第29章 生まれ出る命
部屋のドアが静かに開いた。
手を布切れで拭きながら現われたアエノバルブスに、アルトリウスは座っていた椅子を蹴上げ、慌てて近寄る。
「ど、どうなったんですか?無事ですか?」
その言葉にアエノバルブスは呆れた顔を見せ、心底うんざりしたように答える。
「・・・・おお、またそのセリフかアルトリウス、もう聞き飽きたぞ?ワシが部屋から出る度にいちいち聞いてくるでない、全くうっとおしい。」
「で、どうなんですか!?」
「・・・お主、ワシの言葉を聞いておるのか?」
「で、どうなんですかっ!?」
「・・・おお、処置無しであるな・・・まあいいが・・・心配するのは早い、まだ生まれてはおらん、破水はしたがもうしばらく時間が掛かりそうだ。」
しつこく、しかも重ねて尋ねてくるアルトリウスに根負けしたアエノバルブスは渋々そう答えると、水差しから木杯に水を注ぎ一息にぐいっと飲み干した。
「・・・」
「おお、そう不安がるな、初産であるからな、時間は掛かって当然だろう、まず一晩かかる事もある、今からそう気を急いていてはお主が持たんぞ。」
不安さを隠そうともしないアルトリウスの肩を抱き、アエノバルブスは席に着くよう促した。
アルトリウスは素直に体を押されるがまま先程まで座っていた椅子に腰を落ち着けると、ふううっと大きくため息を付き、肘を膝の上に乗せ、さらに両手を組んで額を置く。
「おお、正にこの出産と言うやつについては、医者以外の男に出来る事は何も無い、男が出来るのは最初の『つくる』という段階だけであるからな、後は全部女に任せる他に無いのだ。」
アエノバルブスは、さっき使った木杯に水を注ぎながらそう言い終えると、再びぐいっと飲み干した。
季節は冬を越え、春を迎えていた。
木々が芽吹き、花が咲き乱れる華麗な季節も終わりに近付き、葉の色がいよいよ濃く、くっきりと映える初夏をもう間近に迎えようとしているこの時期に、アウレリアは産気付いた。
アルモリカ遠征を控え、ブリタニア軍の面々も補助兵士から総司令官のアルトリウスに至るまで準備に余念無く冬を過ごし、そして後は兵士の選抜のみを残すだけとなっていた。
志願者を募ると言う方式である為、既に各駐屯地や都市にアルトリウスの名前で通達が回され、後は定数を揃えるだけとなっていたその時、アルトリウスは新都市のブリタニア軍司令部でアウレリアが産気付いたとの知らせを受け取ったのである。
「ここは私達に任せてもらって結構です、総司令官は一刻も早く奥方の元へ向かってください!」
普段は沈着冷静を地で行くような副司令官のグナイウスからまでもそう強く言われ、本心は兎も角として当初は職務を優先すると言い張っていたアルトリウスも次第に分が悪くなった。
仕舞いには護衛兵達がアルトリウスの馬を引き出し、旅装を調え出発の準備も万端に司令部の前で待ち構えている始末。
頑強に抵抗したアルトリウスもとうとう周囲に根負けして一旦館へ帰還する事を承諾したのであった。
しかし、あれ程帰還を拒んだ割りに、館へ到着してからのアルトリウスは常にアウレリアの居る部屋の近くで落ち着き無くそわそわとしており、その様子に苛々としたアエノバルブスから、気が散ると追い出されている。
早馬での知らせが新都へ出発してからアルトリウスがその新都を出発するまでで丸1日。
護衛兵を置き去りにし兼ねない速さで愛馬を駆り、館へ到着したのは深夜。
それ以来アルトリウスは最初こそ部屋に入ってアウレリアを見舞ったが、それ以降は中に入れてもらえないため、入り口の前に椅子を持ち込んで陣取った。
アエノバルブスの助手や近隣から呼ばれた助産師も付いており、人では足りている上にアルトリウスに出来る事は何も無いのであるが、それでも部屋の前から離れようとせず、助産師から笑を含んで事の次第を聞かされたアウレリアを喜ばせた。
アウレリアが産気付いてから既に2日目へと入っていたが、助産に明け暮れているアエノバルブスはもとより、心配しているだけのアルトリウスでも全く睡眠をとっていない。
さすがのアルトリウスも、アルモリカの遠征準備という激務の後に館まで長躯し、2日続けての徹夜ともなれば疲れを隠しきれず、うつらうつらと居眠りを始めてしまった。
