000名近い兵士をガリアの土にしてしまった。」
アルトリウスは戦死者の名簿をぐっと右手で握り締め、そしてその手を高く掲げて複雑な表情で歓声に応える。
「・・・死んでいった者達も納得して遠征に参加したのです、決して無駄な死ではありませんでした。」
「・・・そうだな。」
アルトリウスは前を見たまま諭すようなクイントゥスの言葉に頷くと、アンブロシウスやマヨリアヌスらブリタニア総督府の高官たちが待つ場所へと進む。
「・・・みんな、名前だけで済まないが、ようやく帰ってきたぞ、ブリタニアだ。」
アルトリウスは語りかけるようにそう言ってから、歓声を聞かせるかのように名簿を大きく広げ、さらに言葉を継いだ。
「君たちが命を賭して守り通したものがここにあるぞ、よく見て、よく聞いてくれ。」
「ご苦労だったな、アルトリウス、無事帰還の日を迎えられて何よりだ。」
アンブロシウスが珍しく顔を紅潮させてそう言うと、鎧を纏ったアルトリウスの肩を力強く抱いた。
「このような長期の遠征にもかかわらず、大きな犠牲を出さずに済んだのは僥倖じゃったな。」
続いてマヨリアヌスがそう言うと、アルトリウスは心苦しそうに顔を歪める。
「決して犠牲が少なかったとは思いません、1000名ものブリタニアの有志たちをガリアの地に埋める事になってしまいました・・・」
「それにしてもじゃ、普通このような強いられての遠征など、過酷な戦いになるのが常であれば、半減どころかほぼ全滅でもおかしく無かろう、それを1000名の犠牲のみで終わらせたのじゃからな、率いた兵力も決して大きくない中でよくぞここまで兵を連れ帰ってくれた。」
マヨリアヌスがアルトリウスの苦衷を察するようにその頭へ手をやりながら言うと、アルトリウスは少し顔を上げた。
「・・・亡くなった者達の名簿がここにあります、従兄さん、この者達の家族には十分に報いてやって欲しいのです。」
アルトリウスが握り締め、くしゃくしゃになった名簿を受け取ったアンブロシウスは、力強く頷きながら答える。
「ああ、決して悪いようにはしないと約束しよう、ブリタニアのために遠い海の果てで散っていった勇者たちに誓おう。」
丁寧にしわの寄った羊皮紙を伸ばしながらアンブロシウスがマヨリアヌスに視線を向けると、マヨリアヌスはわずかに頷いてから後ろに居たグナイウスを振り返って見た。
「ではグナイウス、後は頼んだぞ、わしらは一旦町の行政庁舎に向かうからの、トゥルピリウスとクイントゥス、それからコルウス提督にも仕事が終わり次第行政庁舎へ集まるよう伝えておいてくれ。」
マヨリアヌスの言葉に、ブリタニア軍副司令官のグナイウスは即座に頷き返し、アルトリウスに向き直って謹厳実直を絵に描いたようなびしりと決まったローマ式の敬礼を贈る。
「分かりましたマヨリアヌス殿、総司令官、お疲れ様でした、後の手配や雑務は我々にお任せください。」
「ああ、すまないがよろしく頼む、兵には十分休養を取らしてやってくれ。」
「承知しました。」
答礼を返しながらのアルトリウスの言葉に、グナイウスはめったに見せない頼もしい笑みを残すと、マントを翻し、復員兵達の収容や配置、休暇に関する手配の為に忙しそうに立ち回るクイントゥスらの下へと向かって行った。
行政庁舎に到着すると、アルトリウスは早速コンスタンティウスから託された属州総督の任命状とその職の譲渡に関する委任状、それに付随する覚書をアンブロシウスに手渡した。
「・・・ふむ、これが1000名の兵士の命と引き換えにして手に入れた物、というわけだな。」
アンブロシウスが、書類そのもの以上の重さを感じながらアルトリウスの手から2組の書類を受け取り、中身を開いて机の上へと置く。
