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第32章 ガリア再興

トロサ郊外、西ローマ帝国軍宿営地。

 幕舎の中に豪勢な料理が並べられ、その料理とワインの香りが辺りを包む。

 普段とは異なるにぎやかで楽しげな音楽が奏でられ、兵士達も勝利の宴に酔い痴れ、未だ夜は長く続いていた。

 トーガ姿のコンスタンティウスは上席で他の将官達と共に1人の女性を中心に据え、挨拶に訪れる兵士や指揮官、在地の有力者達を引見している。

 その10代後半と思われる女性の細身で可憐な様子は、引見の際の仕草の上品さと相まって上流階級の姫君である事が容易に察する事ができたが、その表情は暗く、微笑んではいるものの目には暗い光を宿していた。

 化粧で上手く隠されてはいるが、よくよくその身体や顔を見れば、小さな傷が無数にあり、また手首には手枷のあとがうっすら付いている。

「・・・プラチディア様、それではそろそろ控えの幕舎を用意しておりますので、そちらでお休み下さい。」

 しばらく引見を続けた後、兵士や将官達の列が途切れるのを見計らってコンスタンティウスはそう告げ、その女性をボニファティウスと共に宴の場から連れ出す。

「・・・何時までここに居れば宜しいのですか・・・兄は・・・皇帝陛下は私の処遇をどうするつもりなのですか?」

 宴が催されている天幕を離れ、闇に沈む宿営地の小路を歩みながら、皇妹であるプラチディアは陰鬱な声で先頭を歩くコンスタンティウスの背に話しかけた。

「・・・特に何もありませぬ、戦勝の知らせを一昨日に送ったばかりですからな、返答が来るまでは今しばらく時間が掛かりましょう。」

 優しい声で後ろを振り返りながら、コンスタンティウスはプラチディアに答える。

「軍総司令官、隠さなくても良いのです、兄がどのような指示を出しているかぐらいは、私にも薄々分かっていますから・・・」

「・・・・・・。」

 黙り込むコンスタンティウスにプラチディアは更に畳み掛けるような口調で言葉を継ぐ。

「大方・・・子供が出来ているかどうか調べる事・・・子供が生まれていれば、その子を殺す事、生まれていなければ堕胎させる事・・・そんな所でしょう・・・?」

「・・・」

 なおも黙ったまま歩みを進めるコンスタンティウスに続きながらその背中をしばらく眺めていたプラチディアは、突然身を翻すと、後ろから続いていたボニファティウスが止める間も無くコンスタンティウスの背に取り縋った。