しばらく静かに居眠りをしていたアルトリウスは、ふと何かの気配に気が付いて目を覚ますと、丁度朝日が昇り始め、その陽射しがアルトリウスの目を射た。
「・・・うっかり眠ってしまっていたみたいだな・・・もう朝か・・・」
ぐしぐしと子供のように目元をこすると、アルトリウスはもたれかかっていた椅子を戻しながら立ち上がる。
「・・・?」
その時、微かではあったが、赤ん坊の泣き声がアルトリウスの耳へと届いた。
「!!!?」
慌てて部屋のドアへと駆け寄ったアルトリウスは、扉へぴたりと身体ごと耳をくっつけて部屋の中の様子を伺おうとしたが、直ぐに大きく開かれたドアごと部屋の中へと雪崩れ込んでしまった。
「!!」
どどっ、と顔面から部屋の中へと雪崩れ込んだアルトリウスは、痛みも構わず大急ぎで顔を上げると部屋の中央に設えてある寝台へ視線を向けた。
「アル、騒々しいですよ、本当に・・・せっかちなお父さんですね?」
少し弱くはあるものの、しっかりと生命感を感じさせる声色で白い産着の固まりを抱いて半身を寝台の上に起こしたアウレリアが微笑みながらアルトリウスを見ていた。
「・・・おお、全くだ、もうちっと感動や荘厳さがあっても良かろうものを、台無しであろうが。」
傍らの椅子に座るアエノバルブスは、アルトリウスが館に到着して以来何度見せたか分からない、心底呆れ果てた顔でアルトリウスを見ている。
その近くに立っている助手や助産師達も、アルトリウスの醜態を見て顔を綻ばせていた。
「う、産まれたんですか?」
「・・・見れば分かろうが、元気な男の子であるぞ、母体共に異常なしだ。」
ようやく少しの笑顔を見せたアエノバルブスは、アルトリウスに手を貸して床から立たせると、こわごわとアウレリアの腕の中を覗き込むアルトリウスの尻をどやしつけて寝台の脇へと追いやった。
「はいお父さん。」
アウレリアから差し出された赤ん坊をぎこちない手つきではあったが、そっと優しく受け取ると、アルトリウスはその顔をしげしげと眺めた。
「・・・アル、その子に名前を決めてあげてください。」
黙ったまま緊張した面持ちで赤ん坊をいつまでも見つめ続けるアルトリウスに、アウレリアが苦笑しながらそう言うと、ようやくアルトリウスはアウレリアの方へ顔を向ける。
「産まれたのが日の出と同時だったので・・・私の名前のルキウス(光)をあげようかと思うのですが・・・従姉さん、私の名前をあげても良いですか?」
アルトリウスの言葉に、アウレリアは黙って微笑みながら頷く。
「お前の名は今日より、ルキウス・アルトリウス・カストゥスとする、闇深き世においてその名の通り希望の光とならん。」
アルトリウスは再び赤ん坊に顔を向け高く差し上げると、静かな落ち着いた声でそうつぶやくと、ゆっくりアウレリアの手へとルキウスを戻した。
「・・・ルキウス、お父さんに恥じない逞しく優しい子になって下さいね。」
アウレリアは自分の胸の中で静かに眠る赤ん坊の姿を見つめてながらそう語りかけていると、頭にそっと触れる暖かい手を感じて顔を上げると、にこにこと微笑むアルトリウスの笑顔がそこにあった。
「アル・・・どうかしましたか?」
何となく面映く感じたアウレリアがはにかみながら問いかけると、アルトリウスはアウレリアの頭を丁寧に撫でながら、ちょんちょんと赤ん坊の頬をつつく。
・・・・・・・
赤ん坊はその暖かいちょっかいに対して僅かな反応を示したが、直ぐにまたすやすやと眠りに戻ってしまった。
「さっきも思ったんですが・・・私がいきなり抱き上げても泣かないし、なかなか肝の据わった子ですね、やっぱり従姉さん似かなあ?」
「何を言っているんですか、アル?目元や口元はアルそっくりじゃないですか、動じないのもアル譲りに決まっています。」
笑顔は崩さず、少し残念そうに赤ん坊の顔を覗き込みながらつぶやくアルトリウスに、アウレリアも笑顔のまま答える。
「・・・おお、わしらは大分お邪魔のようであるから席を外すぞ、食事も取りたいしな、後はゆっくりやってくれい。」
アエノバルブスは赤ん坊とアウレリアの様子を見て心配ないと判断し、そうアルトリウスに声を掛けると、席を立ち助手を促してドアへと向かう。
「お気遣い有難うございます。」