しばらくその場に居た全員が値踏みするような目つきでその書類の内容を読み進めた。
「中身は予想されたとおりですね、ブリタニアとアルモリカの属州総督についてはアンブロシウス殿を任じ、その軍事統括にアルトリウス殿が就く事を認める、と・・・」
出迎えには赴かず、この部屋で会議の準備をしていた行政長官のデキムスが顔を上げてそう言うと、マヨリアヌスが視線を書類から外さないままに答える。
「更にはその総督職については世襲、譲渡を認めておるな、制約は特になし、属州における役職や官職については軍事・行政の区別無く一切の裁量を総督に認めておる、破格の好条件じゃのう~。」
マヨリアヌスが感心した様子で顔を上げた。
「・・・しかし、覚書にはコンスタンティウス閣下の要請には最大限応える事、ガリア、ベルギカ、ヒスパニアを含む大陸やローマ勢力圏に出兵する際は協働作戦とするか、事前承認を得る事となっています。」
グナイウスが慎重な口調で発言すると、アンブロシウスがその後を継いだ。
「但し、ブリタニアとアルモリカに関する軍事行動の制約は一切無いし、サクソンの策源地であるゲルマニアに対する軍事行動も制約を受けていない、まあ、我々にそれだけの力は今のところ無いが、コンスタンティウス閣下は将来を見据えた上で、最大限配慮してくれたようだな。」
「・・・実際問題、そのコンスタンティウス閣下とガリアがいつまで西ローマ帝国の下にあるかは微妙ですがね。」
デキムスが皮肉っぽくそう言うと、部屋に居たブリタニアの首脳たちは一様に黙り込んでしまう。
そもそもガリアは、今でこそ軍総司令官のコンスタンティウスが病身とはいえガリアにおり、その盛名と軍事力で各部族や豪族たちを服属させているものの、本来スティリコが軍総司令官であった頃には、維持は不可能としてブリタニアともども放棄される事が決まっていたのである。
ただ、ブリタニア軍団を率いた帝位簒奪者コンスタンティヌスがわずか2年余りではあったものの、ガリアを本拠として活動し、蛮族を排撃したが為に、ガリアはかろうじてローマの勢力化に留まった。
反乱軍として認定されこそしたものの、ガリアを支配したのは暦としたローマの軍であり、ローマ人の指導者であった故に、その後現在の西ローマ帝国軍総司令官コンスタンティウスが領土と兵士をすんなりと受け継ぐ事が出来たのである。
ブリタニアとしては、かつての世界帝国であった頃の勢いを西ローマ帝国が取り戻し、再びブリタニアを属州として保持する事が不可能である以上、最高ではないが最善であるのが今の状態、すなわち、弱い西ローマ帝国がガリアを一部なりとも保持し続けていることであった。
そうすれば貪欲な蛮族の目は残った西ローマ帝国の保持するガリアに向き、海を越えなければならないブリタニアが蛮族の最終的な目的地と化すことは無い。
更に、西ローマが残る事で蛮族をある程度封じ込めて貰えれば、今後も国を維持する為の交易や通信、今回のアルモリカ遠征のような最低限度の共同軍事作戦が取れる。
弱くとも文化を同じくした、信頼できる同盟国とお互いがなり得るのである。
しかしこれが万が一にも蛮族がガリアを制するような事になれば、例え一時的な利害の一致から友好関係や同盟を結べても、信義や道義などお構いなしに、ブリタニアが何らかの理由で弱体化すれば隙を突かれる事は必定である。
ましてや蛮族にしてみれば、既にサクソン人という蛮族を相手に青息吐息のブリタニアと組むより、現状ではむしろ同じ蛮族であるサクソンと組んでブリタニアを滅ぼした方が、より確実で利が大きいと判断するのは確実であろう。