「お願いです!あの子はゴートの血を引いてはいますが歴とした私の・・・皇帝一族の血を引いた子です!」

 それまでの大人しげな印象や所作をかなぐり捨て、必死の形相でコンスタンティウスに子供の助命を訴えるプラチディアの姿を見て、コンスタンティウスは顔を一瞬歪める。

「殿下、落ち着いて下さい、我々が皇帝陛下から受けた命令は、皇妹殿下を御救い申し上げることだけです・・・!」

 後ろからボニファティウスがプラチディアの身体を押さえつけ、コンスタンティウスから引き剥がしながら彼女を宥めた。

「・・・っ!そんな嘘を誰が信じるというのですか!?あの・・・猜疑心の強い兄が、ただでそんな事を命令するはずがありません!」

「・・・・・・」

 余りの勢いに押され、ボニファティウスが黙り込むと、プラチディアは更に噛み付くような勢いで顔を前にいるコンスタンティウスへと戻して言葉を続ける。

「自分の地位を脅かしかねない存在を許すような兄ではありません!ましてや蛮族の血が入った皇族の存在など・・・許されるはずが・・・」

 そこまで言葉を放ったところでプラチディアは泣き崩れた。

「上の男の子はすぐに亡くなりました、私のお腹にはもう1人子供が・・・」

「・・・!?なんですと?」

プラチディアの言葉に肝を潰すボニファティウス。

「お願いです、せめて・・・せめてあの娘だけは・・・・」


 ボニファティウスに抑えられながらもコンスタンティウスの裾を手離す事無く強く握り締めたまま、涙ながらに哀願するプラチディア。

 そこには皇妹としてではなく、子を思う1人の母親としての姿があった。

「・・・こんな所でするお話ではありませんな・・・ボニファティウス、殿下をこちらへお連れしろ。」

「コンスタンティウスっ!!」

 冷徹な言葉に、さっきは涙を流していた目元をきっと吊り上げ、プラチディアは濡れた眼差しのままコンスタンティウスの顔を睨みつけ大声を上げる。

「・・・殿下、失礼致します。」

 手を振り解こうと暴れるプラチディアを後ろから抱きかかえたボニファティウスは、そう告げると強引に皇妹の身体を持ち上げ、そのまま専用に設えた天幕へと運び込んだ。

 コンスタンティウスが天幕に入ると、中ではアルトリウスと副官のトゥルピリウス、それにクイントゥスが神妙な顔つきで椅子に座っていたが、コンスタンティウスとボニファティウスに抱えられたプラチディアを見て、慌てて立ち上がる。

「これは・・・コンスタンティウス閣下・・・?」

 上流階級の者とも思われぬような風情で悪態をつきながら担ぎ上げられて運ばれ、ボニファティウスに強引な形で椅子へ座らされたプラチディアを見て、ブリタニアの司令官達は呆気に取られ、さっさと自分の椅子に座ってしまったコンスタンティウスへ戸惑いの視線を向けた。

「・・・アルトリウス司令官にブリタニアの司令官達よ、宴にも招かずこのような席に呼びたてた事をまず謝罪しよう、申し分けない。」

 椅子に座ったコンスタンティウスの言葉に、アルトリウスは戸惑いを隠しきれない表情で立ち尽くし、椅子に押さえ付けられたままむせび泣くプラチディアを見ながら問いの声を発する。

「それは・・・兵士に十分な物資を融通して戴いておりますし、宴は別に構いませんが、これは一体どうした事情なのでしょうか?」

「・・・事は一刻の猶予も無い、面倒な事で申し訳ないが、直ぐにブリタニア軍は・・・いやアルトリウス司令官はブリタニアへ引き揚げて貰いたいのだ。」

「・・・事情をお聞かせ願えますか?」 

コンスタンティウスの回答に、アルトリウスは静かな口調で問いを重ね、更に呆気に取られているクイントゥスとトゥルピリウスに着席するよう促しながら自分も椅子に座った。

「余人には頼みがたい事だ、こちらのプラチディア皇妹殿下の娘を1人、ブリタニアへ連れ帰り匿ってもらいたいのだ。」

「・・・まさか・・・」

 そのコンスタンティウスの言葉で、はっと傍らを見るアルトリウスの目に、泣き止んだプラチディアの姿が映る。

「その通り、首を取られた先の西ゴート王、アタウルフの遺児だが幸い娘だ、未だこの事実を知っているのはわしと少数の護衛兵、そしてボニファティウスと貴官らだけだ。」

 重々しく頷いたコンスタンティウスがアルトリウスの想像通りの言葉を発した。

「・・・コンスタンティウス。」

 事情を察したプラチディアが涙の種類を変えて目を潤ませる。


トロサ郊外の一大決戦は、西ローマ歩兵隊の粘りとアルトリウス率いる騎兵隊の挟み撃ちによって西ローマ・ブリタニア連合軍の勝利に終わった。

 西ゴート軍を殲滅するような大勝利ではなかったものの、騎兵部隊による後背からの突撃で族長級の指揮者を失った事によって西ゴート軍は混乱し、トロサへと敗走したのである。

 トロサ包囲の構えを見せた連合軍に対し、余力を残していなかった西ゴート族が選択したのは、王アタウルフの首と西ローマ皇妹プラチディアの引渡しによる講和であった。

 アタウルフは敗戦の責任を問われ、その影響力と権威を著しく低下させた所を政敵に狙われ、あえなく暗殺されてしまったのである。

ところがこの暗殺を主導し、新たに西ゴート王となったシゲリックは、西ローマ帝国に対する無謀な反撃を企図した為、即位後直ぐに暗殺され、その後を継いだワリアによってようやく講和の道が開かれた。

ワリアは西ローマ帝国との宥和を望み、戦争のきっかけを作ったアタウルフの首を差し出し、更には西ローマ帝国の要求した皇妹の身柄を躊躇なく引き渡す事で、コンスタンティウスに和を請うたのである。

 ワリアにしてみれば、後々紛議の種になり兼ねない先王の子供や未亡人を自国内に置いておきたくないと言う事情もあったが、講和は速やかにまとまり、トロサでコンスタンティウスは各種の講和条約を結び、プラチディアを引き取った。