アルトリウスがアエノバルブスの後姿に向かってそう言うと、アエノバルブスはひらひらと手を振って部屋を出て行った。
2人はそうして赤ん坊を挟んでしばらく静かに黙ったまま、幸せを満喫するかのように見詰め合っていたが、アルトリウスが少し考える表情をした後、徐に口を開いた。
「・・・明日、ここを発ちます。」
「はい・・・」
笑顔を崩さずに返事をするアウレリアに、少し躊躇しながらもアルトリウスは言葉を継ぐ。
「行き先は、アルモリカ属州、相手はバガウダエと西ゴート族です。」
その言葉を聞き、アウレリアは笑顔のままじんわりとその瞳に涙をため、そっとアルトリウスの手を握った。
「・・・とうとうアルも大陸へと旅立ってしまうんですね・・・彼方の昔からのブリタニアの男達と同じように。」
「・・・必ず帰って来ます、アウレリア、あなたとルキウスの為に、だから笑って見送って下さい、必ず帰ってきます。」
「はい、信じて待っています、だから早く・・・少しでも良いから、早く帰ってきてください・・・」
「はい、必ず・・・!」
自分の手を力強く、そして優しく握り込むアルトリウスの顔を見上げ、ウンウンと何度も頷いていたアウレリアであったが、遂に耐え切れず下を向いて涙をこぼした。
涙はすやすやと眠るルキウスの頬に落ちる。
アルトリウスはルキウスのすべすべの肌で丸くなった涙を指で拭い取り、静かに泣き続けるアウレリアをルキウごと抱きしめた。
「大丈夫です、私は必ず帰ってきます。」
翌早朝、鈍色に輝く鎧をまとい、深紅のマントを着け、兜を手にアルトリウスは護衛兵たちの待つ館の玄関へと向かう。
「総司令官、奥方様とのご挨拶は宜しいのですか?」
「昨夜済ませた・・・」
副官のクイントゥスが心配そうにそう尋ねると、アルトリウスは口元を引き締め、兜を被ってきつく顎紐締めながら言った。
家族との別れを辛いものと感じる心を、家族を持って知り、兵士や市民達が常に感じる別離の寂しさや、悔恨、悲嘆の真情が今はよく理解できる。
知識と言葉で知っていただけの心の動きが今は自分のものとして感じられるようになったのである。
幼い頃に両親を蛮族に殺され、アンブロシウスの家族に引き取られて一旦は人の心を取り戻した後もどこか冷厳で酷薄なところのあったアルトリウスは、長じてからもその性格の為か、戦場を常に冷静な目で見回す事が出来た。
今までもブリタニアや市民の為に戦ってきたその意志に嘘偽りは無いが、それはどこか義務感めいたものであり、自分がやらなければ誰もやる者が居ない故の義憤に駆られた行動であったことは否めない。
しかし、今は違う。
本当の意味で大事なものが、守り慈しむべきものが出来た。
卑近な家族に対する感情が、自分の中に強く沸き起こった事に最初は戸惑ったアルトリウスであったが、今はその感情を受け入れる事が出来た。
それによって今までブリタニアを守りたいという、いわば公的な気持ちに揺らぎが出来たのではない。
より強く、より深く、自分の拠って立つものであり、そして家族が暮らし、先祖が暮らし、子孫が暮らしてゆくブリタニアと言う土地と文化とその人々に対する気持ちに深みが加わったのである。
その大事な家族と次に会えるのは何時になるか分からない。
限られた物資と兵力で、決して狭いとは言えない地域を平定せねばならず、アルモリカ出兵が困難で長期に渡る事は容易に予測できた。
敵は強く強大で、最悪の結果ともなれば出兵した兵力だけでなく、アルトリウス自身が命を落とす事も有り得る。
ましてや蛮族の動きは元より西ローマ帝国の出方が分からない以上、情勢は何時変わるとも知れす、各勢力の思惑によってはブリタニアとは直接関係の無い、余計な戦いに巻き込まれてしまう可能性も多分にあった。
命を落としたところで他に失うものは何も無い。
かつてはそう思い、むしろブリタニアの為に命を失うのであれば本望とさえ思い定め、死んで両親に会える日を心のどこかで望んでさえいたアルトリウスは、その身を危険に晒す事を少しも躊躇せずに戦場を駆け巡っていた。
しかしながら、アウレリアと結ばれ、ルキウスが生まれた事によってその心境は大きく変わっている。
生きて再び2人の下へ。
そう固く誓い、アルトリウスは1度だけ、朝日に浮かび上がり始めた館を振り返った。