「ここで頭を抱えておっても仕方ないではないか、この黄昏の時代に政を司る者に安穏とした時が訪れる訳も無いのだからな、『日々此れ悩みなりけり』じゃわい!」
カイウス議長が茶化すように言うと、ようやく部屋の中の時間が動き出した。
「・・・確かに、相手のある事ですし、今は少しでもこの現状が長く維持できるように努力するしかありません、幸いサクソンの攻勢も一段落ついたようですからな。」
アンブロシウスの発言で、一旦この場での会議は終わる雰囲気となる。
「そうじゃな、幅員祝いで用意した折角のご馳走も駄目になってしまうからのう。」
しかめっ面でマヨリアヌスが顎鬚をしごきながら言い、ちらりと隣の部屋の方を流し見たので、アンブロシウスは苦笑しながら言葉を継いだ。
「それもそうですね、では隣の部屋へ移るとしましょうか、アルトリウス、今日ぐらいは付き合え、かわいい奥さんと子供に早く会いたいのは分かるが、ここに居る皆もお前の帰還を待ち構えていたんだからな。」
話しが終わりに近づいた辺りからそわそわし始めていたアルトリウスは、アンブロシウスの言葉にギクリ身体を強張らせたが、すぐに無表情でうなずき、ふと思い出したように口を開く。
「・・・分かりました、それと従兄さん、姫殿下の事ですが・・・。」
「おう、その件ならわしが引き受けようぞアルトリウス、心配いらん!わしの養女としてしっかり面倒を見よう、果てはローマの貴族令嬢にも負けぬ立派な淑女に育ててやろうわい!・・・それで、どこにおわすのじゃ?その姫君は。」
カイウス議長がアルトリウスの言葉を遮り、にかっと暑苦しい笑みを見せ、禿頭をつるつると撫で摩りながら前に進み出てそう言を発した。
「そ、そうですか、それは助かります。」
カイウス議長の妙な迫力とやる気に気圧されたアルトリウスは、隣室に待たせておいたトゥリアと赤ん坊を呼びにやらせる。
すぐに赤ん坊を腕に抱いたトゥリアが部屋に入ってきた。
「おお、その子がそうじゃな?なんと可愛らしいお子じゃ!これは美人になる事間違い無しじゃ!!」
カイウス議長は年甲斐も無く騒ぎ立て、呆気に取られるトゥリアへ無造作に近寄り、半ば無理やり赤ん坊を抱き取った。
トゥリアに無言で睨まれたアルトリウスが経緯をかいつまんで説明すると、トゥリアは整った眉を寄せた。
「・・・話が違うな、アルトリウス殿、貴官が養育すると約束したはずだ。」
「そうは言ってもトゥリア殿、別段待遇が悪くなるわけではないし、むしろアルトリウスの養女ともなればそれこそ身の危険が増す、カイウス議長に委ねられても良いのでは?」
火が付いたように泣き出した赤ん坊を渋面で見てから、アンブロシウスがそうとりなすと、トゥリアはアルトリウスを睨み付けたまま頭を左右に振る。
「これは、信義の問題だ、アルトリウス総司令官は確かにこの子を自分の養女にするとコンスタンティウス閣下に向かって言った。」
トゥリアはそう言いながら、必死に赤ん坊をあやすカイウス議長にすたすたと近づき、その手から、スラリと赤ん坊を取り上げてしまうと、振り返ってアルトリウスの胸に押し付けた。
「えあっ?」
「うわっ!」
赤ん坊を突然取り上げられたカイウス議長が奇妙な悲鳴を上げ、アルトリウスが驚きの声を上げるのを他所に、トゥリアは更に一歩進んで戸惑うアルトリウスへ自分の体ごと赤ん坊を押し付ける。
「んっ!」
「・・・んっ、と言われても・・・」
アルトリウスは、自分の胸へ押し付けられた途端にぴたりと泣き止んでしまった赤ん坊と、間近に迫ったトゥリアの顔を困惑した表情で見つめ、助けを求めようと周囲に目を移すが、全員がアルトリウスと視線を外してしまった。