 本来、和を請う側である西ゴート王がコンスタンティウスの元を訪れるのが普通であったが、コンスタンティウスは皇帝であり、プラチディアの兄であるホノリウスから受けていた密命があったために、自らトロサを訪れたのである。


 コンスタンティウスが受けていた密命は、プラチディアが危惧した通りのもので、ホノリウスはプラチディアとアタウルフの子供を皆殺しにするように命令していた。

 トロサに赴いたコンスタンティウスは、プラチディアには娘と息子が1人ずつおり、幸いに、とでも言うべきか、息子は既に病を得て死去している事を知る。

 そしてコンスタンティウスは、まだ乳飲み子である娘については直ぐに逃がす事を決断した。

 ホノリウスに露見する危険性は大いにあったが、これまた幸いにまだ生まれたての乳飲み子であり、上手く出自を隠し通せれば生き延びる可能性はある。

戦場で数多の命を奪ってきたコンスタンティウスであったが、子供だけは蛮族であろうが敵であろうが殺めた事が無かった。

コンスタンティウスにとって、それは一つの信念であったのである。


「そして皇妹殿下は、わしと今すぐここで結婚して頂く!」

 コンスタンティウスが真剣そのものの表情で力強くそう言うと、プラチディアの緩みかけた顔は再び引き攣り、アルトリウスらブリタニアの司令官達は棒を飲んだような顔をした。

「・・・一体何を考えていらっしゃるのですか?」

 大人しくなったプラチディアから手を離し、その側に立っていたボニファティウスが、冷や汗をかきながらも冷静にそう言うと、コンスタンティウスは周囲の反応に対して、意図的に気付かない振りをしながら言葉を続ける。

「・・・腹の中の子をわしの子という事にすれば良いのだ、皇帝陛下もわしの言う事に否やとは言い難いであろう?」

プラチディアは、更につい先程お腹の中に宿している子がいる事を告白したが、母性本能の強い向きのある彼女は堕胎を承諾しないであろうし、万一承諾したとしても、処置の際に母体そのものに損傷を生じさせる危険がある。

子供が生まれてから殺すという手もあるが、これはコンスタンティウスの信念に容れるものではなく、また妙な潔癖症のあるホノリウスにばれれば、実の妹の命を危うくしてでも堕胎させようとしかねない事から、コンスタンティウスはこの奇策を捻り出した。

「形だけとは言え、姫様の相手を務めるにはこのコンスタンティウス、いささか・・・どころか、激しく老いましたが、宜しくお願いいたす。」

 にかりと髭面を笑みに形作り、茶目っ気たっぷりにコンスタンティウスがプラチディアに言うと、プラチディアは感極まって泣き出した。

「・・・良かった、やっぱり髭のじいは優しい人でした・・・」

「懐かしいですな、姫様、そう呼ばれるのは何時ぶりですかな?・・・それから、私も立場が変わりましてな、残念ながら身の回りのお世話は出来かねますので、当分の間はこのボニファティウスが護衛を兼ねて勤めます。」

「そうですか・・・また髭のじいと色々お話が出来るかと思いましたのに・・・」

 コンスタンティウスがボニファティウスを手で招き、紹介すると、プラチディアは少し残念そうに言いながらもボニファティウスに、宜しくお願いします、丁寧に挨拶を述べた。

「・・・お邪魔しても宜しいでしょうか?」

 1人の若い女性が赤ん坊を抱いて天幕の奥から現われた。

 年の頃は20代前半、肩くらいまでの長さの薄茶色の髪をそのまま左右に分け、細身ながらもがっちりした体付きをしており、身に帯びているのは鎖帷子である。

「おお、待たせてしまってすまんなトゥリア、こちらへ来てくれ。」

 トゥリアは、座の真ん中を進むと赤ん坊をコンスタンティウスにそっと手渡す。

「・・・うむ、姫様に似て実に可憐な赤ん坊だ、今日この時より母親から引き離してしまうのは忍びないが・・・アルトリウス殿、よろしく頼む。」

「・・・はあ、それは別段構いませんが・・・我々が軍ごと引き上げてしまっても宜しいのですか?失礼ながら未だガリア南西部は安定したとは言い難いと思うのですが・・・」

 アルトリウスが赤ん坊をコンスタンティウスから預けられながら、そう困惑したように言うと、コンスタンティウスは頭を左右に振ってアルトリウスの疑問に答えた。

「ブリタニア軍にこれ以上の迷惑を掛けるのは忍びないゆえな、本会戦でもって同盟軍の任務を解除したいと思う、アルモリカの支配権については抜かりなく譲渡の手続きをしておいた、総督職についても同様である、貴官らはこれで晴れて正式にブリタニアとアルモリカの統治権を手に入れた。」