カイウス議長だけがしばらく物欲しそうな目でアルトリウスらの様子を見ていたが、やがて諦めたように両手を開いて言う。
「・・・仕方ないのう、赤ん坊も守役の女士官もアルトリウス殿に懐いておるようじゃしな、養育はアルトリウス殿にお願いする他あるまい。」
「そ、それは困ります、後々紛議の種になりかねません!あれ程話を・・・。」
アルトリウスがぎくりと振り返り、アンブロシウスがカイウス議長の言葉に慌てて言いかけると、カイウスはアンブロシウスを手で制して言葉を継いだ。
「まあ、まてアンブロシウス殿、話は最後までよく聞くものじゃぞ、この場合はつまり、養育はアルトリウス殿にお任せし、戸籍上はわしの養女にするということじゃ、守役、これなら文句あるまい。」
「・・・文句はあるが・・・」
トゥリアがアルトリウスに密着したままカイウスの方を見て仏頂面で言うと、自信満々だったカイウスが、がっくりとうなだれる。
マヨリアヌスが少しばかり笑いを含んだ顔つきで間に入り、トゥリアにカイウスの提案をとりなした。
「・・・しかし、これ以上の好条件は無いぞ?形はどうあれ、アルトリウスがその赤ん坊の面倒を見るのじゃからな、ブリタニアの政治情勢から鑑みれば色んな意味で最も安全と思う。」
マヨリアヌスの言葉にしばらく考えていたトゥリアは、アルトリウスの顔を見上げてから、ようやく頷く。
「・・・姫君の養育をアルトリウス殿が直にすると言うならば、まあそれでも良い。」
トゥリアは赤ん坊をアルトリウスに無理やり抱かせると、ようやくアルトリウスから少し離れた。
赤ん坊はアルトリウスの腕の中ですやすやと寝息を立て始める。
「・・・よく鎧のごつごつした所に体を押し当てられて眠れるものだな。」
アンブロシウスがそう言いながら不思議なものを見るような目で赤ん坊を見ていると、グナイウスやコルウス、果ては副官のクイントゥスまでがアルトリウスの腕の中と、赤ん坊を抱くアルトリウスの姿を物珍しそうに眺めた。
「・・・名前は何と仰るのですかな?」
デキムス行政長官が赤ん坊をつつきながらアルトリウスに笑顔で問いかけると、アルトリウスは自分も名前を聞いていない事にはたと気がついた。
「・・・最初のお名前はマリア様であるが、皇妹殿下とコンスタンティウス閣下はアルトリウスの自由にして良いと仰せであった。」
トゥリアが考え込んでしまったアルトリウスに変わって答えると、デキムスはそれに頷き再度アルトリウスへの質問を重ねる。
「それで・・・いかがなさるのですか。」
「・・・母親である皇妹殿下が仮とは言えわが子に託した名前ですからね、そのままのお名前でいきましょう。」
アルトリウスはデキムスにそう答え、視線を下げると優しくゆすりながら腕の中の赤ん坊に話しかける。
「マリア、君にはロングスの氏族名が与えられる、家族名はアルトリウスをあげよう、マリア・アルトリウス・ロングス、ようこそブリタニアへ・・・あ、トゥリアも、忘れてた訳じゃない。」
ふと顔を上げると不満そうなトゥリアの顔が視界に飛び込んで来たため、慌てて言葉を付け足すアルトリウス。
「・・・別に構いません、私は所詮姫君の付け合せに過ぎませんからね。」
言葉少なく、いじけたような台詞を吐いたトゥリアにアルトリウスが弁解の言葉を並べているのを見て、デキムスとグナイウスは片眉を上げ、アルトリウスと一緒に引き上げてきた士官たちは意味有り気に顔を見合わせる。
マヨリアヌスとカイウスの2人は、にたにたとこれまた意味有り気な笑みを浮かべていた。
最後にため息を吐きながらアンブロシウスがアルトリウスの肩に手を置いて言う。
「・・・なんでも良いが、アウレリアにはちゃんと説明して置けよ、アルトリウス。」
「!!?」