 コンスタンティウスは、ボニファティウスが差し出した木箱から書状を3通取り出し、赤ん坊を抱いているアルトリウスの右手に握らせた。

「総督の任命状が2通と、わしの礼状を兼ねた書簡だ、後で読んでもらいたい。」


「・・・アクイタニア属州については、西ゴート族の統治を正式に認め、同盟部族として取り込むことに成功しました、これ以降はヒスパニアの蛮族に対峙させる予定です。」

 ボニファティウスが空になった木箱をしまいながら、ガリア情勢について補足の説明をする。

「アルトリウス司令官、どうか・・・娘をその子を宜しくお願いいたします・・・確実に待っている死よりも、ブリタニアでも・・・どのような辺境でも・・・例え私から永遠に離れてしまったっとしても・・・それでも良いから生きていて貰いたいのです。」

 未だ幼い娘を手放さなければならないプラチディアは、目に涙を浮べたままアルトリウスの腕の中の娘を見つめながら頼み込んだ。

 アルトリウスは自分の腕の中で、すやすやと心地よさげに寝息を立てて眠り続ける赤ん坊をじっとみつめた。

 小さいながらも、温もりとそれを生み出す心臓の鼓動がしっかりとその腕に伝わって来る。

「・・・本当に気持ち良さそうですね・・・母親の私が抱いている時よりもよく眠っています。」

 涙を手で拭き払い、プラチディアがアルトリウスの腕の中の娘のほほを撫でながら気丈にも微笑みを見せる。

 アルトリウスが人差し指を赤ん坊の顔に差し出すと、赤ん坊はちゅっと音を立てて吸い付いた。

「・・・相変わらずおモテになりますな、アルトリウス司令官。」

「・・・いつ・どこで・誰に・私がモテたと言うんだ?クイントゥス、変な冗談は止せ。」

 クイントゥスが、揶揄するように言うと、アルトリウスが慌てたように指を引っ込めながらそれを打ち消したため、天幕は暖かい笑い声に包まれる。

 アルトリウスは腕の中の温もりを確かめるようにたたずんでいたが、やがて顔を上げるとコンスタンティウスに向かって口を開いた。

「分かりました・・・それでは、アルモリカの総督代行に現在レモヌム城代のクアルトゥス・アヴェリクスに兵3000名を預けて任命し、ブリタニア軍5000は明後日をもってアルモリカのブレストへ向けて移動開始、帰還の途に就きます、今後ブリタニアへの通信についてはクアルトゥスを通じて行ってください。」

「うむ、承知した。」

 コンスタンティウスは赤ん坊を抱いたまま、生真面目にそう言うアルトリウスの姿に滑稽さを感じたのか、若干笑いを含んだままの顔で重々しく頷くと、アルトリウスの言葉に答え、そうしてから慈しむ様な表情で赤ん坊を見ると、言葉を継ぐ。

「・・・よろしく頼む、わしにとっても孫娘のような姫様の子供だ・・・アルトリウス司令官にとっては蛮族の血が気になる所であろうが、重ねて頼む。」

「・・・ご存知でしたか・・・」

 ぎくっとするアルトリウスに、コンスタンティウスはうっすらと笑みを浮かべた。

「・・・あの戦場での狂気を見れば、自ずと分かろうと言うものだ・・・戦友として一つ、忠告しておこう、怒りや憎しみを持つのは良い・・・とは言わんが、人である以上仕方無い、だが、呑み込まれるでないぞ、アルトリウス。」

「・・・・」

「どんな経験や体験が貴官にあったのかは知らぬ、しかしローマの後裔たる貴官には是非思い起こして貰いたい、かつてのローマの先達は外部の者達を、その血すら自らの中に取り込んで発展したという故事を、な。」

 コンスタンティウスは自分の言葉の最中に赤ん坊へと目を落とし、黙り込んだアルトリウスの肩へ手を置いてぐっと力を込めた。

「宜しく頼む。」


「・・・分かりました・・・」

 未だ納得はしたとは言い難い表情ではあったものの、アルトリウスが承諾の返事をした事に安堵したコンスタンティウスは、幾分硬かった表情を和らげ、傍らに立つ女性士官を呼ぶ。

「そうそう、紹介が遅れたが、この女性仕官はトゥリア、わしの護衛士官を勤めてもらっている。」

「お初にお目に掛かります、トゥリアです。」

コンスタンティウスから紹介されて言葉少なく名乗るトゥリアへ、アルトリウスは訝しげな視線を向けた。

その視線に答えるかのように、コンスタンティウスは口を開く。

「実は他でもない、姫様の子供の世話係として、このトゥリアをアルトリウス司令官の副官待遇で迎えてもらいたいのだ、こちらにも責任がある故、ブリタニアへ送り出して以後、何もしないという訳にもいかんのでな。」

「・・・それでは丸きり我々の監視役ではありませんか!厄介事をこちらに預けて置きながら、信用できないとでも申されるのですか?」

 クイントゥスからのとげのある言葉に、コンスタンティウスは鷹揚な笑みを浮かべる。

「・・・うむ、そう取って貰っても構わんが・・・何れにせよトゥリアは優秀な士官だ、連絡役としてブリタニアに派遣をするという意味合いもあるので、これは曲げても承知してもらいたい。」

 コンスタンティウスの柔和な表情の中に秘められた強い姿勢に、クイントゥスが怯むと、アルトリウスはひとつため息をついてから、腕の中の赤ん坊に笑顔を向けてから、コンスタンティウスに厳しい表情で向き直った。

「・・・軍を派遣しろと呼び付けられ、はるばるブリタニアから海を越えて来た我々は、足掛け5年近くもの長きに渡って西ローマ帝国に良いように使われて来ました、それが突然の帰還指示、理由は分かり過ぎるほど分かりましたが、仮にも同盟関係にある『属』とはいえ国に対してあまりの身勝手な仕打ち、最初にローマから討ち捨てられた時以来蓄積された我々の憤りはとうに我慢の限界を超えていると言う事をお忘れなきように願いたい。」

「・・・・・」

 アルトリウスの秘めた静かな怒りにコンスタンティウスが口をつぐんだ。

「今回の遠征でわが国が費やした資金と兵力は莫大です、使った時間は大打撃を受けたサクソン人に息をつかせ、損害を回復する猶予を与える結果となった事でしょう、この5年間、本来であれば優勢であったわが故郷では、遠征による兵力不足と指揮官不足の中でサクソン人と血を血で洗う泥沼のような戦いを繰り広げ、一進一退を続けて来たのです。」

 しかしながら、とアルトリウスは少し表情を和らげる。

「コンスタンティウス閣下の武人として、ローマ人としての思いは、この子と共に確かに受け取りました。」

「・・・うむ。」

 うなずくコンスタンティウスに頷き帰したアルトリウスは、プラチディアへ再び顔を向けた。

「・・・皇妹殿下、僭越ながら、この子を我が娘として養う事をお許し頂けますでしょうか?」

 アルトリウスの言葉に、プラチディアは目に涙を溜めたままであったが、気丈に答える。「・・・言うまでも無い事です、アルトリウス司令官、娘を・・・その子の事を宜しくお願いします。」

 アルトリウスはにっこり微笑むと、最後にトゥリアへ顔を向け、赤ん坊を手渡しながら言った。

「・・・トゥリア殿、では宜しくお願いする。」

「承知しました、ですがアルトリウス司令官、部下になる私に敬称は不要ですので、これからは呼び捨てにして下さい。」

「分かった、これからはそうしよう。」

アルトリウスの答えにトゥリアが黙礼して立ち去ると、アルトリウスは再びコンスタンティウスへ向き直る。

「長い期間お世話になりました、ブリタニア軍は明日を持ってガリア遠征を終了し、アルモリカ属州を経由、ブリタニアへ帰還の途に就きます。」


「それでは、私も失礼致します。」

 プラチディアは赤ん坊を寝かし付けて来たトゥリアに伴われて天幕の奥へと引き上げる。

アルトリウスらが天幕から退出すると、コンスタンティウスは右手で額を押さえ、ほうっと安堵のため息を漏らし、椅子へ崩れる様に座り込んだ。

 そのコンスタンティウスへ水の入った杯を差し出しながら、ボニファティウスはおもむろに口を開いた。

「・・・コンスタンティウス閣下、5000とはいえ精鋭剽悍なブリタニア軍を引き上げさせて良かったのでしょうか・・・もう少し引き止めておけば・・・宜しかったのではありませんか?」

 額に手を当てたまま杯を受け取り、コンスタンティウスはボニファティウスの言葉に苦笑交じりのを答えを返す。

「・・・確かに、ヒスパニアにはまだ蛮族どもが巣食っておるし、東のアレマン族やフランク族の動向も不確実だ、しかしこれ以上ブリタニア軍に手柄を立てられては堪らんよ。」

 驚くボニファティウスを他所に、コンスタンティウスは杯の水を一口飲むと言葉を続ける。

「恐らくこのまま留め置けば、アルトリウス率いるブリタニア軍は各地の戦場で大活躍する事になるだろう、戦場での狂乱ぶりは頂けないが・・・それを差し置いても騎兵戦術の確かさと指揮官の剛勇さ、兵の精強さは今のローマ帝国に欠けているものばかりだ・・・」

「それでは尚更、我が軍に必要な人材と兵力ではありませんか?」

 ボニファティウスが疑問を呈すると、コンスタンティウスは杯の中で水を転がしながらその疑問に答える。

「このままアルトリウス将軍を留め置けば、アルトリウス将軍無きブリタニアがサクソンに敗れる時が遅かれ早かれ必ずやって来る、その時に根無し草となったアルトリウス将軍は、正式に西ローマの将官となろう。」

「・・・アルトリウス司令官は放棄領土のブリタニア出身とはいえ、ローマの系譜を受け継ぐ、歴としたローマ人ではありませんか、ブリタニアにとってそれは不幸な出来事でしょうが、我が西ローマのためにはよい事ではありませんか?」

 何が問題なのか分からない、と言った様子で再度ボニファティウスが疑問を口にすると、コンスタンティウスは杯の中の水をゆっくりと飲み干した。

 そして杯を近くの台に置くと含み笑いをもらす。

「・・・ふふふ、そうだ、そうなった方が良い、しかし、アルトリウス将軍は真正直すぎるのだ、有体に言えば政治を知らぬ、腐敗と謀略、裏切りに彩られて久しい西ローマの宮廷政治を知らぬ・・・最高司令官の能力を十分以上に持ち合わせてはおるが、その地位に登る前に汚い政治に長けた廷臣や他の将官たちによって貶められ、能力を発揮する以前に葬り去られてしまうであろうよ。」

「・・・・・・」

 ボニファティウスが絶句すると、コンスタンティウスはいたずらっぽい笑みを浮かべて言葉を継ぐ。

「アルトリウス将軍の方が、わしなんぞより今この西ローマ帝国軍総司令官の地位によっぽど相応しい、もしアルトリウス将軍がわしの地位に就けば、共和政期の名将たるポンペイウスやカエサルのような活躍も可能だろう、しかし、今の時点でそれは不可能な絵空事であるし、わしの後任と言うのも、アルトリウス将軍に政治的な後ろ盾が無く、またわしのように皇帝陛下と個人的な繋がりある訳でもない以上、無理だろう。」

「・・・廷臣達に対する言い訳としては、手柄を立て過ぎると言うのは分かり易くて良いと思います。」

 静かにコンスタンティウスの言葉に耳を傾けていたボニファティウスが、空になった杯を台から引き上げながらそう言うと、コンスタンティウスは少し驚いた顔をしたが、すぐに柔らかい笑みを浮かべた。

「・・・うむ、その通りだ、アルトリウス将軍には廷臣どもの手の及ばない、腐敗していない西ローマ以外のローマであるブリタニアで勢力を保ち続けて貰う必要がある・・・ブリタニアがローマに取って代わるような事は無理であろうが、ローマの勢力と文明、文化を地域内で保つ事は出来るだろう、ボニファティウス、アルトリウス将軍との連絡は絶やすでないぞ。」

「はい、了解しました。」

 ボニファティウスが明るく返事をすると、コンスタンティウスは再びため息を漏らしながら吐き出すように言った。

「・・・赤ん坊を利用するような真似も、アルトリウス将軍はせぬだろう・・・本当に後50年早く生まれておれば、ローマを立て直せた逸材であったろうにな・・・」

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